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エインズワース辺境伯
秘められた思い
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フローラがエインズワースにやってきてからまもなく1年となろうとしていた。長い冬の終わりが見えてきたのと同時に、ラウルとフローラの婚姻の儀式の準備が本格的に動き出した。
フローラが盛大なものにはしたくないという意向ではあったが、それでも最低限のことはやらなくてはならず、戸惑いが消せないままに侍女達と披露宴のための準備にあれこれと忙しい日々を過ごしていた。
ラウルの父親の代からの忠臣の一人である老齢のペルグラン子爵の養女としてフローラを迎え、子爵令嬢としての地位を得た後にラウルとの婚儀に臨む予定だった。既にフローラはペルグラン子爵とも顔合わせを終えており、書類上の手続きを終えればよいだけだった。
救護室近くの中庭で薬草を摘み取っていたフローラに、後ろからゆっくりと一人の男性が近寄り声をかけた。
「こんにちは、フローラ様。ご機嫌はいかがでしょうか」
「あら、トーリさん。こんにちは。ありがとうございます。とても元気に過ごしておりますわ」
「…そうですか?顔色があまり優れないようですが」
冬の深い時期にやってきた、すらりと背の高い美青年であるトーリにもう近隣の村々の住民は夢中になっているが、当の本人はそれら全ての誘いをきっぱりと拒絶し、いまだに噂の1つ立たない不思議な存在だった。
今は娼館で働いているが、時折フローラの元にやってきては世間話をして、薬を受け取って帰っていく。
フローラはトーリとの会話を他の人とするものと同様に楽しんでいたが、時折見せるトーリの強いまなざしにひるんでしまいそうになることが度々あった。心の奥底を見透かされそうな気持ちになり、いたたまれなくなるのだ。
「あと数か月で婚姻の儀を行われるそうですね。子爵令嬢になられると伺いました」
「…ええ、そうなの。全てが順調で、嬉しいだけのはずなのに」
「本当は恐れていらっしゃるのではないですか」
「…え?」
「このまま生きることをためらっていらっしゃるのではないですか」
「どうして、そんなことを…」
「フローラ様、大公様のおそばにいるためなら子爵位を持たずとも可能です。婚姻を無理に結ぶ必要もありません。今のまま、おそばにいることもできます。対外的に大公妃殿下とならずとも、ゆくゆくはセザール様が妻をとられれば女主人の役割もすぐに引き継ぐことも可能でしょう」
「な、なにを言っているの、トーリさん」
「もし…もし、お逃げになりたいのなら、私が力になります」
フローラはスカートの裾をぎゅっと握りしめた。指先の震えが次第に全身に移っていく。
「トーリさん…あなた…私のことを…」
「どうか、この婚姻をお考え直しください」
「フローラ様?どちらにいらっしゃいますかー?閣下がお呼びですよー」
建物の中からヴィクトルの声が聞こえてきて、フローラは一瞬その方向を見ると、ヴィクトルと窓越しに目が合い、ぎこちなく笑顔を作った。
そして、再びトーリに視線を移すと、もうそこには彼の姿はなかった。
冷たい風が吹きすさび、フローラの摘んでいた薬草が籠ごと空に舞い上がり、ころころと籠だけが落ちてきた。フローラはその籠へと歩き出したが、震える脚がもつれてその場にへたりこんでしまった。急に胸が苦しくなり、その場に倒れこんだ。
その様子を見ていたヴィクトルが窓を開けて飛び出し、すぐに救護室へと運びこんだ。
フローラは意識を失っていたが、特に大きな異常もなく、ラウルがすぐにやってきて、フローラの居室へと抱いて運んだ。
眠っていたフローラが目を覚ましたとき、目はどこか虚ろだった。
ベッドの端に腰掛け心配そうにフローラを見つめているラウルに気づくと、フローラはかすれた声で告げた。
「ラウル…この結婚を…なかったことにしましょう」
フローラが盛大なものにはしたくないという意向ではあったが、それでも最低限のことはやらなくてはならず、戸惑いが消せないままに侍女達と披露宴のための準備にあれこれと忙しい日々を過ごしていた。
ラウルの父親の代からの忠臣の一人である老齢のペルグラン子爵の養女としてフローラを迎え、子爵令嬢としての地位を得た後にラウルとの婚儀に臨む予定だった。既にフローラはペルグラン子爵とも顔合わせを終えており、書類上の手続きを終えればよいだけだった。
救護室近くの中庭で薬草を摘み取っていたフローラに、後ろからゆっくりと一人の男性が近寄り声をかけた。
「こんにちは、フローラ様。ご機嫌はいかがでしょうか」
「あら、トーリさん。こんにちは。ありがとうございます。とても元気に過ごしておりますわ」
「…そうですか?顔色があまり優れないようですが」
冬の深い時期にやってきた、すらりと背の高い美青年であるトーリにもう近隣の村々の住民は夢中になっているが、当の本人はそれら全ての誘いをきっぱりと拒絶し、いまだに噂の1つ立たない不思議な存在だった。
今は娼館で働いているが、時折フローラの元にやってきては世間話をして、薬を受け取って帰っていく。
フローラはトーリとの会話を他の人とするものと同様に楽しんでいたが、時折見せるトーリの強いまなざしにひるんでしまいそうになることが度々あった。心の奥底を見透かされそうな気持ちになり、いたたまれなくなるのだ。
「あと数か月で婚姻の儀を行われるそうですね。子爵令嬢になられると伺いました」
「…ええ、そうなの。全てが順調で、嬉しいだけのはずなのに」
「本当は恐れていらっしゃるのではないですか」
「…え?」
「このまま生きることをためらっていらっしゃるのではないですか」
「どうして、そんなことを…」
「フローラ様、大公様のおそばにいるためなら子爵位を持たずとも可能です。婚姻を無理に結ぶ必要もありません。今のまま、おそばにいることもできます。対外的に大公妃殿下とならずとも、ゆくゆくはセザール様が妻をとられれば女主人の役割もすぐに引き継ぐことも可能でしょう」
「な、なにを言っているの、トーリさん」
「もし…もし、お逃げになりたいのなら、私が力になります」
フローラはスカートの裾をぎゅっと握りしめた。指先の震えが次第に全身に移っていく。
「トーリさん…あなた…私のことを…」
「どうか、この婚姻をお考え直しください」
「フローラ様?どちらにいらっしゃいますかー?閣下がお呼びですよー」
建物の中からヴィクトルの声が聞こえてきて、フローラは一瞬その方向を見ると、ヴィクトルと窓越しに目が合い、ぎこちなく笑顔を作った。
そして、再びトーリに視線を移すと、もうそこには彼の姿はなかった。
冷たい風が吹きすさび、フローラの摘んでいた薬草が籠ごと空に舞い上がり、ころころと籠だけが落ちてきた。フローラはその籠へと歩き出したが、震える脚がもつれてその場にへたりこんでしまった。急に胸が苦しくなり、その場に倒れこんだ。
その様子を見ていたヴィクトルが窓を開けて飛び出し、すぐに救護室へと運びこんだ。
フローラは意識を失っていたが、特に大きな異常もなく、ラウルがすぐにやってきて、フローラの居室へと抱いて運んだ。
眠っていたフローラが目を覚ましたとき、目はどこか虚ろだった。
ベッドの端に腰掛け心配そうにフローラを見つめているラウルに気づくと、フローラはかすれた声で告げた。
「ラウル…この結婚を…なかったことにしましょう」
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