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本編

14・辺境のティグリス

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ザッザ。背丈ほどもある草をかき分けて、進むが足は膝まで泥にズブズブと沈んでいく。演習を兼ねた模擬戦はもう何度目だろうか。息が上がる事も忘れて前に進んでいく。
空班と海班に分かれて、相手陣地の中央にあるフラッグを自陣に持ち込めば次の模擬戦まで掃除当番は回っては来ない。言い換えれば負けっ放しなら掃除当番が続くと言う事だ。

模擬戦は勝った方が「調理当番」、負けた方が「掃除当番」である。
たかが料理当番と思いきや、辺境は物資が少ない。成長期のティグリスはいつも腹を空かせていた。何故なら「掃除当番」だった時に口にした食事は「薄い具のないスープ」か、拾った木の実、川で獲った魚や運よく見つけたウサギやキツネだったからだ。

夜明け前から夜半遅くまで続く鍛錬で魚や獣は滅多に口にする事はない。

「調理当番」になれば、必要な「味見」と魅惑の「つまみ食い」が出来る。
腹を空かせた兵士の「味見」と「つまみ食い」で形のある具はほとんどなくなり、スープの量も減る。なので「人数分」に足るように水を加えるのだ。

時に鍋の底が透けて見えそうな「若干濁った水」状態のスープの時もある。


「トラ!こっちだ。早く来いッ」
「はいっ!」

辺境の地に来たティグリスは当然一番年が若く、下っ端だった。
鍛錬は18歳で入隊した者と同じ内容で行なわれるので、体の小さなティグリスはついていくので精一杯。疲れ果てて瞼を閉じれば寝られる。そんな日はまだ良かった。

腹が減って眠れず、夜中に薄く張った氷を割って凍えるような川に腰まで入り魚を探した事もある。鳥の巣を作る要領で罠を仕掛けてウサギを捕獲しようとした事もある。
しかし、王都育ちのティグリスに捕らえられるような魚も獣もいなかった。

リスなどが冬眠用に貯め込んだ木の実を拝借した事もある。
生で食べる物だから何度も腹痛を起こして「不浄の主」と揶揄われた。

「ティグリスなんて大層な名前勿体ねぇな」
「タイガーだろ?海の向こうの国ではトラとも言うそうだ」
「長ったらしい名前だからな。トラで良いんじゃねぇか?」

先輩隊員につけてもらった呼び名で呼ばれるようになり、名前の通りしなやかな動きで前進していく。模擬戦以外の時はチュリオス伯爵の兄であり辺境伯でもある主の元に出向き、学問を学ぶ。

元々が野性的な所もあり、庭に来る動物をよく見ていたティグリスは17歳になる事には班長補佐になった。敵陣に進みながらも木の実を拾い、獣を狩る。蔓で縛り上げた獣や魚は野営のご馳走。
ティグリスのいる班になった隊員たちは演習を兼ねた模擬戦が楽しみでならなかった。





一番の楽しみは月に1、2回届いているパスティーナからの手紙だった。
ニキフォロスからも手紙は届くが一度読めばその後、目を通す事はない。しかしパスティーナからの手紙は部屋に戻ってからも何度も読み返す。

見たままを、そして他愛もない話をただ書き連ねてパスティーナに送る。
誕生日に何を送ろうか考えていた時、演習中に【樹氷】を見て送ろうとしたが全員から反対をされた。なので下手な絵で樹氷を描いた。
その翌年の誕生日には大きな湖で見たスターダストの絵を描いた。

「そう言えばキツネの親子がいたな」

キツネの親子を加えると、パスティーナからの返事に「辺境には黄色い岩があるのか」と返ってきた。

「どこをどう見てもキツネだろうが!」

もう一度書いて、今度は判りやすく足を太く付け足すと「雪の中でお茶会をするのか」と返ってきた。パスティーナにはキツネではなくテーブルに見えていたのである。

読むのに解読する時間が必要だと言っていたのに、パスティーナからの返事は手紙が届いたら一両日中に出されたものばかり。ティグリスも物理的な距離も忘れてパスティーナからの返事が届けば直ぐに返事を書いた。


王都の様子はパスティーナからの手紙にもニキフォロスからの手紙にも書かれていた。気を使っているのかティグリスの両親についての記述はない。

月日はティグリスが「息子だったら間違いなく後継者」と言わしめるようになるように、ニキフォロスも母であり王妃のエカテリニから徐々にその力を移行させていく。


【従順な貴族の中には隠れて不正を働く者がいる。4つあった侯爵家のうち2つは降格し新しい侯爵家にした。片方が母上の実家だとは恥ずかしくて臣下の顔が見られない】

その他にもニキフォロスの手紙には【時々、母上から譲位について話がある】とあった。ティグリスは王位に就きたいとは思わない。ニキフォロスを支えて【守りの剣と盾】になるほうが向いていると思い始めていた。

――このまま、辺境に住まいを構えるのもいいかも知れない――

そう考える事もなくはないが、パスティーナが田舎暮らしに耐えられるか。そういう問題はあった。時折避暑がてらに辺境に来る事は以前はあったようだが、今はない。
王都の暮らしに慣れた者には辺境の生活は決して優しいものではない。
こちらでは辺境伯夫人でも竈に火を入れるし薪も割る。
食材用に弓を引いて獣に向かって矢を放つこともある。


19歳となったティグリスは、そろそろ身の振り方を本腰を入れて考えなければならないと考えだした。窓の外を見れば降り積もった雪の上に更に強くなった風が積もった雪を舞い上げ、更に空からの雪も巻き込んでいるのが見える。

隊員用の食堂で、暖炉に薪を放り込んで剣を磨く。手を休めたらまた薪を放り込む。

パチッ!ひと際大きな音を立てて樹皮が暖炉の側面にあたって火花を纏いながら灰の中に落ちた時、ティグリスを大声呼ぶ声が聞こえた。


「トラっ!トラはどこだ!」
「隊長ぉ!此処にいますよ~」

駆け込んできた隊長の顔色は良くない。吐く息が白いのも寒さではなく声まで怒りで燃えているかのようだった。

「此処にいたのか!王都に直ぐに戻るんだ!」
「え?でも今晩は――」

吹雪ですよと言いかけた言葉に別の隊員が言葉を被せた。

「隊長~。今夜から吹雪ですよ?無理無理。早くて5日、いや1週間しないと収まりませんよ」
「それどころじゃないんだ」

隊長が握りしめた書簡をティグリスに差し出した。
丁寧に皺を伸ばしていると、文字に目を走らせるより先に隊長の言葉が耳に入る。

「第一王子殿下が暗殺された。他に重傷者2名。重傷者の1人はトラ、お前の婚約者だ」

皺を伸ばし切らないうちに手渡された書簡は床に落ちた。
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