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空虚 II
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彼女の手は、いつだって冷たかった。
彼女はそれを、少し気にしていたようだったけれど。夏でも触ってみると冷たく心地よい手が、小さな頃から俺は好きだった。
ある日。彼女は少し上機嫌で、どうしてかと聞いてみると、こんな話を聞いたらしい。
冷たい手は、優しさの証だ。誰かに手を差し伸べるためにいつだって冷風に晒されているから、冷たくなってしまうのだと。手の冷たさに反して、暖かい心を持っている証明。それは誇らしく思うべき事なのだと。
それを彼女は尊敬する同級生に聞いたと言っていて、嬉しそうに話す彼女を見ていたら俺まで嬉しかった。
だからあの日……だけどあの日。
肌色の目で紅い空を仰ぐ彼女の手は、その優しさを表すように、氷のように冷たくて──
◇◆◇◆◇◆
帰り道、公園に面した道を歩いている。
ギィ、と錆びた鉄の軋む音。
それは、ブランコの振り子運動。
誰か、小さな子供が立ち漕ぎをしていた。
見覚えはない。ただ楽しそうに、無邪気に、一人で遊ぶのが言いようもなく楽しかった時期が俺にもあったか、と見ていて少し、思った。
すっと首を回して視線を動かし、近くの電信柱の元を見ると、いくつかの花束が添えられている。
何か渡すものがある訳でもない。ただ俺はそこに立ち尽くした。そうする事に、意味がある気がした。
「…………あの、すいません!」
若々しい、女の人の声が背後からかけられた。俺は、その声を知っていた。
「彼氏さん……ですよね。亡くなった彼女の……」
「…………お久しぶりです。葬式以来、ですか」
その女性は……彼女が護った未来の、その一部だった。
◇◆◇◆◇◆
俺と彼女は幼馴染で、家は隣で、学校は同じで。だから当然、帰り道ではいつも一緒にいた。
二人とも特に部活はやっていなかったが、学年は彼女が一つ上だったから時折何か行事の都合で合わない時もあったけれど。
その日も、俺は彼女と一緒にこの道を歩いていた。最期に何の話をしていたのか、俺はもう覚えていなくて。ギラギラと主張の強い日の光ばかりが目に焼き付いていた。
それに彼女が気づけて、俺が気づけないでいたのは運命の悪戯というやつなのだろう。
ブレーキ音すらなく、法定速度など忘れたようなトラックが目の前の歩道に突っ込んだ。
突然の事に放心する俺は、さっきまで大切なものを握っていた手が空になっていたことを、全てが手遅れになってから気づいていた。
わんわんと頭の中に響く泣き声。
まだ小さな子供が一人、彼女に縋るようにして泣いている。
朱に染まった制服。割れた頭。
最期の言葉なんてドラマチックなものは、無かった。当然だ。大事なものは、いつだってあっさりと唐突に喪われるものなんだから。
最期の最期に誰かを救えた、あの優しく冷たい手を握りながら、握りしめながら。俺はどこか誇らしく……そしてなにより憎らしく思った。
◇◆◇◆◇◆
「……彼は、元気ですか?」
彼とは、言うまでもない。彼女の救った子供のことだ。目の前にトラックが突っ込んで来た挙句、助けてくれた人は死んでしまった。きっと傷も大きいだろう。
「ええ……ちょっとしたいい事があったりすると、『あのおんなのひとにおれいをいわなくちゃ』って……子供なりに、色々わかってるんだと思います。最初は元気も無かったんですけど、今ではすっかり元気になってくれて。みんな彼女のお陰です……本当に……」
涙ぐみながら俺に話してくれる、女の人。
あんな小さな子供ですら、もう立ち直っているのに。きっと一番怖かっただろうに、前を向いて歩いているのに。
俺だけが、置いてけぼりだ。
俺の時間だけが、あの日からずっと止まっている。冷たく青い、氷の世界に俺だけが取り残されている。
どれだけ考えても──一歩前に踏み出せない。喪った悲しみだけを枷のように引きずっている。
せめて誰かを恨む事ができれば良かったのに、トラックが突っ込んだ理由は運転手の心臓発作による意識不明で、運転手の彼の勤める会社が特別彼を働かせていたわけでも無く、彼自身が何か大きな病気を患っていたわけでも、健康管理を怠っていたわけでもなく。
ただ、運が悪かっただけの事故。
悪くない。誰も──悪くなんてない。
だったら俺の、この陰鬱とした気持ちは何処に持っていけば良いのだろう。俺にはそれがわからなくて、いつまでも足踏みが止められない。
数ヶ月ぶりに学校に行ったのだってそうだ、前進なんかじゃない。彼女の事が忘れられなくて。忘れてはいけないという強迫観念に突き動かされて。いつか一緒に通おうと約束した、大学に行かなくてはならなくなっただけなのだ。
「彼氏さんも、元気を出してくださいね……きっと、彼女さんも、暗い顔をされるのは望んでいないと思います」
「……そうでしょうね。彼女なら……きっと、顔が暗いって怒ると思います」
わかってる。そんなことはわかっているけれど。だから俺が笑えるか、と言われればそれは違うのだから。あの日からカケラも浮かばない笑顔は、そういう事なのだ。
きっとそうだろうと思えるような事に縋る事すら、俺には出来ない。考えるたびに彼女を思ってしまうから。
「……では、また」
また会うかは知らないけれどそう断って、俺は再び帰路につく。
哀しい目をしていた。彼女が生きていたら──同じような目で俺を見ただろうか。
わかっている。それは解の出ない問いだ。
それでも、考えずにはいられなかった。
彼女はそれを、少し気にしていたようだったけれど。夏でも触ってみると冷たく心地よい手が、小さな頃から俺は好きだった。
ある日。彼女は少し上機嫌で、どうしてかと聞いてみると、こんな話を聞いたらしい。
冷たい手は、優しさの証だ。誰かに手を差し伸べるためにいつだって冷風に晒されているから、冷たくなってしまうのだと。手の冷たさに反して、暖かい心を持っている証明。それは誇らしく思うべき事なのだと。
それを彼女は尊敬する同級生に聞いたと言っていて、嬉しそうに話す彼女を見ていたら俺まで嬉しかった。
だからあの日……だけどあの日。
肌色の目で紅い空を仰ぐ彼女の手は、その優しさを表すように、氷のように冷たくて──
◇◆◇◆◇◆
帰り道、公園に面した道を歩いている。
ギィ、と錆びた鉄の軋む音。
それは、ブランコの振り子運動。
誰か、小さな子供が立ち漕ぎをしていた。
見覚えはない。ただ楽しそうに、無邪気に、一人で遊ぶのが言いようもなく楽しかった時期が俺にもあったか、と見ていて少し、思った。
すっと首を回して視線を動かし、近くの電信柱の元を見ると、いくつかの花束が添えられている。
何か渡すものがある訳でもない。ただ俺はそこに立ち尽くした。そうする事に、意味がある気がした。
「…………あの、すいません!」
若々しい、女の人の声が背後からかけられた。俺は、その声を知っていた。
「彼氏さん……ですよね。亡くなった彼女の……」
「…………お久しぶりです。葬式以来、ですか」
その女性は……彼女が護った未来の、その一部だった。
◇◆◇◆◇◆
俺と彼女は幼馴染で、家は隣で、学校は同じで。だから当然、帰り道ではいつも一緒にいた。
二人とも特に部活はやっていなかったが、学年は彼女が一つ上だったから時折何か行事の都合で合わない時もあったけれど。
その日も、俺は彼女と一緒にこの道を歩いていた。最期に何の話をしていたのか、俺はもう覚えていなくて。ギラギラと主張の強い日の光ばかりが目に焼き付いていた。
それに彼女が気づけて、俺が気づけないでいたのは運命の悪戯というやつなのだろう。
ブレーキ音すらなく、法定速度など忘れたようなトラックが目の前の歩道に突っ込んだ。
突然の事に放心する俺は、さっきまで大切なものを握っていた手が空になっていたことを、全てが手遅れになってから気づいていた。
わんわんと頭の中に響く泣き声。
まだ小さな子供が一人、彼女に縋るようにして泣いている。
朱に染まった制服。割れた頭。
最期の言葉なんてドラマチックなものは、無かった。当然だ。大事なものは、いつだってあっさりと唐突に喪われるものなんだから。
最期の最期に誰かを救えた、あの優しく冷たい手を握りながら、握りしめながら。俺はどこか誇らしく……そしてなにより憎らしく思った。
◇◆◇◆◇◆
「……彼は、元気ですか?」
彼とは、言うまでもない。彼女の救った子供のことだ。目の前にトラックが突っ込んで来た挙句、助けてくれた人は死んでしまった。きっと傷も大きいだろう。
「ええ……ちょっとしたいい事があったりすると、『あのおんなのひとにおれいをいわなくちゃ』って……子供なりに、色々わかってるんだと思います。最初は元気も無かったんですけど、今ではすっかり元気になってくれて。みんな彼女のお陰です……本当に……」
涙ぐみながら俺に話してくれる、女の人。
あんな小さな子供ですら、もう立ち直っているのに。きっと一番怖かっただろうに、前を向いて歩いているのに。
俺だけが、置いてけぼりだ。
俺の時間だけが、あの日からずっと止まっている。冷たく青い、氷の世界に俺だけが取り残されている。
どれだけ考えても──一歩前に踏み出せない。喪った悲しみだけを枷のように引きずっている。
せめて誰かを恨む事ができれば良かったのに、トラックが突っ込んだ理由は運転手の心臓発作による意識不明で、運転手の彼の勤める会社が特別彼を働かせていたわけでも無く、彼自身が何か大きな病気を患っていたわけでも、健康管理を怠っていたわけでもなく。
ただ、運が悪かっただけの事故。
悪くない。誰も──悪くなんてない。
だったら俺の、この陰鬱とした気持ちは何処に持っていけば良いのだろう。俺にはそれがわからなくて、いつまでも足踏みが止められない。
数ヶ月ぶりに学校に行ったのだってそうだ、前進なんかじゃない。彼女の事が忘れられなくて。忘れてはいけないという強迫観念に突き動かされて。いつか一緒に通おうと約束した、大学に行かなくてはならなくなっただけなのだ。
「彼氏さんも、元気を出してくださいね……きっと、彼女さんも、暗い顔をされるのは望んでいないと思います」
「……そうでしょうね。彼女なら……きっと、顔が暗いって怒ると思います」
わかってる。そんなことはわかっているけれど。だから俺が笑えるか、と言われればそれは違うのだから。あの日からカケラも浮かばない笑顔は、そういう事なのだ。
きっとそうだろうと思えるような事に縋る事すら、俺には出来ない。考えるたびに彼女を思ってしまうから。
「……では、また」
また会うかは知らないけれどそう断って、俺は再び帰路につく。
哀しい目をしていた。彼女が生きていたら──同じような目で俺を見ただろうか。
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