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目覚めた!

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 夢の中で、俺は子狼に全身を舐め回されていた。土と綿、それと脂の入り混じったような匂いがこの漠然とした空間を包み込んでいる。爪先から旋毛まで涎に濡れていないところは少しもなく、生臭い液体が俺の体の上で光り、勢いよく押し付けられるわさわさした白い毛がそれを拭ったり塗り広げたりしていた。荒い息にわんわんという吠え声が聞こえて、煙のように揺れるまどろみの中に、狼の涎まみれのおっさんがごろんと寝っ転がっていた。

「ははっ、地獄だな」

 ブラッシングを怠るべきじゃない。もっと手入れをしてやらなきゃな。バカ狼の体に顔を埋めながら俺はそう思った。ふわふわの感触は悪くないが、その中に見え隠れする虫に気分が悪くなる。半ば無理やり目を瞑らされて顔に触れる感触を味わううちに、ふと気付く。そうだ、子狼は外に繋いでおいたはずだ。その瞬間光が強くなり、薄桃色の靄が脱色されていく。ええと、眠りに落ちる前、確か、俺は――

「起きた!?」

 頭の中で反響するのは、普段は聞かないような、エネルギッシュでトーンの高い声だ。俺は思わず顔を顰めた。

「うおお……最悪……」

目を擦ると、俺はなぜか裸で床に転がっていて、その上に誰かの足があった。

「おはよう! ねえねえ、大丈夫?」
「……ああ、なんだ、お前……」

 目の前にいたのはあの少女だった。日に焼けた肌に、大きな瞳。その目がキラキラしながらこちらを見下ろしている。彼女は俺が目覚めるなり、俺の腕を引いて抱きしめてきた。

「良かったぁ……」
「あの、ちょっと待て。足をどけてくれ。というか、そもそも君は誰だ?」

 俺は慌てて彼女の肩を掴んで引き剥がして、なるべく優しい声で尋ねた。俺が服を着ていないことにも驚いたが、何よりこの子はどこから入ってきたんだ? なんてことを思いながら。寝ぼけてたんだ。じゃなきゃこんなこと言わない。少女は驚いたような顔をして首を傾げた。

「あれ? キミが助けてくれたんじゃないの? このメモを書いたの、君だと思ったんだけど」

 少女は驚いたような顔をして首を傾げた。俺は何があったのか思い出そうと首を振る。すると、ようやく自分の体がぴくぴく震え、思うように動かないことに気が付いた。それから芋づる式に勇者のことや裏切ったという噂のこと、あの時感じた途轍もない威圧感のことを思い出した。内心漏らしそうだったが、幸いにも元々手は震えていて、ちょっとした怯えが気取られた気配はなかった。

「ああ! バッチリ思い出した。そうだな、確か……家で休もうとしてた時、木の下で倒れてる君を見つけたんだったな。だいぶ重傷だった。助かってよかったよ」
「それは僕の台詞だよ!」

 彼女は俺の震える手を取ると、両手で握り締めて慈しむように撫でた。そしてそのまま俺の胸に抱きつく。固まった血と毒草の香りの中にも微かに女性らしい香りがしたような気がする。俺は今度こそ完全に覚醒し、心臓がドキリと跳ね上がった。一応書いておくが、恐怖でだ。そういえばボクっ娘だったなー、なんて考えて現実逃避していた。彼女は言葉を選びながら続ける。

「本当にありがとう。僕、死にかけてたんだ。森の奥だし、強い毒を喰らっちゃったし……」
「ああ、無事でよかったよ。まず服着ていいかな?」

 俺の訴えはなぜか無視されたので、黙って彼女の話を聞いているほかなかった。聞いていたというよりも、どれだけ自然に彼女から体を離すことができるかを考えていた。想像してほしいんだが、今のおれの状況はサーカスのライオンか、世界中の格闘技のチャンピオンと抱き合っているようなものだ。しかも俺は素っ裸。勇者の方はシーツを古代ローマ人みたいにして纏っていたが、俺は全裸。このままでは生物学的にも社会的にも死んでしまう。そんな危機を察することもなく彼女は続けた。

「だから、目を覚ました時はびっくりした。完全に治ってるわけじゃないけど、すごく楽になってたから。ぞれで、起き上がったら近くにキミが倒れてた。全身が痙攣してたし、涙がずっと流れてた。口からは泡を吹いてて、下半身はちょっと、その……」

 俺は深く頷きつつ、寛大な理解を示しながら続きは言わなくていいと言った。しかし彼女は続きを言ったので、俺はいずれ遠くないうちに社会的に死ぬであろうことを確信した。綺麗だが、全然話を聞いてくれない。ゲームのサブエピソードでも自分の世界に入り込むことがあったな、というのを、俺はふと思い出した。ゲームのことを思い出すと心労は少し軽くなるし、話を聞いている限り天然で優しい性格は健在のように見える。だが油断はできない。勇者は顔を上げて俺の目を見つめる。ブルーの大きな目には涙が浮かんでいて、鼻筋はすらっと通って美しかった。幼さを残す顔立ちに確かな意志の強さと可憐さを秘める彼女は、形のいい唇の美しいソプラノの声で話を続けている。

「それで……キミのメモを見た時にね? 僕の治癒にエネルギーを使いすぎて、キミが死んじゃったかもって思ったんだ。だから、心配で、心配で……」
「あ、ああ、そうなのか」
「うん! それに……ああいや、なんでもない! とにかく、生きててくれて良かった! 本当に嬉しい!」

 そう言って、勇者はまた俺を強く抱きしめた。俺はどうすることもできずに硬直している。

「ええと、じゃあ、そろそろお家に帰った方がいいんじゃないか?」

 俺がそう言うと、途端に彼女は道端に放り出された子犬のような顔をした。

「え!? なんで!?」
「いや、だって、家族とか友達とかが待ってるだろ? 俺もいつまでもここに居座られたら困るっていうか……その、ほら。ええと、君にも色々あるだろ? こっちも、色々とな……」

 俺がそう言うと、勇者は少し離れてから俺に背を向けた。時折うんうんと唸るような声を漏らしている。その間に俺は急いで腰に布を巻いた。彼女はやがて意を決したような表情をして俺の方に向き直る。

「えっと……お兄さんは、ボクのこと知らないんだよね……?」

 小柄な彼女は、額に毒に侵されていた時と同じくらいの汗をかいている。明らかに噓をつこうとしているが、俺も勇者だと知らない体でメモを残したため今更知っているという訳にもいかない。苦し紛れに頷くと、勇者は恐る恐るといった様子で尋ねてきた。

「あの……僕、まだ一人なんだ。両親とも、その、喧嘩しちゃって。みんなボクを置いてどこか行っちゃった。だから……」

 そこで言葉を切ると、勇者は大きな瞳に涙を浮かべた。

「お願いします!  しばらくここで働かせてください!」

 勇者は深々と頭を下げた。俺は天を仰ぎ、頭を掻いた。背筋には冷や汗が滝のように流れている。あと脇にも。
 この様子を鑑みるに、勇者は既に自分が裏切ったというニュースが街に届いていることを理解している、とみるべきだろう。問題はそれが事実かどうかだ。今日見た限りでは勇者の人柄に問題があるという感じはしなかった。ということは、やむにやまれぬ事情があって裏切ったか、それとも本当は裏切ってなどいないかのどちらかだ。大穴で実は勇者じゃない可能性もある。あの剣はレプリカだったかもしれない。

「うーん……」
「かっ、家事とかは苦手だけど、努力します!」
「うーーーん……」
「えっと、えっと、こう見えても力とかは強いよ! 大きな木だって切り倒せるし!」
「……念のため聞きますけど、名前は?」
「エリス・サンライト!……じゃなくて、えーと、グレース! グレース・シルバーアローです!」
「同じ名前だ……」
「え?」

 エリス・サンライト。それは主人公の名前と確かに一致していた。後で名乗った偽名の方も仲間の名前を継ぎ接ぎしたものだ。残る選択肢は二つ。どちらに転んでも、多分大変なことになる。

「どうしよ……」

 拝啓、元パーティーメンバーの皆さん。元Bランク冒険者、ギデオン・シルバーハート。現在人生の岐路に立っています。
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