みなしごと百貨の王

あまみや慈雨

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みなしごと百貨の王9

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 寝台の上であぐらをかいて寝間着に着替えるしおんのそばに、龍郷の姿はない。
 あのあと「あの剣幕では寮に住むのは難しいだろう」とふたたび邸に連れ帰られた。龍郷はといえば、しおんの世話を今朝会った女中頭に頼むと慌ただしく着替えてまた外出したのだ。経済界の集まりだという。
 従業員なら、閉店すれば家に帰る。だが龍郷には明確な「終わり」がない。難儀だな、とうっかり思ってしまってしおんは眉根を寄せた。
 いや、こんな邸に暮らして贅沢してるんだから、そのくらいの代償はあって当然だ。
 同情なんてしてやることはない。……ないはずだ、と思いながらしおんは最後の釦を留めた。と同時にあくびが口をついて出る。
 敵地とは言えしおんも人の子だ。食事と寝床を与えられればたやすく睡魔に屈してしまう。
 ――今日はもう遅すぎるしな。
 逃げ出す算段はまた明日だ。
 寝台に潜り込もうとしたとき、廊下から慌ただしい足音が聞こえてきた。
「おやめください、主の留守に」
 どうもあの女中頭のようだ。いつもの落ち着き払った印象とは裏腹に、ずいぶんうろたえているようだった。
「甥の元を伯父が訊ねてきてなにが悪い」
「ですから、今は不在ですので」
「ここは元はと言えば私の家だったんだぞ」
 応じるのは、年配の男の声のようだった。上等の絨毯が敷いてあるというのになおかつ響く無遠慮な足音は、廊下から隣の書斎に入る。今朝自分が忍び込んだ印象では、そこは龍郷の極めて私的な空間という気がしたのだが、伯父という人物が勝手に出入りするものなのだろうか。
 いや。
 金持ちの家の事情などよく知らないが、引き止めようとする女中の様子からいっても、普通のことではないだろう。そもそも伯父だとかいう人物の声には、離れて聞いていてもわかるほどの棘がある。横柄さなら龍郷だって負けていないが、なにかそれよりもたちの良くないものをしおんは感じて、寝室側から書斎のドアをそっと開けた。
 龍郷の伯父は書斎の中をがさがさと家捜ししていた。まるで今朝の自分を見ているようだったが、見つからないようにという配慮がない分、男の散らかしようは酷い。
 しおんの目から見ても持ち主が大事に使っていることがわかった机の引き出しをがたがたと音を立てて乱暴に開けたかと思えば、忌々しげに舌打ちをしてそのままにする。引き出したうちの一つがそのまま落ちて大きな音を立ててもお構いなしだ。金持ちにしてはやることががさつなのではないだろうか。
 思わず息を呑んだ気配を察したのか、男がこちらを振り向いた。淀んだ水たまりのような瞳にしおんを映すなり、言い放つ。
「――なんだ、この気色の悪い餓鬼は」
 気色の悪い餓鬼。
 それは、慣れた反応のはずだった。しおんの姿を見た者は、みんなそう呼んだ。口に出す者と出さない者がいたというだけで。
 けれど今日は洋食屋の女給や学者夫婦にやさしくされたせいだろうか。なんだか胸にぷっすり刃物でも突き立てられた気がする。切れ味が鋭すぎて、刺さった瞬間はなにが起きたかわからないようなそれは、次第にじわじわと痛みを連れてくる。
「一真様の客人です」
 女中が毅然と応じると、伯父は「ふん」と鼻を鳴らした。
「客人? これがか。呪われた子には相応しいがな」
 そう吐き捨てると、もうすっかり興味を失ったようで、男は再び家捜しに戻る。
 呪われた子――?
 誰のことなのかとっさに結びつかず、しばたいている間に、男はおおかた机の周りを物色し終える。だが目当ての物は見つからなかったようだ。
「ええい、なんだ、こんなもの」
 癇癪を起こした男に掴み上げられたのは、今朝見かけたあのぬいぐるみだった。
 見つけたときには書棚の一番下に隠すようにしまってあったのだが、あのあと奉仕することになって、元の場所に戻した記憶はない。床に転がしたままだったのだろう。
 伯父がいら立った様子で投げつけた熊は机の上で跳ね、壁まで飛び上がると壁の灯りに触れた。硝子のほろが割れ、ぼ、という音と共に本物そっくりの毛並みに火が燃え移る。龍郷の邸では室内灯も瓦斯でまかなっているのが災いした。
「きゃ――」
 火のついたぬいぐるみは再び机の上に落ち、龍郷のイニシャル入りの便せんに燃え移る。
「お、お――」
 伯父は手にしていたステッキでそれを数度叩きつけ、形ばかりの消火をすると「片づけておけ……!」と捨て台詞を残して逃げるように去って行った。

「どうした、今、伯父上が――」
 慌ただしさの余韻がまだ残る間に、入れ違いに帰宅したのだろう龍郷が戸口から中を覗く。ひと目見るなり惨状に口をつぐんだ。
「一真様、申し訳ありません。私があの方をお通ししたばっかりに」  
「……いや、いい。どうせ言っても聞かなかったんだろう」
 ため息と共に紡がれる言葉には、こんなことが起きるのを予測していたような響きがある。
   身内があんな振る舞いをするのが、普通だってのか?
「それにしても、大事な書類関係はこんなところにはしまわないとわかりそうなものだが。あの方も養子先の事業がうまくいかずにずいぶん焦っているとみえる……」
「片付けはいいからもうやすみなさい」と告げ、女中を下がらせると、龍郷は寝室に入って上着を脱いだ。あらためて深くため息をつく背中に、しおんは思わず声をかけていた。
「……悪い」
「なにが」
「これ、大事なものだったんだろ。俺が元の場所に戻さなかったから」
 拾い上げた熊のぬいぐるみは、顔の半分が黒く焦げてしまっていた。すべて燃えてしまわなかっただけましなのかもしれないが、むしろ痛々しさは大きい。
「――」
 龍郷は一瞬驚いたように目を見張り、それから、ふっと口元を緩めた。
 苦笑のようでいて、どこか淋しさの伴うその笑みは、すぐにひっこむ。
「ずいぶん殊勝なことを言う」
「――悪かったな!」
 そうだ。自分だって同じ盗人を働こうとした身で、いうなればあの男と同類だ。
 けれど声をかけずにはいられなかった。力なく寝台に腰を下ろす龍郷が束の間見せた疲労が、こんな時間まで仕事をしていたせいだけではないような気がしたから。
 しおんの言葉を混ぜ返していつものようにひとしきり笑ったあと、龍郷はもうすっかりいつもの表情に戻っていた。
「怪我はなかったか?」
「俺はだいじょうぶ、だけど」
「けど?」
 言ってしまっていいことなのかわからず、口を閉ざしたのは明らかに失敗だった。これではなにかあったと言っているのと同じだ。
「伯父上に、なにか不愉快なことでも言われたか?」
「俺のことじゃなくて……呪われた子って」
 訊いてしまっていいことなのかわからない。だがその言葉は、酷い扱いに慣れた自分の胸にもつかえるほど忌々しげに紡がれたのだ。およそこの、華やかな邸に不似合いな。
 龍郷は形のいい目蓋を、一瞬だけ物憂げに伏せた。
「それは俺だ。俺はこの家でそう呼ばれている。ああ、店で事情を知っている者にもだな」
「え……?」
 野々宮も少年音楽隊の連中も、こいつを社長と呼んでいた。音楽隊の奴なんて、まるで神のように崇めていたのに?
 英吉利でお勉強して、高級なぬいぐるみを買ってもらって、それのどこが――そんな考えを表情から読み取ったのか、龍郷は苦笑した。淋しさの混じらない、純粋な苦笑だ。
「俺の母は、龍郷の妾だったんだ。元々は父の年の離れた妹たちの家庭教師としてこの家に奉公にあがって、それで父の手がついた。父にはちゃんと本妻もいて、母はそれに成り代わろうなんて思っちゃいなかった。小さな家と毎月のお手当を頂戴して、俺と慎ましく暮らせればそれで。雲行きがおかしくなったのは、本妻に男子がなかなか生まれず、俺を養子にと声が上がってからだな。母親はお手当の支給を打ち切られても、自分で女学校の教師でもして俺とふたりで生きていくとずいぶん頑張ったらしいが、無理な話だった。父が手を回せば、いわくつきの女を雇ってくれる学校なんてどこにもない」
 しおんの表情が歪んだのを見て「よくある話だ」と龍郷は続けた。
「俺がこの家に引き取られると、本妻が心を病んだ。母は大人しく別宅に住んで、俺は本妻を母と呼ぶように躾けられたが、女性としてそんなに簡単に割り切れるものではなかったんだろう。俺が優秀な成績を収めれば収めるほど、父の田舎の豪商から嫁いだ箱入りの彼女は、母にも引け目を感じていくようだった」
 元々体も丈夫でなかった彼女が日に日に衰えて亡くなると、龍郷は一真の母を呼び寄せて強引に再婚した。そのころ龍郷デパートの前身である事業は波に乗っていたし、政府からの要請で数年英吉利に渡り経済を学ぶことになった龍郷にとって、語学が堪能な才女である母の存在が便利だったからだ。
 当時はまだそんな女性は少なく、実際に血の繋がった母子ならなお好都合、なんの問題がある、というのが龍郷の考えだったらしい。
「結局母も心労がたたって帰国間もなく死に、父も数年前に亡くなって、俺だけが残った。だから龍郷の人間も、本妻時代からの使用人も、俺をそう呼ぶ。呪われた子と。特に伯父は、元々は妾の子の俺の手の中に龍郷の財産が転がり込んできたのが相当気にくわない様子で、たまにああして権利書のひとつも奪えないかとやってくる。本当ならこんな時間に約束もない客なんて、家令が許さないものだが」
 敢えて止めなかったということなのだろう。
 つまり家令も龍郷の存在を快くは思っていない。それならそれで暇でも申し出れば良さそうなものだが、恵まれた給金を捨てる気はないのだ。
「くそだな」
 思わず呟くと、龍郷は唇の端をかすかに持ち上げた。いまさらそれ以上は感情を揺さぶることもない、といったていで。
「この邸で俺の本当の味方は女中頭くらいだ。彼女は母が家庭教師だった頃からの女中で、英吉利まで来てくれた間柄だからな。店なら野々宮くらいか。他はみんな俺が失敗する日を指折り数えて待っている」
 そんな、と窘める気はしなかった。おそらくそうだろうと思ったからだ。さっきの伯父の態度を見るまでもなく、人間はそういうものだとしおんは知っている。詳しい事情も知らず、いや、知らないからこそ、成功を妬み、失敗を望む。
 ――あれ?
 なんだか胸の奥がちくりと痛んだような気がする。なにかを咎めるように。その正体を掴む前に龍郷が焼けこげたぬいぐるみを抱き上げた。
「これは英吉利にいた頃母が買ってくれたものだったんだが……」
 ふたりの慰めだったという百貨店でだろうか。だったらやはり大事なものだ。同じ物を買えば済むというものではない。
 そして、失敗を望まれながら龍郷がデパートにこだわるわけもわかった気がした。あのきらきらと輝くホールで語ったこと。手を伸ばした先にあるものは、父親への怒りと母への憧憬なんだろう。
  いい家に生まれてふた親が揃ってれば、幸せなもんだと思ってた。
 なんと言ったらいいかわからず押し黙るしかないしおんの気配を察したのか、龍郷は肩を竦めて言った。
「まあいいさ。もう、ぬいぐるみがなければ眠れないって歳でもない」
 こういう調子で話を終わらせようと、終わらせてくれようとしているのだと、しおんにはわかった。ここは合わせておくべきだろう。
「ほんとかよ」
 揶揄するような響きを敢えて乗せれば、龍郷はこちらを向いて一瞬片眉を上げた。
「実は嘘だ」
 それが存外切実なため息交じりだったような気がして「え」と思わず身を乗り出すと、乗り出した肩を抱き寄せられた。寝台の上に―というより、龍郷の上に倒れ込む。そのままぎゅっと抱き寄せられた。
「だからおまえに代わりを務めてもらおう」
 しおんの薄い胸に顔を押しつけて言う。吐息が布越し伝わってくるが、表情は見えなかった。いったいどういうつもりで、と問う前に、不満げな呟きが柔らかな寝巻きの胸をくすぐる。
「抱き心地が悪い」
「文句言うなら離れろ」
「抱き心地が悪い分、追加で奉仕してもらうか」
「――」
 それは。
〈そういうこと〉なんだろうか、やっぱり。
 今朝のあれこれが一気によみがえる。しおん思わず体を強ばらせた。なのに、どこか身の奥がうらはらに湿るような気もする。
 逃げ出すための方便でしかなかったはずなのに、拓かれた記憶をまだ体が保っていることが腹立たしかった。自分のものなのに、自分で制御できない疼き。
 知らずうち、喉がごくりと鳴った。
「……べつにいいけど、あんたはこんな時間まで仕事で、さっきはあんなことがあって、よく―だいたいそれで支払いはいつ終わ」
「頭を撫でてくれないか」 
「――え?」 
「頭を撫でろと言った」
 くり返される。どうも自分の聞き間違えではなかったようだ。聞き間違えでないとわかったところで戸惑いは消えない。
 頭を、撫でろ?
 子供みたいに?
 龍郷はさあ、と額を胸に押しつけてくる。
 どこが「呪われた子」なんだよ。しおんは瓢箪池のほとりでたまに会う野良猫を思い出していた。撫でろ、とばかりにぶにゃっと鳴いて、望み通りにしてやると、あとはもうこちらを顧みることなく去って行く。
「はやくしろ」
「……野良猫よりだいぶかわいげはないな」
 だいたいこういうのは、強要するようなものなのか。強要した結果撫でられて嬉しいのか。
「なにか言ったか?」
「別に」
 追求をかわすようにしおんは言って、龍郷の髪をしぶしぶ撫でる。龍郷の髪はしおんから見れば憎たらしいほど真っ黒だった。いっそひっぱたいてやろうか、とも思ったが、面倒なことになりそうだなと考え直す。黒さから受ける印象とは裏腹に、手のひらに触れる髪の感触はやわらかい。
 その瞬間、なにかが頭の中で小さく弾けた。違和感とも呼べないような、ごく微かな、飛沫のような感慨が。
「――?」
「どうした?」
 ほんの微かな戸惑いだったのに、龍郷が敏感に気がついてこちらを見上げてくる。
「別に」
「じゃあ、撫でろ。早く」
 だからなんでそんなに偉そうなんだよ――龍郷には見えないのをいいことに、しおんは思い切り眉根を寄せて、龍郷の頭を再び撫でた。
 いつだったか、こういうことをした気がする、と思いながら。 
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