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第8章 ラッシュ 後ろで入れるか、前から入れるか

66: 戸橋の受難と解放

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 朝早く香山巡査から、指尻の自宅に電話がかかって来た。
 なんと女装したままの戸橋未知矢が、ボロボロになって署の6係に戻ってきたとの事だった。
 ゑ梨花は、部屋の時計を見た。
 未だ通勤ラッシュの時間帯には差し掛かっていない。
 高速をツーシーターで、思い切り飛ばして、更に都内も制限時速を無視しまくりなら、何とか地獄の渋滞に捕まらずに署に辿り着ける。
 ゑ梨花は自分の髪をスルスルとポニーテールにまとめ上げると、手早く身繕いにとりかかった。
 超高級なベッピンに化ける為の作業は、ハンドルを握りながらでも出来る。
 付けマなどで、時々はハンドルから手を離す時もあるが。

 案の定、都内に入った時点で、パトロールカーに追いかけられた。
 カーアクション映画に採用されるような走りを見せていたのだから当たり前だ。
 しかし、こんな所で捕まってはいられない。
 戸橋は女装姿のまま、自分の家にも帰らず一直線に6係に戻ったのだ。
 その気持ちを考えると、いても立ってもいられなかった。
 自分は、一刻も早く、戸橋に会って彼に掛けておいた「鍵」を開けてやる必要がある。
 戸橋が帰ってきた様子は判らないが、蘭府警部補が彼の為に裏で動いてくれたのは確かだろう。
 ならこの場面でこそ、戸橋に掛けておいた魔術を直ぐにでも解いてやらなければならない。
 放置しておけば、魔術は魔術ではなくなり、戸橋は自分で身体を売るだけの、だらしない女装男娼になってしまう。
 しかも、それを一生後悔し続けて。
 私が、戸橋が元の潜入警官に戻るための「鍵」を開けてやるのだ。
 戸橋の事だ。門戸の元に、又、舞い戻る可能性もある。
 そうなったら、もう絶望的だった。
 精神より、「肉」の欲望の方が強いからだ。


「微笑花!」
「ああっ、よかった!ゑ梨花さん!トバシ、そこに居ます!」
 指尻ゑ梨花女史が、我々の刑事部屋に飛び込んで来た。
 戸橋巡査は、自分のディスクに顔を伏せて突っ伏したまま凍り付いてしまっている。
 よく見ると香山巡査が彼に掛けてやった背中のカーディガンが細かく震えていた。
 私が出勤した時には、戸橋はレイプ被害を受けた直後の女性のように、当直の香山巡査と丑虎巡査美長に挟まれて棒きれのように突っ立っていたままだったが、私の顔を見るなり急に暴れ出した。
 そして暫くすると、又、電池が切れかけた人形のように動きが鈍くなり、結局、香山巡査らの誘導で、なんとか彼を自分の席に座らせる事が出来た。
 指尻ゑ梨花女史が到着するまで、この状態が続いていたのだ。

 私は戸橋巡査に関する様々な応急措置を考えたが、結局、それら全てを却下していた。
 戸橋巡査の今後を考えると、事を大げさにしたくなかったのだ。
 外傷がないのは、一目瞭然、、薬物の影響は考えられなくもなかったが、私の体験上、今すぐの処置が必要だとも思えなかった。
 ならば戸橋の事情を誰よりも知っていて、一流の精神科医師でもある指尻ゑ梨花女史に、戸橋巡査を見せるのがベストチョイスだろうと私は判断した。
 私より少し後に出勤して来た喉黒警部補も同じ判断だった。

 指尻女史は何も言わず、戸橋巡査の方に向かい屈み込むと、突っ伏したままの彼の背中に覆い被さった。
 そして暫くすると、椅子ごと戸橋巡査の身体を自分の方に向かせ、強く彼を正面から抱擁した。
 その熱い抱擁は長く続いた。
 指尻女史が戸橋巡査の耳元に何かを優しげに囁いている。
「、、、お帰りなさい。あなたは悪くない。」
 二人の様子を見ていた喉黒警部補がそう呟いた。
 喉黒警部補は読唇術が出来る。
 私の為に、戸橋に繰り返される指尻女史の声かけを読み取ってくれたのだろう。

 すると戸橋が声を押し殺すようにして、嗚咽し始めた。
 戸橋の目のマスカラが涙でどんどん溶けていく。
 その様子を見て、香山微笑花が涙ぐんでいた。
「微笑花、戸橋君が顔を落とせる場所を用意してやって。それから着替えと、全部、微笑花がやるのよ。男どもは近寄らせないでね。いい?」
「はい!」と微笑花が返事をして、部屋からすっ飛んで行った。

 それと入れ替わるように6係のドアが外から乱暴に叩かれ、丑虎巡査部長がその対応に当たった。
 どうやら血相を変えて怒鳴り込んできたのは、交通課の人間達のようだった。
 その対応に根負けしたのか、丑虎巡査部長が私の元に戻ってきた。
「そのう、指尻さんを引き渡せと言ってます。指尻さん、ここに来るまで大変な交通違反を重ねて来られたようで。」
「・・追い返せ。」
「えっ?」
「交通違反などは、なかった。私がそうさせる。」
 丑虎巡査部長には悪かったが、この時の私は、どうしても自分の感情が抑えられなかった。
「えっ?でも」
「後は私がやりますよ、真澄警部。丑虎、お前はここに残ってろ。これから後、色々人手がいるかもしれんからな。」
 全ての様子を見ていた喉黒警部補がそう言って、ドアを開けたままこちらを睨み付けている交通課の人間達の方へ向かった。
「すまんな。喉黒君。」
「いえ、お任せを。」
 
 その後、戸橋巡査の身体を指尻女史から引き渡された香山巡査が、彼を庇うようにして刑事部屋を出て行った。
 一体、指尻女史が戸橋巡査にどんな処置を施したのか、彼は短時間の内に落ち着きを取り戻していたようだった。
 その姿を見送った後、指尻女史が私に「ちょっと外にでませんか」と話しかけてきた。
 私は、暫く席を空けるから後を頼むと丑虎巡礼者部長に言い残して、壁にかけてあったコートを手に取った。

 数分後、私達は署近くの喫茶店で向かい合っていた。
「戸橋は一体、どういう状況なんです?」
「そうですね、詳しいことは彼が落ち着いたら彼自身から聞いて下さい。彼は強いから、ちゃんと回復するのもそんなに時間はかからないと思いますよ。まあ、大雑把に彼の話を繋ぎ合わせると、戸橋君は、昨夜、門戸からここから出て行けと屋敷から追い出されたようです。推測ですが、裏であの蘭府さんが動いてくれたんじゃありませんか。」

「それで、あんなになったと?別に戸橋が門戸に惚れた訳でもないのに、まさかヤク中に!」
「そうでは、ありません。戸橋君はこんな形で、任務が頓挫する事に耐えられなかったんです。彼が今までどんな思いで、この任務にあたって来たかをお考えになれば、お判りになると思います。」
 指尻女史が一瞬だけ、私を強い視線で見つめ、直ぐに目を伏せた。

「それが何も得られぬままの突然の放逐、彼にはこたえたでしょうね。それとこれは一つの推測ですが、放逐されるまで、戸橋君はなんらかの精神的なプレイを長時間続けさせられていたのではないかと思います。その中で、真澄警部が仰ったような精神に影響を及ぼす薬物の摂取もあったかも知れませんね。それが多少は、今回の錯乱の原因の一要素になっているかも知れない。でも、やはりそれは表面上の事です。」
「、、、、。」
「真澄警部が刑事部屋に入ってきた時、戸橋君、まだ少しは、まともだったんでしょう?それが貴方の顔を見た途端、狂ったようになった。その意味が、わかりませんか?」
「、、、。」

「私が、ここまで詰めて物事を言うのは珍しいんですよ。でも貴方の配慮があれば、戸橋君の回復はもっと早くなる。私は私で、戸橋君に関して責任を感じているんです。」
「ですが、私は、どうしていいか判らない。」
「心配しないで、戸橋君は貴方に何かをして欲しがっているわけじゃない。貴方はただ知っているだけでいい。なにもしなくていい。そうすれば、なるようになります。あっ、これは精神科医としての言葉ですよ。わけの判らない人生訓やお告げじゃありませんから。」
 そう言って指尻ゑ梨花女史は、艶やかに笑った。

「ああ、それと今日は戸橋君と顔を合わさない方が、いいかも知れませんね。彼に少しだけ落ち着くための時間を与えてあげて下さい。真澄貴部、仕事以外にやる事がないのなら、これから私とデートでもしませんか?」
 私は勿論、指尻女史も仕事が山積みの筈だったが、それはどうでも良かった。
 今は戸橋の帰還を祝福してやりたかった。
 それには先ず、私達二人が幸せな気分になる事だった。
「ええ、喜んで。署には連絡をいれておきます。」


 真澄警部と夜の街の高級穴場スポットを二人でデートした後、指尻ゑ梨花は満ち足りた気分で自宅に戻ったのだが、その気分は夜更けにかかって来た一本の電話で破れた。
 悦豊武からのコレクトコールだった。

「どうして電話をかけて来たの?前に私が言った意味わからなかったの?」
「いや、そうじゃないんだ。あんたは女魃蛭の事を俺に調べろと言った。でもそこで俺は考えてみたんだ。ただ女魃蛭の事を調べるだけで、わざわざ俺のことなんかを思い出して金まで払うなんて、よっぽどの事なんだろうなってな。それで女魃蛭を調べてる内に、寂寥ファミリーに出くわしたわけだが、あんたの本命は実はこっちじゃないかってね。海馬美園国と日本との関係で考えていけば、表側は胡散臭い経済援助と、裏はえげつない麻薬取引に行き当たる。あんたと女魃蛭が経済援助の方に絡んでる筈はないから、そっちの方を少し嗅ぎ回ってみた。そしたら色々出て来そうなんだが、そっちに話をシフトしていいか?って話なんだよ。もっとハッキリ言えば、化けもんみたいな女魃蛭の事なんか、昆虫学者の俺でさえ、もうこれ以上何を調べたらいいか判らないんだよ。あんた、殺虫剤を作りたいわけじゃないんだろ?あっちはもうこれ以上、調べたって意味がない。麻薬の方とかを、調べてやるよ。そっちにツテがある。知り合いがいるんだ。その答えを聞いたら、次から報告は、ネットを使って、あんたに教えて貰ったアドレス宛にやるつもりだ。で、もういいと言うなら、これっきりにしよう。お互い、時間の無駄になる。ああ、それと、、、俺は金が欲しい。」

「昔から悦豊君は、変な事に知恵が回ったわね、、。貴方の言ったこと、その通りだわ。でも最初から私が寂寥ファミリーや麻薬のこと調べてって言わなかった理由わかる?もちろん貴方が、昆虫学者で探偵じゃないって事もあるけど、危険だからよ。私なら、私が支払う程度の金額で、自分を危険にさらしたりしない。私が警察のコンサルしてるって前に言ったわよね。女魃蛭は、その筋なの。脅しじゃないよ。」
「判ってる。承知の上だ。言っちゃ何だが、俺が今いる国が、どこだと思ってるんだ?とにかく答えをくれ。そうだな、礼金は今までの倍だ。あんたが無理なら警察に協力してもらってくれ。それでやる。いや、やらせてくれ。金がいるんだよ。この国じゃ、金持ちを強盗したって、あんたがこの前くれた金の半分にもならないんだ。」
 結局、指尻ゑ梨花は悦豊に押し切られた。
 というよりも指尻には、悦豊がゑ梨花が何もしなくても、いずれ破滅するだろうという予感がしたからだ。
 その破滅への道筋のネックが金の有無なら、すこしでも彼に生き延びるチャンスを増やしてやりたかった。

 今日は、丸ごと一日、人に優しすぎる自分だったと、指尻ゑ梨花は少し反省した。
 特に、戸橋未知矢にかけて置いたキーワード、「お帰りなさい。あなたは悪くない。」を、思い出すと、その気恥ずかしさに、穴があったら入りたいと思った。
 だが指尻ゑ梨花には、男に入れさせてやる穴はあっても、自分が潜り込める穴はなかったのだ。


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