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第五章 亂 -らん-
六.ケンカの果て
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柚月は、ゆっくり振り向いた。
この暗さでもわかる。
その姿。
「義孝…」
義孝は何も言わない。
代わりに、静かに構えた。
柚月も刀に手をかける。
おかしいほど、力が入らない。
無理やりに、ぐっと柄を握った。
暗い。
目が慣れているとはいえ、互いに影ほどにしか相手を認識できない。
義孝がすっとすり足で、右に回る。
柚月もそれに合わせて左足を引いた。
視線は義孝を捉えたまま、静かに息を整える。
首筋を、嫌な汗が流れ落ちていく。
刀を握る手が、震えそうだ。
それをこらえるために、ぎゅっと唇を結んだ。
互いに出方を見て、にらみ合う。
膠着を破ったのは義孝の方。
大きく踏み込み、柚月の左肩に向けて右袈裟に切り込んだ。
それを柚月は刀で受けてはじき、逆に切り込んだが、止められた。
かち合った刀が、ギリギリ鳴る。
押し合いながら、互いに顔が見えた。
文字通り、睨み合う。
五分と五分。
いや、本来なら、柚月の方が上だ。
だが、柚月には迷いがある。
それが腕を鈍らせている。
義孝が力で柚月を押しのけて小手をうち、それを柚月がかわして間合いを取った。
また、にらみ合い。
空を覆う闇に、ゆっくりと、薄く、白い光が混ざっていく。
夜明けが近づいている。
静寂の中、二人の呼吸の不協和音が響く。
だが自然と重なりだし、やがて柚月の方だけ、一瞬、止まった。
鋭い突き。
狙ったのは、義孝の左腕。
だが、義孝は読んでいた。
「あっ…」
柚月の口から、思わず声が漏れる。
渾身の一撃ははじかれ、そのはずみで、柚月の手から刀が飛んだ。
義孝が勝利を確信し、振りかぶる。
その一瞬。
柚月が胴を打ち込んだ。
鞘だった。
だが、効いた。
柚月の一撃は、見事に義孝のあばらを捉えていた。
義孝は膝が力を無くし、二、三歩後退ると仰向けに倒れた。
大の字になったまま、動けない。
声さえ出ない。
荒々しい呼吸だけが響いている。
柚月は刀を拾い上げると、義孝にまたがった。
両手で、刀を握る。
いつもとは逆さに、下に向かって突き刺すように。
そして、静かに振りかぶった。
刃が、義孝の心臓を狙っている。
義孝は、その切っ先をじっと見つめた。
――殺られるな…。
でも不思議と、本当はずっと、こうなることを望んでいた気がする。
目を閉じると、その目に、じわりと涙がにじんだ。
柚月の呼吸が聞こえる。
どんどん荒くなっている。
それが、意を決したように、一瞬、止まった。
風を切り、刀が突き刺さる音。
続いて、静寂の中に、再び柚月の呼吸が響き始めた。
それが、聞こえている――。
義孝はぱっと目を開けた。
目の前で、柚月の肩が揺れている。
「え…」
どういうことなのか、何が起こったのか。
柚月は義孝に馬乗りになり、刀にすがるように体を支えている。
その刀は、義孝の顔のすぐ横で、地面に刺さっていた。
柚月は刀から手を放すと、義孝の隣に、ごろんと大の字になって横たわった。
広げた片方の腕が、義孝の胸の上に乗っかっている。
その、重み。
感覚。
義孝の中に、一瞬にして遠い記憶がよみがえった。
懐かしい。
すっかり忘れていた。
子供の頃、よくケンカして、そのたびお互い疲れ果て、こうして並んで大の字になった。
義孝の中で、張り詰めていたものがぷつりと切れた。
それと同時に、涙が溢れてくる。
止められない。
片手の甲で、それを隠した。
「なんで俺、お前を刺しちゃったんだろうなあ…」
後悔しかなかった。
柚月を、親友を刺した、あの瞬間から。
でも、平気なふりをしてきた。
そうでなければ、生きていけそうもなかった。
楠木は正しいと信じてきた。
だから、柚月を裏切り、殺そうとまでした。
でも、気持ちは揺らいでばかりだった。
本当に正しかったのだろうか。
親友を利用し、その命を奪うことの先に、自分が望んだものがあるのだろうか。
信じて来たものは、正しかったのか。
いやそもそも、自分はいったい、どんな未来を望んでいたのだろう。
義孝は迷い、揺らぎ、光を失った。
暗闇に放り出され、道を見失ってしまった。
あの夜からずっと、その暗闇をさまよってきた気がする。
「…ごめん」
義孝は顔を隠したまま、涙に負けそうになる声を、絞り出した。
その言葉に、これまでのすべてが、暗く重い何もかもがきれいに洗い流され、柚月は思わず笑みが漏れた。
胸の中が、馬鹿馬鹿しいほど、清々しい。
柚月が義孝の胸を拳で小突くと、小突かれたところを抑えながら、義孝も笑った。
長いケンカが、ようやく終わった。
二人並んで、寝転がったまま、空を見上げた。
子供の頃と同じように。
あの頃と変わらず、広く深い空が、どこまでも広がっている。
その色が、夜の漆黒から、淡い紺に変わりつつある。
「お前、随分立派になったよな」
義孝は空を見上げたまま言った。
「え?」
「いい着物着て、陸軍総裁様のご一行に交じってさ」
「見てたのかよ」
柚月は苦笑する。
「俺はいつも、お前がうらやましかったよ。お前は下級だっていうけど、れっきとした武士だしな。俺はどうあがいたって、百姓出だ。それは変えられない」
柚月はちらりと義孝を見た。
義孝は、遠く、空を見上げている。
「武士になりたかった。変えたかったんだ。自分を」
言い訳か、謝罪か。
「知ってる」
柚月は、すべてを受け入れるように応えた。
義孝は、誰よりも武士に憧れていた。
初めて刀を与えられた時の義孝の顔を、あのはじけるような喜ぶ顔を、柚月は今も鮮明に覚えている。
「あの頃は、よかったな」
義孝が懐かしそうに言う。
明倫館で過ごした日々。
川で魚を取ったり、山で虫取りしたり。年長の者にいたずらして、共に叱られることもしばしばだった。
ただ、楽しかった。
あの頃、何も持たない自分たちは、希望だけがあった。
語り合う未来は、いつも明るかった。
その未来を懸命に目指してきた。
…はずだった。
あの頃に帰りたい。
義孝は、どうしようもなくそう思った。
これも、後悔だろうか。
虚しかった。
あの頃思い描いた未来は、どこに行ってしまったのだろう。
どこで、見失ってしまったのだろう。
義孝は、大きなため息をついた。
「でっかいため息だな」
柚月は茶化したが、義孝の気持ちは伝わっている。
「うるせえよ」
義孝に、笑みが漏れた。
空がまたわずかに、だが確かに、明るくなっていく。
「もうすぐ夜明けだ」
柚月がぽつりと漏らす。
「この国も」
そう言うと、ゆっくり体を起こした。
「義孝」
義孝が視線だけ向けると、振り向いた柚月と目が合った。
「一緒に生きよう。新しくなる、この国で」
義孝は目を見開いた。
優しくて、明るくて、それでいて意志の強い目。
今、義孝をまっすぐに見つめているのは、昔からよく知っている柚月のそれだ。
義孝はこみあげてきたものを必死でこらえ、空を見上げた。
「そうだな。お前がそう言うなら、そうしてやってもいいよ」
柚月はぱっと笑った。
笑いながら、また義孝を小突いた。
「やめろ」
じゃれあいながら、義孝は決意した。
もう二度と。
――二度と、こいつを裏切らない。
決して。
「あとでな」
柚月はそう言うと、ゆっくり立ち上がり、義孝を振り返った。
「おう」
義孝は寝転がったまま、遠のいていく柚月の背中を見送った。
この暗さでもわかる。
その姿。
「義孝…」
義孝は何も言わない。
代わりに、静かに構えた。
柚月も刀に手をかける。
おかしいほど、力が入らない。
無理やりに、ぐっと柄を握った。
暗い。
目が慣れているとはいえ、互いに影ほどにしか相手を認識できない。
義孝がすっとすり足で、右に回る。
柚月もそれに合わせて左足を引いた。
視線は義孝を捉えたまま、静かに息を整える。
首筋を、嫌な汗が流れ落ちていく。
刀を握る手が、震えそうだ。
それをこらえるために、ぎゅっと唇を結んだ。
互いに出方を見て、にらみ合う。
膠着を破ったのは義孝の方。
大きく踏み込み、柚月の左肩に向けて右袈裟に切り込んだ。
それを柚月は刀で受けてはじき、逆に切り込んだが、止められた。
かち合った刀が、ギリギリ鳴る。
押し合いながら、互いに顔が見えた。
文字通り、睨み合う。
五分と五分。
いや、本来なら、柚月の方が上だ。
だが、柚月には迷いがある。
それが腕を鈍らせている。
義孝が力で柚月を押しのけて小手をうち、それを柚月がかわして間合いを取った。
また、にらみ合い。
空を覆う闇に、ゆっくりと、薄く、白い光が混ざっていく。
夜明けが近づいている。
静寂の中、二人の呼吸の不協和音が響く。
だが自然と重なりだし、やがて柚月の方だけ、一瞬、止まった。
鋭い突き。
狙ったのは、義孝の左腕。
だが、義孝は読んでいた。
「あっ…」
柚月の口から、思わず声が漏れる。
渾身の一撃ははじかれ、そのはずみで、柚月の手から刀が飛んだ。
義孝が勝利を確信し、振りかぶる。
その一瞬。
柚月が胴を打ち込んだ。
鞘だった。
だが、効いた。
柚月の一撃は、見事に義孝のあばらを捉えていた。
義孝は膝が力を無くし、二、三歩後退ると仰向けに倒れた。
大の字になったまま、動けない。
声さえ出ない。
荒々しい呼吸だけが響いている。
柚月は刀を拾い上げると、義孝にまたがった。
両手で、刀を握る。
いつもとは逆さに、下に向かって突き刺すように。
そして、静かに振りかぶった。
刃が、義孝の心臓を狙っている。
義孝は、その切っ先をじっと見つめた。
――殺られるな…。
でも不思議と、本当はずっと、こうなることを望んでいた気がする。
目を閉じると、その目に、じわりと涙がにじんだ。
柚月の呼吸が聞こえる。
どんどん荒くなっている。
それが、意を決したように、一瞬、止まった。
風を切り、刀が突き刺さる音。
続いて、静寂の中に、再び柚月の呼吸が響き始めた。
それが、聞こえている――。
義孝はぱっと目を開けた。
目の前で、柚月の肩が揺れている。
「え…」
どういうことなのか、何が起こったのか。
柚月は義孝に馬乗りになり、刀にすがるように体を支えている。
その刀は、義孝の顔のすぐ横で、地面に刺さっていた。
柚月は刀から手を放すと、義孝の隣に、ごろんと大の字になって横たわった。
広げた片方の腕が、義孝の胸の上に乗っかっている。
その、重み。
感覚。
義孝の中に、一瞬にして遠い記憶がよみがえった。
懐かしい。
すっかり忘れていた。
子供の頃、よくケンカして、そのたびお互い疲れ果て、こうして並んで大の字になった。
義孝の中で、張り詰めていたものがぷつりと切れた。
それと同時に、涙が溢れてくる。
止められない。
片手の甲で、それを隠した。
「なんで俺、お前を刺しちゃったんだろうなあ…」
後悔しかなかった。
柚月を、親友を刺した、あの瞬間から。
でも、平気なふりをしてきた。
そうでなければ、生きていけそうもなかった。
楠木は正しいと信じてきた。
だから、柚月を裏切り、殺そうとまでした。
でも、気持ちは揺らいでばかりだった。
本当に正しかったのだろうか。
親友を利用し、その命を奪うことの先に、自分が望んだものがあるのだろうか。
信じて来たものは、正しかったのか。
いやそもそも、自分はいったい、どんな未来を望んでいたのだろう。
義孝は迷い、揺らぎ、光を失った。
暗闇に放り出され、道を見失ってしまった。
あの夜からずっと、その暗闇をさまよってきた気がする。
「…ごめん」
義孝は顔を隠したまま、涙に負けそうになる声を、絞り出した。
その言葉に、これまでのすべてが、暗く重い何もかもがきれいに洗い流され、柚月は思わず笑みが漏れた。
胸の中が、馬鹿馬鹿しいほど、清々しい。
柚月が義孝の胸を拳で小突くと、小突かれたところを抑えながら、義孝も笑った。
長いケンカが、ようやく終わった。
二人並んで、寝転がったまま、空を見上げた。
子供の頃と同じように。
あの頃と変わらず、広く深い空が、どこまでも広がっている。
その色が、夜の漆黒から、淡い紺に変わりつつある。
「お前、随分立派になったよな」
義孝は空を見上げたまま言った。
「え?」
「いい着物着て、陸軍総裁様のご一行に交じってさ」
「見てたのかよ」
柚月は苦笑する。
「俺はいつも、お前がうらやましかったよ。お前は下級だっていうけど、れっきとした武士だしな。俺はどうあがいたって、百姓出だ。それは変えられない」
柚月はちらりと義孝を見た。
義孝は、遠く、空を見上げている。
「武士になりたかった。変えたかったんだ。自分を」
言い訳か、謝罪か。
「知ってる」
柚月は、すべてを受け入れるように応えた。
義孝は、誰よりも武士に憧れていた。
初めて刀を与えられた時の義孝の顔を、あのはじけるような喜ぶ顔を、柚月は今も鮮明に覚えている。
「あの頃は、よかったな」
義孝が懐かしそうに言う。
明倫館で過ごした日々。
川で魚を取ったり、山で虫取りしたり。年長の者にいたずらして、共に叱られることもしばしばだった。
ただ、楽しかった。
あの頃、何も持たない自分たちは、希望だけがあった。
語り合う未来は、いつも明るかった。
その未来を懸命に目指してきた。
…はずだった。
あの頃に帰りたい。
義孝は、どうしようもなくそう思った。
これも、後悔だろうか。
虚しかった。
あの頃思い描いた未来は、どこに行ってしまったのだろう。
どこで、見失ってしまったのだろう。
義孝は、大きなため息をついた。
「でっかいため息だな」
柚月は茶化したが、義孝の気持ちは伝わっている。
「うるせえよ」
義孝に、笑みが漏れた。
空がまたわずかに、だが確かに、明るくなっていく。
「もうすぐ夜明けだ」
柚月がぽつりと漏らす。
「この国も」
そう言うと、ゆっくり体を起こした。
「義孝」
義孝が視線だけ向けると、振り向いた柚月と目が合った。
「一緒に生きよう。新しくなる、この国で」
義孝は目を見開いた。
優しくて、明るくて、それでいて意志の強い目。
今、義孝をまっすぐに見つめているのは、昔からよく知っている柚月のそれだ。
義孝はこみあげてきたものを必死でこらえ、空を見上げた。
「そうだな。お前がそう言うなら、そうしてやってもいいよ」
柚月はぱっと笑った。
笑いながら、また義孝を小突いた。
「やめろ」
じゃれあいながら、義孝は決意した。
もう二度と。
――二度と、こいつを裏切らない。
決して。
「あとでな」
柚月はそう言うと、ゆっくり立ち上がり、義孝を振り返った。
「おう」
義孝は寝転がったまま、遠のいていく柚月の背中を見送った。
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