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35:歴史の醍醐味
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ぐっしょりと濡れた椅子の座面を見てトルデリーゼは今度こそ溜息が出た。
濡れているだけではない。この臭いは良くて淀んだ池の水か犬の…。
嫌がらせの程度が低すぎてもう笑いも出て来ない。
どうせやるのなら、座った瞬間に椅子の足が折れるなどにしてくれればケガからこの国を出る口実が出来るのだが、それに至らないものばかり。
先日は祖母の形見の指輪をアルフォンスからの贈り物だと勘違いした令嬢に絡まれた。
「1つ、2つ殿下に買ってもらったからといい気にならないで」
そう言っていたが、買ってもらったものはないに等しい。
間借りをしている家賃なら国を出る時に広さから換算した市井の相場価格に王族の別荘だからと倍にして置いて行こうと考えているくらいだ。
別荘での初日からの不遇も不遇と思えば不遇だがトルデリーゼはどうでも良かった。
むしろ、食費は支払う必要がないし、リネンも自分で揃えた。
灯り用のランプのオイルも自分で買い、ついでに手持ち出来るランプも買った。
洗濯はディートヘルムの護衛騎士の実家で洗わせてもらい、干させてもらっている。リゼルは洗濯は問題なく出来るのでついでにその実家の洗濯を引き受ける事で井戸の使用料も無料だ。
講義の無い日はその家に行き、トルデリーゼは近所に住む娘たちにマナーを教えている。礼儀を知れば賃金の良い家に奉公に出る事が出来るからである。
女性の地位はカドリア王国のほうが上だと言っても女性の働ける場は少ない。
カドリア王国には学園があるが通っているのは貴族の中でも資産を持つ者だけ。識字率は自国よりはかなり高いが、平民となると読めるのは絵本にある短い文章が関の山だ。
今日の講師は比較的裕福な伯爵家の夫人。
アルマド家に縁があるようなので、覚悟はしていたがこれでは座る事が出来ない。
「どうしたのです?講義が始められませんよ?まさか立ってお聞きになると?」
さぁ、どうしたものか。
教本を尻に敷く事も考えた。内容は既に頭に入っている。
だが、本には変わりなくトルデリーゼは本を座面にする事は矜持が許さない。
講義はカドリア王国の歴史である。
という事は、所作の例題を持ち出しても伯爵夫人は鼻で笑うだろう。
考えているところに思わぬ来訪があった。
王妃である。
途端に伯爵夫人の顔色は蒼くなり、真っ白になった。
「これは!王妃殿下っ!」
「良いのです。見学に来ただけですから続けなさい」
そう言って王妃はトルデリーゼが背凭れに手をかけている椅子を見た。
伯爵夫人はその視線を追い、今にも卒倒しそうになっているがトルデリーゼから「椅子に不具合がある」と申し出ていないため、自分から「椅子を交換する」とは言いだせない。
「わたくしも久しぶりに歴史の講義を聞きたいわ。誰か、椅子を持って来て頂戴」
王妃の声に椅子が一脚従者により運ばれてくる。
伯爵夫人はカタカタと震え、踏ん張るためにテーブルに置いた指先から振動が伝わってくるようだ。
そして、王妃の声にその場に伯爵夫人は突っ伏した。
「貴女はこの椅子を使って。わたくしは久しぶりに生徒になってみたいわ」
「申し訳ございませんっ!!」
王妃がトルデリーゼの背もたれを掴んだ手を覆うように手を重ねると伯爵夫人は飛び込んでくるかのように王妃の足元に伏せたのだ。
「ロマスコ伯爵夫人、わたくしに立って講義を受けよ。そう申すのか?」
「そうでは御座いません」
「ならば着席せねば、そなたの高尚な講義は受けられぬではないか」
「王妃殿下がそのような椅子にお座りになるなどとんでもございません。別の椅子を用意させますので今しばらくお待ちくださいませっ」
「妙な事を申すのですね?ロマスコ伯爵夫人、この椅子も持って来る椅子も王家のもの。あぁ、ロマスコ伯爵夫人に於いては備品の選定が間違っていたと…その時点からの気遣いかえ?」
ロマスコ伯爵夫人はビクリと伏せたままの体を浮かせた。
もう喋る事も出来ず、はぁはぁと荒い息遣いが聞こえるだけの塊となった。
王家のもちものに苦言を呈した形となったが、備品の選定は使用人が使用するものも含めて目の前の王妃が候補を挙げた中から、実際に使用する者が選ぶのだ。
つまり、座面を濡らしてしまった椅子は王家の所有物。
この場で首を落とされる事はないだろうが、咎は何も知らない夫や子供たち、ひいては実家にまで及ぶ事に今になって気が付いたのだ。
――安っぽい悪戯をするからよ――
トルデリーゼは心で盛大に溜息を吐いた。
王宮での講義、そこで使用する物はカドリア王国の民の血税で購入した備品である。
何で座面を濡らしたかは知らないし知りたくもないが、故意に破損をさせてしまえばどうなるか。経年劣化や已むに已まれず壊さねばならないなら別としてもやりようはあっただろうに。
「王妃殿下。場所を変えてロマスコ伯爵夫人からしか伺えない歴史を教授頂いては如何でしょう?」
「ほぅ?このロマスコから聞く事があると?」
「はい、ロマスコ伯爵夫人は歴史の講師です。歴史と言えば数百年前の事だけでは御座いません。例えば…」
「例えば?」
「先程王妃殿下がこの部屋に入ってきたのも過去の出来事。言ってみれば歴史で御座います。きっと何故今、床に伏されなければならないのか。その事情も歴史として語ってくださるかと」
「ふっ‥‥ふふっ…うふふふ。そなた面白い事を言うではないか」
「そうで御座いましょうか?わたくしは本日歴史の講義に参っただけで御座います。歴史というのは非常に奥深く、大きな出来事の影にはいくつもの小さな出来事の重なりや…しがらみも御座います。紐解き学び、未来に生かすのが醍醐味で御座いますわ」
床に伏せ、まだ震えるロマスコ伯爵夫人は王妃専属の侍女により立たされ、場所を変えて歴史の講義を行う事となった。
王妃は残った侍女を少し下がった位置に取らせ、トルデリーゼと肩を並べて廊下を進んだ。
「そなたはどうしたい」
不意に王妃がトルデリーゼに問う。
トルデリーゼは、前を向いたままで小さく答えた。
「どうも致しません」
王妃もまた、前を向いたまま「ふっ」と息を吐く。そしてまた問う。
「何も望まないと申すか?ロマスコ伯爵家は誰に糸を引かれていたとしても第一王子の客人である其方に粗相をした。揺るがない事実がそこにあるというに?」
「夫人の講義は今日で7回目で御座いました。視点の切り口が斬新なので御座います。歴史は当事者が亡くなっている以上推測を交えた論議になる事も多々御座いますが、1つの歴史にも諸説あり、笑い飛ばされるような説でもそこに根拠があれば否定は出来ません。夫人の講義はその事をわたくしに教えてくれたのです。人は過ちを犯しますが…立場故にそれを断る事も出来なかったのであれば、こちらに取り込む事も出来ます。罰を与えればそれも叶わぬかと」
「肉を切らせて骨を断つというのか?」
「そんな大層な事ではありません。わたくしはいずれカドリア王国を出て行きますが、王宮内で起こった醜聞は未来にも残ります。それは王家にとって小さな傷になりましょう。小さな傷が致命傷になる事は過去の歴史が証明をしておりますから」
「大事にするなという事か。だが、捨ておく事は出来ないから取り込めと?」
「えぇ。そうすれば想定外の相手の出方が推測でき、想定内だとしても確率を引き上げられますので対処の方法が選べますから」
アルフォンスの話に加え、王妃は独自にトルデリーゼの事は調べさせ、子爵令嬢という位置よりは遥かに賢いという事は判ってはいたが、身の回りよりも大局を見ている事を伺わせる言葉になるほどと頷いた。
――国から出すのは損益になると愚王が考えたのも頷ける――
己の立ち位置をしっかり把握し、前に出過ぎず、かと言ってお客様に甘んじている訳でもない。自分の言葉で意見を述べる事が出来る。
トルデリーゼの出国はマルス家が絡むため面倒だったが、関税と引き換えにしてもと願ったアルフォンスの手柄だと王妃は心で頷いた。
何より夫となる者の手綱を上手く操れそうだと感じた。アルフォンスもディートヘルムも決定的な何かが足らないが「この娘が王太子妃、ひいては自分の後に王妃となれば」という考えも脳裏を過ぎった。
王妃は考えが纏まると薄く笑う。
――このカドリア王国から出国をさせてはならない――
王妃は、相手がアルフォンスでなくディートヘルムでも、なんならジュリアスでも構わないとその夜、珍しく国王と閨を共にし、考えを伝える事を決めたのだった。
濡れているだけではない。この臭いは良くて淀んだ池の水か犬の…。
嫌がらせの程度が低すぎてもう笑いも出て来ない。
どうせやるのなら、座った瞬間に椅子の足が折れるなどにしてくれればケガからこの国を出る口実が出来るのだが、それに至らないものばかり。
先日は祖母の形見の指輪をアルフォンスからの贈り物だと勘違いした令嬢に絡まれた。
「1つ、2つ殿下に買ってもらったからといい気にならないで」
そう言っていたが、買ってもらったものはないに等しい。
間借りをしている家賃なら国を出る時に広さから換算した市井の相場価格に王族の別荘だからと倍にして置いて行こうと考えているくらいだ。
別荘での初日からの不遇も不遇と思えば不遇だがトルデリーゼはどうでも良かった。
むしろ、食費は支払う必要がないし、リネンも自分で揃えた。
灯り用のランプのオイルも自分で買い、ついでに手持ち出来るランプも買った。
洗濯はディートヘルムの護衛騎士の実家で洗わせてもらい、干させてもらっている。リゼルは洗濯は問題なく出来るのでついでにその実家の洗濯を引き受ける事で井戸の使用料も無料だ。
講義の無い日はその家に行き、トルデリーゼは近所に住む娘たちにマナーを教えている。礼儀を知れば賃金の良い家に奉公に出る事が出来るからである。
女性の地位はカドリア王国のほうが上だと言っても女性の働ける場は少ない。
カドリア王国には学園があるが通っているのは貴族の中でも資産を持つ者だけ。識字率は自国よりはかなり高いが、平民となると読めるのは絵本にある短い文章が関の山だ。
今日の講師は比較的裕福な伯爵家の夫人。
アルマド家に縁があるようなので、覚悟はしていたがこれでは座る事が出来ない。
「どうしたのです?講義が始められませんよ?まさか立ってお聞きになると?」
さぁ、どうしたものか。
教本を尻に敷く事も考えた。内容は既に頭に入っている。
だが、本には変わりなくトルデリーゼは本を座面にする事は矜持が許さない。
講義はカドリア王国の歴史である。
という事は、所作の例題を持ち出しても伯爵夫人は鼻で笑うだろう。
考えているところに思わぬ来訪があった。
王妃である。
途端に伯爵夫人の顔色は蒼くなり、真っ白になった。
「これは!王妃殿下っ!」
「良いのです。見学に来ただけですから続けなさい」
そう言って王妃はトルデリーゼが背凭れに手をかけている椅子を見た。
伯爵夫人はその視線を追い、今にも卒倒しそうになっているがトルデリーゼから「椅子に不具合がある」と申し出ていないため、自分から「椅子を交換する」とは言いだせない。
「わたくしも久しぶりに歴史の講義を聞きたいわ。誰か、椅子を持って来て頂戴」
王妃の声に椅子が一脚従者により運ばれてくる。
伯爵夫人はカタカタと震え、踏ん張るためにテーブルに置いた指先から振動が伝わってくるようだ。
そして、王妃の声にその場に伯爵夫人は突っ伏した。
「貴女はこの椅子を使って。わたくしは久しぶりに生徒になってみたいわ」
「申し訳ございませんっ!!」
王妃がトルデリーゼの背もたれを掴んだ手を覆うように手を重ねると伯爵夫人は飛び込んでくるかのように王妃の足元に伏せたのだ。
「ロマスコ伯爵夫人、わたくしに立って講義を受けよ。そう申すのか?」
「そうでは御座いません」
「ならば着席せねば、そなたの高尚な講義は受けられぬではないか」
「王妃殿下がそのような椅子にお座りになるなどとんでもございません。別の椅子を用意させますので今しばらくお待ちくださいませっ」
「妙な事を申すのですね?ロマスコ伯爵夫人、この椅子も持って来る椅子も王家のもの。あぁ、ロマスコ伯爵夫人に於いては備品の選定が間違っていたと…その時点からの気遣いかえ?」
ロマスコ伯爵夫人はビクリと伏せたままの体を浮かせた。
もう喋る事も出来ず、はぁはぁと荒い息遣いが聞こえるだけの塊となった。
王家のもちものに苦言を呈した形となったが、備品の選定は使用人が使用するものも含めて目の前の王妃が候補を挙げた中から、実際に使用する者が選ぶのだ。
つまり、座面を濡らしてしまった椅子は王家の所有物。
この場で首を落とされる事はないだろうが、咎は何も知らない夫や子供たち、ひいては実家にまで及ぶ事に今になって気が付いたのだ。
――安っぽい悪戯をするからよ――
トルデリーゼは心で盛大に溜息を吐いた。
王宮での講義、そこで使用する物はカドリア王国の民の血税で購入した備品である。
何で座面を濡らしたかは知らないし知りたくもないが、故意に破損をさせてしまえばどうなるか。経年劣化や已むに已まれず壊さねばならないなら別としてもやりようはあっただろうに。
「王妃殿下。場所を変えてロマスコ伯爵夫人からしか伺えない歴史を教授頂いては如何でしょう?」
「ほぅ?このロマスコから聞く事があると?」
「はい、ロマスコ伯爵夫人は歴史の講師です。歴史と言えば数百年前の事だけでは御座いません。例えば…」
「例えば?」
「先程王妃殿下がこの部屋に入ってきたのも過去の出来事。言ってみれば歴史で御座います。きっと何故今、床に伏されなければならないのか。その事情も歴史として語ってくださるかと」
「ふっ‥‥ふふっ…うふふふ。そなた面白い事を言うではないか」
「そうで御座いましょうか?わたくしは本日歴史の講義に参っただけで御座います。歴史というのは非常に奥深く、大きな出来事の影にはいくつもの小さな出来事の重なりや…しがらみも御座います。紐解き学び、未来に生かすのが醍醐味で御座いますわ」
床に伏せ、まだ震えるロマスコ伯爵夫人は王妃専属の侍女により立たされ、場所を変えて歴史の講義を行う事となった。
王妃は残った侍女を少し下がった位置に取らせ、トルデリーゼと肩を並べて廊下を進んだ。
「そなたはどうしたい」
不意に王妃がトルデリーゼに問う。
トルデリーゼは、前を向いたままで小さく答えた。
「どうも致しません」
王妃もまた、前を向いたまま「ふっ」と息を吐く。そしてまた問う。
「何も望まないと申すか?ロマスコ伯爵家は誰に糸を引かれていたとしても第一王子の客人である其方に粗相をした。揺るがない事実がそこにあるというに?」
「夫人の講義は今日で7回目で御座いました。視点の切り口が斬新なので御座います。歴史は当事者が亡くなっている以上推測を交えた論議になる事も多々御座いますが、1つの歴史にも諸説あり、笑い飛ばされるような説でもそこに根拠があれば否定は出来ません。夫人の講義はその事をわたくしに教えてくれたのです。人は過ちを犯しますが…立場故にそれを断る事も出来なかったのであれば、こちらに取り込む事も出来ます。罰を与えればそれも叶わぬかと」
「肉を切らせて骨を断つというのか?」
「そんな大層な事ではありません。わたくしはいずれカドリア王国を出て行きますが、王宮内で起こった醜聞は未来にも残ります。それは王家にとって小さな傷になりましょう。小さな傷が致命傷になる事は過去の歴史が証明をしておりますから」
「大事にするなという事か。だが、捨ておく事は出来ないから取り込めと?」
「えぇ。そうすれば想定外の相手の出方が推測でき、想定内だとしても確率を引き上げられますので対処の方法が選べますから」
アルフォンスの話に加え、王妃は独自にトルデリーゼの事は調べさせ、子爵令嬢という位置よりは遥かに賢いという事は判ってはいたが、身の回りよりも大局を見ている事を伺わせる言葉になるほどと頷いた。
――国から出すのは損益になると愚王が考えたのも頷ける――
己の立ち位置をしっかり把握し、前に出過ぎず、かと言ってお客様に甘んじている訳でもない。自分の言葉で意見を述べる事が出来る。
トルデリーゼの出国はマルス家が絡むため面倒だったが、関税と引き換えにしてもと願ったアルフォンスの手柄だと王妃は心で頷いた。
何より夫となる者の手綱を上手く操れそうだと感じた。アルフォンスもディートヘルムも決定的な何かが足らないが「この娘が王太子妃、ひいては自分の後に王妃となれば」という考えも脳裏を過ぎった。
王妃は考えが纏まると薄く笑う。
――このカドリア王国から出国をさせてはならない――
王妃は、相手がアルフォンスでなくディートヘルムでも、なんならジュリアスでも構わないとその夜、珍しく国王と閨を共にし、考えを伝える事を決めたのだった。
応援ありがとうございます!
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