君に捧げる歌

河野彰

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最終章

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 瓦礫の山を越え、真っ先に姿を現したのは、純白の法衣の上に煤けた旅装を纏った一団であった。その中心に立つ青年、エミリオの姿を見た民衆は、誰からともなく膝を突き、咽び泣いた。  
 三年の地獄、その拷問の果てに潰された左目を隠す漆黒の眼帯は、彼が受けた「痛み」の証であり、今や民にとっては救済の印となっていた。かつての賢者は今や泥を啜り生き延びた民の希望、「土の聖者」として再臨したのである。
 エミリオが掲げた手には、もはや折られた十字架ではなく、折れぬ意志を象徴する一本の錫杖があった。彼がひとたび声を放てば、背後に控える千人の聖歌隊が声を合わせ、焦土に天上の響きを降らせる。 
「迷える羊たちよ。恐れることはありません。夜は、終わるのです」
 エミリオ率いる反逆軍は、単なる暴徒ではなかった。地下に潜んでいた騎士団や、王の暴挙に背いた兵士たちが、聖者の名の下に完璧な統率を持って集結していた。王都の門を守る守備隊は、そのあまりに神々しく、静謐な軍勢を前にして武器を震わせた。  
 エミリオの緑の瞳――今は右目のみとなったその輝きに射すくめられると、兵士たちは一人、また一人と剣を捨て、跪いて投降した。彼らが守るべきは狂王ではなく、この聖者が体現する正義であると悟ったのだ。
 城下を埋め尽くしたのは、溢れんばかりの民衆の波だった。かつてギルバートに家族を奪われ、絶望の淵にいた者たちが、聖歌を武器に、津波のような圧力となって城壁を包囲した。  巨大な軍勢は膨れ上がり続け、王都を埋め尽くす松明の光は、夜空の星さえも凌駕する。それは、一人の狂った男が作り上げた「死の王国」を、生者の祈りが押し流そうとする、歴史の転換点であった。
 エミリオは、血塗られた城門を静かに見上げ、かつて愛した、そして自分を壊した男が待つ最上階へと歩みを進めた。その背後には、地鳴りのような歌声が、勝利を確信して響き続けていた。

 それは、失われた楽園の記憶だった。  
 エミリオの静かな歌声が冷酷な狂気の殻を突き破り、玉座に座るギルバートの魂に正気という名の残酷な光を投げかける。  
 ふと視線を落とせば、己の手は、身内の、そして何より愛したエミリオの血でどろどろに汚れ、黒ずんでいた。自分が積み上げた死体の山、焼き払った教会の灰、踏みにじった民の絶叫が、濁流となって彼を飲み込む。 (
(……ああ、私は、何を。エミリオ、私はお前を、この手で……)  
 絶望は阿片の幻覚よりも鋭く、彼の心臓を突き刺した。もはや、許しを請う資格さえ自分には残されていない。彼にできる唯一の誠実は、この呪われた命に、自らの手で終止符を打つことだけだった。
 その時、玉座の影から、静かな、あまりに冷徹な拍手が響いた。 
「実に見事だ、ギルバート様。その絶望、その苦悶の表情……! 我が一族が味わった地獄を、ようやく貴公も共有できたようだ」  
 現れたのは、宰相ジャスパーであった。彼は崩れゆく城の中でも、乱れ一つない礼服を纏い、満足げに微笑んでいた。すべては彼の描いた復讐の筋書き通りであった。
 だが、正気に戻ったギルバートの瞳に宿ったのは、後悔だけではなかった。 
「……貴様か。俺の愛を、俺の国を、毒で弄んだのは……!」  
 ギルバートは、震える脚で玉座から立ち上がった。魔導の薬で蝕まれた肉体が悲鳴を上げるが、それ以上に、亡き弟たちの嘆きが彼を突き動かす。
 「おやおや、まだ動けるのですか? ですが、もう遅い。この国は死に、貴公もまた――」  
 ジャスパーが次の呪言を紡ごうとした瞬間だった。  
 ギルバートは閃光のごとき踏み込みで、血塗られた王剣を一閃させた。 
 「が、はっ……!?」  
 理性の仮面が砕け散る。ジャスパーの胸元を、黄金の剣が深く貫いた。ジャスパーは信じられぬという表情で、自らの胸から突き出た刃を見つめ、どろりとした黒い血を吐き出した。 
「貴様の凶行も、ここで終わりだ。地獄へは、俺が連れて行ってやる」  
 ギルバートは剣を引き抜き、力尽きたジャスパーを石畳へと蹴り転がした。かつての高潔な王子の、最期の王としての裁きであった。



 轟音と共に、玉座の間の巨大な扉が崩れ落ちた。  
 硝煙と砂塵の中から現れたのは、かつての儚い羊飼いの少年ではない。片目に漆黒の眼帯を戴き、数多の民を背負った「土の聖者」エミリオであった。  
 二人の視線が、数年の地獄を越えて交差する。 
「ギルバート様!」  
 その震える、力強い声が、最期の審判のように静寂を切り裂いた。ギルバートは、玉座に深く背を預けたまま、かつての凛々しさを取り戻したような、悲しくも美しい微笑みを浮かべた。 
「エミリオ。お前の歌が、ようやく俺を、この長い悪夢から引き摺り出してくれた」
 次の瞬間、ギルバートは迷いなく、己の喉元へ剣を突き立て、横一文字に引き裂いた。  
 噴き出す鮮血が、黄金の髪と真紅の絨毯をさらに深く染め上げる。エミリオは叫び、なりふり構わず駆け寄って、崩れゆく王を抱きしめた。 
「……ようやく、君がよく見える」  
 血に濡れた指がエミリオの頬に触れる。だが、その手は届き切る前に力なく滑り落ち、王の瞳から永遠に光が失われた。
「……あ、あぁああ……ッ!!」  
 エミリオの慟哭が、誰もいない玉座の間に響き渡る。  
 冷たくなっていく亡骸を抱きしめ、エミリオは震える唇を開いた。それは復讐を遂げた勝者の雄叫びではなく、夜明けの地平線に消えていく恋人へ捧げる、この世で最も悲しい哀歌であった。
 「主よ、愛する者を連れ去り給うか……。光を奪い、闇に沈め、それでもなお、この胸の熱を消し去ることは叶わぬのか……」    
 絶望の底から絞り出された歌声は、次第に透明な響きを帯び、荘厳な鎮魂の調べへと変わっていく。エミリオは、血を流し微笑むギルバートの瞼を優しく閉じさせ、最期の口づけを落とした。王座に残されたのは、愛の名を借りた呪いと、一人残された聖者の絶望。
 城門が開かれ、朝日が差し込む。  
 エミリオは亡骸を静かに横たえると、立ち上がり、壊れた聖堂へと向かう民衆の列へと歩み出した。  
「神の御子は、傷跡を抱きて歩む……」  
 静かに、ただ静かに賛美歌を口ずさむエミリオの背中は、もはや誰の目にも届かないほど高く、孤独な神性を纏っていた。  
 歓喜に沸く民衆の渦の中へ、聖者の白く煤けた影は溶け込むように消えていく。  後にはただ、黄金の朝日と、二度と語られることのない二人の真実だけが残された。
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