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1章 寝取られ惣助
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「……君、芳本君」
グレーの作業着の肩を叩かれて、惣助はハッと顔を上げた。
「何ですか、課長」
慌てて立ち上がると、困ったような顔で、課長が
「もう昼休みが終わる時間だが、君、食事を取ってないんじゃないか?」
と、時計を指し示す。見ると、そろそろ午後一時になろうとしていた。
他の同僚たちは、それぞれ食事から帰ってきて、午後の仕事を始める体制に入っている。
「あ……、気が付きませんでした」
「じゃあ、芳本君は、今から昼休みということにしておこうか」
食欲は無かったが、課長の提案に素直にうなずくと、惣助は立ち上がった。
しかし、まだ、課長は心配げに惣助を見ている。
「……芳本君、体調が悪いんじゃないか?去年からの仕事も、ようやく片が付いたし、調子が悪いなら、今日はもう帰ったらどうだ」
仕事人間の課長に、思わぬことを言われて、惣助は驚いた。見ると、周りの同僚も頷いている。
今日の惣助の様子の尋常でなさは傍目にも明らかであったらしい。
惣助は、小さく息をつき軽く頭を下げる。
「……お気遣いありがとうございます。ちょっと食事に行ってきます」
「たまには、早く帰って嫁さんを可愛がってやれよ」
同僚から飛んだ軽口に、背中が強張った。それには答えず、作業着のまま足早に部屋を退出した。
結奈の情事を目撃してから、今日で1か月がたっていた。
結局、惣助は、結奈に浮気を問いただすことはできなかった。
かといって、今まで通り振る舞うことなど、できるわけもない。
結果、現実から目をそむけるように仕事に打ち込んで、結奈を避け続ける日々を過ごしていた。
そんな惣助に対して、最初は拗ねたり心配したりする素振りを見せていた結奈も、「仕事だからしょうがない」とだんだん文句を口にすることが少なくなっていったのだが。
その状況に変化が訪れたのは、昨日の朝だった。
数日前から調子が悪そうにしていた結奈が、惣助の朝食の準備中にトイレに駆け込んで嘔吐したのだ。
さすがに惣助も無視することができず、結奈に声をかけた。
「風邪か?薬飲んどくか、早めに病院に行ったらどうだ?」
「うん、そうね……」
そう答えつつも、結奈はぼんやりと、薬箱を眺めている。結奈を気にしつつも、そのまま惣助は家を出た。
その晩、惣助が遅く帰ってくると、結奈は珍しく先に床に着いていた。
珍しく思いつつも、静まり返ったリビングで一人寛いでいた惣助だったが、何気なく覗いたくずかごで、見慣れないピンクの箱を見つけたてしまった。
まさか、という恐れに突き動かされ、拾い上げたその箱は『妊娠判定試薬』。
この1か月はもちろんのこと、それ以前から4か月以上、結奈と惣助は関係を持っていなかった。
そして今朝、寝不足の惣助がそそくさと家を出ようとする背中に、掛けられた、結奈の声。
「ね、あのね、今日も遅いの?話したいことがあるんだけど……」
『ハナシタイコトガアルンダケド』
その言葉に何と答えたのかも覚えていない。
習慣とはおそろしいもので、気が付けば会社に来て、仕事をしていた。
『――今日はもう帰ったら』
今日こそは、家に帰りたくなかった。結奈のいる家には。
だからと言って、このまま逃げ続けることは、もはや不可能なのだ。
昼休みの時間帯が過ぎ、人通りの少なくなったオフィス街を、惣助は力なく歩きはじめた。
もし、結奈が妊娠しているなら、当然、惣助の子供ではない。
産むのか、堕ろすのか。相手は一体誰なのか。俺と別れて、子供の父親と結婚するつもりなのか。
いや、まだ妊娠しているとは限らない。
けれど、妊娠していなかったとしても、他の男と関係を持っている妻とこのまま暮らしていくことなどできない。
いったい自分はどうすればいいのか。
結奈は、自分に何を言うつもりなのか。
重い頭をタールのようにグルグルと巡る思考は終りがなく、惣助はうつむいたまま、いつもの定食屋への道を惰性で歩いていた。
と、突然、ドスン、という衝撃が右から襲った。
「キャッ」
「うわっ」
しりもちをついた惣助が顔を上げると、右手の細い路地で、黒いスーツの女性が同じように地面に座り込んでいる。周りには、段ボールの箱が2つ散らばっていた。
「いたたた、あ、ごめんなさい、大丈夫ですか?」
座り込んだままの女性が、こちらに気が付いて声を上げた。
「すいません、荷物で前が良く見えなくて……お怪我はありませんか?」
「いえ、大丈夫です。こちらこそ、ぼんやりしてたもので、すいません」
ようやく、目の前の女性にぶつかったらしいと理解した惣助は、服を叩きながら立ち上がった。
女性も立ち上がろうとしたようだったが、
「いっつ」
足に手をあてて、再度座り込んでしまった。
「あの、どうぞ」
「ありがとうございます」
恐る恐る手を貸すと、彼女は縋り付くようにして、立ち上がった。しかし、すぐに崩れるように惣助にしがみつくことになった。
「ッつぅ」
痛みに眉をしかめる彼女は、目鼻のくっきりした美女だった。さらりと流れるセミロングの髪から匂う麝香のような香りと、右腕に押し付けられるたっぷりとした胸の感触。
疲れていたはずの惣助の、男の本能がくすぐられる。
「ちょっと捻っちゃったみたいで……ごめんなさい」
「いえ、俺がよそ見していたせいです、こちらこそ申し訳ない、お詫びにお送りします」
顔をあげた彼女に、邪念を見透かされたような気がして、慌てて首をふった。
豊満な胸から、目線と意識を何とか逸らす。
「ありがとうございます、正直、助かりますわ。では、事務所までお願いしてもいいかしら?」
女性を腕につかまらせたまま、惣助は足元の箱を拾う。箱は見た目よりも軽かった。
「どこのビルですか?」
「あっちです」
足を軽く引きずる彼女に合わせて、惣助はゆっくり歩き始めた。
グレーの作業着の肩を叩かれて、惣助はハッと顔を上げた。
「何ですか、課長」
慌てて立ち上がると、困ったような顔で、課長が
「もう昼休みが終わる時間だが、君、食事を取ってないんじゃないか?」
と、時計を指し示す。見ると、そろそろ午後一時になろうとしていた。
他の同僚たちは、それぞれ食事から帰ってきて、午後の仕事を始める体制に入っている。
「あ……、気が付きませんでした」
「じゃあ、芳本君は、今から昼休みということにしておこうか」
食欲は無かったが、課長の提案に素直にうなずくと、惣助は立ち上がった。
しかし、まだ、課長は心配げに惣助を見ている。
「……芳本君、体調が悪いんじゃないか?去年からの仕事も、ようやく片が付いたし、調子が悪いなら、今日はもう帰ったらどうだ」
仕事人間の課長に、思わぬことを言われて、惣助は驚いた。見ると、周りの同僚も頷いている。
今日の惣助の様子の尋常でなさは傍目にも明らかであったらしい。
惣助は、小さく息をつき軽く頭を下げる。
「……お気遣いありがとうございます。ちょっと食事に行ってきます」
「たまには、早く帰って嫁さんを可愛がってやれよ」
同僚から飛んだ軽口に、背中が強張った。それには答えず、作業着のまま足早に部屋を退出した。
結奈の情事を目撃してから、今日で1か月がたっていた。
結局、惣助は、結奈に浮気を問いただすことはできなかった。
かといって、今まで通り振る舞うことなど、できるわけもない。
結果、現実から目をそむけるように仕事に打ち込んで、結奈を避け続ける日々を過ごしていた。
そんな惣助に対して、最初は拗ねたり心配したりする素振りを見せていた結奈も、「仕事だからしょうがない」とだんだん文句を口にすることが少なくなっていったのだが。
その状況に変化が訪れたのは、昨日の朝だった。
数日前から調子が悪そうにしていた結奈が、惣助の朝食の準備中にトイレに駆け込んで嘔吐したのだ。
さすがに惣助も無視することができず、結奈に声をかけた。
「風邪か?薬飲んどくか、早めに病院に行ったらどうだ?」
「うん、そうね……」
そう答えつつも、結奈はぼんやりと、薬箱を眺めている。結奈を気にしつつも、そのまま惣助は家を出た。
その晩、惣助が遅く帰ってくると、結奈は珍しく先に床に着いていた。
珍しく思いつつも、静まり返ったリビングで一人寛いでいた惣助だったが、何気なく覗いたくずかごで、見慣れないピンクの箱を見つけたてしまった。
まさか、という恐れに突き動かされ、拾い上げたその箱は『妊娠判定試薬』。
この1か月はもちろんのこと、それ以前から4か月以上、結奈と惣助は関係を持っていなかった。
そして今朝、寝不足の惣助がそそくさと家を出ようとする背中に、掛けられた、結奈の声。
「ね、あのね、今日も遅いの?話したいことがあるんだけど……」
『ハナシタイコトガアルンダケド』
その言葉に何と答えたのかも覚えていない。
習慣とはおそろしいもので、気が付けば会社に来て、仕事をしていた。
『――今日はもう帰ったら』
今日こそは、家に帰りたくなかった。結奈のいる家には。
だからと言って、このまま逃げ続けることは、もはや不可能なのだ。
昼休みの時間帯が過ぎ、人通りの少なくなったオフィス街を、惣助は力なく歩きはじめた。
もし、結奈が妊娠しているなら、当然、惣助の子供ではない。
産むのか、堕ろすのか。相手は一体誰なのか。俺と別れて、子供の父親と結婚するつもりなのか。
いや、まだ妊娠しているとは限らない。
けれど、妊娠していなかったとしても、他の男と関係を持っている妻とこのまま暮らしていくことなどできない。
いったい自分はどうすればいいのか。
結奈は、自分に何を言うつもりなのか。
重い頭をタールのようにグルグルと巡る思考は終りがなく、惣助はうつむいたまま、いつもの定食屋への道を惰性で歩いていた。
と、突然、ドスン、という衝撃が右から襲った。
「キャッ」
「うわっ」
しりもちをついた惣助が顔を上げると、右手の細い路地で、黒いスーツの女性が同じように地面に座り込んでいる。周りには、段ボールの箱が2つ散らばっていた。
「いたたた、あ、ごめんなさい、大丈夫ですか?」
座り込んだままの女性が、こちらに気が付いて声を上げた。
「すいません、荷物で前が良く見えなくて……お怪我はありませんか?」
「いえ、大丈夫です。こちらこそ、ぼんやりしてたもので、すいません」
ようやく、目の前の女性にぶつかったらしいと理解した惣助は、服を叩きながら立ち上がった。
女性も立ち上がろうとしたようだったが、
「いっつ」
足に手をあてて、再度座り込んでしまった。
「あの、どうぞ」
「ありがとうございます」
恐る恐る手を貸すと、彼女は縋り付くようにして、立ち上がった。しかし、すぐに崩れるように惣助にしがみつくことになった。
「ッつぅ」
痛みに眉をしかめる彼女は、目鼻のくっきりした美女だった。さらりと流れるセミロングの髪から匂う麝香のような香りと、右腕に押し付けられるたっぷりとした胸の感触。
疲れていたはずの惣助の、男の本能がくすぐられる。
「ちょっと捻っちゃったみたいで……ごめんなさい」
「いえ、俺がよそ見していたせいです、こちらこそ申し訳ない、お詫びにお送りします」
顔をあげた彼女に、邪念を見透かされたような気がして、慌てて首をふった。
豊満な胸から、目線と意識を何とか逸らす。
「ありがとうございます、正直、助かりますわ。では、事務所までお願いしてもいいかしら?」
女性を腕につかまらせたまま、惣助は足元の箱を拾う。箱は見た目よりも軽かった。
「どこのビルですか?」
「あっちです」
足を軽く引きずる彼女に合わせて、惣助はゆっくり歩き始めた。
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