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第四十四話 異形の火焔剣
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「何なのこれ!」
伊織は変化した天掌板を見て、思わず声を張り上げた。
半透明の板だった天掌板が、今ではすべてを焼き尽くすような一振りの火焔剣へと形状が変わっていたのだ。
火焔剣。
大量の火の粉を散らして空中に浮かんでいた剣は、まさに火焔剣と呼ぶのに相応しいほど全体が紅蓮の炎で包まれている。
けれども、伊織はすぐに全体を包んでいる炎よりも剣自体に注目した。
確かに変化した天掌板は剣の形をしている。
それも全体的に日本刀のような形をしていたのだが、よく見るとその剣は異形とも言うべきものだった。
なぜなら両手で握る柄の部分は木刀、鍔の部分は金属、刀身の部分は竹刀という三種類の剣の各部分がごちゃ混ぜになったような形状をしていたのだ。
伊織はわけが分からず呆然としていると、異形の火焔剣に変化があった。
切っ先が上に向いた状態で浮かんでいた異形の火焔剣が一人でに動き、木刀だった柄の部分が伊織に向かって差し出されるような形になる。
まるで天掌板自体に意思があり、自分を使えと言っているようであった。
伊織は口内に溜まった唾を飲み込んだ。
そして、おそるおそる異形の火焔剣を手に取る。
「――――ッ!」
次の瞬間、伊織は声を出すことも忘れて瞠目した。
柄の部分を両手でしっかりと握った直後、全体を包んでいた大量の火の粉が一気に刀身の部分へと集まり始めたのだ。
それだけではない。
刀身全体から凄まじい勢いの炎が噴き上がり、間違いなく斬った相手を灰塵と化すほどの炎刃が形成されていく。
ふと伊織の脳裏に、武蔵とギガントエイプとの一戦が浮かんだ。
武蔵が素手になって絶体絶命の窮地に立たされたとき、顕現した武蔵の天掌板は一振りの刀へと形状が変化した。
その刀全体には霊験あらたかな黄金色の光が纏われ、やがて武蔵は刀に変化した天掌板でギガントエイプを見事に叩き斬ったのである。
伊織は柄を握っている両手に力を込めていく。
正直、伊織は目の前の光景に強いパニックを起こしていた。
なぜ、天掌板は異形な剣として変化したのか。
なぜ、武蔵たちと違って自分だけ黄金色の燐光が炎に変わったのか。
知りたいことはたくさんあったが、今はそれよりもやらなければならないことがあった。
(たとえ変な形でも剣は剣……これを使えば私だって闘える!)
そうである。
今はとにかく武蔵の危機を助け、マサミツを救うことが第一なのだ。
そのためには、隻腕の怪物であるカイエンを倒さなくてはならない。
などと意を決した伊織が、異形の火焔剣を中段に構えたときだ。
「小娘……まさか、お主も天理使いだったのか!」
大きく目を見張ったカイエンと目が合う。
そして驚いていたのはカイエンだけではない。
武蔵もカイエンと同様に、大きく目を見開いて伊織を見つめていたのだ。
無理もない、と伊織は思った。
誰だって今の自分のような、全身が火だるまの状態で異形な剣を構えている人間を見たら慌てふためくだろう。
とはいえ、それは逆に絶好のチャンスとも見て取れた。
自分に注目したことで、武蔵を襲っていたカイエンの〈幻影操手〉の動きが空中で止まっていたのだ。
(やるなら今しかない)
直後、伊織は異形の火焔剣を中段から別の構えへと移す。
異形の火焔剣を立てて頭の右手側に寄せる。
八相の構えだ。
これは武蔵がギガントエイプと闘ったときに取った構えであり、剣道の中でも剣道形と呼ばれる形稽古の中で使われる構えである。
けれども伊織は剣道の公式試合はおろか、練習試合でも八相の構えなどしたことはなかった。
使うのは主に中段か上段の構えであり、あくまでも八相の構えは基本の構えの一つという認識でしかなかったのだ。
だが、伊織は今こそ八相の構えを使うべきだと判断した。
この八相の構えこそ、数メートルは離れているカイエンに剣を構えたまま間合いを詰めることが出来る。
そう思った伊織は、下丹田に意識と力を強く集中させた。
同時に八相の構えを維持しつつ、やや前のめりの姿勢になって疾駆する。
もちろん、向かうべき相手はカイエンだ。
「チェエエエエエエエエエイッ!」
伊織は瞬く間にカイエンとの間合いを縮めると、裂帛の気合を発しながら異形の火焔剣を袈裟斬りに振るった。
カイエンは伊織の袈裟斬りを見切り、寸前のところで躱して後退する。
しかし、このときの伊織は自分でも信じられないほど技が身体に乗っていた。
渾身の袈裟斬りが空を斬ったあと、伊織は間髪を入れずに異形の火焔剣を逆袈裟に斬り上げたのだ。
「ぬうッ!」
流れるような連続攻撃に、さすがのカイエンも表情を歪めた。
刀身が竹刀ということを踏まえても、大量の火の粉を噴出させている火焔剣をまともに受けたくはなかったのだろう。
しかも今のカイエンは無手なのだ。
そうなると、カイエンは伊織の攻撃を避けることに主眼を置くしかない。
などと感じたからこそ、伊織は今を逃したくないと異形の火焔剣を立て続けに振るった。
先ほど繰り出した二段技や三段技は当然のことながら、全身全霊の力を込めた袈裟斬りや逆袈裟《ぎゃくげさ》斬り、果ては鋭い踏み込みからの突きなども放っていく。
伊織の強い意志が異形の火焔剣に反映されたのだろう。
異形の火焔剣から噴き上がる炎の勢いはより強まり、直接的に炎刃に触れなくとも火の粉がジジジとカイエンの肌を焼いていく。
(あともう少し――)
伊織は一心不乱に異形の火焔剣を振り続ける。
そして、あと一歩でカイエンの肉体に炎刃が触れようとしたときだった。
――ドクンッ!
突如、伊織の心臓が激しく脈動したのだ。
続いて伊織は自分の鼻下に違和感を覚えた。
このとき、伊織は手で触れなくとも違和感の正体に察しがついた。
鼻血である。
直後、伊織は両足を止めて片膝をついた。
何かに鼻先をぶつけたときのような、大量の鼻血が伊織の鼻先から口元を赤く染めていく。
そして肉体の異常は鼻血だけではなかった。
全身の悪寒とともに起こる激しい頭痛。
加えて胃が逆流してくるような吐き気まで込み上げてくる。
伊織は自分の身に起きた異常に慌てふためいていると、防戦一方だったカイエンは「思った通り、勝手に自爆してくれたな」と口元を鋭利に吊り上げた。
「天掌板を〈練気化〉まで練られる天理使いだったことには驚いたが、どうやら真名も決めてはおらん未熟な使い手だったようだな。しかも内丹法の練度も足りないために身体に負荷がかかりすぎている。天掌板の維持はおろか、もはやお主は満足に動くことすら出来んぞ」
そう言われた伊織は、カイエンの言葉を疑うように異形の火焔剣を見つめた。
すると異形の火焔剣に異変が起こった。
ガスバーナーのような勢いがあった炎は急激にしぼんでいき、やがて異形の火焔剣も伊織の掌に吸い込まれるように消えてしまったのだ。
それだけではない。
伊織の全身を覆い尽くしていた火の粉も消えていき、気がつくと伊織は元の何もない状態へと戻ってしまった。
いや、元の状態に戻ったとは明らかに言えない。
風邪を引いたときのような心身の異常だけが、ことさらにはっきりと残っていたのだから。
そんな伊織に対して、カイエンは火傷を負っていた肌をさすりながら鋭い視線を飛ばす。
「先ほどの突きもそうだが、今の天理の気を炎に変えた斬撃といい……よくも未熟者の分際でことごとく拙者の身体に傷をつけたな。こしゃくな小娘が、まずはお主から葬ってやるわ」
生身のカイエンの言葉に反応したのか、白煙で模られた二人目のカイエンに動きがあった。
白煙で模られたカイエンは、片膝をついている伊織に向かって開いた左手を突きつけるようなポーズを取る。
やられる、と伊織は全身を震わせながら直感的に思った。
どういう原理かは分からなかったが、あの白煙で模られたカイエンに動きがあると〈幻影操手〉は命が吹き込まれたように動くのだ。
ならば、小刀を握っている〈幻影操手〉の次の行動は決まっている。
〈幻影操手〉による斬撃が自分を襲ってくるに違いない。
事実、〈幻影操手〉は空中で向きを変えた。
握っていた小刀の切っ先が伊織に突きつけられる。
けれども今の伊織は満足に動くことが出来なかった。
このままでは、確実に格好の的として〈幻影操手〉による斬撃の餌食になってしまう。
しかし、伊織の考えた結末は予想もしない形で裏切られることになる。
「んん?」
カイエンは激しく眉間にしわを寄せながら唸り声を上げた。
釣られて伊織もカイエンが見つめている方向に視線を移す。
カイエンは空中に浮かんでいた〈幻影操手〉を見ていたのだが、その〈幻影操手〉が糸が切れた人形のように地面へと落ちたのである。
そればかりか、地面に落ちた〈幻影操手〉は泡のように消えてしまった。
伊織が呆気に取られていたのも束の間、〈幻影操手〉が地面に落ちたことを皮切りにカイエンの全身を包んでいた黄金色の光も瞬く間に消えていく。
「なぜだ! なぜ、〈幻影操手〉が……いや、天理の気そのものが出せなくなったのだ!」
これにはカイエンも激しく狼狽した。
だが、そこは百戦錬磨の達人である。
すぐにカイエンは床に転がっている小刀に向かって猛進した。
伊織と違ってカイエンに肉体的なダメージはほとんどない。
ゆえに小刀を拾えば、カイエンの形勢は再び有利となる。
そう判断したカイエンだったのだろうが、このときもう一人の存在を一瞬でも忘れていたことが仇となった。
カイエンが小刀を拾おうと左手を伸ばしたとき、空気を切り裂いて飛んで来た折れた小刀に手の甲を刺し貫かれたのだ。
「ぐあっ!」
くぐもった声を上げたカイエン。
そんなカイエンに対して、あっという間に間合いを詰めたのは武蔵である。
「お主も兵法者の端くれならば、敵と判断した相手を前に少しでも目を離すな」
かつて黄姫に指摘されたことを口にした武蔵は、驚異的な握力でもって左手で二振りの刀袋を持ち、空いた右手で大刀を抜き放った。
次の瞬間、朦朧とする意識の中で伊織ははっきりと見た。
驚愕の色を浮かべたカイエンが、武蔵の右手一本による袈裟斬りによって斬られる光景を。
そして――。
伊織の意識は深い闇の中へとゆるやかに落ちて行った。
伊織は変化した天掌板を見て、思わず声を張り上げた。
半透明の板だった天掌板が、今ではすべてを焼き尽くすような一振りの火焔剣へと形状が変わっていたのだ。
火焔剣。
大量の火の粉を散らして空中に浮かんでいた剣は、まさに火焔剣と呼ぶのに相応しいほど全体が紅蓮の炎で包まれている。
けれども、伊織はすぐに全体を包んでいる炎よりも剣自体に注目した。
確かに変化した天掌板は剣の形をしている。
それも全体的に日本刀のような形をしていたのだが、よく見るとその剣は異形とも言うべきものだった。
なぜなら両手で握る柄の部分は木刀、鍔の部分は金属、刀身の部分は竹刀という三種類の剣の各部分がごちゃ混ぜになったような形状をしていたのだ。
伊織はわけが分からず呆然としていると、異形の火焔剣に変化があった。
切っ先が上に向いた状態で浮かんでいた異形の火焔剣が一人でに動き、木刀だった柄の部分が伊織に向かって差し出されるような形になる。
まるで天掌板自体に意思があり、自分を使えと言っているようであった。
伊織は口内に溜まった唾を飲み込んだ。
そして、おそるおそる異形の火焔剣を手に取る。
「――――ッ!」
次の瞬間、伊織は声を出すことも忘れて瞠目した。
柄の部分を両手でしっかりと握った直後、全体を包んでいた大量の火の粉が一気に刀身の部分へと集まり始めたのだ。
それだけではない。
刀身全体から凄まじい勢いの炎が噴き上がり、間違いなく斬った相手を灰塵と化すほどの炎刃が形成されていく。
ふと伊織の脳裏に、武蔵とギガントエイプとの一戦が浮かんだ。
武蔵が素手になって絶体絶命の窮地に立たされたとき、顕現した武蔵の天掌板は一振りの刀へと形状が変化した。
その刀全体には霊験あらたかな黄金色の光が纏われ、やがて武蔵は刀に変化した天掌板でギガントエイプを見事に叩き斬ったのである。
伊織は柄を握っている両手に力を込めていく。
正直、伊織は目の前の光景に強いパニックを起こしていた。
なぜ、天掌板は異形な剣として変化したのか。
なぜ、武蔵たちと違って自分だけ黄金色の燐光が炎に変わったのか。
知りたいことはたくさんあったが、今はそれよりもやらなければならないことがあった。
(たとえ変な形でも剣は剣……これを使えば私だって闘える!)
そうである。
今はとにかく武蔵の危機を助け、マサミツを救うことが第一なのだ。
そのためには、隻腕の怪物であるカイエンを倒さなくてはならない。
などと意を決した伊織が、異形の火焔剣を中段に構えたときだ。
「小娘……まさか、お主も天理使いだったのか!」
大きく目を見張ったカイエンと目が合う。
そして驚いていたのはカイエンだけではない。
武蔵もカイエンと同様に、大きく目を見開いて伊織を見つめていたのだ。
無理もない、と伊織は思った。
誰だって今の自分のような、全身が火だるまの状態で異形な剣を構えている人間を見たら慌てふためくだろう。
とはいえ、それは逆に絶好のチャンスとも見て取れた。
自分に注目したことで、武蔵を襲っていたカイエンの〈幻影操手〉の動きが空中で止まっていたのだ。
(やるなら今しかない)
直後、伊織は異形の火焔剣を中段から別の構えへと移す。
異形の火焔剣を立てて頭の右手側に寄せる。
八相の構えだ。
これは武蔵がギガントエイプと闘ったときに取った構えであり、剣道の中でも剣道形と呼ばれる形稽古の中で使われる構えである。
けれども伊織は剣道の公式試合はおろか、練習試合でも八相の構えなどしたことはなかった。
使うのは主に中段か上段の構えであり、あくまでも八相の構えは基本の構えの一つという認識でしかなかったのだ。
だが、伊織は今こそ八相の構えを使うべきだと判断した。
この八相の構えこそ、数メートルは離れているカイエンに剣を構えたまま間合いを詰めることが出来る。
そう思った伊織は、下丹田に意識と力を強く集中させた。
同時に八相の構えを維持しつつ、やや前のめりの姿勢になって疾駆する。
もちろん、向かうべき相手はカイエンだ。
「チェエエエエエエエエエイッ!」
伊織は瞬く間にカイエンとの間合いを縮めると、裂帛の気合を発しながら異形の火焔剣を袈裟斬りに振るった。
カイエンは伊織の袈裟斬りを見切り、寸前のところで躱して後退する。
しかし、このときの伊織は自分でも信じられないほど技が身体に乗っていた。
渾身の袈裟斬りが空を斬ったあと、伊織は間髪を入れずに異形の火焔剣を逆袈裟に斬り上げたのだ。
「ぬうッ!」
流れるような連続攻撃に、さすがのカイエンも表情を歪めた。
刀身が竹刀ということを踏まえても、大量の火の粉を噴出させている火焔剣をまともに受けたくはなかったのだろう。
しかも今のカイエンは無手なのだ。
そうなると、カイエンは伊織の攻撃を避けることに主眼を置くしかない。
などと感じたからこそ、伊織は今を逃したくないと異形の火焔剣を立て続けに振るった。
先ほど繰り出した二段技や三段技は当然のことながら、全身全霊の力を込めた袈裟斬りや逆袈裟《ぎゃくげさ》斬り、果ては鋭い踏み込みからの突きなども放っていく。
伊織の強い意志が異形の火焔剣に反映されたのだろう。
異形の火焔剣から噴き上がる炎の勢いはより強まり、直接的に炎刃に触れなくとも火の粉がジジジとカイエンの肌を焼いていく。
(あともう少し――)
伊織は一心不乱に異形の火焔剣を振り続ける。
そして、あと一歩でカイエンの肉体に炎刃が触れようとしたときだった。
――ドクンッ!
突如、伊織の心臓が激しく脈動したのだ。
続いて伊織は自分の鼻下に違和感を覚えた。
このとき、伊織は手で触れなくとも違和感の正体に察しがついた。
鼻血である。
直後、伊織は両足を止めて片膝をついた。
何かに鼻先をぶつけたときのような、大量の鼻血が伊織の鼻先から口元を赤く染めていく。
そして肉体の異常は鼻血だけではなかった。
全身の悪寒とともに起こる激しい頭痛。
加えて胃が逆流してくるような吐き気まで込み上げてくる。
伊織は自分の身に起きた異常に慌てふためいていると、防戦一方だったカイエンは「思った通り、勝手に自爆してくれたな」と口元を鋭利に吊り上げた。
「天掌板を〈練気化〉まで練られる天理使いだったことには驚いたが、どうやら真名も決めてはおらん未熟な使い手だったようだな。しかも内丹法の練度も足りないために身体に負荷がかかりすぎている。天掌板の維持はおろか、もはやお主は満足に動くことすら出来んぞ」
そう言われた伊織は、カイエンの言葉を疑うように異形の火焔剣を見つめた。
すると異形の火焔剣に異変が起こった。
ガスバーナーのような勢いがあった炎は急激にしぼんでいき、やがて異形の火焔剣も伊織の掌に吸い込まれるように消えてしまったのだ。
それだけではない。
伊織の全身を覆い尽くしていた火の粉も消えていき、気がつくと伊織は元の何もない状態へと戻ってしまった。
いや、元の状態に戻ったとは明らかに言えない。
風邪を引いたときのような心身の異常だけが、ことさらにはっきりと残っていたのだから。
そんな伊織に対して、カイエンは火傷を負っていた肌をさすりながら鋭い視線を飛ばす。
「先ほどの突きもそうだが、今の天理の気を炎に変えた斬撃といい……よくも未熟者の分際でことごとく拙者の身体に傷をつけたな。こしゃくな小娘が、まずはお主から葬ってやるわ」
生身のカイエンの言葉に反応したのか、白煙で模られた二人目のカイエンに動きがあった。
白煙で模られたカイエンは、片膝をついている伊織に向かって開いた左手を突きつけるようなポーズを取る。
やられる、と伊織は全身を震わせながら直感的に思った。
どういう原理かは分からなかったが、あの白煙で模られたカイエンに動きがあると〈幻影操手〉は命が吹き込まれたように動くのだ。
ならば、小刀を握っている〈幻影操手〉の次の行動は決まっている。
〈幻影操手〉による斬撃が自分を襲ってくるに違いない。
事実、〈幻影操手〉は空中で向きを変えた。
握っていた小刀の切っ先が伊織に突きつけられる。
けれども今の伊織は満足に動くことが出来なかった。
このままでは、確実に格好の的として〈幻影操手〉による斬撃の餌食になってしまう。
しかし、伊織の考えた結末は予想もしない形で裏切られることになる。
「んん?」
カイエンは激しく眉間にしわを寄せながら唸り声を上げた。
釣られて伊織もカイエンが見つめている方向に視線を移す。
カイエンは空中に浮かんでいた〈幻影操手〉を見ていたのだが、その〈幻影操手〉が糸が切れた人形のように地面へと落ちたのである。
そればかりか、地面に落ちた〈幻影操手〉は泡のように消えてしまった。
伊織が呆気に取られていたのも束の間、〈幻影操手〉が地面に落ちたことを皮切りにカイエンの全身を包んでいた黄金色の光も瞬く間に消えていく。
「なぜだ! なぜ、〈幻影操手〉が……いや、天理の気そのものが出せなくなったのだ!」
これにはカイエンも激しく狼狽した。
だが、そこは百戦錬磨の達人である。
すぐにカイエンは床に転がっている小刀に向かって猛進した。
伊織と違ってカイエンに肉体的なダメージはほとんどない。
ゆえに小刀を拾えば、カイエンの形勢は再び有利となる。
そう判断したカイエンだったのだろうが、このときもう一人の存在を一瞬でも忘れていたことが仇となった。
カイエンが小刀を拾おうと左手を伸ばしたとき、空気を切り裂いて飛んで来た折れた小刀に手の甲を刺し貫かれたのだ。
「ぐあっ!」
くぐもった声を上げたカイエン。
そんなカイエンに対して、あっという間に間合いを詰めたのは武蔵である。
「お主も兵法者の端くれならば、敵と判断した相手を前に少しでも目を離すな」
かつて黄姫に指摘されたことを口にした武蔵は、驚異的な握力でもって左手で二振りの刀袋を持ち、空いた右手で大刀を抜き放った。
次の瞬間、朦朧とする意識の中で伊織ははっきりと見た。
驚愕の色を浮かべたカイエンが、武蔵の右手一本による袈裟斬りによって斬られる光景を。
そして――。
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