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青葉、薫る刻 壱

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    閉めたカーテンの隙間から射し込む春の朝日に、瞼の裏を刺激され目を覚ました時、自分の部屋に居るにも関わらず、今の状況が分からなくて暫しぼんやりとしていた。

     天井を見詰めた、その数瞬の間を置いて目覚まし時計が鳴り響き、静寂な空気を打ち壊す。慌てて時計のアラームを止めると、部屋の中は静寂と穏やかに射し込む朝日に再び包まれた。

    体を起こしながら部屋の中を見渡す。この部屋に住んで二年目になるのに、余り物が置かれていない所為か、この空間は何処かガランとしていた。

    毎日、毎日見続けている同じ眺めのはずなのに何か違和感を感じているのは、昨日の所為だろうか?そうだ、きっと色々なことが昨日の為に違いない。部屋が変わった訳ではなく、部屋を見ている僕自身に変化が起きたからか……。

    寝癖の付いた髪を掻き、両手で両頬を二、三回軽く叩くと、違和感の訳を喉奥に呑み込んだ。

    部屋を出て、辿ったいつもの通勤経路の途中も違和感は変わらなかった。

いつもとは違う感覚を抱いたまま、会社へ着いてエレベーター待ちをしていると、僕の後ろからエントランスに駆け込んできた椎名さんが息を整えながら声を掛けてきた。

    「あっ、ととっ!ふぅ……間に合った。おはようっ!吉橋君。ん?どうしたの?」

    真坂が僕の手帳を拾った時の自分の慌て振りを思い出し、思わず椎名さんの様子をマジマジと見てしまった。同時に朝から抱いている違和感の続きを感じていた。僕の知っている椎名さんは、何時何時いつなんどきでも穏やかで明るく、何より落ち着いているのに。

    「あ、いや。椎名さんが慌ててるところなんて見たことなかったもので……どうかしました?」

    相手を見過ぎた気不味さから、自分でも分かるくらいのぎこちなさで視線を外した。

    「あ……吉橋君のことが気になったからさ」

    「え?」

    「あー、ほら身近な三面記事だからね。昨日でしょ?例の彼女との初デート」

    思わぬ話しの切り出しに内心、ギクリとしたが平静を装い、昨日駅前でチラシを配っていたおじさんに言ったのと同じことを繰り返した。

    「あの、デートじゃないし、彼女でもないですよ」

    「あ、そうなの?彼女って言ったのはそういう意味じゃないけど。名前知らないから、彼女って言うしかないでしょ?で、名前は?」

    「え……名前、ですか?……真坂さんというちょっと変わった名前の人です」

    そこまで言った時にエレベーターが一階に降りて来た。ドアが開くと、同じビルに事務所がある二、三人の会社員と一緒に乗り込む。

    狭いエレベーター内では、流石に会話を交わす訳にはいかないのだけど、椎名さんは何か言いたげにこちらをチラ見し続けている。

    僕達の会社の入っている階に着いてエレベーターを降りると、堰を切った様な勢いで話し掛けて来るので、心も体も一歩引く。

    「ね、ね、下の名前は?何て言うの?」

    「うん?真坂ですよ。名字が唐澤、だそうです」

    「えっ?」一瞬、そう一瞬だけ驚きの表情を見せた後はいつもの穏やかな顔に戻り、表情など変えなかったように取り繕う。

    「へぇ、吉橋君が女の人を下の名前で呼ぶの初めて聞いた気がする」

    「まあ、そうですよね……。初めて、ですね」

    辿々しく答えると「始業まで時間あるよね。もっと聞かせてよ」そう言うと腕を引いて休憩スペースに連行された。

    カップコーヒーを二つ手にして「どうぞ」と一つを差し出され、彼女は正面の席に座ると自分のコーヒーに口を付けた。

    「で、互いに名前で呼び合うんだ?」

      昨日、散々真坂と交わしたその話題を粋なり切り出され、危うくコーヒーを喉に詰まらせそうになる。

    「げ、げほっ……んぐ……はあ……いや、だからそういうんじゃないですって」

    否定はしたものの、事実はもちろん違う。

    過程や理由はともかく結果として名前で呼び合うことになったのは違いないのだから……。誰かにそれを知られることに何となく抵抗を感じていた。或いは言い方を変えれば、人に知られない秘密や隠し事を誰かと共有するという、細やかなにちょっとだけ心が踊っていたのかもしれない。

    幸い、椎名さんはに更なる詮索を加えることなく、次の関心事を振ってきた。

    「ふ~ん、まあいいか。で、デートは何処に行ったの?」

    今度は落ち着いてカップコーヒーを一口付け、喉の奥へとやると僅かにコーヒーの薫りが残る息を吐く。

    「……桜を観に行きました。県南の日本百選に入ってるところです」

    僕の言葉に口を付けかけたカップを離し、こちらを見返してくる。

    「あ、ああ。あそこ行ったんだ。綺麗だよね」 

    「そうですね、驚くくらい綺麗でしたね」

    「桜が?それとも彼女が?」

    「え、え?」引っ掛けられた、そう思って切り抜ける返答を探そうとしたが、間髪入れずに彼女はオチを着ける。

    「ああ……これは愚問だったね。吉橋君のそのリアクションが答えの全てか……」

    椎名さんの下した結論を前に、僕は弁解を放棄した。言っていることが事実かどうかは別にして、仕事も含めて全てにおいて一枚も二枚も上手の彼女に敵うとは思えない。それに、答えは僕の胸の内にそっとしておけばいいことだ。

    「まあ、何と言うか……あ、椎名さんもあそこ行ったんですか?」

    「うん?ああ、前にね」素っ気無い彼女の受け答えの後、話しを続けようとした時、椎名さんを呼ぶ声に遮られた。

    声の方を二人同時に振り返ると、塚本課長が片手を上げてこちらに笑顔を向けていた。

    「おーい、椎名君。今日同行して貰う外回りの打合せするから来てくれるか」

    声も笑顔も僕ではなく、椎名さんに向けられているんだろう。

    そう思っていると、声と笑顔を向けられた本人は「今日は一日、課長と一緒に外回りなの。また、話し聞かせてね」  僅かに微笑むと嬉嬉いそいそと席を立って行った。

    椎名さんの後ろ姿を見送りながら、僕は何か妙な気分になった。

    何だろう……この感覚……真坂に振り回された昨日と同じような感じは。

    目紛るしく変化する真坂と抜群の安定感の椎名さん……動と静、明と暗……あ、いや、明と暗は違うか。
とにかく、真逆かと思ったのに……。

    ……そうか、真坂と椎名さん、二人の共通点は前振りなく僕を驚かせることだ。素知らぬ顔で、然り気無く爆弾を放り込んでくる。

    そして僕は両手を挙げて降る他無い。自分自身を咀嚼して飲み込むのみ、なのだった。

   僕が関わりを持つ、数少ない人の共通点を見出だした日の夕方、その片方から呼出しを受けた。

    【吉橋君、今日はもう仕事片付いた?良かったら一緒にご飯食べない?】

    僕の携帯にメールを送ってきた第二号は椎名さんだった。

    以前の僕ならお断りをするところだが、真坂の所為か、誘いを受け入れた。

    真坂が聞いたら何て言うだろう?他人に心を開く、他人と関わる、きっとそれを勧める気がしたから。

    駅から離れたデパートのエントランスで待ち合わせをすることになり、僕は約束の時間の少し前には到着して暫く待った。十分程待っていると、デパート前のアーケード街の通路を歩いて来る椎名さんが見えた。

    彼女もこちらを見つけると小走りに近付いて来る。

    「吉橋君、ごめん。待った?」小走りで揺れて少し乱れた髪を整えながら言った声は、ちょっとだけ上擦っているように聞こえた。

    「いえ、全然。丁度今来たところですから」彼女の様子を受けて殊更、平常を意識する。

    「どう?お腹空いてる?」髪を整え終えた彼女は弾んだ声で訊いてくる。……弾んでいる、というのは僕の気の所為かもしれないけど。

    「えっと……まあ、空いてると言えば空いてますけど。少しお茶してからにしますか?」

    一瞬、ジッとこちらを見た後、笑みを溢す。

    「だーめっ!私、めっちゃお腹空いてるもの。今日は一日歩きっぱなしで。あ~あ、疲れたぁ」

    旺盛な食欲……それも誰かと同じだな、昨日食べ歩いた光景が脳裏を掠めた。

    何を食べるか、短い会話の後彼女の主張する、美味しい豚カツを食べることに決まり、僕達はアーケード街を目的地の豚カツ屋目指して歩き始めた。

    彼女と真坂に幾つかの共通点を見出だしていたが、歩く時は全く違った。

    前を歩いては時々振り返る真坂と違い、彼女は真横を付かず離れずの距離感で寄り添い歩く。そして話し掛ける時だけ、こちらを覗き込むように顔を向ける。

    「今日は本当にしんどかったよ。吉橋君は?今日は何処を回ったの?」

    「あ、いや、今日は内勤で。資料整理と新しい営業ツールの作成をしました……すみません」ばつが悪く最後は声も細々となる。

    「ん、ああ、まあ内勤も大事だよね。でも、あまりお腹空いてないって言っても豚カツ付き合ってもらうからね。奢るからさ」

    話しをしながら十分程歩くとお目当ての豚カツ屋に着いた。飲食店ビルの狭いエレベーターに乗り、上階の店の入り口に立って見ると、高級専門店の醸し出す落ち着いた雰囲気が漂う。
    
    「いらっしゃいませ」女性店員の丁寧な出迎えの言葉とお辞儀に迎えられ、店内の奥のテーブル席に腰を落ち着けた。周囲を見渡すと黒で纏められた高級感のある内装が目に入り、僕はやや緊張する。

    そんな僕を捨て置き、彼女は渡されたメニューを捲り、意外なくらいの真剣な表情で見詰めている。

    「迷うね。どれも美味しそうなんだよね。吉橋君は?決めた?」

    僕も少し迷ったけど「じゃあ、このロースカツ御膳の上、で」と自分の注文を伝えた。

    「それかぁ、それもいいね。私もそうしようかな」独り言のように呟くと店員を呼んで注文した。

    「あ、すいません。このロースカツ御膳の二つで」

    「ご注文を繰り返します。ロースカツ御膳特上を二つで宜しいでしょうか」

    注文を受け終わった店員を見送った後、彼女に姿勢を正して向き合う。

    「すみません。特上にして貰って」

    クスリと笑みを浮かべて「いいの、いいの。奢るって言ったでしょ?どうせなら美味しいの食べたいし……ね」そう言う顔は本当に嬉しそうだ。

    「その代わりと言ったら何なんだけど、昨日のデートの話し聞かせてよ」

    「今朝も言いましたけど、デートじゃないし、彼女でもないですよ」

    「でも名前で呼び合うんでしょ?他の人ならともかく、吉橋君が、となると想像出来なくて……」

    「人ともっと関われって言ったの椎名さんですよ?」

    目と口許を開いてちょっと照れを隠すように「ああ、そうだったね。そっか……それを実行してくれたんだもんね」言いながら横に視線を外した。

    椎名さんは、人と関われと言ったかと思えば、真坂と会う話しをした時は何故か否定的なことを言ってたし……その辺どうなんだろう?

    「あの、椎名さん……」言い掛けた時、何か思い出したように「あっ」と声を上げて再び僕に視線を向けてきた。

    「あ、良かったらこれあげるね」そう言ってバッグから取り出し差し出されたのは、一片の栞らしいものだった。

    和紙に桜の花弁を押して作られたそれを手に取って指でなぞる。

    「これは?椎名さんが作ったの?」

    「……ううん、私じゃないの。貰ったんだ」    

    一瞬の間を置き、言葉を選ぶ様を見て、何を迷ったのかが気に掛かった。

    「誰からです?」

    「塚本課長……あ、課長が作ったんじゃないよ。娘さんが作ったんだって……吉橋君が行ったのと同じ場所らしいよ。二つ貰ったから吉橋君にあげる」

    「僕が持っていていいんですかね?」

    「いいの、いいの。貰った以上は私のものなんだから。それとも、要らない?」

    そこまで言われたら普通断れるものじゃない。

    「いえ、頂きます。でも、これ結構凝った作りですね。課長の娘さんってまだ小さいのに、すごいなぁ」

    「お母さんと一緒に作ったんだって。それをパパにプレゼント……ってね」

    ん?聞いていて何か違和感を感じた。

    「そんな大事な栞なのに、課長から貰うなんて……流石、課長の片腕は違いますね」

    全然、他意も何も無く言ったこの一言の為に、僕は今まで見たことのない彼女の表情を垣間見ることになる。

    そして人として完璧とは程遠い自分を思い知った。

    「片腕……何かじゃないよ。それに……まるで貰った私が悪く聞こえない?……悪いのは……課長だよ」

    今まで見たことの無い、何かに嫌悪する表情と彼女らしからぬ言葉に体が硬直するのがはっきりと分かる。




    

    


   






    
    





    




    
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