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第一章 ヴァルム試験国家編
第二十四話 雪原の囮(1)
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雪原の白さは、音を飲み込んでしまう。
谷の方から、かすかに金属のぶつかる音が届いていた。
剣と槍と盾が擦れる、鈍い響き。人の声も混じっているはずなのに、ここまで来ると、ただのざわめきにしか聞こえない。
シュアラは、荷台の影に立ったまま、耳と手帳とを交互に使っていた。
遠くの狼煙の本数。高さ。谷の奥で揺れる旗の色。風向き。
数字に変えられそうなものは全部、紙の上に落としていく。
ページの端に、小さく書きつける。
『敵旗 四本。うち三本は谷の中央で固定。
残り一本だけ、呼吸が合っていない』
最後の行のところで、ペン先がほんの少し止まった。
(さっきから、あの列だけ、足並みが揃いませんね)
谷の右側。
正面からカイの隊に噛まれている主力と違い、外側の一列だけ、じわり、じわりと動きがずれている。
最初は風のせいかと思った。斜面の傾きかもしれない。
だが、さっきよりも「ずれ」が大きい。
帯の端が、谷ではなく、こちら側――東の坂道の方へ、少しだけ膨らんでいる。
「軍師殿」
御者台の横で、護衛の一人が声を潜めた。
「あっちの黒いの、さっきからこっち見てないですか」
指さした先。
谷の縁に、ひときわ濃い影があった。旗持ちとは違う、馬に乗った男。肩口にかかる外套の布が、雪原の白さの中でやけに黒く見える。
シュアラは、荷台の縁に片足をかけて視線を上げた。
視力には自信がない。だが、「見るべきもの」の形だけは分かる。
馬の向き。
旗の位置。
周囲の歩幅。
全部合わせて、一つだけ答えが出た。
(――こちらを「見る側」の目ですね)
獲物を探す目だ。
盤面全体ではなく、「一番噛みやすそうな肉」を探している目。
喉の奥が、きゅ、と細くなる。
「ラルスさん」
「はいよ」
御者台のすぐ後ろで、ロープの結び目をもてあそんでいたラルスが顔を上げた。
頬に雪がついている。緊張で舌なめずりする癖が、今日はいっそう目立つ。
「さっきまでの『こっそり抜ける案』は、中止です」
「え」
「今からは、『見つかったあと、どうやって払うかを決める案』に切り替えます」
言ってから、自分で少しだけ口の端が引きつるのを感じた。
「それ、聞くだけで嫌なんですけど」
「利息の話は、だいたいみんなそう言います」
父の声が、記憶のどこかからひょいと顔を出す。
──最初の一万は、甘い条件で貸してくれるさ。
──問題は、その次だ。二万、三万と積み上げた時に、どこまで削られるかを最初から見ておけ。
インクの匂いではなく、今は鉄と雪の匂いだ。
それでも、「どこで手を打つか」の感覚だけは同じだった。
「追加で払う分は、なるべく『石』と『時間』だけにします」
人ではなく。
「そのために、荷の中身を入れ替えます」
シュアラは、手袋越しに荷台の側板を叩いた。
「重い石袋は、前の荷車に寄せてください。奥の荷車はできるだけ軽く」
「さっき、逆で積み直したばっかなんですけど」
「状況が変わりました」
谷の方を一度見る。
「敵列が、一つ剥がれました。あれは、おそらくこちら側に回り込む別働隊です」
「……マジっすか」
ラルスの顔から血の気が引いた。
唇だけが、かろうじて動いている。
「ええと、それってつまり」
「『囮がちゃんと囮として認識された』という意味では、作戦は成功しています」
言葉だけ聞けば、ほめ言葉のようだ。
誰も嬉しそうにはしなかった。
「成功のご褒美が、『追いかけ回される権利』って、世知辛すぎません?」
「世の中の利息も、だいたいそんなものです」
ラルスが、心底うんざりした顔で空を仰いだ。
「……じゃ、その“払う案”ってのは、具体的にどうするんです?」
彼の視線に押されるように、シュアラは坂と橋を見渡した。
白く凍った道が、谷からこちらへ伸びてくる。
自分たちのいる平地。その先、少し下ってから、古い木橋が谷をまたいでいた。
「ラルスさん」
「はい」
「奥の荷車――砦に近いほうは、坂を下りきったらそのまま橋を渡ってください。前の荷車は、この平地で一度止めます」
「止める?」
「ええ。“本当に捕まりかけているように見せる”ために」
ラルスは、盛大に顔をしかめた。
「それ、本気で言ってます?」
「本気で言っています」
シュアラは、橋までの道に視線を通した。
頭の中で、道の上に馬を並べていく。一本の線に、黒い影が二十ほど並ぶ光景を思い浮かべる。
「ここから橋まで、馬を二十頭は並べられます。敵が勢いのまま追い込んでくれば、その真ん中あたりが一番、身動きできなくなります」
手帳の端に、簡単な線を引いた。
道の上に二つの四角。荷車。小さな丸が連なっていく。馬。真ん中に黒く塗った点が一つ。
「そこで、石袋を落とします」
「……どのくらい?」
「ほとんど全部です。さっき練習した土手の内側じゃなくて、道の真ん中に」
ラルスは、首をぐらぐら振った。
「それ、もはや『噛ませる』じゃなくて『蹴つまずかせる』ですよね」
「噛ませる前に躓いてくれるなら、それもまた助かります」
口では平然と言いながら、自分でも喉の奥が少し冷えた。
計算上は死者ゼロでも、現場の雪は、もっと乱暴に血を吸うだろう。
(それでも、ここで止めなければ、村に行くまでにもっと多くの血が落ちる)
燻製小屋の煙が、風にちぎられながら上がっている。
あれが消えれば、村の冬も一緒に消える。
「……分かりました」
ラルスは大きく息を吐き、それから自分の頬を軽く叩いた。
「やりますよ。俺、帰ってきてから借金減るんですよね」
「帳簿上は、既に減り始めています」
「じゃあ死ねねえなあ」
自分で言って、自分で笑ってみせる。
その笑いはぎこちないが、さっきまでよりは少しだけ血色が戻っていた。
荷台の上で、兵たちが慌ただしく動き始める。
石袋がごろごろと転がり、小麦の袋が持ち上げられる。雪を踏む音と、馬の鼻息と、麻縄が軋む音が重なった。
谷の方からのざわめきが、一瞬だけ大きくなった。
敵の列の一部が、こちらの斜面の方へ向きを変える。
雪の上に、新しい黒い帯が引かれていく。
シュアラは、懐から手帳を取り出した。
余白に、走り書きで言葉を連ねる。
『三~四十。東の坂から村側へ。狙いは“胃袋”』
最後の一文字を書き終える前に、ペン先が紙を突いた。
インクが小さくにじむ。
(……読みが甘かったですね)
会議室の暖かい空気の中では、もっと綺麗な線を引けていた。
現場の雪の上では、線はすぐに滲む。
それでも、今更、盤面ごとひっくり返すことはできない。
「全員、馬車から離れすぎないでください」
声を張る。
「最初の合図は、私が出します。敵が『届く』距離まで来たら、前の荷車を一度止める。そのあとで、橋に向けて走ります」
「届くって、どのくらいです?」
誰かが震えた声で問うた。
「弓を引いたときに、相手の顔がはっきり見える距離です」
その答えに、空気が一瞬だけ重くなる。
鉄と革の擦れる音が混ざる。
シュアラは、奥歯を噛みしめた。
(ここで、何人分の時間を稼げるか)
それは、帳簿の数字ではなく、肺の数と心臓の数で数える時間だ。
そのときだった。
谷の方から、もう一度、角笛の音がした。
さっきよりも鋭く、短い。
風に乗って、その音が雪原を駆け抜ける。
耳に届いた瞬間、足元の雪がほんのわずか震えた気がした。
「……?」
振り向いた先。
遠くの斜面に、黒い旗が一つ、雪煙を切り裂いていた。
狼の紋章。
その後ろに、鉄の塊のような影が続いている。
カイの隊だ。
谷から別働隊と本隊の間を突き破り、そのままこちら側へなだれ込んできている。
敵の別働隊の列が、一瞬だけ動きを止めた。
背後から迫る気配に、振り返る者が出る。
そのほんの一瞬の静止が、こちらにとっては何十心拍分もの猶予に見えた。
「……ラルスさん」
「なんですか」
「今のうちに、橋を半分まで渡ってください」
「半分?」
「ええ。全部渡りきると、『逃げ切れるかもしれない』と思ってしまうので」
ラルスは、泣き笑いのような顔をした。
「軍師殿って人は、本当に……!」
それ以上の言葉は、雪煙と蹄の音の中に飲み込まれた。
荷車が軋みながら橋へ向かう。
敵の別働隊がそれを追う。
谷の方からは、狼の旗を掲げた騎士たちが雪原を駆けてくる。
シュアラは、手帳の裂け目を指先で押さえながら、ロープにかけた手に力を込めた。
遠くから、狼の咆哮が聞こえた。
谷の方から、かすかに金属のぶつかる音が届いていた。
剣と槍と盾が擦れる、鈍い響き。人の声も混じっているはずなのに、ここまで来ると、ただのざわめきにしか聞こえない。
シュアラは、荷台の影に立ったまま、耳と手帳とを交互に使っていた。
遠くの狼煙の本数。高さ。谷の奥で揺れる旗の色。風向き。
数字に変えられそうなものは全部、紙の上に落としていく。
ページの端に、小さく書きつける。
『敵旗 四本。うち三本は谷の中央で固定。
残り一本だけ、呼吸が合っていない』
最後の行のところで、ペン先がほんの少し止まった。
(さっきから、あの列だけ、足並みが揃いませんね)
谷の右側。
正面からカイの隊に噛まれている主力と違い、外側の一列だけ、じわり、じわりと動きがずれている。
最初は風のせいかと思った。斜面の傾きかもしれない。
だが、さっきよりも「ずれ」が大きい。
帯の端が、谷ではなく、こちら側――東の坂道の方へ、少しだけ膨らんでいる。
「軍師殿」
御者台の横で、護衛の一人が声を潜めた。
「あっちの黒いの、さっきからこっち見てないですか」
指さした先。
谷の縁に、ひときわ濃い影があった。旗持ちとは違う、馬に乗った男。肩口にかかる外套の布が、雪原の白さの中でやけに黒く見える。
シュアラは、荷台の縁に片足をかけて視線を上げた。
視力には自信がない。だが、「見るべきもの」の形だけは分かる。
馬の向き。
旗の位置。
周囲の歩幅。
全部合わせて、一つだけ答えが出た。
(――こちらを「見る側」の目ですね)
獲物を探す目だ。
盤面全体ではなく、「一番噛みやすそうな肉」を探している目。
喉の奥が、きゅ、と細くなる。
「ラルスさん」
「はいよ」
御者台のすぐ後ろで、ロープの結び目をもてあそんでいたラルスが顔を上げた。
頬に雪がついている。緊張で舌なめずりする癖が、今日はいっそう目立つ。
「さっきまでの『こっそり抜ける案』は、中止です」
「え」
「今からは、『見つかったあと、どうやって払うかを決める案』に切り替えます」
言ってから、自分で少しだけ口の端が引きつるのを感じた。
「それ、聞くだけで嫌なんですけど」
「利息の話は、だいたいみんなそう言います」
父の声が、記憶のどこかからひょいと顔を出す。
──最初の一万は、甘い条件で貸してくれるさ。
──問題は、その次だ。二万、三万と積み上げた時に、どこまで削られるかを最初から見ておけ。
インクの匂いではなく、今は鉄と雪の匂いだ。
それでも、「どこで手を打つか」の感覚だけは同じだった。
「追加で払う分は、なるべく『石』と『時間』だけにします」
人ではなく。
「そのために、荷の中身を入れ替えます」
シュアラは、手袋越しに荷台の側板を叩いた。
「重い石袋は、前の荷車に寄せてください。奥の荷車はできるだけ軽く」
「さっき、逆で積み直したばっかなんですけど」
「状況が変わりました」
谷の方を一度見る。
「敵列が、一つ剥がれました。あれは、おそらくこちら側に回り込む別働隊です」
「……マジっすか」
ラルスの顔から血の気が引いた。
唇だけが、かろうじて動いている。
「ええと、それってつまり」
「『囮がちゃんと囮として認識された』という意味では、作戦は成功しています」
言葉だけ聞けば、ほめ言葉のようだ。
誰も嬉しそうにはしなかった。
「成功のご褒美が、『追いかけ回される権利』って、世知辛すぎません?」
「世の中の利息も、だいたいそんなものです」
ラルスが、心底うんざりした顔で空を仰いだ。
「……じゃ、その“払う案”ってのは、具体的にどうするんです?」
彼の視線に押されるように、シュアラは坂と橋を見渡した。
白く凍った道が、谷からこちらへ伸びてくる。
自分たちのいる平地。その先、少し下ってから、古い木橋が谷をまたいでいた。
「ラルスさん」
「はい」
「奥の荷車――砦に近いほうは、坂を下りきったらそのまま橋を渡ってください。前の荷車は、この平地で一度止めます」
「止める?」
「ええ。“本当に捕まりかけているように見せる”ために」
ラルスは、盛大に顔をしかめた。
「それ、本気で言ってます?」
「本気で言っています」
シュアラは、橋までの道に視線を通した。
頭の中で、道の上に馬を並べていく。一本の線に、黒い影が二十ほど並ぶ光景を思い浮かべる。
「ここから橋まで、馬を二十頭は並べられます。敵が勢いのまま追い込んでくれば、その真ん中あたりが一番、身動きできなくなります」
手帳の端に、簡単な線を引いた。
道の上に二つの四角。荷車。小さな丸が連なっていく。馬。真ん中に黒く塗った点が一つ。
「そこで、石袋を落とします」
「……どのくらい?」
「ほとんど全部です。さっき練習した土手の内側じゃなくて、道の真ん中に」
ラルスは、首をぐらぐら振った。
「それ、もはや『噛ませる』じゃなくて『蹴つまずかせる』ですよね」
「噛ませる前に躓いてくれるなら、それもまた助かります」
口では平然と言いながら、自分でも喉の奥が少し冷えた。
計算上は死者ゼロでも、現場の雪は、もっと乱暴に血を吸うだろう。
(それでも、ここで止めなければ、村に行くまでにもっと多くの血が落ちる)
燻製小屋の煙が、風にちぎられながら上がっている。
あれが消えれば、村の冬も一緒に消える。
「……分かりました」
ラルスは大きく息を吐き、それから自分の頬を軽く叩いた。
「やりますよ。俺、帰ってきてから借金減るんですよね」
「帳簿上は、既に減り始めています」
「じゃあ死ねねえなあ」
自分で言って、自分で笑ってみせる。
その笑いはぎこちないが、さっきまでよりは少しだけ血色が戻っていた。
荷台の上で、兵たちが慌ただしく動き始める。
石袋がごろごろと転がり、小麦の袋が持ち上げられる。雪を踏む音と、馬の鼻息と、麻縄が軋む音が重なった。
谷の方からのざわめきが、一瞬だけ大きくなった。
敵の列の一部が、こちらの斜面の方へ向きを変える。
雪の上に、新しい黒い帯が引かれていく。
シュアラは、懐から手帳を取り出した。
余白に、走り書きで言葉を連ねる。
『三~四十。東の坂から村側へ。狙いは“胃袋”』
最後の一文字を書き終える前に、ペン先が紙を突いた。
インクが小さくにじむ。
(……読みが甘かったですね)
会議室の暖かい空気の中では、もっと綺麗な線を引けていた。
現場の雪の上では、線はすぐに滲む。
それでも、今更、盤面ごとひっくり返すことはできない。
「全員、馬車から離れすぎないでください」
声を張る。
「最初の合図は、私が出します。敵が『届く』距離まで来たら、前の荷車を一度止める。そのあとで、橋に向けて走ります」
「届くって、どのくらいです?」
誰かが震えた声で問うた。
「弓を引いたときに、相手の顔がはっきり見える距離です」
その答えに、空気が一瞬だけ重くなる。
鉄と革の擦れる音が混ざる。
シュアラは、奥歯を噛みしめた。
(ここで、何人分の時間を稼げるか)
それは、帳簿の数字ではなく、肺の数と心臓の数で数える時間だ。
そのときだった。
谷の方から、もう一度、角笛の音がした。
さっきよりも鋭く、短い。
風に乗って、その音が雪原を駆け抜ける。
耳に届いた瞬間、足元の雪がほんのわずか震えた気がした。
「……?」
振り向いた先。
遠くの斜面に、黒い旗が一つ、雪煙を切り裂いていた。
狼の紋章。
その後ろに、鉄の塊のような影が続いている。
カイの隊だ。
谷から別働隊と本隊の間を突き破り、そのままこちら側へなだれ込んできている。
敵の別働隊の列が、一瞬だけ動きを止めた。
背後から迫る気配に、振り返る者が出る。
そのほんの一瞬の静止が、こちらにとっては何十心拍分もの猶予に見えた。
「……ラルスさん」
「なんですか」
「今のうちに、橋を半分まで渡ってください」
「半分?」
「ええ。全部渡りきると、『逃げ切れるかもしれない』と思ってしまうので」
ラルスは、泣き笑いのような顔をした。
「軍師殿って人は、本当に……!」
それ以上の言葉は、雪煙と蹄の音の中に飲み込まれた。
荷車が軋みながら橋へ向かう。
敵の別働隊がそれを追う。
谷の方からは、狼の旗を掲げた騎士たちが雪原を駆けてくる。
シュアラは、手帳の裂け目を指先で押さえながら、ロープにかけた手に力を込めた。
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