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三章
25話 悪夢 ②
しおりを挟む納期、納期、納期。その言葉に急かされて、俺は必死に手を動かす。
まるで、海の水か砂漠の砂を小さなコップで掻き出しているような、果てしなく不毛な作業だと感じてしまう。
黒い羊の着ぐるみから顔だけを出している同僚が、「仕事が無いよりマシだ」と言って、諦観に満ちている乾いた笑みを漏らした。……この仕事に遣り甲斐を感じているような人間は、俺を含めて身近に誰一人としていない。
社会にはまだまだ下があって、自分よりも不幸な人間は沢山居るのだと、誰もが自分にそう言い聞かせながら働いている。此処は、そんな暗い職場だった。
自他の不幸を天秤に掛けて、どちらが軽いか、どちらが重いかで一喜一憂する。そんな相対的な幸せほど虚しいものはないが、例に洩れず、俺もそれに縋って生きてきた。
昔の俺は、上を向いて、胸に希望を抱きながら生きていた……と、思う。
下を向いて、自分を慰めながら生きるようになったのは、一体いつからだろう?
行き詰まっている。伸びしろが無い人生だ。漠然と、何かを変えたいとは思っているが、そんな暇も気力も金もない。現状を憂い、漫然とした憤りを感じるが、それを向ける場所は何処にも無かった。
国が悪い、社会が悪い、上司が悪いと、黒い羊の着ぐるみから顔だけを出している同僚たちが、怒りの矛先をあちこちに向けている。
俺も彼らに同調すれば、きっと心の負担が軽くなるのだろう。……でも、それをすると心が貧しくなりそうなので、同調しようという気にはなれなかった。
今日も俺は、自分で自分を慰めながら、納期に追われて働き続ける。
──多分、俺の人生は傍から見れば、それなりに幸せなのだと思う。
裕福ではないが貧しくもない一般家庭で生まれ育ち、様々な社会制度に守られながら大人になった。自立してからも生活は出来ている。雨風を凌げる家があって、冬や夏を快適に過ごすための冷暖房だってある。近くのスーパーの弁当は程々の値段で美味しいし、蛇口を捻れば幾らでも水が出てくる。交通の便だって良いし、治安だって悪くはない。
ああ、それと、医療保険のおかげで多少の怪我や病気も怖くはない。
俺は恵まれている。きっと、俺が支払っている税金よりも、俺が社会から享受している恩恵の方が大きいはず……。だから、国や社会を恨んだりするのはお門違いだ。
「はぁ……。虚しいな……。幸せって、何だ?」
それは自分の声だったのか、それとも同僚の声だったのか──。
どちらにしても、耳にした以上は考えさせられる。今の自分が、どれだけ恵まれているのか、それを頭の中で並べてみても、幸福だという実感を得ることは出来なかった。
お金があれば幸せなのか、時間があれば幸せなのか、健康であれば幸せなのか──。どれも正しくて、どれも違う気がする。
幸せの形なんて十人十色で、自分が幸せになる方法を知っている者こそが、本当の意味で幸福なのかもしれない。……残念なことに、俺は自分が幸せになる方法なんて、知らなかった。
「──報告。本日の業務は終わりです。当機体と一緒に帰りましょう、先輩」
後ろ向きな思考のまま、オフィスで延々と仕事を片付けていると、唐突に真横から声を掛けられた。
俺が作業の手を止めてそちらを見遣ると、ゲームセンターで俺に牛のぬいぐるみを取るよう勧めてきたメイドさんが立っている。
「先輩って……いや、何やってるんだ? うちの社員じゃないだろ、メイドさん」
「回答。当機体は現在、この職場のお茶汲みメイドをしています。誰よりも美味しいお茶を汲めるという自負が、当機体を駆り立てたのです」
「へ、へぇ……。お茶汲みメイドを雇うお金があるなら、少しでも俺の給料を上げて貰いたかったな……」
このメイドさんが本当のことを言っている保証は無いし、怪しい奴が社内に入っていることは大問題なのだが、不思議と通報しようだとか、追い出そうとは思わなかった。
ふと、周囲の様子を窺うと、オフィスにはもう誰も残っていない。外は既に真っ暗で、天気予報の通りに大雨が降っている。それを確認した途端、今日の仕事の疲れがどっと押し寄せてきて、軽く眩暈がした。
メイドさんの言う通り、今日はもう帰ろう。
「要望。きちんと牛のぬいぐるみを持ち帰ってください。此処に置いて行くのは、可哀そうです」
「まあ、職場に放置する訳にもいかないし、言われなくても持ち帰るさ」
俺は牛のぬいぐるみを小脇に抱えて、傘を差しながら職場を後にした。
この牛を取るのに千五百円も掛かったので、今日は昼食を抜いている。眩暈の原因はそこにもあるはずなので、早いところ夕飯を食べたい。
「提案。先輩、その牛に名前を付けてあげては如何でしょうか?」
「嫌だよ。ぬいぐるみに名前を付けるなんて、子供っぽくて恥ずかしいだろ」
「否定。それは決して、恥ずべき行為ではありません。ぬいぐるみに名前を付けて、大切にしている殿方は、とても素敵だと思います。それに、その牛の円らな瞳を良くご覧ください。名前を付けて欲しそうな目をしていますよ」
メイドさんは自分の傘を差しながら、帰路に就く俺の後ろを歩き、この牛に名前を付けるよう訴え掛けてきた。俺は何度か拒否したが、メイドさんはしつこく食い下がる。
この牛に名前を付けようと、俺に何かしらの害がある訳ではないので、もう面倒だから適当に決めてしまおうか……。俺が牛と目を合わせると、その瞳は深い海を思わせる藍色で、不思議とすぐに、一つの名前が思い浮かぶ。
「──モモコ。この牛の名前は、今日から『モモコ』だ」
こうして、俺が牛に名前を付けたところで、メイドさんが俺の服の裾を引っ張って、徐に足を止めた。どうして足を止めたのかと振り返ると、メイドさんの視線はビルとビルの隙間にある路地へと向けられている。
「報告。あそこに、小さな狼が捨てられています」
「いや、常識的に考えて、こんなところに狼は居ないだろ……」
俺がメイドさんの視線の先を確認すると、狼のように見えなくもない小犬が一匹、段ボール箱に入った状態で捨てられていた。
小犬は銀色の毛を雨で濡らしながら、碧色の瞳でジッと俺のことを見つめている。
「質問。先輩、あの狼をどうしますか?」
「どうって言われても、うちのアパートはペット禁止だからなぁ……」
道行く人の九分九厘は、捨て犬を見つけても、見なかったことにして通り過ぎる。俺も昔から、そんな人間の内の一人だった。ペットの世話は本当に大変で、手間もお金も沢山掛かる。アパートがペット禁止ではなくても、生活に余裕がない俺の手には負えない。
……ただ、このまま見て見ぬ振りを決め込むのは後味が悪かったので、小犬が入っている段ボール箱に俺の傘を差して、ついでにモモコを小犬の隣に置いた。
モモコとは早くもお別れになってしまうが、小犬にはこいつで寂しさを紛らわして貰いたい。
「重ねて質問致します。マスター、あの狼を見捨てて行くのですか?」
「いやだから、俺の家はペット禁止なんだって。……と言うか、『マスター』ってなんだよ」
無表情だったメイドさんが、悲しむような目で俺を見ている気がした。
……世の中には、どうにもならない事が沢山ある。これだって、その内の一つに違いない。
傘を小犬にあげたので、俺は雨に晒されて、あっという間にずぶ濡れになった。早く帰らないと、風邪を引いてしまいそうだ。
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