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本編

第21話 クロの仕事

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クロはとてもいい看板犬になった。権藤さん曰く、とにかく笑顔がいいらしい。クロの笑顔目当てに新規のお客さんが増えたというから驚きだ。最初は心配していた仕事ぶりも、力はあるから助かっているとのことで、俺はひとまず胸を撫で下ろした。

俺が帰るとクロは今日の出来事を全て報告する。そんな義務を課した覚えはないのだが、クロの話は不思議といつまでも聞いていられる。今日は菊を二百本水あげしたとか、お客さんにお菓子をもらったとか、他愛もない話だ。でも俺がいつまでも聞いていられる理由は、クロが心の底から仕事を楽しんでいるからだろう、と感じる。

「ほら、クロ。塗ってあげるからクリームを貸してみろ」

「キャンキャンキャンッ!」

若いとはいえ、水仕事は手をボロボロにさせる。だから権藤さんがハンドクリームを持たせてくれた。クロは手に触れると、とても気持ち良さそうな顔をする。クロのためというよりは、労っている満足感を得るために俺が必要としている行事でもあった。だから今日の出来事を聞きながら俺が塗ってあげるのは日課になった。

「今日、大人の男のお客さんが、おじちゃんに怒られてた」

「えぇ……権藤さんが? なんで」

「カンのやつ買ってあげるから家においでって言われて……」

 ハンドクリームを塗ってあげていた手が自然と止まった。そしてクロの大きな瞳を見つめる。

「クロはその男の人に缶の餌がほしいって言ったのか?」

「言ってない! ハルチカが飼い主で、カンのやつも、ネコのやつも、ハンバーガーも買ってくれるって……でもカンのやつ買ってほしいって言ってない!」

クロは耳を後ろに畳み、戸惑っていた。きっと、あの温厚な権藤さんが怒ったことに困惑し、お客さんが怒られた理由が処理しきれないのだろう。

「じゃあ、クロは悪くないよ。そのお客さんはクロを家に連れて帰って悪いことしようとしたんだ。だから権藤さんは怒ったんだよ」

「悪いことって?」

答えに窮して黙ってしまう。はじめて風呂に入った日を思い出し、自分がこんなことを言えた立場ではないという葛藤が胸に渦巻く。

 ダメだとわかっているのに、確認したい気持ちが暴れ出して、顔を傾けゆっくりクロの唇に近づく。クロは笑うように小さな息を吐き出し口を開いた。だからその息ごと唇を飲み込んだ。

「んぅ……く……」

無心で舌を絡ませていた時、クロの唇から苦しげな声が漏れた。その悩ましい声にカッと目覚めたように体を離す。

「こういうこと……だよ……」

「悪いことなの?」

「クロがその男の人とでも嫌じゃないなら、別にいいんだ。その時にはちゃんと権藤さんにも俺にもその人を紹介してくれ。世の中本当に怖い人間が多いんだ」

クロはわかったようなわかっていないような、曖昧な顔をしていた。犬は忠誠心が強いというが、言い換えれば餌をくれる人に忠実だともいえる。そんなことを考えたくもなかったが、餌をくれればクロは誰にだって懐くかもしれないのだ。

「クロ? どこに行くんだ?」

クロがスクッと立ち上がったからつい引き止めてしまう。

「俺の部屋! おじちゃんのクリーム、片付けてくる!」

「お、おう。もうすぐご飯だから……」

「はい!」

クロのために用意した部屋は元父の書斎兼寝室だ。母の部屋はあるにはあるが、現在物置として使っているに等しい。

クロは与えられた部屋に自分のお気に入りを入れていた。ボールや、服、下着、ハンドクリーム。量も価値もささやかで確認するまでもない。でも俺はクロが部屋に入る時寂寥感を抱くようになっていた。だからだろうか。いつまでもクロ専用の寝具を揃えず、いまだ俺のベッドで毎晩一緒に寝ていた。


クロが寝ると、俺は決まって後ろから抱きつき、そしてクロから漂う匂いに苛まれるようになっていた。こんなことは許されない。頭ではわかっているのに、クロの体を、クロの素肌を触ってしまう。それは愛犬を撫でるなんていう限度を超えていた。その証拠に俺の股間は引き攣れて痛いほどになっている。

昔のクロの面影。俺が学校から帰ってきた時、スクッと立ち上がるクロの姿が頭をよぎると、決まって罪悪感が込み上げてトイレに駆け込む。そして自分を慰めながらもありえないほどの動悸に襲われた。

俺も、きっとクロも。失った時間を取り戻すように、あの日の続きを望んでいた。母が死んだ日、そしてクロがいなくなった日。俺は確かに思春期で、もうすでに性衝動を抑えていた。しかしクロにこんな欲望を持った覚えは一度たりともない。

狭く薄暗いトイレで、自分の手に吐き出された欲望を目の当たりにする。そしてあの日のことを思い出すのだ。

首を吊った母の寝室から飛び出し、転んだ拍子に吐瀉物で廊下を汚す。父親の脳裏をかすめるが、もう2年も会っていない。自分の思い出した顔が父かどうかさえわからない。そこで一気に涙が込み上げて、泣きながら庭に出る。

裸足で踏んだ庭の感触を今でも覚えている。秋の乾いた空気。冬の孤独がわずかに漂う冷気。


そして。クロだけがいない風景。
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