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第二章 漂流漂着
31: 取引
しおりを挟む保海真言は、イマヌエルが『凶悪世界』と呼んだ世界の入り口で、この世界のマスターが戻ってくるのを待っていた。
なぜか空虚になっていたこの世界に、彼の(気配)を感じたのだ。
しかしその(気配)は人間のものと微妙に違っていた。
あえて言うなら大量の虫の気配に似ていた。
その虫達の気配は、気配を消して隠れ潜んでいた保海真言の前を通る時には人間の姿をしていた。
真言は背後から忍び寄り、二次元刀を抜いて奇妙な気配を放つ人物の首筋に当てた。
「動くな。そのまま前を向いてて。首が落ちるわよ。」
肩まで伸びた輝くような銀髪と、黒のTシャツの隆々と盛り上がった肩の筋肉が上下に震えている。
男は笑いをかみ殺しているのだ。
「何がおかしいの。」
「君は私を脅している積もりなのかね?」
「『待ち伏せされたのではない。私が来てやったんだ。』、そう言いたいんでしょ。」
真言は動揺を見せずに言った。
相手が人間でないのは(気配)から見て明らかだった。
男の笑いは止まった。
「後ろを振り向いてもいいかね。君に多大の関心が湧いてきた。」
「先ほどから、隠れて僕の様子を伺っていたのではないの?人間の姿で僕をもう一度見たい訳ね。ならゆっくりと振り向きな。」
二人は向かい合ったが、真言の剣は男の首筋に当てられたままだ。
男は振り向き目の前の保海真言をしげしげと眺めた。
「この前会った時は、あまり気にならなかったが、君は奇妙な女性だな。」
「解剖したくなった?それとも照合中?でも私にはお前の正体が分かるわよ。」
男の左右の光彩の色が微妙に違う瞳が煌めいた。
「アルビーノ・ブキャナン博士。お前は、どうして若い頃の姿で彷徨っているの?」
「くくっ。益々楽しい女性だな。それに君の顔は私のデータベースの検索に掛からない。」
当たり前だった、真言は自分の母親とジャッキー・ハートランドという二人の女性の容姿を混ぜたイメージを身に纏っている。
そんな「女性」は存在しない。
真言は自分の姿形から父親の保海源次郎の事を割り出される事を畏れていた。
特に相手がアルビーノ・ブキャナンだからという事ではない。
もちろんcuvr・w3に深く関わっているビッグマザーに保海源次郎が残した秘密を知られたくなかったが、自分がそうやって用心しなければいけない相手は、この世界の中に沢山いる筈だと思っていたのだ。
中でも、最初にこの世界に潜ったときに感じた、あの視線の持ち主が一番気にかかっていた。
アルビーノ・ブキャナンは、にやにや笑いながら右手で自分の首筋に当てられた二次元刀の刃を摘んだ。
そして摘んだ途端、その顔が奇妙に歪んだ。
「何を驚いている。アルビーノ・ブキャナンにも理解できないものがあるの?」
真言はこの男が『あの存在』ではない確証を掴んだ。
しかし『あの存在』でなくとも、真言の目の前にいるのは、危険極まりない存在であることには変わりはない。
「厚みのない刀か。奇妙な概念を弄ぶんだな。」
「概念じゃないわ。それは本物だよ。指を離す時には気を付けることね。こいつは恐ろしく切れるから。最もコンピュータプログラムが聖痕現象を起こすかどうかは怪しいものだけど。」
「お前、本当は何者なんだ?」
アルビーノは慎重に二次元刀から指を離すと、その指をこすり合わせてパチンと音を立てた。
その途端に地下室内に血の臭いが沸き起こった。
保海真言は、間を置かずに、二次元刀の切っ先を少し振り上げ、アルビーノに一歩踏み込むと、突きとも振り下ろしともつかぬ打突が混じり合った攻撃を仕掛けた。
しかしアルビーノは、それをかわしつつ三メートルほど後ろの空間に転移した。
真言の鍛え上げられた身体の反応は、その動きに追随しようとするが、彼らの間の空間に異形の者が現れ、それを阻止した。
異形の者はアルビーノが人間の肉体を粘土替わりにでっちあげた、とんでもない化け物だった。
腹部に納められた頭部、両肩につぎあてられた余分の腕、頭部が有るべき部分には腱と細い筋肉とむき出しの神経によって操られた種々雑多の手術道具の塊がのっかっていた。
化け物の頭部にある手術用ばさみが飛び出して来て、真言の鼻先のわずか数センチのところでジャキリとその口を閉じた。
真言の二次元刀は、下から振り上げられ、その怪物の右脇腹を切断したにとどまっている。
それ以上の攻撃を仕掛けられないのは、彼の左腕が化け物の第二の腕によって固定されてしまったからだ。
「ちっ!」
真言の口から悔恨が漏れた。
『闇の左手』には、このような長い得物を取り入れた攻撃体系はない。
それが裏目に出たのだ。
更に、真言が戦っている相手は人間ではなかった。
化け物と真言がもつれ合って地面に倒れ込もうとする寸前、地下室内に拳銃の轟音が響いた。
化け物の腹部にある顔の眉間が見事に穴を穿たれていた。
化け物の第二の腕の戒めがゆるんだ瞬間、真言は、身体を化け物の下にくぐらせて、腰を跳ね上げ、化け物を巻き込むように投げ飛ばした。
化け物は、解体された人間の内臓や筋肉などで汚物の海と化した地下室の床に激突したが、意識を失うこともなく直ぐに立ち上がった。
しかも、多数の仲間を、汚物の海から引き連れての復活だった。
汚物の海から異形の怪物達が、次々と立ち上がって来る。
「これはこれは警部殿。又、お会いしましたな。」
地下室の奥まった位置に移動し終わっているアルビーノが、突然現れた真言の援軍に嬉しそうに言った。
アルビーノの周辺にも様々な化け物達がワラワラと蠢いていた。
「アルビーノ・ブキャナン博士。やっと会えましたな。」
地下室に出現し終えていた岩崎警部の手には拳銃が握られている。
その横で幽霊の様に見えるイマヌェルが身構えている。
「そうだった、私から名乗るのを忘れていましたな。この姿では、まだ警部とは面識がなかったのだ。貴方の優秀な部下ともお会いしているし、つい旧知の仲のような気分になってしまっていた。いや失礼。ところであなた、マーシュ刑事にはどんなご褒美を、お与えになったのですかな?」
岩崎は怪訝な表情を創ったが、それでも岩崎は手に持った拳銃をショットガンに変化させていた。
アルビーノを護衛するかのように、化け物達の動きが活発になって来たからだ。
「マーシュ刑事は優秀だが、彼は幼い頃に実の父親から精神的な手ひどい外傷を受けている。彼が貴方に従順なのは、その父親に対する代償行為だ。だから貴方には彼に褒美を与えてやる必要がある。その事はおわかりになっていると思っていたが。例えばそれは貴方の萎びた、、。」
「失礼だが、何をおしゃりたいのか理解できないのだが。」
岩崎が鉄の声でブキャナンを遮った。
「ほほう。これは異な事を、このまえ貴方はここで、実に見事に自分の内に隠された秘密を具現化されたのに。それが判らないとは。」
「駄目ですよ。彼は又、貴方を挑発している。それに彼の正体を思い出して下さい。ブキャナンはマスターじゃない、人間のサイコ野郎ですらない。ただの歪なデータの固まりに過ぎないんです。」
イマヌェルが岩崎に囁いた。
「岩崎警部、君に紹介したい人間達がいる。貴方が長年探し続けていた男達だ。君の様な優秀な人物がどうして彼らを捜し当てられなかったのか、その訳が分かるかね?」
アルビーノの前にいた二人の化け物の頭部がもやもやと霞の様に蠢いた。
どうやら何か違う物に変化を始めているようだった。
「市警の上層部が手をまわしていたのだよ。当時彼らは、組織と癒着していたからな。貴方の復讐劇が結果的に生み出す副産物を恐れていた訳だ。」
霧のように蠢いている二人の化け物の顔にゆっくりとだが人間の目鼻が整い始めている。
「準備が整ったようだ。紹介しよう。私の右手にいるのが、ココモ・ラベスタ。左手にいるのが順庚慧だ。君の奥方を手込めにした男達だ。」
岩崎のショットガンを持った手がゆっくりと上がった。
「まちたまえ。この世界が架空のものであるのを忘れたのかね。彼らはここに接続されている訳でもない。つまりここでの復讐に意味はないという事だ。どうだね?私が手助けをしてやろうか?彼らの名前が判ったからと言って、君一人の力では、彼らの側にも近寄ることが出来ないのだぞ。」
「その為の条件を言ってくれたまえ。」
岩崎が感情を交えない平坦な声で呟いた。
「岩崎警部!」
イマヌェルは激しく岩崎を咎めたが、彼の目は二人の架空の人物を捉えたままだった。
「この件から手を引くことだ。君が捜査を続けても私には痛くも痒くもないが、平静を乱されるのは困る。君たちがここから退去したのを見届けたら私の方から君に、彼らの居場所と状況を連絡して上げる事にしよう。早くした方がいいぞ。彼らは今、それぞれに窮地に追い込まれている。市警上層部の口封じの為だ。ほおって置くと、彼らは君に出会わないまま始末されてしまう可能性があるぞ。」
そう言い終えるとアルビーノは、指をパチンとならした。
その途端、二人の男達の顔が溶け崩れていく。
「どうかね?岩崎警部」
「返事はこうだ。」
岩崎警部のショットガンの引き金が引き絞られた。
その銃口は二人の化け物ではなく、ブキャナンに向けられていた。
同時にそれまで黙って経過を見守っていた保海真言が風の様に動いた。
得物を持たないイマヌェルまでが雄叫びを上げて化け物の群の中に飛び込んでいった。
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