アズアメ創作BL短編集

アズアメ

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(58)悪魔とピアノ

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倉敷 律(くらしき りつ)
黒色不愛想。何故か蓮の思い出の曲を弾いている。その正体は……。
名前の由来は、クラシック。調律。

調 蓮(みつぎ れん)
金色お坊ちゃん。高校時代の許婚との日々が忘れられない。
名前の由来は、調律。連弾。

日野 朱里(ひの あかり)
蓮の許嫁。お嬢様。
名前の由来は、ピアノ。

津島 海(つしま かい)
蓮の専属執事。しかし、本当は……。
名前の由来は、召使い。

世界に突然悪魔たちが現れ、人類を脅かした。数年後、世界が再び平穏を取り戻しつつある中、青年は行方不明の許婚の思い出の場所へ足を運ぶ。しかし、そこにいたのは真っ黒な青年で……。

未練坊ちゃん×被害者悪魔。いけ好かない奴が実は想い人だった~みたいな展開と、受けがひたすら攻めに関わったことを後悔する健気~が好きです!
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 ああ、またここに来てしまった。俺はなんて馬鹿なんだろう。
 あの頃の記憶に想いを馳せていたら、無意識に辿り着いていた。
「ここに来たって、もう何もない。ただ辛くなるだけだっていうのに……」
 寂れた校舎を歩きながら、自分の言葉に確信を持つ。改修を済ませたばかりだった校舎内は、明るく綺麗で、いつも活気に満ちていた。それが、今はどうだろうか。壁のあちこちがひび割れ、床には虫たちの死骸が散らばり。じんめりとした薄暗い空間は、人の恐怖心をやたらに煽る。それでも。
 音楽室。その扉を開ければ、違う景色が見えるのではないかと思った。あの日のままの、明るい光に照らされたピアノ。その美しくも優しい旋律。そして、それを弾く少女の天使のような微笑みが……。
「聞こ、える……」
 ふいに懐かしい音色が耳に届く。それは間違いなく音楽室から聞こえていた。
 待てよ。待ってくれよ。この曲、だって、まさか……!
「朱里ッ?!」
 音楽室まで駆け上がり、急いで扉を開け放つ。それと同時に、ピタリと音が止む。
 肩で息をしながら、顔を上げたその先にいたのは――。
「えーっと、アンタ、誰……?」
「それは、こっちの台詞」
 見知らぬ青年だった。ため息をつきながらピアノを閉じ、こちらを射るように見つめるその青年は、どこをどう見ても俺が探していた想い人ではない。
「ここは立ち入り禁止になったはずだけど?」
「うん、知ってるけどさ……。アンタ、ここの生徒だった人?」
「……まぁ」
 不愛想なまま答えた彼は、俺と同じく、ここが高校だった頃の制服を着ていた。
「ここはもう廃校になったのに、なんでまだその制服着てんの?」
「……君はどうなんだ」
 俯いたままの彼が、ぽつりと言葉を漏らす。まぁ、こんなところにいるんだ。お互い警戒されて当たり前、か。
「俺は、何ていうか。どうしても、思い出に浸りたくなっちゃってさ」
「じゃあ、僕もそれで」
 全く心を開こうとしない彼は、やはり小声でそう告げる。こうなれば、存在自体疑いたくなってくる。
「まさか、幽霊とかじゃないよな?」
「さてね」
 肩を竦めてみせる彼。真っ白いうなじに掛かる漆黒の髪は、鍵盤を思わせるコントラストで美しい。そしてなにより、短く括られたそれは子犬の尻尾みたく可愛く、ついつい目で追ってしま……。
「何?」
「あ~、いや。今時、黒髪なんて珍しいな~って」
 髪だけじゃない。その冷たい視線を注ぐ瞳も、真っ黒だ。珍しいなんてもんじゃない。
 遠い昔。この地に住む人々は、黒髪黒目が当たり前だったらしい。けれど、様々な要因から人があっという間に減り、人種が意味をなさないほどに血が混ざり合い……。
 ただでさえ黒を地味だと塗り替える国民が多く希少だった黒は、外国の血を受け、ほとんど滅んだ。残っている黒もすっかり薄く、ここまで見事な黒を持つ者はきっと、他を探しても見つからないだろう。
「ああ。黒は、この国で忌み嫌われているようだからな」
 そう言った彼が、自分の頬にかかる髪を摘み、無表情でじっとそれを見つめる。
「や、貶してるんじゃなくて……!」
「まぁ、とにかく。ここは、君みたいな凡人がふらふら歩いていい場所じゃあない。とっとと家に帰れ」
 しっしと手で払われてしまった俺は、むっとせざるを得ない。
「俺は、人を探しててだな……!」
「見ての通り、ここには僕しかいない。わかったら立ち去れ」
「……んだよ、こっちが下手に出てんのに」
「ふん。本性が出たな。お坊ちゃん」
「あ?」
「調 蓮。金髪に金の瞳。選ばれしその色は調グループの御曹司しかありえないだろう?」
「なんだ。わかってんじゃん」
 馬鹿にしたような口ぶりで挑発する彼に、乗っかる形で不敵な笑みを寄越す。
 聞いての通り、俺の家系は代々続く財閥、調グループの跡取り息子だ。わかっていて無下に扱うなんて、彼は相当な馬鹿らしい。
「そりゃ、調ほどの大財閥。この世界で知らない方が珍しい。でも。その栄光も最早過去のものだ……!」
「な……」
 いきなり立ち上がった彼が、腰から刀らしきものを抜き、こちら目掛けて振りかぶる。
 コイツ、やっぱり危険人物……ッ!
 ざしゅ!
『ぎぃぃああああ』
「え……?」
 咄嗟に目を瞑った瞬間、すぐ後ろから断末魔のような悲鳴が上がる。
「少しは気をつけなよ、お坊ちゃん」
 慌てて目を開けると、刀を一振りして血を落とす彼と目が合った。
 待て、その血、緑……。ってことは……。
 恐る恐る自分の後ろに目を向けると、思った通り、真っ二つに割かれた化け物が、緑の液体を流しながら足元に横たわっていた。
 気づかなかった……。化け物がこんなに近くまで迫っていたことに。
「お守りもいないんじゃ、君はただの一般人だ。わかっただろ?」
 確かにそうだ。俺は今、彼に守られていなかったら恐らく……。

 世界は、突如現れた悪魔によって変わり果てた。
 もともと減少傾向にあった人類だが、それに拍車をかけるように悪魔たちは生きた人間を貪り始めた。
 勿論、人間側も対抗手段を研究し、悪魔の殲滅に力を注いだ。
 結果的に言うと、人類は概ね勝利した。が、その被害は未だ治まっていない。大型の悪魔は粗方片付いたが、小物は未だ片付けきれていなのが現状。悪魔の襲来から三年の時が流れた今でも、悪魔の潜む危険個所が点在していて。何を隠そうこの学校跡地も立ち入り禁止区域のひとつ。いつ悪魔が襲ってきてもおかしくない場所だ。
 それでも俺が付き人たちを振り切ってここへ来たのは、どうしても思い出に浸りたかったからだ。
 目を閉じる。瞼の裏にはいつだって、彼女の微笑む顔。ピアノの旋律。カーテンを揺らす風。その一つ一つが美しく、全てが俺の心を奪って……。
「おい! 聞いているのか?」
「あ……」
 目の前の青年に腕を引かれ、一気に現実に戻される。
 明るい光のような情景は、一気に寂れた薄気味悪い空間に変わり、美しい彼女は、冷たい青年に変わる。
「ここは、君の望むような場所じゃない。君の思い出の世界はなくなったんだ。この場所は、悪魔に穢された地獄なんだ……」
 まるで憎しみを押し込めたように低く呟かれたそれは、呪いのようだった。
「どうしてアンタがそんな顔するんだ……?」
「え……?」
 一瞬目を丸くする彼に、何故か心臓が高鳴った。
 これは、一体……。

「坊ちゃま!」
「うわ、海。何でここに!?」
 心に生じた違和感の正体を確かめるように、彼に手を伸ばした瞬間、それを遮るようにして男が間に入り込む。津島 海。俺の専属執事だ。
「何故って、坊っちゃまがここにいると思ってですね……。それより、この方は?」
 警戒心を露わにして、海がピアノの青年を睨みつける。が、青年はそれを軽く流すと肩を竦める。
「執事サン。お坊ちゃんから目を離してはいけないよ。弱いんだから。あっという間に食べられてしまう。ああ、そうだ。君の探してるお嬢さんも、きっと食べられたんだ。そうに違いない。探すだけ無駄だ」
「……」
「坊ちゃま。気にすることはございません。ヤツの言っていることは出鱈目です」
「さてね。とにかくここには誰もいない。無駄足だったな、お坊ちゃん」
「貴様!」
「いい。海、帰ろう」
 無礼な青年に今にも殴り掛かりそうな海を手で制する。
「ですが坊ちゃま……」
「こいつは多分、関わっちゃいけない奴だ」
「へえ。さすが大財閥の御曹司。観察眼は確かだ」
「お前は一体何だ?」
「ふふ。本当は検討がついてるんじゃない?」
 ぞわり。
 青年の微笑みに身の毛がよだつ。体が竦む。そう、まるで悪魔と出会ってしまったときのような恐怖が生きた心地をまるきり奪う。
「君は過去に囚われている。でも、君は前に進まなければいけないよ」
「坊っちゃま!」
 今度はあっちから伸ばされた手。その死人のような白い手から俺を庇うようにして、海が前に立つ。
「わかってる。もう帰るよ。さよならだ」
 ぱちん。
 伸ばされた指が弾かれたと同時に、目の前にいたはずの彼が消える。
「な……」
 それと同時に、海の体が傾き、倒れる。
「海!」
「う、ううん。坊っちゃま……?」
「大丈夫か?!」
「あれ。私は一体……。って、ここは……?」
「え?」
「すみません。何だか、記憶が曖昧でして……」
 困り果てた顔で辺りを見渡す海。その奇妙な反応に、思わず自分の頬を抓る。
「痛い」
 どうやら夢ではないらしい。青年の座っていた椅子に手を滑らせると、まだかすかに温もりが残っていた。


 やっぱり、アイツは人間じゃないのだろう。
 あれから海に聞いてみたが、あそこで起こったことは何も覚えていないようだった。
 指を弾き、海の記憶と自分の姿を消した力。それに、刀を振るい、悪魔を真っ二つにした力。あれは恐らく、人間の技ではない。
 目を閉じる度に、あの憎しみに満ちた黒い瞳が蘇って心を乱す。
 どうして俺が記憶を失わずに済んだかはわからない。でも、あれはきっと忘れた方が良いのだろう。あれはきっと悪魔だ。人の皮を被ってはいたが、人類の敵に違いない。だから、願うことならば二度と関わり合いになりたくないのだが――。

 どうしても、思い出を辿ることをやめられなかった。むしろ、あの曲を聞いてからずっと、もう一度あの場所に行きたくて仕方がなかった。
「あ……」
 校舎に足を踏み入れると、やはりあのピアノの音が聞こえた。焦る気持ちを抑えながら、そっと音楽室に忍び寄る。
 この前はすぐに扉を開けたから、碌に演奏を聴けなかった。もっと聴きたかった。あの音を。たとえ悪魔が演奏していようと、その音に想いを馳せていたかった。
 ああ。これだ。この曲だ。このピアノの調べだ。
 目を閉じて音に身を委ねる。記憶の中で彼女が笑う。花のように。
 ああ、そうだ。これをあの悪魔が弾けるわけないじゃないか。
 あの呪われたような瞳。思い出すだけで身の毛がよだつ。あれにこの明るく美しい曲は似合わない。そう。これが似合うのはあの子だけだ。可憐な銀髪を靡かせながら微笑む、ピアノの妖精なのではないかと疑うほどに可愛らしい……。
 音楽室を覗き込み、ピアノを弾き続ける彼を見る。
 あ~。やっぱり、アイツだよな……。
 そこにいたのはやはり可憐な少女……ではなく、この前の危険な悪魔。音が未だに止まないところをみると、こちらに気づいていないらしい。
 ああ……。でも……。
「朱里……」
 自分の口からこぼれ出た言葉を、急いで飲み込む。
 今、俺は、あれと朱里を重ねていなかったか……? 人間の姿をしているが、あれは悪魔だというのに……。
 ふいに風が吹き、悪魔の髪を揺らす。合間から見えた瞳は、慈しむように細められていた。でも、鍵盤に注がれたその視線は曲が終盤に向かうにつれ、胸が痛くなるほど悲しい色を湛えて――。
 バンッ!
 突然、乱暴に鍵盤が叩かれる。
「くそ!」
 掠れた声でそう叫ぶと、彼はピアノに顔を伏せる。その肩は小さく震えていて……。
 びっくりした……。って、もしかしてアイツ、泣いてるのか……?
 非道な悪魔が泣くなんて、あり得るのか? そんな話は聞いたことがない。もしかして、彼はやはり悪魔ではないのか……?
 考えても、視線の先の彼は顔を上げる気配がない。その気まずい雰囲気に耐え兼ね、踵を返そうとした途端。
 がらっ。
「しまっ……」
 足元の瓦礫が、激しい音を立てて崩れる。
「誰だ?!」
「ええと、その……。ピアノの音が、聞こえて、つい……」
 鋭い瞳で睨まれてしまっては、逃げようがない。
「君はまた……。いや、そうか。みっともない所を見られてしまったね」
 観念して姿を現した俺に、一瞬戸惑った様子を見せた悪魔だったが、すぐに取り繕って笑顔を見せる。
「えっと……」
「君は、僕と会うのは初めてだよね?」
 彼の問いの意図を汲み、無言で頷く。ここで催眠が効いていなかったことを知られれば、彼に何をされるかわかったもんじゃない。
「そうか。ならいいんだ」
 嘘に気づかずそう呟いた悪魔は、安心したように息を吐く。その人間らしい仕草は、やはり悪魔に似つかわしくない。
「アンタは一体……」
「あぁ。ええと、僕は……。僕は、倉敷 律。こんなところで会ったから怪しまれるかもだけど……」
「いや、それを言うなら俺も怪しくなる」
「はは。確かに」
 こいつの正体は間違いなく悪魔のはずだ。あの霧のように消えた体。人間ができる芸当ではない。だけど。目の前で人間のように喋る男は、どこか甘さがある。恐らく、核心に触れず、このまま記憶を失ったふりをして適当に話を合わせていれば逃がしてくれるのだろう。でも……。
「それで、アンタは何でこんなとこにいるんだ?」
「ああ、やっぱりそうくるよね……」
 俺はそうしなかった。これ以上関わらない方がいいと頭ではわかっていても、知りたかった。悪魔の目的を。泣いていた理由を。例え嘘が返ってこようと、聞かざるして帰れなかった。それほどまでにさっきの彼の様子は、俺の心につっかえていた。濡れた鍵盤を見つめていると、不思議なほどに心が締め付けられた。
「アンタは、あそこで泣いていたのか?」
「はは。君にはデリカシーがないね」
 てっきり否定すると思っていたが、彼はそんな元気もないという風にしなりと笑う。
「男相手にデリカシーなんかいらないだろ」
「はは。全くだ。君が正しいよ」
「それで? どうしてあの曲を弾きながらアンタは泣いていたんだ?」
 渾身の鋭い視線を突き刺してやると、彼はやはり力なく笑う。
 その表情を見つめている間に、彼の手が目の前に伸びる。
「それは、何をするつもりだ?」
「おまじない、ですよ。貴方が幸せに生きれるように、ね」
「そんなことは自分の手でどうにかする」
「貴方は、本当に真っ直ぐですね」
 まるで眩しいものでも見るように目を細める彼に、心が跳ねる。
 その口調、その言葉、その表情。その全てが――。
「忘れてください。貴方には必要のないことだ」
 ぱちん、と目の前で指が鳴らされる。そして、俺はあっさりと地面に倒れた。


 日野 朱里は、親に決められた結婚相手だった。
 自分に許嫁がいることは幼い頃より聞かされてきたが、実際に会ったのは年頃になってからだった。
 彼女と過ごした期間は高校に進学してからの短いものだった。親が二人を同じ高校に、と気を利かせたらしい。俺としては、迷惑極まりないことだった。ただただ面倒で。学科の違う彼女とはなるべく会わないようにしていた。
 しかし。偶然音楽室を通りかかったとき、美しい音色に惹かれた。不思議と心に馴染む、優しい響き。そんな音色を紡いでいるのは誰なのか、無性に知りたくなった。
 そして。思い切って覗いてみた先にいたのが朱里だった。彼女はまるで天使だった。陽の光を反射する銀色の髪は、今まで見たどの宗教画より神々しかった。突然現れた俺に驚いた表情をみせ、すぐ恥じるように頬を染めた奥ゆかしさは男心を貫いた。
 俺はそのとき、初めて運命というやつを信じたくなった。そして、何故今まで彼女に会おうとしなかったのかと激しく後悔した。

 それからしばらく。猛アタックの末、俺は彼女と打ち解けることに成功した。彼女に教わりながら二人でピアノを弾くのが放課後の日課となり、毎日がかけがえのないものとなっていった。
 彼女はどんなにくだらない話にも微笑んでくれた。俺は、それが嬉しくて。まるで今までの時を取り戻すかのように、過去の思い出をたくさん話して聞かせた。彼女は、あまり自分のことを話そうとしなかったけど、無理に聞くことはないだろうと思っていた。だって、その時の俺は、とにかく彼女に笑って欲しかったから。今思えば、ガキだったのだと思う。そのせいで、彼女のことはあまり知らずじまいだ。でも、だって。あんなことが待っていようだなんて、誰が想像できただろうか。

 そして世界は闇に包まれた。突然、悪魔が蔓延り、人間を次々に襲った。
 皆、逃げるのに必死だった。俺は彼女を探した。金とコネを使って探し回った。でも、全部が無駄だった。

 悪魔騒動は、数年を経て収束を迎えた。彼女の行方はわからぬままに。人々は人類の勝利を喜んだ。俺は、納得できるわけがなかった。喜べるはずがなかった。彼女の死を受け入れることができなかった。だから、彷徨った。彼女を探して。そして見つけたのが……。
「倉敷 律、か……」
 何故あの悪魔は、あの曲をあの場所で弾いていたのか。彼女に関係がないようには思えなかった。それに、彼のあの雰囲気はまるで……。
「そんなことがあるはずない」
 体を起こしながら呟く。俺が倒れたフリをした後、彼は再び霧になって消えた。
 本当に、一体何者だろうか。
 再び提示される疑問に急いで頭を振るう。
 悪魔の一言で片付けてしまえば良い。あれは違う。あれは悪魔で……。
 恐ろしい結論に至りそうになる度に、蓋をする。
「そうだよ。そんなの、どうして……」



 静まり返った音楽室。もう何度も訪れたその場所で、一人目を閉じ、鍵盤を撫でる。
 僕の居場所なんかどこにもない。そんなことはわかっていたはずなのに。仮初の微睡が忘れられない。それが僕の居場所でないことは、わかりきっている。僕の存在価値はもうすでに薄れていることだってわかっている。ただ、生かされているだけ。そんなの、嫌というほど知っているのに。彼と過ごした思い出に縋りたくて……。
「随分と女々しいことをするじゃないか」
 鍵盤の前で思考に耽っていると、それは現れた。
「……何の用だ、海」
 声の主を睨み見る。すると、爽やかな顔立ちを引き立てる青い髪と青い瞳が、それに応えるようにして僕を鋭く睨みつける。
「ご挨拶だね、ドブガラス!」
「ぐ……」
 勢いよく引っ張られたネクタイが首を絞めつける。
「あれで私の記憶を消したつもりかな?」
「どういう、意味だ……」
「さすがはカラス、なんとも浅はか。言っておくがね、お前の魔法は、私どころか彼にも全く効いてないようだよ」
「そんな、まさか……!」
 彼の冷たい言葉に血の気が引く。まさか。催眠が失敗していた? どうして……。
「気づいてなかった? お前にもう魔力はない。供給が途絶えているんだよ。お嬢様がお前にこれ以上力を与える意味がないと判断したからね」
「っ……」
「お前は用済みなんだよ。というか、地下に封印されていたはずのお前が、どうして勝手に動いてるんだよ」
「僕は……」
 ああ。そうか。僕は封印されていたのか。あの薄暗い部屋で目覚めたとき、確かにもう起き上がれそうもなかった。でも、彼のことを思い出した途端……。
「お前はお嬢様の計画の邪魔だ。わかってるのか? 自分の立場を! 調にバレたらどうする! くそ! 本当はあの場ですぐにお前を殺してやりたかったよ! でも、お前を殺すにはお嬢様の許可がいるから!」
「相変わらず、お嬢様の犬なんだな」
「黙れ!!」
「っぐ」
 海の両手が僕の首を力いっぱい絞める。
「失敗作は失敗作らしくさあ、さっさと消えれば良いものをッ! 一丁前に感傷に浸っちゃってさァ! でもそれもお終いだ。お嬢様が許可をくれなくたって、今、すぐに、殺してやる……! なぁ、お前、目障りなんだよドブガラス! お前を殺すことがさァ、絶対お嬢様のためになるんだよ!!」
「ッ……!」
 頭を鍵盤に叩きつけられる。その度に辺りに不協和音が鳴り響く。
「なんでお前みたいなのが、お嬢様のお気に入りなんだよ! 許さない! お前は死ね……!!」
 呪詛と共に、ピアノの音ががなり立てる。でも、やはり……。
「なんで、なんで死なないんだよ……!」
 死ねない。そう、これだけ酷い仕打ちを受けても、意識ははっきりしているのだ。
「……海、わかってるだろ? 僕は壊れない。これ以上やっても無駄だ」
「ふざけやがって! 魔力もないくせに! どうして……!」
 鍵盤を見ると、見事に赤く染まっていた。ああ、これ以上この場を穢すことはしたくない。
「海、お嬢様の作品同士が争うことは禁じられているはず。お嬢様の許可なくやっていいことじゃない」
「ぐ……。まぁいい。お嬢様の望みももうすぐで叶う。だから、お前はさっさと失せろ。これ以上私たちの邪魔をするなドブガラス!」
 悔しそうに捨て台詞を吐いた海が去ると、辺りは再び静寂に包まれた。

「やはり僕は駄目だな……」
 全てを敵に回してしまう。憎むべきドブガラス。失敗作の分際で、未だに死ぬこともできないだなんて。何が倉敷 律だ。適当に決めた名前に自分の未練を感じて臍を噛む。ああ、人間になりたかった。黒く反射するピアノの足に映る自分と目が合う。
「情けない」
 額に手をやる。頭が痛い。ぐらぐらと。手を離すと、案の定手のひらは真っ赤に染まっていた。地面にはおびただしいほどの赤。普通だったらとっくに死んでいる出血量だ。
「いっそ死ねたら、どんなに楽だろうか」
 いっそ死ねたら。その呪文を何回唱えただろうか。自分がそう簡単には死ねない化け物だということくらい、わかっている。お嬢様が僕を殺せない理由だってわかっている。だけど。いや、だからこそ。自らの手で死ねたのなら、どんなに良かっただろうか。
「は……」
 残り少ない魔力を使って、辺りに付着した血を消し去る。まるで新品のように綺麗になった鍵盤を見て、ため息を吐く。
 見た目をどれだけ取り繕おうと、それを血で穢してしまった事実は変わらない。
 自分の手のひらを見つめる。ああ、こんな汚い手で触るべきではなかった。
 目を瞑ると、あの美しい日々が思い起こされる。
「蓮様……」
 心に吹き抜ける暖かい風。そして胸が締め付けられるような痛み。ああ。囚われている。こんなことをしている場合じゃあない。こんなことに意味などないのに。あの自分に向けられた笑顔がどうしても忘れられない。いや、あれは自分に向けられたものではない。そんなこと、わかっているのに――。
「朱里?」
「!」
 投げかけられた声に硬直する。やめてくれ。こんなタイミングで、現れるなんて、そんな……。
 その聞きなれた声に振り返れないでいると、彼の足音がすぐ側まで近づき、止まる。
「やっぱりアンタか」
「……ッ」
 覗き込まれた瞬間に、思わず顔を逸らす。怖い。彼に知られてしまうことが。
「なぁ、アンタはさ……」
「言うな!」
 肩に触れた彼の手を払い、叫ぶ。その先の言葉を想像して青ざめる。やめてくれ。まだ、まだ――!
「アンタが朱里なんだろ」
「……!」
 逃げ出そうとする僕の手を、彼はさっと掴むと押し戻し、真剣な目で僕を見つめる。
 落ち着け。ここで焦っては駄目だ。冷静に、騙してやれば……。
「……は。何を言うかと思えば。君の愛しいお嬢さんが僕に見えますか?」
「見えるから言ってんだろ」
 躊躇うこともなく吐かれた台詞に、甘い考えは打ち砕かれる。きっと、彼はもう気づいている。でも、それを認めてしまえば、逃げ場がなくなってしまいそうで……。
「貴方は錯覚を起こしているだけだ。大切な場所、そして音色に騙されたに過ぎない」
「……それじゃあさ、なんでアンタは最初から俺が「お嬢さん」を探してるってわかったんだ?」
「それは、貴方……いや。君が、その、恋をしているようだったから女の子だと思っただけで……」
「ここが思い出の場所だって知ってたのは?」
「それも、君の顔を見れば誰だってわかる」
「じゃあ、どうしてあの曲を知ってんだ」
「え?」
「悪魔のアンタが、なんでこれを弾ける」
「それは……。何処かで聞いたのを覚えていて偶々」
「違う」
「え?」
「あの曲は特別なんだよ」
「は?」
 真剣な顔で言う彼に、思わず聞き返す。あの曲が特別? まさか。誰でも知っている有名な曲じゃないか。
「弾いてみたらわかるよ。ね、一回でいい。もう一度だけ、アンタの演奏を聞かせてくれないか?」
「でも……」
 自分の手を撫でる。べったりとついていた血は、魔法で片付けた。頭の怪我も、既に治りかかっていて、見ただけじゃわからないだろう。でも、この手が汚いことには変わりない。彼を騙し、人間を殺した僕が、綺麗なわけがない。だから、もう僕は……。
「大丈夫だから、ね?」
 そっと重なった彼の手が、僕の手を鍵盤へと導く。
 これで最後にしよう……。あの曲を弾いたからといって、何かわかるはずもない。きっと彼も、感傷に浸りたいだけなんだ。だったら、あと一回ぐらい……。

 なんの変哲も無い旋律。僕はその一音一音を噛みしめながら弾いていった。
「……やっぱりね」
 演奏を終えて、鍵盤から手を離した瞬間、彼がそう呟いた。
「わかっただろ? 君の思い出の曲は僕でも知ってるものなんだよ」
 自分で言っていて悲しくなる。所詮、彼との思い出は紛い物。曲が陳腐なのも相まって、特別という言葉が程遠く思える。
「いいや、違う。律、アンタはね、間違ってるんだよ。その曲を」
「へ?」
 おもむろに手渡された楽譜を覗き込んで、彼の指摘を理解する。
 確かに間違えていた。ほんの少しだけど、音符がズレている箇所があった。
 しかし、高性能に作られた僕が音を間違えるはずない。だが、この楽譜が偽物であるようにも思えない。一体どうして……。
「それ、俺も最近まで間違いに気づかなかったんだよ。その曲さ、俺の死んだ母親がよく歌っててさ。俺も自然と覚えてさ。小さい頃はよく口ずさんでたんだ」
 あ、れ……? あの曲を僕は、どこで覚えたんだったか……。確か、譜面ではなく……。誰かが口ずさんでいたのを覚えて……。
「まさか……」
「そう。俺の母親、勝手にアレンジして歌ってたんだよ、その曲。だからさ、アンタが知ってるわけないんだよね」
 彼の言葉に、昔の記憶が嫌でも蘇る。違う。思い出すな。僕はもう……。
「それは……。ええと、そう。僕もよくここに来てたから……。だから、彼女の演奏を聞いて覚えちゃって……」
「ああ。なるほど。それなら筋も通る。アンタもここに思い出があるって言ってたもんね」
「……とにかく、僕は日野 朱里じゃない」
「うん。そうなんだろうね」
 ようやく疑いが晴れたことに安堵する。でも、なんだ……? 彼の含みのある笑みが、どうにも引っかかって……。いや、とにかく今はここから逃げよう。海がまた来てしまえばきっと面倒事になる。
「そういうことだから、僕は失礼するよ。君は存分に思い出に浸ってくれ」
 そう言って立ち上がった僕の手を、彼ははしと掴んで引き止める。
「は……?」
「待て。アンタの思い出って何なんだ?」
「……下らないものだよ。ただの偽りの青春。人に話すようなものなんて」
「それじゃあ、どうしてアンタはここに来てる? どうしてあの曲を弾いて、泣いてた?」
「それは……。ほら。あ~、実は僕も朱里さんに恋をしてて……。ね、君には言いにくい内容だったからさ、はは……」
 自分で言ってて寒気のするシナリオだったが、辻褄を合わせるにはこれしかなかった。しかし、微塵も信じていない様子の彼は、追及の手を緩めない。
「でも、アンタは人間じゃないんだろ?」
「……悪魔だって人間に恋することだってあるさ」
 今更、変に取り繕ってもどうせバレていることだ。催眠が効いていない時点で、僕の正体をうやむやにすることはできない。半ばやけくそで吐いた台詞だったが、嘘にならないのがなんとも寒い。
「そっか。悪魔でも人間に恋するのか」
「ぐ……」
 わざわざ反芻する彼に、思わず喉が詰まって変な音を立てる。いい加減、逃がしてほしかった。僕が愚かだったのはよくわかった。僕のような化け物が、人間に恋するなんて。前提から間違っていることぐらいわかってた。今、この瞬間にも、いっそ笑い飛ばしてほしいほどの羞恥が僕を苛み続ける。
「安心してほしい。僕はもう二度とあの曲を弾かないから。ここにも来ないから。だから、あれは君と彼女だけの思い出の曲になるから、だから……」
「あのさ。でも、そもそも、朱里が知ってるわけないんだよね。あの曲」
「ん……?」
 知ってるわけない……?
「だって俺、朱里は勿論、人前であの曲を歌ったことなんて一度もないし」
「え……」
 その言葉を聞いた瞬間、全身の血の気が引く。あれ……。それじゃあ、僕は、どこで聞いたんだっけ……。違う……。思い出しちゃ……。
「いや、でも……。お母様が、人前で歌ってたのかも知れないし……」
「それはない。だって母さんは俺が眠るときしか歌わないって言ってた。母さんは淑女だった。人前で気軽に歌ったりはしない。だから、誰も知らないんだ」
 ああ、そうだ……。親子だ……。お城のような豪邸で、幸せそうに暮らす母と子が、夜になると歌ってたんだ……。僕は、それをこっそり窓の外から聞くのが好きで……。
「なぁ、アンタはあのカラスじゃないか?」
「っぐ……」
 真実を見抜く彼の視線に、喉を押さえて目を逸らす。心臓は早鐘を打ち、額には汗が玉のように浮かぶ。
「懐いてたカラスがいたんだ。いつも母さんと一緒に餌をやってた。母さんが死んでから、孤独な俺を慰めてくれたのは、あのカラスだったんだ。心細かった夜、俺は必ずあのカラスに向かってあの曲を歌った。だから、母さんと俺以外であの曲を知っている奴がいるとするなら、あのカラスしかあり得ないんだ」
「……まさか。それじゃあ貴方はカラスが人間の女の子に化けていた、とでも?」
「正解なんだろう? クラシカ」
「ッ……!」
 反射的に応えてしまいそうになる喉を締め付ける。『クラシカ』はあの頃彼が僕につけていた名前。クラシック音楽をよく一緒に聞いていたからという単純な理由でつけられた、なんとも間抜けなニックネームだ。でも、僕はそれが満更でもなくて……。
「クラシカ、もう偽るのはやめよう。僕はアンタが好きだ」
 喉を押さえつけていた手が攫われて、体ごと引き寄せられる。そして、静かに顔が近づいて……。
「っぐ、待って! 待ってください……っ、蓮様っ!」
「その呼び方。やっぱりアンタが朱里じゃん」
「違います! 僕は、僕はただの身代わりで、本物のお嬢様ではなく……!」
「わかってるよ」
 咄嗟に出てしまった思い出の名残。それに気づいて青ざめながら叫ぶ僕の頬を、彼が優しく撫で上げる。
「それに、僕は人間じゃなく、ただの化け物で、失敗作で……」
「だから?」
「え?」
 顔を上げた瞬間、頬に口づけが落とされる。
「俺が朱里に惚れたのは、アンタだったからなんだ。アンタが何者だろうと、俺はアンタを愛してる」
「そんな……」
 頭の中がグラグラと煮え、目頭が熱くなる。その言葉は、まさに僕が夢見ていたものだった。彼からそんな風に思われたのなら、僕はきっと死んでもいいと思って……。
「ね、頼むから話してよ。どうせ粗方の検討はついてる。でも、アンタの口からアンタの辿ってきた真実を聞きたい」
「でも……」
「お願い。少しでも悪いと思っているのなら、正直に話して?」
 そう言われて話さない訳にはいかなかった。彼には知る権利がある。僕は、もっと早く話すべきだった。
「ぐ……。蓮様。どうか、今になって真実を告げることをお許しください」


 森を切り崩して作られた大豪邸。そこには幸せそうな家族が住んでいた。森に棲んでいたカラスである僕は、住処を荒らされ、その人間たちを憎んでいた。
 でも、豪邸の庭で暮らすのも悪くはないとすぐにわかった。残飯は漁り放題だし、人間たちは毎日何かしらの音楽を嗜んでいて、飢えることも飽きることもなかったからだ。
 ある雨の日。部屋の中から聞こえる音楽がどうしても聴きたくなった僕は、そっと窓辺に降り立った。晴れの日ならば窓は開けっぱなしで音がよく聞こえてくるのだが、今日みたいな雨の日は窓が閉まっていて、雨音の煩さもあり、音が聞こえ辛くて……。
「お前、もしかして音楽を聴いているのか?」
「ぐぁ!?」
「あ、ごめん! そんなに驚くとは思ってなくて! 待って、逃げないで! 俺のおやつ、あげるから!」
「ぐ……」
 男の子に見つかってしまった僕は、勿論捕まる前に飛び立とうとしたのだが、潤み始めた幼い瞳を見ていると、どうにも逃げる気が失せてしまった。
 それからというもの、だんだんと餌付けされていった僕は、すっかりその家の親子と仲良くなって。これは、チョロい人間を利用して楽に生きているだけだ。そう自分に言い聞かせて、僕は微睡の日々を過ごした。
「カラスくんは、本当にクラシックが好きねぇ」
「クラシック?」
「音楽の種類よ。いつもママが聴いてる曲よ」
「そうなんだ。じゃあ、君の名前は今日からクラシカね!」
「ぐあ……?」
「あら、素敵な名前ね」
 笑い合う親子に、僕は首を傾げた。僕みたいなただのカラスに名前を付けて喜ぶなんて、相当変わってる。だけど、彼らにその名前を呼ばれるのは何だかくすぐったくて、心地良かった。このままずっと、この親子と過ごせたらいいなぁ、なんてぼんやりと思ってしまうほど、僕はこの幸せが気に入っていた。
 でも。その願いはすぐに駄目になった。
「ママ……」
「ぐあ……」
 男の子の母親がある日死んでしまった。前々から重い病気を抱えていたらしい。だから彼らは療養のために、わざわざこんな山奥に越して来たのだった。果たして、効果はあったのだろうか。森を削ってまで建てた家に、あの美しい笑顔は戻らないのだと思うと、カラスの僕でも泣きたくなった。
「男の子なんだから、いつまでもめそめそしないでよね! アナタはワタシの許婚なんだから、ちゃんとしてもらわなきゃ!」
 母親の葬式を終え、部屋に戻った男の子の隣で、同い年ぐらいの女の子が怒鳴りたてる。
「うう……。そんなの、知らないよ……。俺は君みたいな子を好きになんてならないもん!」
「な……。じゃあアナタ、どんな子だったらいいっていうのよ!」
「ん……」
「なに? 窓の外……?」
 彼の指さした先を、少女が目で追う。僕もつられて後ろを見るが、そこには空と木があるだけだ。
「きゃっ。カラス……!」
「ぐあ」
 少女が僕を見つけた途端、叫び声を上げる。ああ、忘れていたけど、これが正しい反応だ。カラスなんて……。
「カラスなんて不吉だわ! 真っ黒で、ワタシ大嫌い! それにコイツら、ゴミを漁るのよ! 汚いの! 声だって聞いてるだけで嫌になるわ!」
 そう。カラスなんて人間に嫌われて当たり前だ。
「違う! クラシカは良い子だよ! 綺麗で賢くて、俺は君なんかよりもずっと、ううん、比べ物にならないくらいクラシカのことが好き!」
「ぐ……」
 きっと人間なら涙を流して泣いていただろう。そう思うほどに彼の言葉が嬉しかった。
「なによ、それ……」
 彼の言葉に嫌な顔をみせた少女は、僕を真っすぐ睨みつけていた。僕は、何だか嫌な予感がした。彼女を彼に近づけてはいけない。そんな気がした。

 そして、彼は間もなくして豪邸を離れることになった。跡取りが増えることがなくなった今、少しでも早く彼を教育したいという父親の元に帰るらしい。
「お願いクラシカ。お前もついてきておくれ。そうしたら、俺はきっと頑張れるから……」
「ぐあ……」
 情けない声で僕に話しかける彼の指を軽く突いてやる。僕なんかを頼りにするな。そう言いたかったけど、出るのは濁った鳴き声だけだった。
 僕だって、彼について行きたかった。誰よりも側で彼のことを励ましていたかった。でも、きっと彼が僕を連れて行くことは不可能だ。荷物は教育係によって厳しくチェックされている。僕のような汚らわしい動物をペットとして連れて行こうものなら、僕は容赦なく殺処分されるだろう。僕が自力で彼の後をつけるにしても、その長すぎる道のりを行くのは、あまり現実的ではない。
 それでも。僕は彼を裏切れなかった。
「ぐ……」
 僕は、彼にもバレない様に、静かに飛んでついて行った。一日目は、なんとか見失うことなく同じ道を辿って行けた。でも二日目はそうもいかなかった。雨が降ったのだ。無理に飛んではみたものの、すぐに羽は重くなり、上手く飛べなくなってしまった。それでも、僕は諦めたくなくて。地面に足をついて、走った。でも、ぬかるんだ土は、思った以上に走り難くて。体力を消耗しきった僕は、ついに動けなくなってしまった。
 ああ。このまま僕は死ぬのだろう。
 雨の降りしきる空を仰ぎながら、そんなことを思った。カラス一匹が死のうと世界は変わらない。未練なんて抱けるほど大した命じゃない。でも、どうしたって、彼のことが気がかりだった。
「カラス。選びなさい。このまま黙って死ぬか、ワタシのシモベとなり、彼の側にいるか」
「ぐ……?」
 朦朧とした意識の中で、まだ幼さのある女の子の声が響く。その時の僕は、女神の声を聞いたのだと思った。哀れな自分を助けてくれる救世主なのだと思った。藁にも縋る思いの僕が、彼女の提案に乗らないはずがなかった。

 結論から言うと、僕は選択を間違った。
 彼女、日野 朱里は、彼、調 蓮の魔力を狙っている悪魔のような人間だった。
「ワタシはね、物心ついた時から、彼の魔力に目をつけていたの。人間のほとんどはその体に何かしらの魔力を宿しているわ。でも、彼らは決して魔法を使うことなく死に絶える。何故かわかる? 魔法の使い方がわからないからよ。勿体ないでしょ? でもね、ワタシならそれがわかる。今は無理だけど、すぐに解読してみせる。ワタシの先祖たちはそのために何百年も費やして来たんだから。ね、それでね。ワタシが魔法を手に入れたら、ワタシは彼の魔力を使って世界を征服するのよ。ふふ、素敵でしょう? この腐りきった世界をリセットしてやるの。悪魔を作り出して、人間たちを食い尽くして貰いましょう! ああ、楽しみよね!」
 狂っていると思った。幼い子どもの空想、ごっこ遊びのような無邪気さで語った理想は、恐ろしい悪夢。でも、彼女にはその悪夢を現実にする力があるのだ。
「アナタはその悪魔第一号になるのよ。嬉しいでしょう? 嬉しいって言いなさい!」
「ぐああ!」
 体に鋭利なナイフが突き刺さる。僕は後悔した。彼女のような狂気に己の夢を託してしまったことを。でも、僕はもう引けなかった。
「大丈夫。アナタの仕事は人間を食らうことだけじゃないわ。もっと大事なことがある。ワタシの身代わりになるの。日野 朱里として、彼をメロメロにしてあげるの。きっとできるわ。アナタはカラスの身でも彼を惹きつけることができたんだもの。だからワタシは、仕方なくアナタを選んだのよ。ね、彼がアナタにキスをするまででいいから、ね。アナタはワタシでいて欲しいのよ」
 どうして彼女はそんなことを要求するのか。僕が首を傾げると、まるで心を読んだかのように彼女が答える。
「彼の魔力を奪い取るにはそれしかないの。愛する者に契りを交わすその動作でしか、魔力の継承は為されない。つまりはそのタイミングでしか無理やりにでも吸い取れないの」
 でもそれだと、僕が彼から魔力を奪ったとしても、彼女は僕から魔力を奪えないはず。
「あら、思ったより脳みそがあるのね。そうよ、アナタがワタシを愛さない限り無理でしょうね。でも、大丈夫」
 彼女は明らかに僕の心を読んでいた。それも魔術なのだろう。
 ゆっくりと口の端を歪めた彼女は、不気味な魔法陣の上に僕を寝かせて何か呪文を唱え出す。
「アナタはワタシの道具になるの。逆らえないように作ってあげるの。だからね、アナタがワタシの操り人形として、魔法で世界を滅ぼすのよ」
「ぐ……!」
 抵抗したが、全ては遅かった。僕の体はみるみるうちに変化して……。
「さあ。これでアナタはワタシになれるはずよ」
「え……?」
 気づいたら、ただのカラスだった僕は、色んなものに変化できるようになっていた。そして、彼女の意向に反することができない体になっていた。
 その後は、日野 朱里の身代わりとして、彼と日々を過ごした。僕は罪悪感から何度も彼に真実を話そうとしたけれど、できなかった。もし真実を告げ、計画の邪魔をしようものならば、この体は元のカラスになり、死に絶える。そう彼女に脅されてしまえば、僕は何も言えなかった。僕は彼の側に居たかったから。躊躇っている内にどんどん彼に惹かれ、真実を告げる勇気はすり減って。狡くて意気地なしの僕は、世界が大変なことになるまで束の間の夢に身を委ねてしまった。
 しかし、結局彼女の計画は失敗した。彼女の作った悪魔たちは、思ったよりも弱かった。それもそのはず、当初の計画ではとっくに手に入れているはずだった調 蓮の魔力がなかったのだから。清い関係であった二人にしびれを切らした彼女は、彼の魔力無しのまま計画を押し切ったのだ。自分の力を過信していた彼女は、敗北の要因を作った僕を弱らせ、封印した。殺さなかったのは恐らく、まだ僕に利用価値があると思ったからだ。僕の後に作られた海は、僕が彼女のお気に入りだからだと勘違いしていたが。でも、僕はこれ以上利用されたくなかった。そして何より、死ぬ前にもう一度だけ彼の思い出に浸りたかった。


 そこからは知っての通り。馬鹿な僕は貴方と鉢合わせてしまって。自分の力が制限されていることも知らずに、貴方の記憶を誤魔化せたと勘違いして。本当に情けない。もっと早くに真実を告げられたら良かったのに……。
「律。お前、姿が……」
「ぐぁ……」
 彼の目に映る僕は、弱り切った真っ黒いカラスだった。
 いいんです。僕はようやく貴方に真実を告げることができた。ああ、どうか。貴方は彼女に利用されませんよう……。
「死なせない」
「……?」
 死に身を任せ、瞼を閉じようとした瞬間。彼は僕の体を掬うと、何の躊躇いもなくくちばしに唇を押し付けた。
「やめ……! 何てことを!」
 魔力が注がれたことにより、ちっぽけなカラスは人間に姿を変える。
「よかった」
「よくない! わかっているんですか?! 貴方の力は今この瞬間、彼女のモノになってしまった!」

「そうね。ようやく役に立ってくれたわね。カラスくん」
「っ。朱里様……」
 目の前の空間がぐにゃりと歪み、ねっとりとした声と共に、銀髪の少女と青色の執事が現れる。
「随分可愛げのない朱里だな」
「何とでも。ワタシがアナタに媚びを売っても、まるで意味がないんだもの」
「媚びを売るのが嫌で全部クラシカに丸投げしてたくせに。よく言う」
「ほんと、罪な男。アナタのせいで計画は散々。でも、アナタとの戯れも今日でお終い。……海!」
「は」
「!」
 彼女の側に控えていた海が、目にも留まらぬ速さで僕の喉元にナイフをつきつける。
「さあ蓮。あれで全部じゃないことはわかってるの。残りの魔力も、とっとと渡してちょうだい。ワタシたちと一緒になりましょう?」
「おままごとは、そこの人形とだけやってな」
「貴様!」
 いきり立つ海を制止した彼女は、余裕のある笑みを浮かべる。
「アナタは特別なのよ、蓮。生まれながらに膨大な魔力を持っている。それこそ、一度では吸い取れない量だわ。きっとワタシなんかよりもずっと破壊できるのよ」
「そんなことには興味がない」
「アナタと一緒ならできるのよ。ワタシたちは神にだってなれるのよ」
 手のひらに炎を灯して弄ぶ彼女は、まるでおとぎ話の悪い魔女のようだった。
「海、お前はこんな奴に付くのか?」
「お嬢様を侮辱するな」
 呆れた口ぶりで吐かれた台詞に、海は敵意を剥き出しにして蓮様を睨む。
「おいおい。お前はウチの執事のはずだろ?」
「そんなものは貴様を監視するためにやっていただけだ。私はお嬢様の命令にしか従わない!」
「はっ。主人が狂えば従者も気狂いか」
 海の言葉を鼻で笑った蓮様に、場の空気が凍りつく。駄目だ。これ以上蓮様をここに縛り付けてはいけない。
「蓮様……、逃げて。まだ間に合う。彼女にこれ以上魔力を渡したら駄目です。僕はただのカラスなんだ。ちっぽけな命だ。だから、僕のことなんて捨てて。どうか、もう二度と世界が悪夢に囚われない様、最善の行動を……」
「聞いていれば、随分腑抜けたことを言う。死に損ないのカラスめ。ワタシの役に立てる喜びを全くわかっちゃいない。海!」
「はい」
「ぐ……!」
 ふいにナイフが頬を掠め、真新しい傷口を作る。
「律……!」
「ほら。早くしないと大事なカラス君が血まみれになるぞ」
「待て。魔力ならいくらでもくれてやる。勝手に吸い取ればいい」
「!」
 静かに告げる蓮様に、僕は言葉を失った。
「ふん。ようやく折れたわね。こっちとしてはもう少し早く決断してほしかったんだけど。ま、二度目は完ぺきにやり遂げるわ。そして、この世界を綺麗に滅ぼしてあげる……!」
 ああ。悪夢が繰り返されるんだ。僕のせいで……。
 海の手から解放された僕は、蓮様の腕に収まる。このまま二人で逃げてしまえたのなら、どんなにいいだろう。でも、すぐ側で睨みを利かせた二人から逃げることなどできるはずもない。近づいてくる唇に、泣きたい気持ちをぐっと堪える。
「ああそうだ。この世界が汚いゴミで溢れてる、ってのは俺も同意見だ。だから掃除しなきゃってとこまでは朱里と同じさ」
「あら。今更、命乞いのご機嫌取り? まぁ、どうしてもって言うのなら、アナタは生かしてあげても……」
「結構。お前が死んでくれ」
 ぼっ。
 蓮様の手から放たれた光が、真っすぐ彼女の元に向かう。
「お嬢様!」
「な……」
 瞬時に反応した海が、彼女を庇ってその光に当たる。
「俺には、律以外全部ゴミに見えるもんでね」
 にこりと笑った蓮様は、一瞬にして燃え上がった海を見ながらそう言った。
「海……!」
「お嬢、様……、お逃げくださ……」
 海の言葉は間に合わなかった。
「あああ!」
 再び蓮様の手に灯った炎が、素早く彼女を襲ったからだ。
「海、ごめんね。せっかく彼女を庇ったのにね。君も俺に付けばまだ許してあげたのに。でもさ、邪魔をするのは駄目だよ、ね?」
 彼が問いかけた先、揺らめく炎は美しく。災厄をあっという間に飲み込んでゆく。
「ど、どうして蓮様が魔術を……」
「見様見真似だよ。上手くいって良かったよ」
 まさか、さっきの朱里様の炎を見ただけで……? 何倍もの威力の炎を……?
 彼は、彼女が苦心して得たものをあっさりと自分のものにした。
「あーあ。人を殺しちゃったら仕方ないな。さ、律」
「蓮様……」
 頬を撫でる彼の手を、僕は払うことなどできなかった。
「どの道、この力を知られちゃ平穏には暮らせない。だったらいっそ、俺たちの手で綺麗な世界を作ろう?」
 炎で赤く照らされたその顔は、どこまでも優しくて。彼が静かに、まるで子守歌を歌うかのように口ずさんだのは思い出の曲。その穏やかな旋律を、僕は震える声でユニゾンする。
「蓮様のお側に居られるのなら僕は……」
 他がどうなっても構わない。そう言おうとした僕の唇は奪われる。
「さすがは俺が愛したクラシカ。さあ、その美しい歌声を世界中に知らしめよう」

 こうして、悪魔の旋律は世界に鳴り響き、人々に恐怖を植え付けていったのです。
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