【完結】今さら執着されても困ります

リリー

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08. 狂気

 私は狂い始めていたのかもしれない。あるいは、もう、とっくに狂っているのか。

 バラの棘でついた傷は癒えた。けれど、心に深く突き刺さった棘は抜けないまま、私の思考を腐食させていった。

『体を捧げれば、愛してもらえるかもしれない』

『彼の子供を孕めば、本当の家族になれるかもしれない』

 貴族の令嬢の純潔とは単なる美徳ではない。
 誓いを交わす前にそれを失うことは、肉体だけでなく、魂と家名を汚す罪だった。
 純潔を失い婚約すらも白紙に戻れば、私を待っているのは社会的な死だ。
 
 そんなことは知っていた。うんざりするほど聞かされてきた。
 けれど、この屋敷に立ち込める灰色の霧の中では、道徳や倫理といったものなど意味をなさない。戻る場所もなく、この屋敷にも居場所がない私に、これ以上何を失うものがあるというのか? 


 アリスがいない夜を見計らった。
 私は自室の姿見の前に立った。着ているのは、薄い白絹のシュミーズ一枚だけ。それは水のように滑らかだった。動くたびに体に張り付き、無慈悲なほど正確に、私の体の曲線をなぞり出す。
 薄暗い月明かりの下で、映し出された顔はまるで幽霊のように青白かった。

 私はその上から分厚いベルベットのガウンを羽織り、紐をきつく結んだ。

『少しは努力をしろ。平民ごときに負けるとは……嘆かわしい』

 先日の晩餐会でのレオナルド公爵の言葉が甦る。

 私は部屋を出た。
 廊下は暗く、冷え切っていた。石床の冷たさが素足に食い込み、震えが脚を駆け上がる。

 リアム様の部屋へと歩いた。決意とは裏腹に、心臓は鼓動を速める。

 重厚な扉の前に着いた。

 ノックはしなかった。手は酷く震え、真鍮のドアノブをうまく掴めない。ただ、ドアノブを回し、押し開けた。
  

 部屋は暖かかった。
 薪の燃える匂いと、高価なコロンの香りがした。リアム様の香りだ。

 彼は暖炉のそばのベルベットの肘掛椅子に座り、本を読んでいた。
 深夜の突然の侵入者に、彼は顔を上げた。邪魔をされたことへの苛立ちが眉間に刻まれている。

「何の用だ?使用人に入室させるなと——」

 言葉が途切れた。

 私は部屋の中央に立った。何も言わなかった。震える指で、ガウンの紐を引く。結び目が解ける。重いベルベットのローブが腕を滑り落ち、足元に黒い影のような水たまりを作った。

 沈黙が長く、重く、粘りつくように伸びた。

 暖炉の炎が、薄いガウンの生地を透かした。全てが露わになる。腰のくびれ、胸の膨らみ、震える脚の線。無防備に晒されていた。

 リアム様の目が見開かれた。
 不機嫌さが消えた。瞳孔が開く。彼は私から目を離さないまま、本をテーブルに置いた。
 彼の視線が私を舐め回した。顔から首へ、胸元で留まり、さらに下へ。シルクの上を、視線が虫のように這い回るのを感じた。

 そこにさ愛情や優しさ、慈しみなど微塵もない。あるのは、生々しく、ねっとりとした熱だけ。

 私は身震いを隠すために、思わず自分の腕で体を抱きしめた。

 彼はゆっくりと立ち上がった。獲物を見つけた肉食獣のように。

「ユリアナ……?」

 声色がいつもと違っていた。低く、掠れている。

「お願いです」

 私は震える声で囁いた。張り詰めた糸のような声。

「私を、本当の妻にしてください」
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