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夜の庭園で密会を

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 バルコニーを出て、すっかり夜の女王が支配する闇の時間に染まった庭に出る。
 夜風が良く通る場所まで来ると、ユルバンは詰めていた肺の空気を大きく吐き出して、新鮮な空気と入れ替える。

「はぁぁぁ……。呼吸ができるのは素晴らしい……」
「生きるだけでも大変ですね」

 ユルバンが生の実感を噛み締めていると、アンジェが微妙な顔で相づちを打つ。
 小声で話しつつ、招待客の一組として庭を散策する振りをしながら、二人がファイサルを探して人の気配がする方へと歩く。
 アンジェが事前に聞いていた今の時間の巡回の配置図と人の気配を照らし合わせていれば、やはりどうしても死角になる場所が出ていて。
 アンジェが途中で進む方向を変えると、ユルバンも同じ事を考えたのかぴったりとした速度でアンジェの横を歩く。
 そして、今この時間に巡回騎士のいないような場所で人の気配を感じた。
 ユルバンとアンジェは一度立ち止まる。
 時々人気のないような場所は逢い引きにも使われるので、そういった配慮が必要であるのは職務がら察してはいた。
 そのため、気配の持ち主がどうしてここにいるのか様子を伺う。
 すると。

「……どうかうちの娘にお情けをいただけないでしょうか。召し上げていただけましたら、我が財、我が富を持って、御身に献身いたします」

 男の声がした。
 声から四、五十代の男性だろうか。
 どうやら密談のような内容に、ユルバンとアンジェは踏み込むのをやめる。
 さらに聞き耳を立てていると、男と相対する人物が声をあげた。

「話ってそれだけ? 改まってこんな場所に呼び出すから何事やて思ったけど、話がそれだけなら帰りぃ。あんたんとこの娘はいらへん」
「黒髪に緑の瞳を持つ、色白の娘でございますよ。殿下が望まれた平民の娘なぞよりよほど御身にふさわしい教養や礼儀を身につけさせております」
「いらんて。わしが欲しいんはお人形のような令嬢でもないんよ。そこ、分かっとる?」

 特徴的な訛りのある声。
 間違いないファイサルの声に、ユルバンとアンジェは自分達が聞いて良い内容かと目配せし合う。
 だが、この場の気配を探り続けていたユルバンが何かに気がついたようにアンジェにこのまま留まるように指示したので、アンジェはその判断に従った。
 二人が植え込みの裏で潜んでいると、不意に人の気配が近づいてきた。
 これが巡回の騎士であれば、明かりを持っているのだが、近づいてくる人の影から明かりを持っていないことが分かる。その上、話し声の大きさや存在感から招待客の一組だと見当をつけた。
 細々と聞こえる会話からも、おそらく人気のないこの場所で逢い引きする男女で間違いなさそうだった。
 アンジェとユルバンは視線を交わした。
 下手に動けばファイサル達に気づかれる。
 一瞬逡巡したアンジェは、ふと思いついたように動いた。
 ファイサルの様子をうかがうためにしゃがんでいたユルバンの肩を軽く押す。背を植木側にして地面に座り込む形になったユルバンが怪訝そうにアンジェを見るけれど、アンジェはそれを無視してユルバンの膝の間を割るように身体を差し入れる。

「……っ!?」
「黙って」

 アンジェがユルバンの口を塞ぐように手を当てたところで、件の人影がアンジェ達の場所から視認できる距離まで来た。当然、向こうもアンジェ達の姿を視認できる距離だ。
 アンジェ達に気がついた男女の一組は、一瞬驚いたような気配を醸し出すが、気まずそうにそそくさと来た道を戻っていく。
 どうやら上手く追い返せたようだ。
 アンジェが満足げに頷く。先客だと勘違いした男女の気配が遠ざかっていくのを確認して、ファイサル達の様子を再び伺うべく上体を起こそうとすると、その腕をグッと引かれ。
 急に体勢が崩れたアンジェは、ユルバンの胸に手を置いて上体を支える。そして腕を引いた犯人であるユルバンを見下げた。
 ユルバンがアンジェを見上げている。
 その赤い瞳が、月明かりの中でも煌々としているのが見えた。
 ぞくりと、アンジェの胸の内が震える。
 ルビーのように燃える赤は、その深紅の内にぞくりと肌を粟立たせるような感情を潜めていて。
 ……いつかの夜に見つけたその感情に、囚われたように目が離せなくなったアンジェは呼吸も忘れてその目を見つめた。
 ユルバンもまた、何も言わずにアンジェを見上げる。
 ほんの一秒だったかもしれない。
 とても長く感じられるその視線の交差の果てに、ユルバンの手がアンジェの頬に添えられて、その輪郭をなぞり───

「後ろ楯無くして王になれずに困るのは御身であろう! なぜ断る!」

 荒げられた声に、アンジェとユルバンの意識は瞬間的に切り替わり、ファイサル達の方へ向かう。どちらからともなくそっと身体を離して、きまずい空気のまま密談へと耳を傾けた。
 どうやら男の交渉を突っぱね続けるファイサルに、男が業を煮やしているようだった。
 対するファイサルはやはり男の提案に是と答える選択肢などないようで。

「別に後ろ楯無くても王にはなれるしなぁ。むしろ後ろ楯にあんたみたいなのを据えたくはないしなぁ?」
「な……っ」

 男の神経を逆撫でするような物言いに、男が絶句する。
 ファイサルは飄々と言葉を続けた。

「あんたみたいなのはどこにでもおるんや。正直たかだか伯爵家程度の財で何ができるん? 甘い汁吸えると勘違いしとるんなら堪忍な。───ネフシヴの砂漠はそんな甘くないんやで」

 鋭い声と共に、ファイサルらしき気配が厳しく張りつめたものに変わる。アンジェとユルバンが息をぐっと潜めて成り行きを見守っていると、ファイサルと相対していた男が唐突に笑いだした。

「ク……クク……やはり一筋縄ではいかないか。ならいい。ハレムの鍵だけ手に入れば問題ないからな」

 不意に、ある一点から殺気のようなものを感知した。
 距離が遠い。
 ユルバンが殺気の持ち主の方へと駆け出すと同時、アンジェが密談の場へと乱入し、ファイサルを押し倒した。そして密談していた二人を挟んで反対側の少し離れた繁みが揺れて、一つの気配がユルバンと並走するように遠退いていく。

「うわっとぉ!? はっ? アンジェっ!?」

 地面に倒れ込み、目を白黒させるファイサルの顔のすぐ真横に矢が刺さる。
 間一髪だった。
 地面に刺さった矢にファイサルも状況を理解したようで、こめかみに青筋を浮かべる。

「あん野郎……タチ悪いことしよって!」
「騎士団総員警戒体勢! 侵入者及び内通者補足! アンドレア・ジルベール及びユルバン・オークウッドの連名で城内区画封鎖を要請!」

 万が一用に常備している緊急用の閃光弾を打ち上げ、アンジェは声を張り上げる。同時に二発目の矢がファイサルに向かって飛んで来るのを警戒してファイサルを連れて植え込みの死角へ場所を移動する。
 ファイサルは無傷のままだけれど、アンジェがファイサルを庇うのを優先したため、その場にいた男は逃げ去ってしまった。アンジェの声を聞いた近場の騎士が駆けつける前に、アンジェはファイサルに鋭く尋ねた。

「今しがた話されていたのはどなたです? 捕縛指示をだします」
「え、えぇと、確か……」

 アンジェの気迫に圧されたのか、一人の伯爵の名前を挙げたファイサルに、アンジェは駆けつけた騎士にその伯爵の捕縛指示を出した。

「アンドレア団長! いかがいたしましたか」
「シェリー。シェリーも見回りだったね。今ユルバン様が刺客を追跡してる。そっちの応援に何人か人を」
「承知しました」

 集まってきた騎士の中にいたシェリーにすかさず伝令を頼む。シェリーが何人かに声をかけ、その場を離れていくのを見届けると、それ以外の騎士にファイサルの守りを固めるようにアンジェは場をしきって騎士に指示を出していった。
 大まかに指示を出して態勢を整えたアンジェが、その場を離れて今日の現場担当であった第一騎士団の騎士団長へ報告に上がろうとすると、そのアンジェの腕をファイサルが捕まえた。
 てきぱきと歩き出そうとしていたアンジェがつんのめりながら振り返ると、ファイサルが至極真面目な顔をしてアンジェを見ていた。

「どうされましたか」
「……なんで、気づいたん」
「気づいた、とは?」
「刺客や。わしも何かあるかもしれんとは思っとったけど、わしのゴタゴタに巻き込むわけにはいかんと思って黙っとったのに」

 騎士達が照らすカンテラの光の中、ファイサルが困ったように表情を崩した。
 それに対してアンジェも困ったように言葉を返す。

「……もし私たちが介入しなかったら、ナージーさんがファイサル様を助けました?」
「……」

 アンジェは確信を持ってファイサルに声をかけるけれど、ファイサルの表情は変わらない。
 殺気を感じたと同時に現れた、アンジェとユルバンとは違う気配。ファイサルは何も言わないけれど、是とも否とも言わないのが答えだとアンジェは理解した。
 何かあると分かっていていながら、一国の王子が護衛を連れずにこんな人目を盗むような場所で密談なんてするはずもないのだから。

「たとえネフシヴ関連のことであろうと、ここはスハール王国です。そしてその貴族がファイサル様暗殺を企てたのであれば、今は丸く収まっても今後大きな瑕疵になりかねません。ですので遺恨なくまっさらにそそいでおくのも、私たちの仕事だと思っています」
「……ほんと、アンジェは仕事熱心やなぁ。今日なんて騎士じゃなくてパーティーの招待客で来とったんちゃうん?」
「たとえ非番でも、こうやって気になっちゃったら動いちゃうんです。この時間、警備が手薄になってるのは知っていたので」

 小さなことでも見過ごせないのだとアンジェが言えば、ファイサルがようやく掴んでいたアンジェの腕を離した。

「アンジェ」
「はい」
「やっぱ欲しい」

 ファイサルがアンジェをまっすぐに見つめる。
 アンジェは首を振った。

「私は騎士になりたいんです」
「わしの騎士になればいいやん」
「いいえ。さっきもお伝えしましたが、私には追いかけたい背中があるのです。その人の隣に立つのが、私の夢なんです」
「この国は女には厳しいって聞いたで。それは女の幸せを捨てでも叶える価値があるもんなん?」
「皆の言う女の幸せというのが、結婚して、子を生むということならば、私はそんなものいりません。不要なんです。私には枷でしかないですから」
「……なんでそこまで結婚を嫌がるん?」

 スハール王国ではまだまだ男尊女卑の毛色が強く、女性は結婚して家庭に入ることが望まれる。
 そんな国であるのに異常ともとれるアンジェの結婚に対する忌避感にファイサルが指摘すれば、アンジェは自嘲するように笑った。

「……私は、愛情が分かりませんから」

 赤子の頃に親に捨てられ、孤児院で過ごしたアンジェ。
 院長であるマリーは優しかったが、その愛は孤児院の子供達に平等で、それは同じ村の中でアンジェが見つけた家族愛というには少し違う気がした。
 孤児院を出てからは騎士団で過ごした。性別を偽らなくてはならなかったから、恋愛なんてもっての他で、女性としての男性への接し方なんて知らない。
 男を女として愛する自信も、子を家族として愛する自信も、アンジェにはなかった。

「愛情が分からない私ではちゃんとした家庭が築けるとは思いません。だから嫌なんです」
「そんなこと言うたって、この国にだって政略結婚あるやろ。結婚してからゆっくり愛を深める夫婦だっておる。アンジェのそれは杞憂や。むしろ利益関係のみで夫婦しとる奴らもおるやろ。それじゃ駄目なん?」

 食い下がるファイサルにアンジェが戸惑っていると、その背中を支えるように大きな手がアンジェの肩に置かれた。

「さすがファイサル殿下。とても的を射たことを仰る……が、それは今言うべきことか?」

 低い声と共に鋭い眼光がファイサルを射抜く。
 慣れ親しんだその声に、アンジェは知らず内に強ばっていた肩の力を抜いた。

「団長……」
「ユルバンと呼べと言っているだろう。アンジェ、こちらの状況はどうだ」
「ファイサル様の護衛を強化と逃走した男の捕縛指示を出しました。伯爵だったようなので自宅等差し押さえの許可をエドガー様に頂こうかと思います。そちらは」
「かなり距離があってな、逃がした。凡その方角は分かるし、お前が寄越した奴らに痕跡を探すよう指示してきた。かなりの手練れだな、あれは」

 事務的に言葉を交わしながら、ユルバンはアンジェの背を押す。アンジェはファイサルに一礼だけすると、ユルバンに連れられてその場を後にした。
 ファイサルがじっと背中に注がれるのが分かったけれど、アンジェは振り返らなかった。
 二人で今回の警備責任者であるエドガーを探しに会場へと戻る途中、ユルバンが突然、アンジェの髪を大きくかき混ぜる。

「ちょっ、何するんです!?」
「いや……なんとなく、だな」
「何となくで髪をぐしゃぐしゃにしないでください」
「……ファイサル殿下との話だが」

 髪をぐしゃぐしゃにしたことに抗議の声を上げれば、ユルバンがひどく真面目な声音で切り出した。
 蒸し返された話題にアンジェの肩が僅かに強ばるけれど、ユルバンはお構いなしに髪をかき混ぜ続けた。

「あまり深く考えるな。平民のお前は貴族のように後継者作りの義務はないし、しばらくは騎士団規則が守ってくれる。だが、そうだな……お前は女性の希望であり、試金石であることをもっと自覚しろ」
「はい……?」
「お前がこれからの女騎士の基準になるんだ。たぶん、ヒューゴー様は今のままじゃ許してくれないぞ。あの人は俺たちが目指すべき所のさらに先を見ているはずだからな」

 ユルバンの言いたいことが分からなくてアンジェが困惑していると、ユルバンは満足いくまでアンジェの髪をかき混ぜて手を離す。
 アンジェは乱れた髪のまま、ユルバンにそれはいったい何かと聞き返したけれど、ユルバンはそれに答えることはなかった。
 アンジェもユルバンから答えが得られないと知れば、それ以上は聞き返さない。
 この時はそれで良かった。いずれ、ヒューゴーから聞くこともできるとたかを括っていた。

 それが。
 ネフシヴ第三王子暗殺未遂より三日後、事態が急転する。

 ───アンドレア・ジルベールに対し、第四騎士団長任命の取り消しと、ネフシヴ第三王子への輿入れの打診がスハール王より下されたのだった。

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