死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します

桃我タロー

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第一章 ヴァルム試験国家編

第二十二話 隠し事の荷車(1)

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 夜というには薄く、朝というには早すぎる色が、砦の上にかかっていた。
 空の底が、うっすらと白んでいる。

 第三倉庫の前だけが、やけに騒がしい。

 荷車が二台。
 馬が二頭ずつ。
 車輪には麻縄が巻かれ、軸には凍らないよう油が塗り込まれている。

 ラルスが荷台に上がり、半分凍った指でロープを締めていた。結び目を噛んだ歯が、じん、と痛む。

「もう一回、そこ締め直してください」

 荷の端を押さえながら、シュアラが言う。

「坂の途中でほどけるのは困ります」

「はいよ……」

 ラルスは手袋越しにさらに力を込めた。
 ロープがきしむ。中で石袋が少しだけ沈む。

 石袋と、小麦袋と、干し肉の樽。
 見た目だけなら、ただの物資搬送だ。

 ラルスが、結び目を叩いて息を吐く。

「……これ、本当に、石ころでいいんですよね」

「ええ。敵から見えるのは、荷車の数と、傾きだけです」

 シュアラは、荷台の側面に手を置いた。
 木板は冷たく、指先にざらつきが残る。

「重さと高さだけが分かれば、『中身は食えるものだ』と判断してくれます」

「判断してくれます、って言い方やめてほしいなあ」

 ラルスが、苦笑とも溜息ともつかない声を漏らした。

「まるで、食ってもらうのを楽しみにしてるみてえだ」

「楽しみではありません」

 そう言ってから、少し考え直す。

「……正しく噛んでもらえるなら、ありがたいとは思います」

「ほら、やっぱり怖いことサラッと言う」

 ラルスは肩をすくめた。

「団長さん、ほんとによく許しましたね。こんな手」

「よく、というほど滑らかではありませんでした」

 インクと紙の匂いが、一瞬、鼻の奥で蘇る。

 昨夜の団長室の、こもった空気。

 *

「囮に文官を出す? 馬鹿言え」

 地図の上に置かれた団長の手が、どん、と音を立てた。
 蝋燭の火が揺れ、影が壁に跳ねる。

 執務棟二階の団長室。
 窓の外は、すでに色を失っている。紙と革と、人間の体温だけが部屋を暖めていた。

「囮に出すのは荷と馬だ。人間はおまけでいい」

「御者と護衛だけでは、現場での判断が足りません」

 シュアラは、机の端に立ったまま言った。
 背筋を伸ばしていても、肩に力が入っているのが自分で分かる。

「どこで荷を捨て、どこで止まり、どこで走り切るか。数字を見ながら決める人間が、一人必要です」

 地図の上には、砦と三つの村と、谷と坂道。
 黒いインクで描いた線の上に、小さな石と木片が置かれている。

 カイはその盤面を睨みつけたまま、低く唸った。

「必要だからって、そこにお前を置く理由にはならねえ」

 乱暴な言い方だが、間違ってはいない。

「帳簿を見慣れていて、村の状況も把握していて、物資の優先順位もその場で切り替えられる人間は?」

「他に候補は」

「います」

 即答してから、自分でその言い方に違和感を覚えた。
 実際には「いたらいいのですが」の方が正しい。

 カイの視線が、ようやくシュアラに向く。

「誰だ」

 短い問い。

 名前を出せば、たちまち嘘になる。
 出さなければ、嘘ではないが、真実からはずれる。

「……輜重兵の中に、帳簿の読み書きができる者が何人かいます」

 言葉を選びながら答える。

「彼らに必要な数字だけを教え込めば、最低限の判断はできます」

「『最低限』で回るように作るのが作戦の仕事だろうが」

 カイは舌打ちした。

「お前は砦に残れ。囮に出すために拾ったんじゃねえ」

 その言葉に、喉の奥が一度詰まる。

 砦に残れ。
 それは、正しい判断だ。砦全体の効率だけを考えるなら。

 けれど、囮隊の中に「もう一個上の判断」を持ち込めば、助かる首の本数が増える計算になる。

(ここで、全部言う必要はない)

 手帳の余白に書き込んだ「許容損耗率」の行が、頭の中でじわりとにじんだ。

「作戦そのものは、必要です」

 別の角度から切り返す。

「数で勝る敵に対して、主力を一ヶ所に固定するための『噛ませどころ』がなければ、砦と村を同時に守ることはできません」

 盤面の上で、石を一つ動かす。

 坂道。橋の手前。
 重い荷車。

「囮になるのは、物資搬送を装った輜重隊です。御者と護衛数名、それに記録係が一人」

「記録係、ねえ」

 カイは鼻を鳴らした。

「その記録係とやらは、誰だ」

 さっきと同じ問い方だった。

 蝋燭の火が、芯のあたりでじ、と小さく音を立てる。

「選定はこちらに任せていただけますか」

 答えの形だけ先に出す。

「帳簿の理解度と、撤退時の判断の速さを見て、今日中に決めます」

 カイの目が細まった。
 「名前」から逃げたことは、きっと気付かれている。

「……お前、自分でその枠に滑り込むつもりじゃねえだろうな」

「囮隊の構成は、私が責任を持って決めます」

 問いには、直接答えない。

「ただし、誰をどこに立たせるかは、全体の生存率を見て判断したい」

 沈黙が、机の上で横に伸びた。

 窓ガラスに映った自分の顔は、思ったより平静に見える。
 その裏側で、心臓の打ち方だけが少し速くなっていた。

「目標は、死者ゼロだな」

 カイがぽつりと言った。

「はい」

「だったら、お前の死も入ってる」

 淡々とした口調だった。

「この砦から一人も出さねえって決めたなら、そこにお前も含める」

 喉に引っかかっていたものが、少しだけ動く。

 返事がすぐには出てこない。

 代わりに、指先が勝手に動いた。
 机の端を押さえていた手に、力が入る。

「……作戦の許可をいただけますか」

 自分でも分かるくらい、話題をずらした。

「囮隊の規模、坂道と橋の噛ませどころ、リオさんの配置。細部はまだ詰めますが、大枠として」

 カイは深く息を吐いた。

「条件付きだ」

 指を一本立てる。

「囮隊の撤退ラインは、現場じゃなく、砦から見てる俺が決める」

「どういう……」

「伝令を一人つける。そいつからの報告で、俺が『もう駄目だ』と思ったところが終わりだ」

 彼の声が低くなる。

「お前の頭の中の『まだいける』は、現場の『もう限界』より、だいたい一歩先にある」

 図星を刺された感じがした。
 否定する言葉が、うまく見つからない。

「俺が引けと言ったら、その時点で全部捨てて帰ってこい。荷でも、計画でも、数字でもだ」

「……分かりました」

 喉の引っかかりを押し下げるようにして答える。

「約束します」

「よし」

 カイは、椅子の背にもたれ直した。

「作戦そのものは許可する。囮隊も出せ。坂も橋も好きに使え」

 そこで一度言葉を切り、口の端をわずかに上げる。

「ただし、お前は本来なら砦に残ってろ。そこが一番、頭を使える場所だ」

 それは、命令というより「当然そうだろう」という前提の確認だった。

 その前提を、今ここで壊しておくべきかどうか。
 少しだけ迷って、結局、黙る。

(団長が守ろうとしているのは、私の命というより、この砦全体の『頭脳』としての機能だ)

(それを一時的に前線に持ち出すことで助かる首の数が増えるなら――)

 数字の方が、まだ重かった。

「……分かりました」

 違う問いに対する返事のような形で、もう一度そう言う。

 カイは、それ以上は追及しなかった。

「じゃあ、囮隊も含めて全部まとめてこい」

 短く言って、机の上の別の書類に目を落とす。

「勝手に『第五ゲーム』だけは始めんなよ」

「第五ゲーム?」

「『自分の命をどこまで削ったら砦が得するか』ってやつだ」

 言われて、胸の奥で何かがきしむ。

 それは、すでに頭の片隅で始まりかけていたゲームだったからだ。

 黙って頭を下げる。
 それが、肯定にも否定にも見えないことを祈りながら。
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