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エインズワース辺境伯
願う未来は同じでも
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フローラが目覚めて発した言葉は、その時部屋にいた者しか知らず、きつく緘口令が敷かれた。
ラウルとケヴィン医師、侍女のメアリーとカロルだけだったことが幸いして、その情報が洩れることは少しもなかったが、それぞれに大きな衝撃を受けていた。
フローラはその言葉を告げた後に再び眠りについてしまったために、真意を確かめることもできず、ラウルはただ茫然とするしかなかった。
愛しい者の変化を受け入れるには、あまりに唐突過ぎた。
床が揺れていると錯覚するほどのめまいに襲われながらも一歩ずつ進み、どうにかフローラの部屋を出て、執務室に戻った。そこにはヴィクトルとジャンが立ったまま一報を待っていた。
「閣下、フローラ様は」
「ああ…一度目が覚めたが、また眠ってしまった」
「お疲れだったんでしょうか。やはりこのところ予定を詰めいていたのがよくなかったのかもしれないですね」
「ヴィクトル」
「はい、なんでしょうか」
「フローラが倒れる前、何か変わったことはなかったか」
「いえ?俺の呼びかけに応じたときはいつも通りでした。俺が中庭に回ろうと歩いていたら倒れられたので、急いで窓から飛び出しましたけど」
「フローラは誰かと会っていたか」
「俺が出たときには誰も…いや、でも、フローラ様は薬草を摘んでいたはずなのに俺が見かけたときは立っていらっしゃったから、誰かと話していたかもしれませんね」
「誰がその時間に城にいたか調べろ」
「…まさか、毒を飲まされたとかなんですか?」
「いや、そうではないが、今は詳しく話せない」
「わかりました。すぐに調べます。いくらみんなが歓迎しているとはいえ、フローラ様を妬ましく思ったり、害そうとする人がいたりしてもおかしくないですからね。ちゃんと洗い出してきます」
ヴィクトルが足早に執務室を出ていくと、ジャンもラウルに出すお茶の手配のために一度部屋を出た。
ラウルは椅子に深く腰掛け、フローラの言葉の意味やその理由を考えていた。
確かにフローラは盛大な婚姻の儀をしたくないと言っていたのに、結局城で盛大に披露宴をすることやフェネルの街の一番大きな教会で宣誓をすることも決まってしまい、それが意に添わなかったのではないかと思い至った。
しかし、それでも「大公妃殿下となるためですから覚悟を決めました」と数週間前には笑っていたのに、なぜ突然結婚をやめたいと言い出したのかわからず、思考が堂々巡りをしてラウルは頭をかきむしった。
フローラが何かを抱え込んでしまっていることに気づいているのに、うまく聞き出してやることができない自分に腹立たしくてならなかった。そばに寄り添い、守ると誓ったのに、フローラの不安を拭い去ってやれないことがもどかしかった。
済ますべき執務に手を付けようとしても、胸に渦巻く感情がどんどん大きくなり集中することができなかった。
やがてジャンが戻り、「フローラ様が淹れるものには及びませんが、気持ちを落ち着ける薬草茶です」と差し出してくれたコップを取った。
それを一口飲むと、大きく息を吐き、今やるべきことに専念することを決意した。
フローラが目覚めたと連絡が入らず、そっとしておくことをケヴィン医師からも指示され、ラウルは執務室にこもっていた。
ヴィクトルが執務室に戻って来たとき、その表情は固かった。
あちこち走り回っていたのか、髪は乱れたままだったが、ヴィクトルは真剣な表情のまままっすぐにラウルの元へと進んだ。
思わずジャンも席を立ち、何を発するのか固唾をのんで待った。
「閣下、マルク国との国境付近で小規模ではありますが、侵入があったようです」
「なんだと」
「西の砦から早馬が来ました。すぐに援軍を出さなければなりません。ご指示を」
「状況は」
「早馬で来た者が負傷していました。なんとか聞き出せたのは、賊ではなく、訓練された兵士のようだったと。西の砦には今最低限しか兵士を配備していません。崩されると村が」
「ジャン!地図を持ってこい!ヴィクトル、第3・第4騎士団を集めろ。各隊長をここに呼べ!セザールもだ!」
「はっ!」
ラウルの指示を受け、二人は動き出した。廊下にいた騎士にも次の指示を出し、一気に城内の空気は張り詰めて行った。
召集を受けた各隊の隊長・副隊長、セザールと副官のブルーノが執務室にやってきて、中央に運び込まれたテーブルに広げられた地図を囲んでいた。
「今すぐ出られるのは第3・第4騎士団だ。できるだけ迅速に向かい、西の砦を死守しろ。補給部隊が出られるは早くても明日の朝になるだろう。なんとか持ちこたえろ。俺もすぐに出る」
「父上、お待ちください。俺が行きます」
「いや、おまえはここで城を守れ」
「これが陽動だったとき、城と他の砦まで失うこともあり得ます。ここで指示をなさってください」
「わかっているが、西が崩れるとそこからの侵入を止められなくなる」
「俺と騎士団を信用してください」
セザールの力強い言葉に、隊長らが深く頷いた。ラウルは一人一人と目を合わせ、了承した。
「いいか。決して死ぬな。民を守り、敵を倒せ。そして、生きて帰ってこい。獅子の決意に勝利を!」
「エインズワースよ永遠たれ!!」
ラウルの言葉に寸分の乱れのない敬礼をして、迅速に全員が動き出した。最後にセザールが部屋を出るとき、ラウルと静かに見つめ合い、お互いの意思を確かめ合った。
慣れた手つきで騎士達は身支度を整え、馬を連れてきた。すぐさま飛び乗ると、命令が下されるのを静かに待った。
先頭にはセザールとブルーノが立ち、全員が揃い、出撃できることを確認すると、開門を指示した。
「遅れずについてこい!遅れればその分民の命が奪われると思え!行くぞ!」
騎士らの野太い声と甲冑がきしむ音が鳴り、開門と同時に馬のいななきと蹄の音が地鳴りと共に響き渡った。
それを見送る使用人や子供たちが全員の無事の帰還を願っていた。
その後も補給支援のための準備に倉庫などから物資を運び出し、整理して荷馬車に乗せるのに丸一夜かかった。
夜に目を覚ましたフローラがその状況を聞くと、ふらつく体をおして救護室へ急ぎ、持ち出せる限りの薬草の準備のために働き続けた。
ラウルは次々と舞い込む情報を処理するために執務室にこもり、二人が顔を合わせることはかなわなかった。
ラウルとケヴィン医師、侍女のメアリーとカロルだけだったことが幸いして、その情報が洩れることは少しもなかったが、それぞれに大きな衝撃を受けていた。
フローラはその言葉を告げた後に再び眠りについてしまったために、真意を確かめることもできず、ラウルはただ茫然とするしかなかった。
愛しい者の変化を受け入れるには、あまりに唐突過ぎた。
床が揺れていると錯覚するほどのめまいに襲われながらも一歩ずつ進み、どうにかフローラの部屋を出て、執務室に戻った。そこにはヴィクトルとジャンが立ったまま一報を待っていた。
「閣下、フローラ様は」
「ああ…一度目が覚めたが、また眠ってしまった」
「お疲れだったんでしょうか。やはりこのところ予定を詰めいていたのがよくなかったのかもしれないですね」
「ヴィクトル」
「はい、なんでしょうか」
「フローラが倒れる前、何か変わったことはなかったか」
「いえ?俺の呼びかけに応じたときはいつも通りでした。俺が中庭に回ろうと歩いていたら倒れられたので、急いで窓から飛び出しましたけど」
「フローラは誰かと会っていたか」
「俺が出たときには誰も…いや、でも、フローラ様は薬草を摘んでいたはずなのに俺が見かけたときは立っていらっしゃったから、誰かと話していたかもしれませんね」
「誰がその時間に城にいたか調べろ」
「…まさか、毒を飲まされたとかなんですか?」
「いや、そうではないが、今は詳しく話せない」
「わかりました。すぐに調べます。いくらみんなが歓迎しているとはいえ、フローラ様を妬ましく思ったり、害そうとする人がいたりしてもおかしくないですからね。ちゃんと洗い出してきます」
ヴィクトルが足早に執務室を出ていくと、ジャンもラウルに出すお茶の手配のために一度部屋を出た。
ラウルは椅子に深く腰掛け、フローラの言葉の意味やその理由を考えていた。
確かにフローラは盛大な婚姻の儀をしたくないと言っていたのに、結局城で盛大に披露宴をすることやフェネルの街の一番大きな教会で宣誓をすることも決まってしまい、それが意に添わなかったのではないかと思い至った。
しかし、それでも「大公妃殿下となるためですから覚悟を決めました」と数週間前には笑っていたのに、なぜ突然結婚をやめたいと言い出したのかわからず、思考が堂々巡りをしてラウルは頭をかきむしった。
フローラが何かを抱え込んでしまっていることに気づいているのに、うまく聞き出してやることができない自分に腹立たしくてならなかった。そばに寄り添い、守ると誓ったのに、フローラの不安を拭い去ってやれないことがもどかしかった。
済ますべき執務に手を付けようとしても、胸に渦巻く感情がどんどん大きくなり集中することができなかった。
やがてジャンが戻り、「フローラ様が淹れるものには及びませんが、気持ちを落ち着ける薬草茶です」と差し出してくれたコップを取った。
それを一口飲むと、大きく息を吐き、今やるべきことに専念することを決意した。
フローラが目覚めたと連絡が入らず、そっとしておくことをケヴィン医師からも指示され、ラウルは執務室にこもっていた。
ヴィクトルが執務室に戻って来たとき、その表情は固かった。
あちこち走り回っていたのか、髪は乱れたままだったが、ヴィクトルは真剣な表情のまままっすぐにラウルの元へと進んだ。
思わずジャンも席を立ち、何を発するのか固唾をのんで待った。
「閣下、マルク国との国境付近で小規模ではありますが、侵入があったようです」
「なんだと」
「西の砦から早馬が来ました。すぐに援軍を出さなければなりません。ご指示を」
「状況は」
「早馬で来た者が負傷していました。なんとか聞き出せたのは、賊ではなく、訓練された兵士のようだったと。西の砦には今最低限しか兵士を配備していません。崩されると村が」
「ジャン!地図を持ってこい!ヴィクトル、第3・第4騎士団を集めろ。各隊長をここに呼べ!セザールもだ!」
「はっ!」
ラウルの指示を受け、二人は動き出した。廊下にいた騎士にも次の指示を出し、一気に城内の空気は張り詰めて行った。
召集を受けた各隊の隊長・副隊長、セザールと副官のブルーノが執務室にやってきて、中央に運び込まれたテーブルに広げられた地図を囲んでいた。
「今すぐ出られるのは第3・第4騎士団だ。できるだけ迅速に向かい、西の砦を死守しろ。補給部隊が出られるは早くても明日の朝になるだろう。なんとか持ちこたえろ。俺もすぐに出る」
「父上、お待ちください。俺が行きます」
「いや、おまえはここで城を守れ」
「これが陽動だったとき、城と他の砦まで失うこともあり得ます。ここで指示をなさってください」
「わかっているが、西が崩れるとそこからの侵入を止められなくなる」
「俺と騎士団を信用してください」
セザールの力強い言葉に、隊長らが深く頷いた。ラウルは一人一人と目を合わせ、了承した。
「いいか。決して死ぬな。民を守り、敵を倒せ。そして、生きて帰ってこい。獅子の決意に勝利を!」
「エインズワースよ永遠たれ!!」
ラウルの言葉に寸分の乱れのない敬礼をして、迅速に全員が動き出した。最後にセザールが部屋を出るとき、ラウルと静かに見つめ合い、お互いの意思を確かめ合った。
慣れた手つきで騎士達は身支度を整え、馬を連れてきた。すぐさま飛び乗ると、命令が下されるのを静かに待った。
先頭にはセザールとブルーノが立ち、全員が揃い、出撃できることを確認すると、開門を指示した。
「遅れずについてこい!遅れればその分民の命が奪われると思え!行くぞ!」
騎士らの野太い声と甲冑がきしむ音が鳴り、開門と同時に馬のいななきと蹄の音が地鳴りと共に響き渡った。
それを見送る使用人や子供たちが全員の無事の帰還を願っていた。
その後も補給支援のための準備に倉庫などから物資を運び出し、整理して荷馬車に乗せるのに丸一夜かかった。
夜に目を覚ましたフローラがその状況を聞くと、ふらつく体をおして救護室へ急ぎ、持ち出せる限りの薬草の準備のために働き続けた。
ラウルは次々と舞い込む情報を処理するために執務室にこもり、二人が顔を合わせることはかなわなかった。
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