蛇が知るは秋のぬくもり(旧版)

幽月 篠

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与えられた選択肢

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 与えられた選択は都合が良いもので、応えればそれで叶えられるものだろう。だがそれを選んで良いものだろうか


いつまで歩けばいいものか。胸中で何度か呟いた時、開けた場所に辿り着いた。

「さあ着いた」
「着いたって……社や宮など何処にも見えぬが」

 辺りを見回せど、目の前には泉しかない。男は微笑むと、指を鳴らした。するとたちまち周囲が男の神気で包まれ、視界が分からなくなる。影縄は腕の中の秋也を落とさないようにしっかりと掴んだ。やがて少しずつ神気が鎮まる。影縄の前には、広い湖畔が現れた。湖畔を覗き込めば、広い社が水越しで見える。影縄が驚きのあまり声が出せないでいると、男はくくっと笑った。

「ようこそ我が社へ。我が名は……いや、止めておこう。我は龍神。この山を統べる神だ」

 龍神が再び指を鳴らすと、影縄は神気で包まれた。先程より濃密な神気。殺されるかと思ったが、神気に敵意は感じられない。

「少しの間、私の社に来てもらうよ。これ以上血の臭いを振り撒かれては面倒だからね。君にとっても好都合だろう?」

 影縄はしばし考えた後、頷いた。龍神に匿ってもらうのならば、魑魅魍魎に襲われることなく安全だろう。だが、何故龍神は私たちを匿うのだろうか。それが引っ掛かった。

「もう目を開けていいよ」

 影縄が目を開けると、湖畔の中に広がっていた社にいた。遠い昔、神の眷属であることを捨てた影縄にとって、これほどまでに清浄な神域に入るのは数百年以来のことであった。
 神域の広さは湖畔よりも広く、桔梗のいた城下町程の広さである。だが人の気配は殆ど無い。龍神の後を着いていくと、最初に見た泉とよく似た場所に着いた。

「まずは血の穢れを此処で落としてね。ただし妖である今の君にとって、少し毒だ。血の穢れが落ちたらすぐに上がること」
「……分かった」

 小僧を抱き抱えたまま泉の中に入る。泉の中の神気が輝いたかと思うと、赤黒い血の色が消えていく。

「っ………」

 それと同時に皮膚が焼けるように痛む。血の色が消えたのを確認してから上がると、肌が日焼けのように赤くなっていた。

「痛みのあまりにその子供を投げ出さないとは大した忠誠心だ」
「別に忠誠心などない」

 龍神から目を逸らしたくて小僧を見下ろした。私と違って小僧の肌は傷んでいない。たださえ刀傷を負っているので沁みなくて良かった。

「最後にこれに着替えてね。勿論その子供も着替えさせること」

 随分と要求が多いが、神域を穢されることは神にとって苦手とする事なのだから仕方がないか。龍神から渡された衣は神代のもの。絹で出来た染みひとつない白い装束である。いつも黒や紺色の衣を身に纏っている小僧に着せてみると、印象が大きく変わる。私も白い装束はあまり着ないので居心地が悪い。
 私が着替え終えると、龍神は社の中のひとつの建物に案内した。建物に入ると中央には褥が敷かれており、建物の中には神気で満ちている。部屋の隅の淵があり、絶えず清らかな水が流れていた。

「ここは癒しの宮。たまに山に行き倒れの者や、捨てられた子供が見つかる。そんな時に此処に運ぶんだ。この子供の場合は十日間此処に寝かせておけば目覚めるだろうよ」

 小僧を寝かせると、淡く蒼い光が小僧を包み込む。その血の気の無い頬に赤みが僅かに戻った。
 小僧の様子に安堵する。それで心に余裕が生まれたからか、今さら小僧の髪がばっさりと斬られてしまったことに気づいた。呪術を扱う者にとって、髪は大切な呪具のひとつ。命は失わなかったものの、そんな大切な物を私のために投げ出したのかと思うと、複雑な気持ちになった。

「何故、私達を助けた」

 小僧の一族が崇める蛇神と、龍神は仲が悪いと聞いたことがある。龍神にとって、助ける理由など無いはずだろう。

「まあ蛇神に貸しを作るというのもあるけど……この子供が僕を祀る家の少年と仲が良くてね。あの子が悲しむ顔を見たくないなと思ったんだよ。それに……」

 龍神が足元を見遣ると、銀色の狼が姿を現した。狼は小僧の傍に来ると、伏せる。

「この子が幼獣の頃に怪我をしたんだが、その子供が手当てをしたらしくてね。おや……それは言わない方が良かったか」

 狼がぐるると唸ると、龍神はにやりと笑って肩を竦める。狼は龍神をぎろりと睨んだ後、小僧の頬を舐めた。まるで飼い犬のようだと思ってしまう。小僧は深い眠りに落ちているのか、目を覚まさない。すうすうと穏やかな寝息を立てる小僧の寝顔はひどく幼く感じる。

「君も疲れただろう。隣の建物に寝床を用意しているからそこで眠りなさい」

 龍神はそう言うと宮を後にする。龍神に言われた通り、隣の建物に行こうとしたが小僧の様子が気にかかる。
 影縄は秋也の傍に座っていたが、気づけば秋也の横で眠ってしまった。



 秋也達が龍神に匿われている頃、健吾と夜萩は洞窟に隠れていた。

「追っ手をすぐに振り切れたことから考えると、俺達はさほど重要視されていないようだな。夜萩、帰るか」

 夜萩は立てた膝に埋めた顔を横に振った。

「俺は別にいいです……健吾さんが先に帰ってくださいよ」

 夜萩の声はくぐもっているが、震えているのが分かった。健吾は苦い顔をして頭を掻く。夜萩がいかに秋也を大事に思うかは理解できる。それは俺が凪人を大事に思うのと大差は無いだろう。まあ俺は裏切られたも同然だが。

「俺だけで帰れる訳ないだろ。お前だって同胞の死など年に数回は立ち会っている筈だ」
「でも俺は親父に秋也を守れと言われたんです……。なのに秋也を守れなかった。その上、秋也がいなくなったら俺の居場所など何処にも無いじゃないですか……!」

 夜萩はばっと顔を上げる。いつも生意気なことを言って、おどけたように笑っている少年。だが今夜は悔しげな顔に涙を流していた。

「俺はあいつに親父を取られたと嫉妬して、あいつを守ることなど真面目に考えていなかった。それに本当は……あいつのせいで親父が死んだと恨んでたんです。俺は…あいつに守られてたのに……。何であいつは親父のように蛇を庇ったんだろ……。俺が……あいつを心の中で責めていたのが悪いのかな……」

 夜萩は泣きながら自嘲する。夜萩が失態をしたときもいつも秋也が庇って折檻を受けていた。表面では秋也に謝るが、内心は何度かざまあみろと思ってしまったのだ。親父を死に追いやったのはお前だ。お前が折檻を受けて当然だろうと。秋也はいつもどんなに折檻を受けても平気な顔をしているから、気持ちを推し測ることが出来なかった。

「お前は悪くない。それに次代もな。悪いのは頭領だ」

 健吾は静かに言うと、夜萩の背中を擦った。

「とりあえず泣けるまで泣いちまえ。吐き出せば楽になる」

 初めて聞く健吾の優しい声に、夜萩の瞳から涙が溢れる。そして堰を切ったように嗚咽を漏らした。



影縄の目の前には幼子の姿があった。

『ととさま、かかさま。ゆみをうまくつかえるようになったよ!』

 幼子が自慢げに子供用の弓を片手に夫婦の元に駆けていく。男は幼子を抱えあげて笑った。

『おお、えらいぞ■■。ならば今度は文字を覚えられるようになろうな』
『えー。てならいはにがて』

 幼子が不機嫌そうな顔をすると、女がくすっと笑った。

『■■、我儘は駄目よ。■■はもうすぐお兄さんになるのだから』

 幼子は男の腕から降りると、女の膨れた腹をそわそわしながら見つめた。

『わたしがおにいさん?』
『ええ、そうよ。たとえ血が繋がっていなくてもお腹の子は貴方の弟か妹になるのだから』

 幼子は嬉しそうに笑う。夫婦もそれを見て嬉しそうに笑う。そんな日常の幸せな風景。とうに失った思い出だ。背を向けた思い出をどうして夢の中で見なければならない。影縄の黒曜石の瞳が濡れる。

「とと様……かか様……」

 血が繋がっていなかったけれど、私を我が子同然で愛してくれた方達。永久には会えぬと知っているのに胸に寄せる懐かしさで手を伸ばしてしまう。だが手が届く寸前に夢は掻き消えた。
 目覚めれば新築同然の天井が見える。どうやら私が涙を流していたからか、狼が頬を舐めて目が覚めたようだ。礼代わりに狼の頭や身体を撫でると、ふかふかと柔らかく心地よい。撫でている内に夢の中で味わった悲しみも鎮まった。

「おい、狼。主の顔でも見に行くぞ」

 影縄は布団を畳むと、宮を出た。


 影縄が狼の案内のままに癒しの宮に行く。中に入ると、秋也はまだ目を閉じて眠っていた。あの時の血の臭いは既にない。ふと小僧の頬を指の背で触れてみたが、何の反応も無かった。鼓動は穏やかに続き、胸も上下しているので生きているのは分かる。だが黒い瞳が瞼に隠れていると何だか不安でたまらなかった。

『お前を喪いたくない……だけど私も死にたくない……ごめん……我儘言って……』

 小僧が涙を流すところを初めて見た途端、胸を締め付けられるように苦しかった。小僧の隠していた心をようやく覗けた気がした。ただ失いたくなくて、その涙を止めたくてたまらなかったのに、私になす術など何処にも無かった。龍神が見つけてくれなければ、とうに小僧は死んでいただろう。そして私は……どうしていただろうか。小僧の身体が蛆にたかられる前に、その血も肉も骨も全て腹に流し込んでいたかもしれない。以前は人の血肉など口にしたくなかったのに、今ではそのような想像も容易く出来てしまうのは、私が小僧に執着してしまっているのだろうか。
 小僧は私の気持ちなど知るよしもなく、幼い寝顔を晒している。小僧はいつも大人びた顔をしているので、実の年齢よりも高く見えてしまうが寝顔は実年齢より幼い気がする。いつもあのような表情をしなければあの場所で生きていけなかったのだろうか。逃げたいと小僧は思わないのか。小僧の生きてきた環境を恨んでしまう。どうしてこのような気持ちを抱いてしまうのかを考えると、小僧と私は似たような境遇の持ち主であったことに思い当たった。 生まれた時から血の繋がった親に冷遇された者同士。私は小僧に過去の自分を重ねてしまっているのだろう。
 刀で斬られた小僧の髪に触れてみる。雑に刀で斬られた髪型は見映えが悪いだろう。小僧が起きたら髪を整えてやるか。かなり短くなってしまったけれど、それで少しはマシになるはず。

「早く目を覚ましてください。貴方のせいで気持ちが落ち着かないのです」

 それが無駄だと分かっていても、そう呟いてしまった。
 不意に狼に袖を引っ張られ振り返る。すると宮の入り口に一人の少女が立っていた。神代の巫女の姿をした少女。小僧と年齢はあまり変わらない程であろう。だが小僧と同じく大人びた顔をしていた。この少女は小僧と違って本当に年齢は長寿であろう。すぐに理解できる。

「貴方がその少年に使役されている蛇ですか」
 
 鈴のような声音だが、私は小僧ほどその娘には惹かれない。あの神は相当変わり者だったのだ。ならばこの少女もさぞかし変わり者に違いないと何となく思ってしまった。

「そうだが」
「あの方がお待ちです。どうぞ此方へ」

 狼を見ると、自分が小僧を見守っているからお前は行ってこいと言っているような気がした。私は立ち上がると小僧のいる宮を出る前に小僧の方を振り向く。そんなことをしても小僧は目覚める訳などなかった。
 巫女に案内されるままに大きな建物に着く。中に入ると、建物の外壁と違って中は武家屋敷のようになっていたので、私は驚いた。そして武家屋敷に不釣り合いな神代の衣を身につけた龍神があぐらで座っている。私が龍神の目の前に正座をすると、龍神は話を切り出した。

「やあ調子はどうだい」
「おかげさまで体力は回復しました」

 それは良かったと龍神は目を細めて微笑む。

「単刀直入に言うとしよう。君、あの子供の使役であることをやめて、私の眷属にならないかい?」

 突然の誘いに私は言葉を失った。混乱する私を見据えて龍神は話を続ける。

「君は元国津の眷属だろう? だが眷属の地位を捨たせいで不老以外の加護を有していないと見た。そんな君は陰陽師や鬼祓いどもから見れば格好の獲物だ。やつらは報酬のために人喰いでなくても強い者なら狩ろうとするからね」

 龍神は側に控えている巫女が淹れた茶を、一度口にした。

「貴方もどうぞ」

 巫女が淹れたての茶が入った湯飲みを差し出したので頭を少し下げてから口に含む。茶葉が高価な物なのか品の良い味が広がり、混乱していた頭を少しだけ落ち着かせた。

「ですが、何故私を眷属にしようとするのですか?」
「私は陰陽師や鬼祓いが大嫌いだからさ。私は君が以前仕えていた神を知っている。あやつが何故君を手放したのかは知らないが、あいつから聞いていた話からすると、君は有能な側近だったのだろう? 私は見ての通りあまり眷属がいなくてね。眷属にするなら君が丁度良いと思ったまで」

 龍神は巫女を一瞥すると笑みを表情から消した。

「こちとらこの国で落ち着いて過ごしたいというのに、上級神どもは私をはるか西の国を見るための『目』や『足』として扱う。その間巫女を守る者がいなくてね。最近では神域に足を踏み入れようとする愚か者も現れ始めた。だから君にはここを守ってもらいたいのだよ」
「それが……私の益になるのですか」
「ああ、勿論だとも。君が眷属になれば、人間どもから迫害を受けることはない。それに君は住処を得られる。もう無理に人間に従う必要など無いのだよ」

 これ程までの好条件を受ける機会は2度と無いだろう。以前の私ならばすぐに受け入れてた筈だ。なのに………喜べなかった。

「あの子供の血を飲むことで、魂を縛られました。その契約を簡単に解けるのでしょうか」
「一月も経っていないのだろう? その程度ならすぐに解けるさ。安心したまえ」

 人間に縛られることから解放されれば喜ぶだろうと思っていた龍神は、影縄が沈んだ面持ちをしていることに首を傾げた。

「嫌なのか?」
「分かりません。自分が……この先どうしたいのか」

 黒曜石の瞳が震える。影縄の瞳を見ている内に、龍神の脳内には瀕死の人の子を抱えていた昨日の影縄の姿が甦った。血に染まった衣を纏い、美しい瞳から涙を流して絶望の淵にいるとでもいう顔。そういえばあの子供は実の親から冷遇されているようだと狼から聞いたことがある。この蛇が悩むのは、子供が見捨てられないという理由だからだろうか。

「早い方が良い。さもないと何処ぞの陰陽師の十二の神の如く、心までもが人に従属してしまうからね。ああ、あの陰陽師は狐の子だったか」
「………あの子供が起き上がれるようになるまで、考えてみます」

 影縄はそう言い残し、龍神の部屋を去る。それを巫女と龍神は無言で見送った。
 影縄は秋也の元に戻ると両膝をついて髪を撫でた。この子供を見捨てたらどうなるのだろうか。背中に火傷と折檻を受けてもなお、根本は歪んでいない小僧。この小僧は強い。私がいなくても生きていける。そう思いたいのに、小僧が自分を蔑ろにする様は脆くて痛々しい。

「……」

 小僧の唇が誰かの名前を紡ぐ。声は聞こえなかったが、代わりに小僧の目尻から涙が伝った。影縄は苦しそうな顔で秋也の涙を指で拭った。

 秋也が宮で眠って十日経つまでの間、影縄は巫女の話し相手や社の掃除等をしていた。巫女は神代に贄としてあの泉に捧げられたそうだが、生きたまま龍神の巫女としてこの宮を守っているのだという。小僧とは違った性格であるものの、私の在り方を拒絶せず接する姿が似ている気がする。そんな巫女はとうに人間の在り方から外れた神のような存在。
 ……とは言っても普通の女性のように、甘味が好物だそうで巫女の話し相手になっている間は二人で饅頭や団子を食べることが多かった。その際に、美味な茶の淹れ方を教えられた。

「どうして私に茶の淹れ方を教えてくださるのですか?」

 巫女のしなやかな指が茶器を扱うのを眺めながら問う。すると巫女は顔を上げた。

「なんとなくです。いずれ貴方はこのようなことが必要になると思いました。貴方が神に仕えていた頃はまだ茶葉はさほど見掛けるものでもなかったでしょう?」
「……はい」

 透き通った緑色の茶が湯飲みに注がれる。熱い湯気を立てる茶。美味であるが何の役に立つのだろうか。私の心を読んだのか巫女が薄く笑った。

「茶は良いものですよ。人の心を落ち着かせ穏やかな気持ちにさせますからね」

 巫女は一体何を考えている。その考えを推し量ることは出来ないものの、影縄は巫女に教えられることを覚えていった。もしあの小僧が茶を飲めば穏やかな気持ちになるだろうか。そんなことを考えてしまうことを止められなかった。
 そして十日が経った。だが小僧は目覚めることがなかった。身体に異常はない。むしろ骨折すら癒えた筈。なのに目覚める気配すらない。

「何故、この子供が目覚めないのですか」

 龍神に問うと、龍神は小僧の額に手を当てた。龍神は目を閉じると、神気で小僧を包み込む。そして目を開けた。

「この子は起きることを拒否している。というよりもこの子はこれ以上生きることを拒んでいるようだね。魂が川の目の前に行ってる」

 その言葉で頭を鈍器で殴られた心地がして、影縄は秋也の眠っている蓐に爪を立てた。川は恐らく三途の川。人が死んでから渡る川だ。

「渡ればどうなるのですか……?」
「魂が川を渡れば死ぬよ。二度と戻ってこられない」

 龍神は静かに告げる。影縄は打ちのめされて目を瞑った。




 気がつけば秋也は川の岸辺に立っていた。

「今は春だったか……?」

 足元には蒲公英などの野草が生えている。だがよく見てみると、桔梗や萩などの別の季節の野草も生えていた。

「どういうことだ?」

 川に近づけば、綺麗な水がさらさらと流れている。足をいれようとした時、襟首を誰かに引っ張られ秋也は後方に倒れた。一体誰だ。秋也が振り返ると懐かしい顔がそこにあった。生前と変わらぬ姿に秋也の瞳が震える。

「颯月様………?」

 頷いた男を見て、秋也は一筋の涙を溢した。

「お久しぶりですね、秋也様。息災でしたかと聞きたいところですが……此処に来たということはそうでもないみたいですね」

 颯月は困ったように秋也と川を交互に見つめる。既に死んだ人と川。では此処は黄泉路か。此処に来る前に背中を刀で斬られたことを思い出し、秋也は苦い顔をした。

「此処にいるということは……私は死んだのですか?」
「いいえ。川を越えぬ限りは貴方は死にませんよ」

 颯月は川を指差す。最初の内は川は清らかだと思っていたが、自分の知る川とは異質な気がする。まるで見ていると吸い込まれそうな錯覚がある。秋也は立ち上がると数歩だけ下がった。

「秋也様。早くお帰りください。さもないと帰り道が分からなくなってしまう」

 生前と変わらぬ声で颯月様は私に声をかける。懐かしさで涙が再び溢れそうになる。だが……もう既に心は折れた。

「すみません……もう生きることに疲れてしまいました」
「っ………!?」

 颯月様が目を見開いた。親に嫌われ、長年折檻を受けてきた心は何処かで膿んでしまった。今まで耐えてきたけれど、私も人間だ。もう生きるという苦行に耐えきれない。それに……自分が生きてしまえば誰かが傷ついてしまう。もう颯月様のように私のせいで命を落とす者を増やしてはいけない。私は川に向かって駆ける。だが、あと一歩のところで手首を掴まれ阻まれた。

「駄目です! 貴方は生きて幸せを掴むべきだ! そんな愚かなことは止めて……」
「これ以上生きて何の意味があるというのですか! ……もう嫌なんです。折檻を受けるのも……生まれたことを罪だと言われるのも……」

 秋也は泣きながら叫んだ。今まで必死に言わないようにしてた。言葉に出したら心が壊れてしまうから。涙が止まらなくなってしまうから。
 そして今まで何度も墓の前で問うてきた疑問を吐き出した。

「何故、貴方は私を庇ったのですか!? 私は死ねば喜ばれる価値のない人間です。私とは違い、貴方は誰にでも慕われていたではありませぬか!」

 すると強く頬を張られた。頬の痛みに我に返ると、颯月様は厳しい表情になっていた。

「そんなことを言わないでください。私は……貴方に生きてほしいと願って自ら死を受け入れたのです」

 颯月は赤くなった秋也の頬に触れると、その身体を抱き締めた。秋也の目から涙が止まらなくなっていく。しゃくりあげる少年の背中を優しく擦りながら颯月は口を開いた。

「秋也様。貴方の生を望む者はいると思いますよ。貴方はそれを忘れているのではありませんか?」

 颯月の言葉で思い出したのは、一人の青年であった。否、一匹の蛇である。矜持が高くて、自分に冷たいようで優しい黒き蛇。背中を斬られ虫の息になっていた私の身体を抱きしめて涙を流していた。その際の表情は脳裏にこびりついて離れない。彼は私が生きることを望んでくれるだろうか。秋也からそっと離れると、颯月は微笑んだ。

「思い出されたようですね。ならば急いでください。きっと貴方を心配していますよ」

 秋也はようやく川に背を向ける。

「颯月様……会えて嬉しかったです」
「私もですよ。秋也様、さようなら」

 あの時はまともに別れを告げられなかった。だが今なら別れを告げられる。

「颯月様……さようなら」

 秋也が震える声で別れを告げると、颯月は秋也の背を押した。秋也は足に力を入れると、自分の生を望んでくれる者の元に帰るため、駆け出した。



 2日も寝ずに秋也の傍にいた影縄であるが、気づけば横になっていた。自分に掛けられているのは龍神の羽織。きっと寝ている間に掛けられたのだろう。影縄は目の前の少年に意識を戻した。ずっと握っていた指が微かに動く。すると閉じられていた瞼が震え、やがて目が合った。
 影縄は言葉も出せずに少年を見つめると、少年は目を細めて微笑んだ。

「ただいま……影縄」

 掠れた声が鼓膜に届いた時、影縄の目が熱くなる。堰を切ったように涙が溢れると、影縄は起き上がって口元を抑える。秋也もゆっくりと起き上がり、影縄の背をそっと叩いた。その手の柔らかなぬくもりに、影縄は激しい感情を抑えきれなくなると、秋也を痛いほど強く抱き締める。

「ごめん……遅くなってしまって……」
「どれだけ私を待たせるのですか……。貴方のせいで僅かな時でさえ経つのが遅く感じてしまったのですよ……。鼓動が止まり冷たくなるんじゃないかと不安で……」

 影縄が涙を流しながら抱き締めると、秋也は袖で影縄の涙を拭った。

「影縄……お前は私が生きることを望んでくれたのだな」
「何をとぼけたことを言っているのですか。生きてほしいと望むのは当たり前ですよ」

 秋也はしばし瞠目する。何故、当たり前のことに驚いているのだろう。影縄が怪訝に思っていると、秋也は影縄と目を合わせた。

「影縄……ありがとう」

 黒い瞳から涙が一筋溢れると、秋也は柔らかく微笑む。秋也が嬉し泣きをすると思っていなかった影縄は、言葉も忘れて秋也の顔を見つめていた。
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