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第一章 ヴァルム試験国家編
第二十四話 雪原の囮(2)
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谷の底の空気は、雪の上に貼りつく血の匂いで重くなりつつあった。
カイは、左腕の盾越しに敵の槍を弾きながら、息を吐いた。
吐くたびに白い蒸気が上がる。視界の端で、それがすぐに雪と混ざった。
「右、詰めろ! 足元見るな、前だけ見ろ!」
怒鳴る声が、自分のものかどうか、一瞬分からなくなる。
数年前の戦場で、同じように喉が焼ける感覚を味わったことがあるからだ。
(あの時は、守りきれなかった)
赤い谷。
凍った川の上で、退路を塞ぐように倒れていった仲間たちの背中。
あのときは、「殿」を務めるしかなかった。
今は違う。
今は、自分が崩れたら、後ろにいる誰かを噛ませることになる。
「団長!」
左側から、雪を蹴る足音とともに声が飛んできた。
フィンだ。肩で息をしながら、盾列の隙間を縫ってこちらに来る。
「さっき丘の見張りから伝令!」
「言え!」
「敵の一列、東の坂道に回り込み中! 数は四十前後、馬混じり!」
予想通りだ。
カイは短く頷きかけ――そこで、フィンの言葉が続いた。
「進路上に、囮の荷車!」
盾で槍を弾いた勢いのまま、カイは前に出た。足元の雪がしゃり、と鳴る。
「進路上にってのは、そういう配置だろうが」
「いや、その――」
フィンが唇を噛む。
「“例の文官殿”、自分で荷台に乗ってましたよ。朝、ここに来る前に見た」
喉の奥で、何かがはじける音がした。
それが血管か、古い怒りか、一瞬判断がつかない。
「……誰が、乗ってたって?」
「シュアラですよ。荷の重さ数えながら、『ここが噛ませどころです』って」
フィンは、苦い笑いを混ぜた。
「敵に噛ませるための餌に、自分で乗ってる」
カイは、歯ぎしりする音が自分で聞こえた。
(勝手に第五ゲーム始めんなって言ったばかりだろうが)
昨夜の、自分の声が頭の中で反響する。
帝都の帳簿の中で一度殺された女が、今度は辺境でまた自分を削ろうとしている。
「団長!」
右の盾列の向こうで、兵が一人、短く悲鳴を上げた。
槍を弾いた勢いのまま、カイは前に出る。足元の雪がしゃり、と鳴った。
「フィン!」
「なんだ!」
「ボルグに伝えろ。東の坂道に向かう別働隊――“軍師より先に、あいつらに餌をやる”ってな」
フィンが目を細める。
前列の兵の一人が、ぽかんと口を開けた。
「軍師……」
「誰だよ、それ」
「死人文官だろ」
ざわめきが、小さく波紋のように広がる。
「その軍師を、敵に噛ませるな!」
カイは剣を振り下ろした。地面に刺さった雪が跳ねる。
「――軍師を守れ! 道を開けろ! 食えるもんがあるなら、全部俺たちが先に食ってやる!」
最後の一言で、兵たちの表情が変わった。
恐怖と疲労の中に、妙な悪戯っぽさが混ざる。
「はいよ、団長!」
「食い扶持、取らせねえぞコラ!」
掛け声とともに、ヴァルムの兵たちが一斉に動いた。
右側の重騎士――ボルグを先頭にした鉄の塊が、雪を蹴って前へ出る。
盾の列がわずかに開き、空いた隙間に騎馬が滑り込んだ。
谷の中央で、敵と味方の列がぶつかる。
雪煙がもうもうと舞い上がり、一瞬だけ視界が白一色になる。
その先にあるはずの東の坂道を想像しながら、カイは奥歯を噛みしめた。
*
東の雪原には、まだ血の匂いはなかった。
代わりに、馬の汗と、袋に詰めた粉の匂いと、冷えた鉄の匂いだけが混ざっている。
「来ます」
シュアラが言うと同時に、地面の震えが強くなった。
雪を踏みしめる蹄の音が、さっきまでよりはっきりと耳に届く。
黒い帯が、坂の上に姿を現した。
完全な列ではない。馬の前後が少し乱れている。谷から回り込んできたせいで、隊形が整いきっていないのだろう。
それでも、こちらにとっては十分脅威だった。
馬一頭の質量は、石袋の数字よりも簡単に人の骨を折る。
「前の荷車、もう少しだけ速度を落として」
シュアラの声に、御者が手綱を引く。
軋む音とともに、荷車の揺れがわずかに変わった。
「……これ以上落としたら、本当に追いつかれますけど」
「追いつかれそうに見せるだけです」
自分に言い聞かせるように答える。
(ここで止まりすぎれば、本当に飲み込まれる)
雪の上を、黒い帯が滑り降りてくる。
先頭の馬の脚が、もう、こちらの息づかいの範囲に入りつつあった。
「この辺りです」
シュアラは、荷台の縁に片足をかけたまま、ロープに手を伸ばした。
「合図で、一気に石袋を落とします。ラルスさん、橋側の荷車は絶対に止めないでください。何があっても、馬を前に出し続ける」
「了解……! 了解ですけど……!」
ラルスの声が、途中で震えに変わった。
敵の先頭の馬が、坂を下りきる。
その蹄が、石袋のある地点に差しかかる瞬間を、シュアラは息を止めて待った。
「今です!」
叫びと同時に、ロープを引く。
結び目が解け、石袋が雪の上にまとめて転がり出た。
鈍い音が連続して響く。
馬の悲鳴。鉄のぶつかる音。人の叫び。
道の真ん中に、黒い影と白い雪と灰色の石が混ざった。
転んだ馬の後ろから、次の馬が押し寄せる。
避けきれず、蹄が石袋を踏み、滑り、さらに倒れる。
雪原が、一瞬で混沌に変わった。
(……ごめんなさい)
誰に向けてか分からない謝罪が、胸の奥で丸まる。
同時に、別の数字も浮かんでいた。
もしこのまま橋まで突っ込ませていたら、砦と村に流れ込んでいた血の量。
「橋を渡って!」
奥の荷車に向かって叫ぶ。
「このまま砦まで戻ってください! 残りはここで時間を稼ぎます!」
「軍師殿は!」
誰かが振り返って叫んだ。
「私は――」
喉が、そこで止まった。
橋の前に、もう一つの「噛ませどころ」があった。
雪で覆われた細い坂。
さっきラルスにロープの結び目を確認させた場所。
あそこに残って操作を続けるなら、誰かが最後までここにいなければならない。
石袋を落とす役、ロープを切る役、橋を渡り切った荷車の数を数える役。
(ここで私が残れば、全体の生存率は……)
思考が、そこまで進んだところで止まる。
それは、カイが昨夜言った言葉と重なっていた。
『勝手に「第五ゲーム」だけは始めんなよ』
自分の命をどこまで削ったら砦が得をするか、というゲーム。
父が好んでやっていた種類の計算。
シュアラ自身が、これまで何度も頭の中で試し書きしてきたゲーム。
背中の方から、別の音が聞こえた。
矢だ。
風を切る、短く鋭い音。
次いで、紙が裂ける感触が胸元に伝わった。
「……っ」
懐の手帳が、内側からぴしりと裂ける。
矢の先が紙を貫き、表紙をめくったところで止まっていた。
数歩遅れて、腕に鈍い痛みが走る。
毛皮と服だけを掠めた矢が、皮膚の上を焼いた。
「軍師殿!」
ラルスが悲鳴のような声を上げる。
「大丈夫です!」
即座に返す。
手帳を引き抜くと、真ん中あたりのページが破れていた。
父の会議室では、数字の桁で切り捨てていた部分だ。
(……切り捨てたはずの桁が、こっちに飛んできましたか)
胸の奥で、乾いた笑いが生まれかけて、すぐに消えた。
「ラルスさん!」
「はい!」
「橋を半分まで渡ったら、そこで一度だけ振り向いてください。団長の旗が見えたら、そのまま全力で砦まで!」
「団長の、旗……!」
ラルスの声に、別の色が混ざる。
遠くから、狼の紋章を描いた黒い旗が揺れていた。
雪煙の向こうで、騎士たちの列がこちら側へ突っ込んでくる。
雪原の空気が、別の戦場と繋がる音がした。
カイは、左腕の盾越しに敵の槍を弾きながら、息を吐いた。
吐くたびに白い蒸気が上がる。視界の端で、それがすぐに雪と混ざった。
「右、詰めろ! 足元見るな、前だけ見ろ!」
怒鳴る声が、自分のものかどうか、一瞬分からなくなる。
数年前の戦場で、同じように喉が焼ける感覚を味わったことがあるからだ。
(あの時は、守りきれなかった)
赤い谷。
凍った川の上で、退路を塞ぐように倒れていった仲間たちの背中。
あのときは、「殿」を務めるしかなかった。
今は違う。
今は、自分が崩れたら、後ろにいる誰かを噛ませることになる。
「団長!」
左側から、雪を蹴る足音とともに声が飛んできた。
フィンだ。肩で息をしながら、盾列の隙間を縫ってこちらに来る。
「さっき丘の見張りから伝令!」
「言え!」
「敵の一列、東の坂道に回り込み中! 数は四十前後、馬混じり!」
予想通りだ。
カイは短く頷きかけ――そこで、フィンの言葉が続いた。
「進路上に、囮の荷車!」
盾で槍を弾いた勢いのまま、カイは前に出た。足元の雪がしゃり、と鳴る。
「進路上にってのは、そういう配置だろうが」
「いや、その――」
フィンが唇を噛む。
「“例の文官殿”、自分で荷台に乗ってましたよ。朝、ここに来る前に見た」
喉の奥で、何かがはじける音がした。
それが血管か、古い怒りか、一瞬判断がつかない。
「……誰が、乗ってたって?」
「シュアラですよ。荷の重さ数えながら、『ここが噛ませどころです』って」
フィンは、苦い笑いを混ぜた。
「敵に噛ませるための餌に、自分で乗ってる」
カイは、歯ぎしりする音が自分で聞こえた。
(勝手に第五ゲーム始めんなって言ったばかりだろうが)
昨夜の、自分の声が頭の中で反響する。
帝都の帳簿の中で一度殺された女が、今度は辺境でまた自分を削ろうとしている。
「団長!」
右の盾列の向こうで、兵が一人、短く悲鳴を上げた。
槍を弾いた勢いのまま、カイは前に出る。足元の雪がしゃり、と鳴った。
「フィン!」
「なんだ!」
「ボルグに伝えろ。東の坂道に向かう別働隊――“軍師より先に、あいつらに餌をやる”ってな」
フィンが目を細める。
前列の兵の一人が、ぽかんと口を開けた。
「軍師……」
「誰だよ、それ」
「死人文官だろ」
ざわめきが、小さく波紋のように広がる。
「その軍師を、敵に噛ませるな!」
カイは剣を振り下ろした。地面に刺さった雪が跳ねる。
「――軍師を守れ! 道を開けろ! 食えるもんがあるなら、全部俺たちが先に食ってやる!」
最後の一言で、兵たちの表情が変わった。
恐怖と疲労の中に、妙な悪戯っぽさが混ざる。
「はいよ、団長!」
「食い扶持、取らせねえぞコラ!」
掛け声とともに、ヴァルムの兵たちが一斉に動いた。
右側の重騎士――ボルグを先頭にした鉄の塊が、雪を蹴って前へ出る。
盾の列がわずかに開き、空いた隙間に騎馬が滑り込んだ。
谷の中央で、敵と味方の列がぶつかる。
雪煙がもうもうと舞い上がり、一瞬だけ視界が白一色になる。
その先にあるはずの東の坂道を想像しながら、カイは奥歯を噛みしめた。
*
東の雪原には、まだ血の匂いはなかった。
代わりに、馬の汗と、袋に詰めた粉の匂いと、冷えた鉄の匂いだけが混ざっている。
「来ます」
シュアラが言うと同時に、地面の震えが強くなった。
雪を踏みしめる蹄の音が、さっきまでよりはっきりと耳に届く。
黒い帯が、坂の上に姿を現した。
完全な列ではない。馬の前後が少し乱れている。谷から回り込んできたせいで、隊形が整いきっていないのだろう。
それでも、こちらにとっては十分脅威だった。
馬一頭の質量は、石袋の数字よりも簡単に人の骨を折る。
「前の荷車、もう少しだけ速度を落として」
シュアラの声に、御者が手綱を引く。
軋む音とともに、荷車の揺れがわずかに変わった。
「……これ以上落としたら、本当に追いつかれますけど」
「追いつかれそうに見せるだけです」
自分に言い聞かせるように答える。
(ここで止まりすぎれば、本当に飲み込まれる)
雪の上を、黒い帯が滑り降りてくる。
先頭の馬の脚が、もう、こちらの息づかいの範囲に入りつつあった。
「この辺りです」
シュアラは、荷台の縁に片足をかけたまま、ロープに手を伸ばした。
「合図で、一気に石袋を落とします。ラルスさん、橋側の荷車は絶対に止めないでください。何があっても、馬を前に出し続ける」
「了解……! 了解ですけど……!」
ラルスの声が、途中で震えに変わった。
敵の先頭の馬が、坂を下りきる。
その蹄が、石袋のある地点に差しかかる瞬間を、シュアラは息を止めて待った。
「今です!」
叫びと同時に、ロープを引く。
結び目が解け、石袋が雪の上にまとめて転がり出た。
鈍い音が連続して響く。
馬の悲鳴。鉄のぶつかる音。人の叫び。
道の真ん中に、黒い影と白い雪と灰色の石が混ざった。
転んだ馬の後ろから、次の馬が押し寄せる。
避けきれず、蹄が石袋を踏み、滑り、さらに倒れる。
雪原が、一瞬で混沌に変わった。
(……ごめんなさい)
誰に向けてか分からない謝罪が、胸の奥で丸まる。
同時に、別の数字も浮かんでいた。
もしこのまま橋まで突っ込ませていたら、砦と村に流れ込んでいた血の量。
「橋を渡って!」
奥の荷車に向かって叫ぶ。
「このまま砦まで戻ってください! 残りはここで時間を稼ぎます!」
「軍師殿は!」
誰かが振り返って叫んだ。
「私は――」
喉が、そこで止まった。
橋の前に、もう一つの「噛ませどころ」があった。
雪で覆われた細い坂。
さっきラルスにロープの結び目を確認させた場所。
あそこに残って操作を続けるなら、誰かが最後までここにいなければならない。
石袋を落とす役、ロープを切る役、橋を渡り切った荷車の数を数える役。
(ここで私が残れば、全体の生存率は……)
思考が、そこまで進んだところで止まる。
それは、カイが昨夜言った言葉と重なっていた。
『勝手に「第五ゲーム」だけは始めんなよ』
自分の命をどこまで削ったら砦が得をするか、というゲーム。
父が好んでやっていた種類の計算。
シュアラ自身が、これまで何度も頭の中で試し書きしてきたゲーム。
背中の方から、別の音が聞こえた。
矢だ。
風を切る、短く鋭い音。
次いで、紙が裂ける感触が胸元に伝わった。
「……っ」
懐の手帳が、内側からぴしりと裂ける。
矢の先が紙を貫き、表紙をめくったところで止まっていた。
数歩遅れて、腕に鈍い痛みが走る。
毛皮と服だけを掠めた矢が、皮膚の上を焼いた。
「軍師殿!」
ラルスが悲鳴のような声を上げる。
「大丈夫です!」
即座に返す。
手帳を引き抜くと、真ん中あたりのページが破れていた。
父の会議室では、数字の桁で切り捨てていた部分だ。
(……切り捨てたはずの桁が、こっちに飛んできましたか)
胸の奥で、乾いた笑いが生まれかけて、すぐに消えた。
「ラルスさん!」
「はい!」
「橋を半分まで渡ったら、そこで一度だけ振り向いてください。団長の旗が見えたら、そのまま全力で砦まで!」
「団長の、旗……!」
ラルスの声に、別の色が混ざる。
遠くから、狼の紋章を描いた黒い旗が揺れていた。
雪煙の向こうで、騎士たちの列がこちら側へ突っ込んでくる。
雪原の空気が、別の戦場と繋がる音がした。
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