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番外編 ~過去話~

ユリスと母と王の話 ※暗いので注意※

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 小さな我が子を抱える母親の姿がそこにあった。まだ足元も覚束ない子が母に駆け寄ろうとして転んだのだった。母は涙を零す子を抱え、慰めるように揺らす。
「大丈夫よユリス。次はもっと上手に歩けるから。転ぶのも大事なこと……」
「何をしている」
 突然現れた怒気を含んだ声に、しかし母は慣れた調子で返す。相手は子の父親であった。
「見て分からない? 子供をあやしているの」
 よしよし、と母は小さな子の頭を撫でた。子はぎゅっと母に抱きつく。
「ほらユリス、外は明るいね。よく見てごらん。面白いものがたくさん」
 母は陽気の差す窓を指差す。父親が母の手から乱暴に子を奪い取った。
「甘やかすな! そんな風にあやしてどうなる! これは国の未来だぞ!」
「……まだ子供なんだからもう少しくらい甘えてもいいでしょう」
「馬鹿げたことを言うな。イエナ、お前の優しさも美しさも素晴らしいが、俺の子に分け与える必要はない」
「私の子でもあります」
「平民が口答えをするな。ユリス、部屋に戻れ。自分で歩けるんだからな」
 父は子を冷たい床に下ろした。子供はぐずって立ち上がろうともしない。わけが分からないままで床に這いつくばるだけだ。父は激しく怒鳴り散らす。
「ユリス! 立てと言っているだろう!」
「やめてください! 私の子に……」
「鬱陶しい女だ。部屋に戻れ。国王の命だぞ」
 睨まれようと母は物怖じしなかった。ただ悲しげに眉を寄せた。
「どうしてそんなことを……私を愛していたから妻にしたのではないのですか?」
「ああそうだ、だが子供のことは別だ」
 母親、イエナは子を気にしながら部屋へと戻っていった。王に逆らえるはずもない。命を握られているようなものだった。子供を残して死ぬわけにはいかない。今は、まだ……。

**

 イエナは城から遠く離れた街で生まれ育った。美しい娘で、外見だけでなく心も美しく優しかった。街では評判の娘で、噂話も言い寄る異性も絶えない。しかしそんなイエナには幼馴染が、将来をも誓い合った大事な幼馴染がいた。
 ある日。街の視察に訪れた王がイエナの話を聞いて、直接会いにやってきた。イエナは恐れ多くも王と言葉を交わして、辛くも気に入られてしまう。婚姻の話が出て、イエナはすぐに断った。既に愛する人がいるからと。王は表情を崩さずに言った。「それが消えれば問題はないだろう」。
 視察とは名ばかりで王は伴侶を探していたのである。美しく気高く健康で、従順な女を。
 イエナは翌日には馬車に乗って城にいた。それきり二度と故郷の地を踏むことはなかった。

**

 王の姿がない時を見計らって、イエナはユリスの元へと足繁く通っていた。召使いや乳母に口止めまでして、小さな我が子を抱きしめる。僅かな邂逅の間、与えられるのはただ少ない温もりだけだった。
 イエナは、まだ分別もついていない、言葉もろくに分からない子を抱き上げて様々なことを話した。自分の生まれ育った場所のこと、楽しかった思い出、好きなものの話、そして。
「私は貴方に会えて嬉しい。これで良かったの。私は幸せ」
 この言葉をいつも繰り返した。笑顔で。しかし今日は初めて涙を零した。幼い手が頬に触れる。
「変ね、私ってば。幸せなのは本当なのに。ごめんねユリス。ごめんね……」
 早々に子を下ろして背を向け、イエナは涙を拭った。子供に泣き顔を見せたくなかったのだ。また笑みを作ってユリスを抱きしめる。
「もしも私が」
 続きは言えなかった。もしも私が貴方を産まなかったら。いらない苦しみを与えずに済んだかもしれない。もしも私が貴方を別の場所で産んでいたら。
 もしも私が貴方を。子の短いうなじに触れる。温かい。ぎゅっと抱きしめて離した。ユリスが珍しく渋って離れようとしないのを、そっとあやして離れていく。

**

 召使いは激しく言い争う声を聞いた。王とイエナだと理解した召使いが様子をうかがっていると、助けを呼ぶ声がしたので慌てて廊下を駆けて行った。
 王が階段の側で頭を抱え、狼狽している様子だった。下を見ながら言う。
「どうなってる! いきなり滑り落ちた! 治療は、間に合わんか。駄目だ」
 螺旋階段の下、大理石の床に赤い液体が広がっていく。王は憐れむように溜め息を吐いた。
「こんなに早く命を散らしてしまうとは。イエナ……平民には荷が重すぎたか、やはり」
 王はぶつぶつと独り言を呟いて召使いには目もくれず、どこかへ去っていった。その日は誰一人として王の姿を見かけることはなかった。


 母親が埋葬されるのを何も理解していない息子は見ていた。母が消え、やがて城からは父の怒号も消えた。

 部屋で子を下ろし、王はやれやれと肩を回した。大勢の国民の前で、良き王であり良き父親である自分を演じた後だった。母を亡くした子を、花が枯れた後の種子に例え、国の未来を重ねて語った。疲れた喉でも愚痴は絶えず零れた。
「女は子を産むと駄目になるな。従順だったのが急に反抗的になった。我が物顔で城を歩き回る様などおぞましかったな。魔物じみていた」
 身震いして子を振り返る。子供は幼いながら父を警戒している様子だった。自ら近寄ろうともしない。本能的なものかもしれなかった。
「ユリス、お前は慎重に相手を選べよ。そしてお前は従順でいろ。私を失望させるな」
 王は冷たく言い放ち、重い足音と共に部屋を出ていった。
 一人残されたユリスは、何をして良いかも分からず明るい窓の外を見つめていた。外を指し示す母の指を思っていた。
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