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第一章 ~『地下室で見た聖女』~

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 アルクが目を覚ますと、そこは埃の舞う薄暗い地下室だった。

「確か俺はクリスの魔法で気を失ったんだよな……」

 魔法を受けた手の平はヒリヒリと痛く、あれが夢でなかったと教えてくれていた。

「まずはここがどこかを調べないとな……」

 アルクは椅子から立ち上がり、地下室を当てもなく彷徨う。広い空間は地下と思えないほど広く、トイレに寝室、浴室まで完備されていた。

「まるで人を監禁するための場所だな……ははは、まさかなっ……」

 生活するためのすべてが用意されている空間は一時を過ごすための場所ではない。長期間を見込んでいるのは間違いなかった。

 情報不足がアルクを不安にさせる。薄暗い地下室がそれをより一層加速させた。

「もしかして本当に俺を閉じ込めるつもりなのか……でもクリスなら……あるいは……」

 当事者ですら感じるほどの過ぎた愛情。もしそれが狂えばどうなるのか。

 思えば兆候はあった。思い出すのはクリスと共に商店で買い物をしたときのことだ。看板娘がアルクに対して『お兄さん、格好良いから安くしとくね♪』と値下げをしてくれたことがあったのだ。

 ただの世辞だと分かっていたアルクは自然に受け流したが、クリスは過剰に反応した。二度とあの商店に行かないで欲しいと泣いてせがまれたのだ。

さらに次の日、商店通りで偶然看板娘とすれ違った。しかし彼女は何かに怯えるようにアルクの前から逃げ出してしまった。

いったい何が起きたのか。そしてクリスは何をしたのか。怖くて聞くことはできなかった。

「逃げよう……そして落ち着いてからクリスと話すことにしよう」

 アルクは逃走を決意して、地下室からの出口を探索する。そしてすぐに違和感を覚える。

聖女であるクリスは学問も料理も美貌も何もかもが完璧の超人だ。はたして気絶させたアルクを拘束もせずに、そのまま逃がすようなヘマをするだろうか。

 疑問を感じながらもアルクは突き当りの部屋の扉を開く。すると蝋燭が照らす薄暗い室内にクリスが浮かび出た。

「うわっ!」
「ふふふ、驚かせちゃったみたいですね」
「こんなところで一体何を……」
「もちろんアルクくんが起きるのを待っていたんですよ。早速、おはようのキスでもしますか?」
「馬鹿言うな……そんなことよりもまず説明すべきことがあるだろ!」
「事情なら気絶する前に説明したではありませんか」
「説明……したか?」

 監禁されていることに対して納得のできる説明はされていないはずだ。しかしクリスがすぐに露呈する嘘を吐くとも思えない。

 そこでアルクは気絶する直前に聞いた言葉を思い出す。

「まさかとは思うが、俺を最強に育てるって冗談が関係しているのか?」
「冗談ではありません。あなたは私の弟子となり、最強の力を手に入れるのです……ふふふ、そうなれば私とアルクが不釣り合いだと誰も言わなくなります。二人はお似合いカップルとして、幸せな結婚生活を過ごすのですよ♪」
「……クリス、期待してくれるのはありがたい。だがな、俺は村人だぞ。最強になんてなれるものか」

 この世界には職業という概念が存在する。剣士や魔法使い、聖女もまた職業の一つであり、職に応じた特技や成長補正を得ることができる。

 例えば剣士であれば剣技に優れ、魔法使いであれば高い魔力を誇る。そして聖女は王国に一人しか生まれない特別職であり、圧倒的な魔力量と、魔王さえ封印する結界術、それに人を蘇生させることができる癒しの力を持っていた。

 神に最も近い崇高な職業。それこそが聖女なのだ。

 一方、村人は畑を耕すのが得意なくらいで、それも農夫の職業と比べれば劣る。魔法も剣も扱えないことはないが、それらを専門とした職業よりも遥かに上達が遅い。

 器用貧乏という言葉が相応しい。最弱の中の最弱。それこそが村人という職業だった。

「アルクくん、あなたは勘違いしています。村人は最弱職ではありませんよ」

 しかしクリスは常識を否定する。

「それどころか村人は最強に至る可能性がある数少ない職業の一つです」
「ははは、村人が最強? 慰めはよしてくれ」
「私はただ事実を伝えているだけです……村人の欠点は努力に対する成長が遅いことですが、少しずつでも必ず成長はします。努力が必ず報われるのはあらゆる職業の中でも村人にだけ与えられた特権なのですよ」

 努力できることが村人の長所。そして監禁するのに最適な地下室。目指すのは最強。三つの点が線で繋がり、アルクの頭がクリスの意図を理解する。

「おいおい、まさかとは思うが……ここで修業するつもりか?」
「さすがはアルクくん。察しがいいですね」
「やっぱりそうかよ!」
「ふふふ、おはようからおやすみまでスパルタトレーニングのスタートですよ♪ 可愛い婚約者と一緒に訓練できるのですから、さぞかし嬉しいでしょう?」
「嬉しいはずあるかっ!」
「えー、私はアルクくんと一緒にいられて、とっても嬉しいのに♪」
「くっ……そんな恥ずかしいことを平然と……そ、それにクリスとの婚約は破棄しただろ。他人の俺にどうしてそこまでするんだよ?」
「もちろん。アルクくんのことが大好きだからですよ♪」

 婚約を破棄してもクリスの愛情には一切の衰えがない。むしろ増してさえいた。

 仕方ないとアルクは小さくため息を吐く。

「クリスの気持ちは十分に理解したよ。でもスパルタ教育とやらに付き合うかどうかは別の話だ。凡人は天才の十倍努力しても、隣に立つのがやっとだ。時間という限界がある以上、聖女に相応しい男になれるはずがない」
「いいえ、その前提は間違いです」
「え?」
「時間なら増やせますから」
「効率良く修業すれば時間を短縮できるって話か。だとしたら――」
「いいえ、魔法で増やすんです。正確には結界魔法の亜種を利用します」
「結界か……魔王を封じたって魔法だよな?」
「ええ。魔王を封じた結界は、ただの牢獄ではありません。実時間と結界内の時間に差が生じる特性を備えています。この空間で一秒を過ごすと実時間で一年消費します。だからもし魔王が結界を破って外の世界に戻ることがあったとしても、それは遥か未来の話。人類が滅亡していてもおかしくない大地に、魔王は一人で降り立つことになります」

 強大な力も向ける相手がいなければむなしいだけだ。アルクは魔王の脅威が完全に去ったのだと理解する。

「さてさて、結界魔法ですが、実は応用すれば、面白いことができるんです」
「まさか逆のことができるのか?」
「さすがアルクくん♪ 大正解です。結界内で一年の時を過ごしても、外の世界で一秒しか経過しない世界を作り出します。そこでアルクくんはたくさんの努力ができるんです。血反吐を吐くこともあるでしょう。涙を流すこともあるでしょう。ですが天才の千倍、万倍、努力すれば、あなたは絶対に最強になれます。なんたって私の愛した人なのですから♪」

 クリスは全幅の信頼を寄せた笑みを浮かべる。だがその信頼を素直に受け入れるわけにはいかない。

 人の万倍、努力すれば確かに天才を超えられるかもしれない。しかしだ。努力は苦痛を伴う。一万倍の苦痛を味わう覚悟は簡単に決まらない。

「お、俺は……」
「アルクくんならきっと大丈夫です♪」
「だが……」
「やればできる人だって私は信じています♪」
「できるかな、俺に……」
「できますとも。それにあなたを一人になんてしません。最強になるまで、私がずっと傍にいますから♪」

 クリスがそっと手を握る。期待されると応えたくなるのが人間だ。一万倍の努力の苦痛。そんなもの可愛い元婚約者の期待に応えるためならどうということはない。

「やってやる! 俺は最強の村人になってやる!」
「その意気です♪」

 どこにでもいる凡人がひたすらに高みを目指す。そんな修行の日々が幕を開けた瞬間だった。
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