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青葉、薫る刻 肆
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その朝僕を眠りから覚ましたのは、眠ったまま握り締めていた携帯の着信音だった。
朝の静けさを打ち破った携帯の発信者表示を眼半分で眺める。
よく知っているけど最近では馴染みの無いその名前を頭の中で捲り、漸く面影まで辿り着いた所で電話に出た。
『う……ん。もしもし、どうした?』
まだ半分以上は眠っている僕の鼓膜を、久々に聞く明朗快活な声が刺激した。
『もしもーし!龍兄?ちょっと起きてる?』
『んあ?あ、ああ。琴璃か……起きてるよ』
『もうすぐゴールデンウィークだけど、こっち帰って来ないの?父さんも母さんも元気にしてるか心配してるよ』
ゴールデンウィーク……会うのは無理と真坂は言っていたけど「会えない」理由が何なのか、それが頭から離れず、正直帰省する気にはなれなかった。
『こっちに用事もあるし、今回は帰らない、かな』
『え~っ?!今回は、じゃないでしょっ?今回でしょっ!お正月も帰って来なかったのに。まさか、とは思うけど女じゃないでしょうね?』
まさか=真坂と女という言葉にまだ半分睡魔に捕らわれていた眠気も吹き飛んだ。
『そんな訳ないだろ。って言うか琴璃が気にすることじゃないだろ』
人は事実を突き付けられると動揺する、というのは本当らしい。
本当の妹じゃないとは言え、小学生の頃から一つ屋根の下に暮らしているだけはある。琴璃の観察眼の確かさは昔からで、何時何処で観ているのか分からないけど、本心を突かれること度々だった。
『何か怪しいな……。動揺してない?』
『何も怪しくなんてないって』
『…………』妙な間と小さな溜息を挟んで、琴璃は想定外の一言を放った。
『じゃあ、私が行こうかな……』
『は、はあぁ?何故そうなるんだ?』
『だって、私……父さんと母さんから帰って来ないなら様子見てこいって言われてるし。そっちの方行ったことないから。いいよね?疚しいこと無いんでしょ?』
『疚しいことなんて無いに決まってるだろ……』
『じゃあ、決り~っ!休みに入ったらすぐ行くから部屋片付けて、見られたら困る物隠しときなよ』
『そんなの無いし……え、琴璃ここに泊まるのか?』
『妹が兄の所に泊まって何が悪いの?じゃあ、楽しみにしてるね。行ったらあちこち連れて行ってね、お兄ちゃん』
こうして真坂と何処か出掛けようかと計画していたゴールデンウィークの予定は、戸籍上の妹の琴璃と過ごすことになった。考えてみれば、琴璃と会うのは一年半振りくらいか……。
明朗快活、積極果敢、僕とは性格や人間性の反対極にいる琴璃と数日過ごすことを思ったら既に心は疲労感に包まれた。
それから数日の間、真坂と会う約束についてこれといった進展はなかった。
メールで何度かやり取りはあったものの、その度に返される内容と言ったら『まだ、予定分からないなぁ』『もうちょっとだけ待ってくれる?』そんな気持ちを砕く言葉ばかり。
僕の心中が緩やかな下降線を辿り始めていた頃、思いも寄らず椎名さんに相談をする羽目になった。
その日は丁度同じ時間に外回りを終えて帰社した椎名さんと顔を会わせた。
そうした中で最近の共通の話題として、真坂のことが話に上がったのは自然な流れかもしれない。
「あ、お疲れ~。今、終わり?今日はどうだった?」
「今日はダメでした。最近何か下降線で……」景気の悪い表情と力の入らない声で答える。
最近分かったのだけど、僕の場合プライベートと仕事の調子は同調するらしい。どちらがどちらに影響しているのかは確かじゃないけど。
「あっちの方は?」必要の無い瞳の輝きを伴いながら言う……。
「あっち?」何の話しかは想像つくけど。
「うん。そうあっち!」期待感から声に力が入ってるよ……。
「ん?え~と、あっち?」白々しく惚けてみたが無駄だった。
「分かって惚けてる?君の運命の人だよ」
際限無い受け答えをしても不毛なので、こちらが折れることにした。大概はそうなんだけど。
「いや、特に何も無くて……。次の予定も決まってないし……」
「ふ~ん、何にも……か。じゃあ、連休は?」
「そこは都合が悪いと言われました」
「じゃあさ、私と遊ぶ?」
何と無く予想した展開なんだけどな……。
「ゴールデンウィークは妹が来る予定なんです」
「ええっ?妹いたんだ?そんな話し聞いたこと無いけど」
家族の話しなんて、殆ど他人に話したことは無い。勿論、自分自身のことも。
「話したこと無いですから。一人いますよ。二つ下のが」
「じゃあさ……」
「いや、会わないですよ」機先を制して断ろうとしたが、相手は手強い。さすがは椎名さんだ。
「え~?どうしてよ。真坂ちゃんにも会えない。妹ちゃんにも会えないって……」
「妹ちゃん……て。」
「名前は?名前くらいはいいよね?」
何かペースに引き込まれている気もするけど「琴璃です。楽器の琴に瑠璃色の璃でことりと読みます」
「へえ、琴璃ちゃんか。可愛いじゃない。会わせてよ」
「兄妹、水入らずで過ごそうかと……」実の所は琴璃に椎名さんと会わせると面倒だし、真坂のことを話されたら琴璃に騒がれるだろうし、いいことは無い。
「…………」暫く黙り込んでいる様子から、諦めてくれたか……一瞬そう思ったが、違った。
僅かに口許を緩めたかと思うと、何か企みを持った表情を浮かべながら「まあ、それなら仕方無いね。吉橋君、この後時間あるよね?ご飯かお酒飲みに行かない?」そう言って僕を見据えて反応を窺っている。
これは明らかにお酒を飲ませてあれこれ聞き出すつもりに違いない。
椎名さんが僕にとって関わりを持つ、数少ない人だとしても、何もかも曝け出す気にはなれない。それに、別の用事もあるのだから、今日の所は断るしかない。
「すみません。今日はちょっと用事があって……」
「真坂ちゃん?違う?」
「違いますよ。妹が来るので布団を買いに行きます」
「布団?」
「はい。布団です。部屋にはシングルベッド一つだけですから」
「そうか……妹とは言えいい大人の男女が一緒には寝られないよね」
本当は妹じゃなくて従兄妹なんどけど、言う必要も無いし、言ったら言ったでどうなるかは想像に難くないので沈黙でスルーする。
これで今日は解放される――そう思った僕はこの後、まだまだ椎名さんの本質を理解していないことを思い知る。
「そっか……じゃあ……一緒に行こっかな」
思わず聞き漏らしてしまいそうなくらいの声でポツリと言った一言を僕の聴覚は捉えていた――けど、覗き込むその顔から目を逸らして沈黙で返した。
「もし、もーしっ!一緒に行こうかな」今度は真正面からガッツリ見詰められたものだから、さすがに惚けられない。
「な、何?」
「聞こえてたでしょ?一緒に行ってあげるって言ったの」
正直、他人が布団を買うのにわざわざ付いてくる気が知れない。
どう断るか……逃げ道を探し始めた僕を追い詰めるように椎名さんは言葉の壁で囲い込んでくる。
「琴璃ちゃんがぐっすり眠れるように私が選んであげるよ。ほら、良い睡眠は美容に欠かせないって、聞いたことない?」
何処かで聞いたような、尤もらしい言葉に内心頷いてしまうところだった。危ない、危ない。
「そうかもしれない――ですけど。気持ちだけで……」そう話しを切り上げようとする僕を椎名さんは慌てて制止しようとして来る。
「ちょ、ちょっと待ってよ。仕事助けてあげてるよね?最近、仕事が順調なのは誰のお蔭かな?」
「…………」痛いところ突いてくるなぁ。
確かに今何とか仕事が回ってるのは、椎名さんあってこそなんだけど……。
付いて来る来ないで詰められてから一時間後、 結局僕は同伴者を連れて、自分の部屋から程近い寝具インテリアの量販店にいる。
店内の寝具売り場で商品を見始めてみると、思ったより多くの種類があって意外に迷う。
「ねえ、吉橋君。何買うか決めてるの?」商品の説明書きを見ながら同伴者が訊いてくる。
「特にこれっていうのは無いんですけど」布団の手触りを確かめて答える僕。
「ふーん、そうなの。でも、羽根布団よりは羽毛布団だよね」
「どうしてですか?」
「あれ?知らない?ダウンを五十パーセント以上使ってるのが羽毛、五十パーセント未満が羽根だよ。琴璃ちゃんになら羽毛じゃない?」
知らなかった。布団なんて寝られさえしたら、何でもいいと思っていたし……。それに、この時期ならもう少し薄手の布団でもいいか、と思っていたから羽毛布団とか想定外だった。
「そんなに拘りも無いし、もう少し薄手のでもいいかな、と思ってたんですけど」言ってはみたものの案の定、同伴者に窘められた。
「妹、大事にしないと。それに冬に泊まらないとは限らないでしょ?」
言いながら口角を上げ、意味深な笑みを浮かべている。
何か企みでもあるのかと勘繰り始めた時、つり上がった口角が僅かに開いた。
「……それに、泊まるのが琴璃ちゃんだけとは限らないしね」
布団を触る手を止め、何か言い返そうとしたが、それを察しての椎名さんの反応の方が早かった。
「あ、言っとくけど真坂ちゃんとか……私とか、特定の人のこと言ってる訳じゃないからね」
「もちろん。そんなこと考えてないですよ」……考えたけど。
日常生活に最低限必要な物しかない、ガランとしたあの部屋に誰かを招いて、あの空間で時を一緒に過ごす――考えてみたけど、やはりそれを頭のなかで可視化することは出来なかった。
何故か――その為に必要な要素、対人関係の経験値が僕には圧倒的に足りないから。そのことは何年も前から分かってることだ。
結局、椎名さんの提案に反論する根拠を見出だせなかった僕は、それを受け入れた。
それは決して嫌々ながら、ではなく自然に僕の内面に染み込むように入ってきた。
これは真坂と会ってから僕の中で起きた、何て言うか――そう、化学反応みたいな現象だ。
今の自分の変化を噛み締めながら会計をしていたら、店員さんの言った言葉を聞き逃してしまった。
「……は、はい?」
「はい、ではお持ち帰りということで。会計済みのシールを貼らせて頂きますね」
「え?持ち帰り?あ、車で来てないので。配送は出来ま……」焦って店員さんに言い返そうとしたら――遮られた。
もちろん、隣の同伴者に。
「持って帰ろうよ。いいじゃない。近いんだし、私も手伝ってあげるからさ単語」
手伝うって……それは、部屋まで来るってこと?
いや、ちょっと待て……それは困る。
何に困るという訳じゃないけど、今はまだ他人を部屋に入れる気分じゃないというか……何て言ったらいいんだ?
「いや、それは……ちょっと。何て言うか、う~ん」想定外なこと言われたら口籠るじゃないか。
「何もそんなに困ることないでしょ?いつも誰に助けられてるんだっけ?」
「ん……椎名さん、です。……分かりました。じゃあ、お願い……します」もう折れるしかない。
僕達は予想を裏切らない展開の果てに、布団を買った量販店から歩いて二十分のアパートの玄関ドア前に佇んでいる。
「どうしたの?ドア開けないの?」当たり前という雰囲気を声色に乗せて訊いてくる。
ここまでで帰って下さい――そう言えたらどんなにいいか……でも現実にはそれはやはり無理だと悟って、鍵を取り出しドアを開けた。
ガチャッ!ドアノブを押して開ける音が、薄暗くなった部屋に響く。
玄関横の照明スイッチに手を伸ばし灯りを点け、部屋が明るい白色シーリングの光に照らされた。
部屋に灯りが点された数瞬後、背後から小さな驚きの声洩れる。
「あっ……シンプルな、部屋だね」
「物が少なくて驚いてるでしょ?」
「ううん。吉橋君の為人から部屋が物で溢れ返ってるのは想像出来ないし。でもまあ、少ないね」
確かにこの部屋にあるものと言ったら、家電は洗濯機と冷蔵庫、電子レンジ、トースター、エアコン、温風ヒーターにテレビくらい。あとは小さなチェストとベッド、ローテーブル……あ、一つ忘れていた――この部屋にあるもので買う際に一番迷ったもの、コーヒーメーカーがあった。
とにかく、それらが点在する室内は空間を遮る物が無いのは事実だった。
「……ですね。あ、すいません。布団、そこのキッチンの横に置いてください。何か飲み物用意しますから、良かったら上がって下さい」
「ありがとう。へぇ~、上げてくれるとは思わなかった」
「手伝って貰ったのに、そこまで常識無い訳じゃないですよ。コーヒーでいいですか?」
椎名さんは「よいしょっと」布団を置くとあまり見せたことのない表情を浮かべて、こちらを振り返る。
朝の静けさを打ち破った携帯の発信者表示を眼半分で眺める。
よく知っているけど最近では馴染みの無いその名前を頭の中で捲り、漸く面影まで辿り着いた所で電話に出た。
『う……ん。もしもし、どうした?』
まだ半分以上は眠っている僕の鼓膜を、久々に聞く明朗快活な声が刺激した。
『もしもーし!龍兄?ちょっと起きてる?』
『んあ?あ、ああ。琴璃か……起きてるよ』
『もうすぐゴールデンウィークだけど、こっち帰って来ないの?父さんも母さんも元気にしてるか心配してるよ』
ゴールデンウィーク……会うのは無理と真坂は言っていたけど「会えない」理由が何なのか、それが頭から離れず、正直帰省する気にはなれなかった。
『こっちに用事もあるし、今回は帰らない、かな』
『え~っ?!今回は、じゃないでしょっ?今回でしょっ!お正月も帰って来なかったのに。まさか、とは思うけど女じゃないでしょうね?』
まさか=真坂と女という言葉にまだ半分睡魔に捕らわれていた眠気も吹き飛んだ。
『そんな訳ないだろ。って言うか琴璃が気にすることじゃないだろ』
人は事実を突き付けられると動揺する、というのは本当らしい。
本当の妹じゃないとは言え、小学生の頃から一つ屋根の下に暮らしているだけはある。琴璃の観察眼の確かさは昔からで、何時何処で観ているのか分からないけど、本心を突かれること度々だった。
『何か怪しいな……。動揺してない?』
『何も怪しくなんてないって』
『…………』妙な間と小さな溜息を挟んで、琴璃は想定外の一言を放った。
『じゃあ、私が行こうかな……』
『は、はあぁ?何故そうなるんだ?』
『だって、私……父さんと母さんから帰って来ないなら様子見てこいって言われてるし。そっちの方行ったことないから。いいよね?疚しいこと無いんでしょ?』
『疚しいことなんて無いに決まってるだろ……』
『じゃあ、決り~っ!休みに入ったらすぐ行くから部屋片付けて、見られたら困る物隠しときなよ』
『そんなの無いし……え、琴璃ここに泊まるのか?』
『妹が兄の所に泊まって何が悪いの?じゃあ、楽しみにしてるね。行ったらあちこち連れて行ってね、お兄ちゃん』
こうして真坂と何処か出掛けようかと計画していたゴールデンウィークの予定は、戸籍上の妹の琴璃と過ごすことになった。考えてみれば、琴璃と会うのは一年半振りくらいか……。
明朗快活、積極果敢、僕とは性格や人間性の反対極にいる琴璃と数日過ごすことを思ったら既に心は疲労感に包まれた。
それから数日の間、真坂と会う約束についてこれといった進展はなかった。
メールで何度かやり取りはあったものの、その度に返される内容と言ったら『まだ、予定分からないなぁ』『もうちょっとだけ待ってくれる?』そんな気持ちを砕く言葉ばかり。
僕の心中が緩やかな下降線を辿り始めていた頃、思いも寄らず椎名さんに相談をする羽目になった。
その日は丁度同じ時間に外回りを終えて帰社した椎名さんと顔を会わせた。
そうした中で最近の共通の話題として、真坂のことが話に上がったのは自然な流れかもしれない。
「あ、お疲れ~。今、終わり?今日はどうだった?」
「今日はダメでした。最近何か下降線で……」景気の悪い表情と力の入らない声で答える。
最近分かったのだけど、僕の場合プライベートと仕事の調子は同調するらしい。どちらがどちらに影響しているのかは確かじゃないけど。
「あっちの方は?」必要の無い瞳の輝きを伴いながら言う……。
「あっち?」何の話しかは想像つくけど。
「うん。そうあっち!」期待感から声に力が入ってるよ……。
「ん?え~と、あっち?」白々しく惚けてみたが無駄だった。
「分かって惚けてる?君の運命の人だよ」
際限無い受け答えをしても不毛なので、こちらが折れることにした。大概はそうなんだけど。
「いや、特に何も無くて……。次の予定も決まってないし……」
「ふ~ん、何にも……か。じゃあ、連休は?」
「そこは都合が悪いと言われました」
「じゃあさ、私と遊ぶ?」
何と無く予想した展開なんだけどな……。
「ゴールデンウィークは妹が来る予定なんです」
「ええっ?妹いたんだ?そんな話し聞いたこと無いけど」
家族の話しなんて、殆ど他人に話したことは無い。勿論、自分自身のことも。
「話したこと無いですから。一人いますよ。二つ下のが」
「じゃあさ……」
「いや、会わないですよ」機先を制して断ろうとしたが、相手は手強い。さすがは椎名さんだ。
「え~?どうしてよ。真坂ちゃんにも会えない。妹ちゃんにも会えないって……」
「妹ちゃん……て。」
「名前は?名前くらいはいいよね?」
何かペースに引き込まれている気もするけど「琴璃です。楽器の琴に瑠璃色の璃でことりと読みます」
「へえ、琴璃ちゃんか。可愛いじゃない。会わせてよ」
「兄妹、水入らずで過ごそうかと……」実の所は琴璃に椎名さんと会わせると面倒だし、真坂のことを話されたら琴璃に騒がれるだろうし、いいことは無い。
「…………」暫く黙り込んでいる様子から、諦めてくれたか……一瞬そう思ったが、違った。
僅かに口許を緩めたかと思うと、何か企みを持った表情を浮かべながら「まあ、それなら仕方無いね。吉橋君、この後時間あるよね?ご飯かお酒飲みに行かない?」そう言って僕を見据えて反応を窺っている。
これは明らかにお酒を飲ませてあれこれ聞き出すつもりに違いない。
椎名さんが僕にとって関わりを持つ、数少ない人だとしても、何もかも曝け出す気にはなれない。それに、別の用事もあるのだから、今日の所は断るしかない。
「すみません。今日はちょっと用事があって……」
「真坂ちゃん?違う?」
「違いますよ。妹が来るので布団を買いに行きます」
「布団?」
「はい。布団です。部屋にはシングルベッド一つだけですから」
「そうか……妹とは言えいい大人の男女が一緒には寝られないよね」
本当は妹じゃなくて従兄妹なんどけど、言う必要も無いし、言ったら言ったでどうなるかは想像に難くないので沈黙でスルーする。
これで今日は解放される――そう思った僕はこの後、まだまだ椎名さんの本質を理解していないことを思い知る。
「そっか……じゃあ……一緒に行こっかな」
思わず聞き漏らしてしまいそうなくらいの声でポツリと言った一言を僕の聴覚は捉えていた――けど、覗き込むその顔から目を逸らして沈黙で返した。
「もし、もーしっ!一緒に行こうかな」今度は真正面からガッツリ見詰められたものだから、さすがに惚けられない。
「な、何?」
「聞こえてたでしょ?一緒に行ってあげるって言ったの」
正直、他人が布団を買うのにわざわざ付いてくる気が知れない。
どう断るか……逃げ道を探し始めた僕を追い詰めるように椎名さんは言葉の壁で囲い込んでくる。
「琴璃ちゃんがぐっすり眠れるように私が選んであげるよ。ほら、良い睡眠は美容に欠かせないって、聞いたことない?」
何処かで聞いたような、尤もらしい言葉に内心頷いてしまうところだった。危ない、危ない。
「そうかもしれない――ですけど。気持ちだけで……」そう話しを切り上げようとする僕を椎名さんは慌てて制止しようとして来る。
「ちょ、ちょっと待ってよ。仕事助けてあげてるよね?最近、仕事が順調なのは誰のお蔭かな?」
「…………」痛いところ突いてくるなぁ。
確かに今何とか仕事が回ってるのは、椎名さんあってこそなんだけど……。
付いて来る来ないで詰められてから一時間後、 結局僕は同伴者を連れて、自分の部屋から程近い寝具インテリアの量販店にいる。
店内の寝具売り場で商品を見始めてみると、思ったより多くの種類があって意外に迷う。
「ねえ、吉橋君。何買うか決めてるの?」商品の説明書きを見ながら同伴者が訊いてくる。
「特にこれっていうのは無いんですけど」布団の手触りを確かめて答える僕。
「ふーん、そうなの。でも、羽根布団よりは羽毛布団だよね」
「どうしてですか?」
「あれ?知らない?ダウンを五十パーセント以上使ってるのが羽毛、五十パーセント未満が羽根だよ。琴璃ちゃんになら羽毛じゃない?」
知らなかった。布団なんて寝られさえしたら、何でもいいと思っていたし……。それに、この時期ならもう少し薄手の布団でもいいか、と思っていたから羽毛布団とか想定外だった。
「そんなに拘りも無いし、もう少し薄手のでもいいかな、と思ってたんですけど」言ってはみたものの案の定、同伴者に窘められた。
「妹、大事にしないと。それに冬に泊まらないとは限らないでしょ?」
言いながら口角を上げ、意味深な笑みを浮かべている。
何か企みでもあるのかと勘繰り始めた時、つり上がった口角が僅かに開いた。
「……それに、泊まるのが琴璃ちゃんだけとは限らないしね」
布団を触る手を止め、何か言い返そうとしたが、それを察しての椎名さんの反応の方が早かった。
「あ、言っとくけど真坂ちゃんとか……私とか、特定の人のこと言ってる訳じゃないからね」
「もちろん。そんなこと考えてないですよ」……考えたけど。
日常生活に最低限必要な物しかない、ガランとしたあの部屋に誰かを招いて、あの空間で時を一緒に過ごす――考えてみたけど、やはりそれを頭のなかで可視化することは出来なかった。
何故か――その為に必要な要素、対人関係の経験値が僕には圧倒的に足りないから。そのことは何年も前から分かってることだ。
結局、椎名さんの提案に反論する根拠を見出だせなかった僕は、それを受け入れた。
それは決して嫌々ながら、ではなく自然に僕の内面に染み込むように入ってきた。
これは真坂と会ってから僕の中で起きた、何て言うか――そう、化学反応みたいな現象だ。
今の自分の変化を噛み締めながら会計をしていたら、店員さんの言った言葉を聞き逃してしまった。
「……は、はい?」
「はい、ではお持ち帰りということで。会計済みのシールを貼らせて頂きますね」
「え?持ち帰り?あ、車で来てないので。配送は出来ま……」焦って店員さんに言い返そうとしたら――遮られた。
もちろん、隣の同伴者に。
「持って帰ろうよ。いいじゃない。近いんだし、私も手伝ってあげるからさ単語」
手伝うって……それは、部屋まで来るってこと?
いや、ちょっと待て……それは困る。
何に困るという訳じゃないけど、今はまだ他人を部屋に入れる気分じゃないというか……何て言ったらいいんだ?
「いや、それは……ちょっと。何て言うか、う~ん」想定外なこと言われたら口籠るじゃないか。
「何もそんなに困ることないでしょ?いつも誰に助けられてるんだっけ?」
「ん……椎名さん、です。……分かりました。じゃあ、お願い……します」もう折れるしかない。
僕達は予想を裏切らない展開の果てに、布団を買った量販店から歩いて二十分のアパートの玄関ドア前に佇んでいる。
「どうしたの?ドア開けないの?」当たり前という雰囲気を声色に乗せて訊いてくる。
ここまでで帰って下さい――そう言えたらどんなにいいか……でも現実にはそれはやはり無理だと悟って、鍵を取り出しドアを開けた。
ガチャッ!ドアノブを押して開ける音が、薄暗くなった部屋に響く。
玄関横の照明スイッチに手を伸ばし灯りを点け、部屋が明るい白色シーリングの光に照らされた。
部屋に灯りが点された数瞬後、背後から小さな驚きの声洩れる。
「あっ……シンプルな、部屋だね」
「物が少なくて驚いてるでしょ?」
「ううん。吉橋君の為人から部屋が物で溢れ返ってるのは想像出来ないし。でもまあ、少ないね」
確かにこの部屋にあるものと言ったら、家電は洗濯機と冷蔵庫、電子レンジ、トースター、エアコン、温風ヒーターにテレビくらい。あとは小さなチェストとベッド、ローテーブル……あ、一つ忘れていた――この部屋にあるもので買う際に一番迷ったもの、コーヒーメーカーがあった。
とにかく、それらが点在する室内は空間を遮る物が無いのは事実だった。
「……ですね。あ、すいません。布団、そこのキッチンの横に置いてください。何か飲み物用意しますから、良かったら上がって下さい」
「ありがとう。へぇ~、上げてくれるとは思わなかった」
「手伝って貰ったのに、そこまで常識無い訳じゃないですよ。コーヒーでいいですか?」
椎名さんは「よいしょっと」布団を置くとあまり見せたことのない表情を浮かべて、こちらを振り返る。
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