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第3章 ザ・バットとパペッター

24: マスクの着用方法

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 開けはなった窓から、雨上がりの地面から立ち上って来る、あの特有な匂いが流れ込んできた。
 ペトリコールだ。
 ペトリコールは、ギリシャ語で「石のエッセンス」の意味。
 指尻ゑ梨花はこの匂いが気に入っていて、空気の入れ換え時間を少し延ばした。
 指尻ゑ梨花のオフィスは清潔で極端に片付いている。
 窓際にある指尻の大きなディスクの上にも余計なものは一切ない。
 今、机の上にあるのは、丑虎北斗巡査部長から手渡された分厚い資料と、不気味なヘルメット、そして薄型のノートパソコンとスマホだけだった。
 そのスマホに着信があった。
 香山微笑花巡査からだった。
 ゑ梨花は白衣の袖から伸びる細い手で、スマホを優雅に掴み上げる。
 その指先には、つけ爪がなかった。
 見ればメイクも、「スッピンに見える」メイクだ。
 週に何度かのカウンセリング日には、こういうスタイルでやる。

 今は、その仕事をやり終えて、6係から頼まれた例の分析に取りかかろうとしていた時だった。
 ひとしきりのガールズトークをやり終えてから、微笑花が本題を切り出した。
「どうしてもラバーマスクの事について聞いてくれって頼まれちゃって。私は興味ないし、知りたいのは、丑虎さんなんだから、ゑ梨花さんに直接聞いて下さいって言ったんですけど。」
「でもそれって、微笑花がこの前、私が教えてあげたフェティッシュパーティーの話を丑虎さんにしたからでしょ?」
「ええ、まぁ、、。丑虎さんが例の件で、熱に浮かされた見たいに、頭部への拘束感がなんとかとか、ブツブツ言ってたから、ゑ梨花さんのラバーマスクの話をついうっかり、、そしたら凄い食いつきようで。」
「まあ、彼の事だからなんとなく判るけどね。もしかして彼、私の前では、おくびも出さないけど、私にライバル心持ってる?」
「ああ、それはないです、誓って。ライバル心というより、崇拝に近いんじゃないでしょうか。だから、ゑ梨花さんのプロファイリングのやり方を何でも知りたがってるって感じかな。」
「うーん、、私のはプロファイリングじゃないんだけどな、、、まっいいわ、それでどうしたらいいの?」
「ゑ梨花さんに、私がラバーマスクの被り方とか教えて貰って、それを僕の目の前で私にやって見せろって言うんです。」
「でも装着感とか、自分でやんなきゃ判らないでしょ?」
「私もそう言ったんですが、僕は怖いから嫌だって言われました。それに僕はゴムアレルギーだとか。お前がやって見せてくれたら、大体の事はわかる、僕はそんなにボンクラじゃないとか。」
「プハッ、可愛いねー、丑虎ちゃんて、」
「可愛くないですよ、私が目下だから、私のこと舐めてるんですよ。」
「かもねー、、でも微笑花がマスク着けてるとこ想像したら、何だかゾクゾクして来たから、教えてあげるよ。それ覚えて、今度一緒に、遊びに行こ!」
「えーーーっ!」
「大丈夫だって、微笑花、顔の造作がハッキリしてるし、目が大きいから、きっとマスクが似合うよ。それにあれ被ってパーティーに出たら警官ってばれないから羽伸ばせるよー。」
 ゑ梨花はディスクの下で、光沢のあるストッキングに包まれた美脚を組んで、嬉しそうに喋り始めた。

「さっ、今から言うよ、メモとって。まず髪の毛ですが、これは最低限束ねておきましょうね。そのまま『なんとかなるだろう』感覚で、作業を進めると『痛い目』に遭いますよー。指尻ゑ梨花はね、ラバー着用後のお楽しみでBDSMも一緒にプレイって感じの時には、髪をまとめるのに水泳用のシリコンキャップを下に使ったりするんですよ。」
 スマホの向こう側の微笑花の沈黙が尋常ではない。
 まるで電源を切っているようだ。

「さあ、被るよ。マスクの背後にあるジッパーを開けて、あっと、編み上げ式の場合は紐をゆるめてね。それを大きく開いて、1番はじめに、マスクの中に自分のあごから入れていきます。あごをマスクのあご部分にひっかけて、マスクの開きになった後頭部をしっかり持ちながら、頭部をグッと入れていきます。グッとよ。指尻は、この作業から始まってラバーが頭部を全部きつく包み込んでいく過程が大好きなんだけど、その話は別の機会にね。ってか、その辺りを、丑虎、お前が判れよって話です。あご・頭が入ったら、後ろのジッパーが留まるように、顔全体と、後頭部分をラバーの内部に整えていきます。目・鼻・口も、それぞれマスクに開けられた穴に合うようにズラしていって位置を整えます。特に目の周りなんか、いい加減にやると皮膚の方がよれて色々不快感が出てくるし、目が一番マスクビューティとしてのチャームポイントになりますから気を付けてね。これは微笑花へのアドバイス、、ってか丑虎君の前では必要ないか。でも、折角だから言っておくね。これ丑虎君が理解できるかどうか、大切なところです。ヨス・トラゴンね。自分ではないモノになる為のこの儀式、フェチストの気持ちとしては、マスクの開口部に自分の肉体パーツを捧げてそれと一体化する感じなんですが、そんなことは出来ませんから、実際には無理矢理ラバーの伸縮性にお世話になって、なんとか自分の頭部とラバーマスクとの一致点を、密着という形で見つけるわけです。さあ、マスクのジッパーを留めますよー。」
 スマホの向こうで、初めて微笑花が生唾を飲み込むような気配を漂わせた。

「編み上げ式の場合は紐を閉じていきますね。この後、マスクにテカテカの艶を出したい場合は、光沢剤を丁寧に塗りこみます。特に、鼻や口のまわりなどの細かい部分は、指先を使って塗りこむと綺麗に塗れますよ。勿論、この儀式はパートナーがいるとずっと楽なんだけど、慣れれば、自分一人でも十分出来るよ。要は、邪魔くさがらずに過程を楽しんでやるってコトが大切。以上、判ったかなー。」



 いた。
 奴らだ。
 脳みその足りない動物は、滅多にその行動習性を変えない。
 わざとゆっくりと、そして挑発と蛇行運転。
 今夜こそ、奴らに己が何者であるかを思い知らせてやる。
 3台だ。原チャリが2台。中型が1台。それぞれに2人。6人のガキ共。
 だが、あせるな、、。
 はじめは羊のふりをするんだ。
 徐々に間隔をつめればいい。
 奴らは、俺の「合わせ」の罠にはまる。
 そうさ、釣り上げてやる。
 素肌に付けたラバーパンツの股間がやけに熱くなっている。
 少し腰をシートの中でずらせただけで射精してしまいそうだった。
 だめだ。お楽しみはこれからだ。
 俺は助手席に置いてあった、ヘルメットを被った。
 前にいるガキどもが、自分たちに対して車間距離を開けようとしない車の持ち主に興味を抱くタイミングだ。

 ヘルメットを被る瞬間、おれは闇の中に入った。
 そして、被り終えたヘルメットのバイザー部分から、再び外を見たとき、俺は違う世界を覗いたような気がした。
 俺の「名」は、やがて俺を恐れる人間達によって名付けられるだろう。
 だが、今は、俺の大好きな映画の題名にあやかってバットとしておこう。
 マンは必要ない。
 ただのコウモリだ。
 そうだ。俺はあの映画の主人公よりは、もう少し原始的で危険な存在なのだから。
 ヘルメットの中では、自分の呼吸音だけが聞こえていた。
 前の2台の原チャリのガキ共が、同時に振り返ってこちらを見た。
 後部座席に乗った若い女の脱色した髪が、闇の中で俺の車のヘッドライトに浮かび上がり、水中の不思議な生き物のように、たゆたった。

 俺は、ガキ共が、俺の姿を奴らの軽い頭にすり込む時間を与えてやってから、ヘッドライトをハイビームに切り替えた。
 サイドガラスを下げ、助手席に寝かしてある日本刀から刃を抜き出し、それを夜の外気に突き出す。
 普段の俺なら、こんな事をやったら日本刀で自分自身を傷つけてしまうだろうが、バットは何でも出来る。
 右前を走っていた原チャリがスリップを起こす。
 まだこちらは何もしていないのに馬鹿な奴らだ。
 続いて軽く右側のフェンダーに衝撃を感じた。
 弾き飛ばしてやった。

 さすがに、左前にいた原チャリとその前の中型は速度を上げた。
 「連れを見捨てるのか、、。」
 どこからか冷酷な声が聞こえた。
 それが自分の声だと気付くのに暫くかかった。
 俺はもう、完全にバットだった。
 日本刀を後ろ手に後部座席へ投げ込み、アクセルをじわりと踏み込む。
 本気でやるつもりになった。
 前の2台には、逃走のアクセルを全開にして貰うつもりだった。
 俺は、車の中で、感じるはずのない風の流れを感じた。
 風は真正面から吹き込んできて、俺の肉や骨を激しく揺さぶった。
 それは、前を行くガキ共が放つ恐怖心だった。
 射精した。
 俺の車が、何かを巻き込むのが判った。


「どうしたんです?」
 警官の持つ赤い誘導灯が、道路際の空き地に数台の車を誘導していた。
 俺は自分の車から降りて、同じように真っ暗な道路を見つめている中年の男に尋ねた。
 コレが検問でないことは、既に判っていた。
 空き地に展開している数台のパトカーを、誘導された一般の男達が取り囲んでいるからだ。
 警官達はしきりと頭を下げている。
「この先で、暴走族が暴れているらしんですよ。」
「何、いってんですか、警察は。いつもまともに取り締まらないくせに。奴ら毎晩、一般市民の僕たちに嫌がらせをして楽しんでいるのに、警察はほったらかしだ。」
 俺は、目の前の男に憤慨してみても仕方がないのを知りつつ、苛立った口調で言った。
「いや、いつものアレじゃないみたいですよ。それに人数が違う。私が最初に警官から聞いた話じゃ、族がこの先で警察の検問みたいな事を始めたのが、事の発端らしい。」
「族が警察の検問の真似事?」
「最初の族の検問に掛かって、すっかりビビちゃった人が警察に通報したらしいんだが、、警察が行っても、奴ら解散しない。それどころか警察に食ってかかってるらしいんですよ。」
 そう、いい終わった男は、大きなあくびをした。
 俺は時計を見た。
 もう夜中の2時を回っている。
 昨日、ガキ共にお仕置きをしてやったのは、確か1時過ぎの筈だ。
 今日、一日、ラジオ・新聞・テレビあらゆるメディアに気を配っていたが、それらしいニュースは一件も流れていなかった。
 予想もしなかった、、こんな静かな展開になったんだと、俺は妙に腹が据わった気分でいた。

「いい加減にして欲しいですよね。いちいち、あんなガキ共に振り回されたくない。警察も四の五の言わせないで、さっさと引っ張って行っちゃぇば良いんだ。気持ちが判るとか、社会の矛盾のせいだとか言って、あんな奴らを庇う大人は、一部のバカ共だけだ。私らみたいな善良な市民は、みんなそう思ってますよ。」
 そういいながら中年男は、眠気覚ましのつもりか、たばこを一本口に加えた。
 俺は素早くライターで火を付けてやる。
 昼間の仕事で身に付けたタイミングだ。
「まあまあ、そう言わずに、彼らにも親御さんがいる筈だ。そんな目で彼らの事を見てやりましょうよ。いずれ僕たちだって、ああいう子達の親になったりしたら、、、。」
 今度は、族に理解を示す立場に、攻守を変える。
 世間話に主義主張などない。話が途切れなければ、それでいいのだ。
「そんなもんですかね、、。」
 中年男は、俺にライターの礼である会釈を軽くして、直ぐに道路の方に視線を転じた。
 俺は、その方が良かっただろうと思った。
 ライターの炎の中に浮かび上がった俺の顔は、きっと悪魔じみていた筈だったからだ。

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