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魂の欠片

魔の手

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 ブライトは握り拳を上向きに開いた。
 たくましい掌の上に、赤いろうの欠片が付いた麻紐のかたまりが乗っている。
 クレールがそれを取りあげようとした途端、再び拳が握られた。
 疑問と驚きで顔を上げたクレールは、ブライトの表情が硬く、真剣であるのを見た。

「野郎も隠すからには、それなりの訳があると見てのことだったンだが……」

 封蝋に不可解な部分を見つけたのだろうことは察しが付く。それでもクレールには彼がその不可解を隠す意図が解らない。

「殿方の手は熱が高いそうですから、長く握りしめていると、蝋が溶けてしまいます。
 ギュネイの家に由来するもので、お手を汚されても宜しいのですか?」

 彼女にしては珍しくえんきょくな物言いをすると、ブライトは少しばかり口角を持ち上げ、

「手の冷たい自分おんなの方へ寄越せ、か?」

 拳を開いた。
 開きはしたが、その中のものをクレールへ渡そうとはしない。
 彼は麻紐から封蝋を剥がし取ると、人差し指と親指の間につまんだ。
 赤い顔料が練り混ぜられた蜜蝋みつろうかたまりを、彼女の目の高さに持ち上げ、紋章が刻印された側を示す。
 しっかりと押された印影は、間違いなく皇弟ヨルムンガンド=フレキが使う紋章だった。

「何か問題が?」

 クレールは小首をかしげる。ブライトは無言だった。
 中指で封蝋を軽くはじく。
 上下を指に挟まれたまま、それは反転した。
 麻紐の縄目が濁った赤い蝋の表面に刻まれている。
 蝋の内側で鈍い光が跳ねた気がした。

「灯りが反射した……? 何に?」

 滑らかで柔らかい蝋の表面で反射してにしては、光り方が鋭い気がする。
 鋭角な、そして硬い何かが、蝋の中に埋没している。
 地下の暗がりに目を凝らした。

 直後――。

 黒く伸びた爪。赤く濁った目。

 クレールは確かに「それ」を見た。
 彼女は猛烈な勢いで上体を後ろに反らした。
 真後ろにあった柱に、背中が激しく打ち付けられた。
 クレールは己の体を抱き、うずくまった。体が小さく震えている。
 背を打った痛みは感じていない。
 そんなものよりもはるかに痛烈な「恐怖」が痛覚を麻痺させている。

 封蝋の奥から突き出された腕が彼女の顔面を掴み、眼差しが彼女の全身を睨め付ける。冷たい指先が頬に触れる、生暖かい吐息が耳元に吹きかけられる。
 あるはずのない感触に彼女の総身は粟立っている。
 肩口が掴まれた。それを実感した。

「ひっ」

 しゃくり上げるような悲鳴を上げ、彼女は顔を上げた。
 闇の向こうで、ブライト・ソードマンが静かに笑っていた。
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