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跪いて愛を乞え
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1-1
「だから、誰がお前なんかに跪くかよっ!」
目の前の男の腹を蹴り上げる。と、相手の男がかはっと腹を押さえて路地裏に蹲る。その頭や丸まった背中を更に靴底で蹴る。蹴る。蹴る。
深夜に近い真冬の繁華街、その裏道だった。周りは人で溢れていたが騒然として、誰も近づかない。
それはそうだろう、一般的に見ればそれは一方的な暴力で、暴力をふるっている方は我を忘れて暴力に酔っているのだ。
「なあ、もう止めろって!……っ佑!」
友人の制止の声が聞こえているが、耳奥がキーンと鳴って言葉としての意味をなさない。(馬鹿にしやがって、俺はモノじゃねぇんだよ!)
口にしたつもりが、興奮から声にならない。呼吸が浅いのが自分でも分かる。頭は怒りでいっぱいだ。体が熱く、今にでも叫び出したい、目の前の男をもっとぶちのめしてやりてぇ。
「分かったかよ、この糞が!」
最後の一踏みと、脚を上げたところで
「──……っ佑、Stay(待て)!」
と、振り絞るような声が背後から聞こえた。その途端、東雲佑の頭の中で何かがぷっつりと切れた。
怒りや暴力の衝動性がシュワシュワと溶けて消えていってしまう。よろけて足を下ろすと、友人を振り返って睨みつけた。
佑の友人、園田愁はひょろりと背丈だけは高い優男だ。今も自身のボディバッグを胸に両手でぎゅうっと掴んで、今にも倒れてしまいそうだった。対する佑はやや背は劣るものの、体格はそこそこに良い。じりっと押し迫ると、愁はその分だけじりっと後退した。
「……また俺に、コマンド使いやがったな、愁」
「だ、だって。……あのままじゃ、このオッサン、死んじまうよ」
「こいつがどーなったって、どうでも良いだろ? この俺を強制的に跪かせようとしやがった」
鋭い目つきで道端で呻く男を睨みつける。佑はSubとしてこの世に生を受けた。生まれながらの刻印。従属し、頼り、躾けられ甘やかされる性。
だが、佑は生まれてこの方、Domのパートナーを持ったことがない。
その負けん気の強さからか、どうしてもDomに逆らってしまうのだ。
男女以外の第二の性。DominantとSubmissive。
通称Domとsubの性が発見されて、もう数十年。所謂、支配する性と支配される性があるとが世界的に認知されてから半世紀は過ぎた。こういうことに疎い日本でさえも、ここ二十年程で法整備や抑制剤の承認が進み、国内での認知は九十%を超えるという調査結果もある。その程度に強弱はあるものの、Dou/Sub特性を有する者は、日本では人口の全体の二十数%、五人に一人は何らかの性向があるとのことだった。
佑と愁は共に二十六歳。DomやSubが当たり前に世の中に溢れる世界で産声を上げた、そういった世代だった。
「行こう、佑。これじゃ警察沙汰になっちまう……」
怯えて言う愁は、既に佑の通勤鞄を拾い上げて佑の袖を引いている。
急に冷えてきた十一月末。会社からの帰り道に高校時代の級友の愁と佑は飲んでいた。久しぶりの親友との飲み会で良い気持ちになって帰路につこうとしていた。
そこに、酔っぱらった四十前後の男が絡んできたのだ。身なりの立派な、いかにも成功している男然としていた。
男は自分をDomだと大声で公言し、「お前、Subだろ!?」といきなり佑の腕を掴んだ。
「……違いますよ」
佑は否定し、横にいた愁も佑をかばい前に出た。だが男は二人をじろじろと見定めるように見比べるとせせら笑いこう続けた。
「なんだ、糞弱いお守り付きか。けど首輪してねぇってことはお前のもんでもねんだろ、この糞ビッチそうなSub。匂いが堪んねぇな……いいから、こっちに来いよ。俺の方が良いご主人様になれる」
一瞬で佑をSub、愁をDomだと断定した男はそれなりに強いDom性を持つのだろう。社会的地位もある中年以上のDomの中にはSubを軽視する者もいる。男はその典型のようだった。そうして、佑はそういった一部のSub達が大嫌いだった。
だから声を低く威嚇したのだ。
「そうだったら、何だってんだよ」
「た、佑!」
「Subだってんなら、どうしたって言ってんだよ」
「は、はぁ……!? お前、Subの癖にDomに楯突く気かよ!」
男は一瞬怯み、そしてにやりと笑うと、いきなりなんの承諾もなしに「Kneel(跪け)!」と佑に命令してきたのだ。それが自分の命取りになるとは知らずに。
そして佑は男を殴り蹴り、ボコボコにした。一般的にDomからのコマンド(命令)を受け取ると、Subはそこに信頼関係がなくとも一瞬怯んでしまう。男はそれを狙ったようだったが、佑には効かなかった。効くどころか逆上して男を瀕死の目に合わせた。
幼いころからそうだった。
三歳児検診で佑がSubであることが分かると、両親はまず佑を柔道教室に通わせた。それが性に合っていた佑は長じて、自身で剣道とボクシングにも打ち込んだ。そこで佑はどんな性を持っていようと、人間はみな平等であるということを学んだ。
だが、皆が幼かった幼年期を過ぎ小学校も高学年に上がると、第二次性徴が訪れる。Domは一般的に成長が早く、体格も良くなってくる。そしてDom/Subともに次第に第二の性にも自覚し始める。
そこで生まれて初めて苛めにあった。
クラスのカースト上位者だったDomの男児に最初はシカトされ、自分の物を隠され壊されて、最終的には裏庭に呼び出された。他にノーマルの男児数人を引き連れたそのDomに、佑は最初、恐怖を感じた。怒りや強い感情を持ったDomを目の前にしたSubが時折陥る状態、Sub dropだった。猫に睨まれた鼠の子のように佑は震えた。
それを見て、男児たちは笑う。小突く。足蹴にする。次々と手を出してきた。
それでも恐怖で立ちすくんでいた佑だったが、最後にDomのその男児が目の前に来て、「Come(ほら、来いよ)!」と命令された時には、強い衝動を感じたのだった。胸の奥からメラメラと燃える怒りが顔を出す。身長のあったその男児めがけて、思い切り頭を振り上げると顎へと大きく頭突きをした。反撃にあうと思ってなかったその男児は、その場にどっと倒れこんだ。その彼の上に跨って、佑は拳を振り上げた。
……その後のことは覚えていない。
気づけば己の拳は血まみれで、相手のDomは鼻血を出した真っ赤な顔で気を失っていた。
大人たちが集まって、色々と話し合いをして……相手のDomの男児は転校していった。
その時からだ。Domの支配を受けないSubとしての人生がスタートしたのは。誰も佑に近づかなくなった。DomどころかノーマルやSubの同級生でさえも彼を恐れた。
しかも、何がそうさせるのか分からなかったが、少年期には街を歩くとよくDomの輩に絡まれた。そしてその度にその拳や足で、佑は相手を黙らせてきた。
そんな佑に友人と呼べる存在ができたのは高校に入ってからだった。地元の高校を受験した佑はやはり周囲から浮いていたが、一人、県外からの入学者だった園田愁という男が声をかけてきたのだ。
「ねえ、君毎日一人だよね? 一緒に昼ご飯食べない?」
ふにゃっとした笑顔の長身の男子生徒だった。
DomにSubが分かるように、SubにもDomが分かる。だから最初、またDomの馬鹿が絡んできやがったと佑は睨みつけた。だが、その視線にもにこっと笑顔を返すような鈍感な男だった愁は、いつの間にか佑の親友と呼べる位置にまで並んだ。また、よくDomに絡まれては相手を半殺しにしてきた佑の抑止剤に愁はなった。
Domに絡まれ、コマンドを言われると狂犬モードになる佑だったが、愁のコマンドだけは受け入れるようになっていたのだ。
「な? もうそこまでしたんだから良いだろ? 帰ろうよ、佑」
「ふん。……二度と俺にその面見せんなよ」
男に背を向けて、佑は漸く肩から力を抜いた。握った拳をぶらっと振って、そのままばんっと愁の背中を叩く。
「いってぇ~~」
「さっきの、コマンド分の仕返しな」
くっと笑って佑は愁と二人、その場を後にした。
1-2
朝が来た。
ベッドで唸り声を上げて佑は起き上がろうとしていた。
「あったま、痛ぇ……」
自分の低い掠れ声が脳内に響いて、それさえも頭痛の原因になる。いい気になったDomを自分=Subなんかが叩きのめした反動。翌日に来るそれをそう佑は捉えている。全身が泥のように重たく、瞼を開けていられない。真っすぐに体を起こすこともできない。
しょうがなくベッドサイドへと手を伸ばして、Subの抑制剤をざらざらと手に乗せて、量も確かめずに一気に口の中に放り込んだ。ガリッと砕いたそれは子供でも飲みやすいようにとあつらえられたイチゴ味だ。この身体の辛さを克服するためには今のところ、この抑制剤と…医者が言うにはDomの躾を受けることだという。
もちろん後者なんてのは佑にとってもってのほかで、定期的に来る主のいないSubとしての体調不良やDom撃退時などにはこの薬が佑の唯一の希望だった。
「糞っ……」
Subの宿命とやるせなさに佑は枕へと顔を埋めた。
数十分後、佑は身なりを整えて鏡の前で歯を磨いていた。
頭の芯にはまだずくずくとした痛みが残っているが、なんとか起き上がれるまでには回復した。今日は小規模だが取引先との飲み会もある。会社には是が非でも行かなければならなかった。
佑の会社は大手のリフォーム会社の営業所だ。飲み会の相手はそこそこ大きな不動産会社の元締め。接待での席で、失態を犯すことがないようにと、佑は襟を正し抑制剤を鞄に忍ばせて出社した。
満員電車に揺られて、会社に着く。朝礼を終えれば営業車に乗り換えてお得意先回りだ。師走に差し掛かろうとするこの時期に、大きなリフォームの依頼は少ない。地道に足で稼ぐんだというのが営業所長の言だった。結局は廊下の段差解消と手すりつけという小さな案件を一件受注できた。昼飯をとったら今度は電車に揺られて駅前でチラシ配りにポスティング。笑顔、笑顔笑顔。普段は簡単にできる仕事が今日は辛い。佑が大きく息を吐き出したところで、年配の先輩社員が心配げに聞いてきた。
「お前、今日顔色悪いよな。飲み会大丈夫か」
「はは、すいません……大丈夫っす」
「なら良いけどよ。ほら、行く前にこれでも飲んどけよ」
ウコン入りのドリンクを手渡された。苦笑いをしながらも、ありがたく頂くとする。
佑は会社では極力Subということを隠していた。隠すといっても公言していないだけで、普通、Sub同士やDomには相手がそうかどうかが分かる。直観に近いものだが、匂い立つフェロモンのようなものが感じられるという者もいる。
佑はそのあたりがどうも鈍く、気づけばDomに腕を掴まれていたり、肩をどつかれたりということが多かった。
(Domにはまともな奴がいねーのかよ……)
昨夜の一件が頭の隅でもやもやと蘇る。
勿論理性では、愁のような優しい、普通のDomがいることは分かっている。絡まれるのだって年中ではない。それでも圧倒的な被害の数に、その容赦のなさに、……そして彼らへの自分の中の加害性に、佑は辟易していた。
だから佑も一度、あまりの飢えと虚脱感にSub専門の風俗の扉を叩いたことがある。
もう何年も前のことだ。
専門職ならば、どんなSubの扱いにも慣れているだろう。自分でも素直に従えるだろうという思いからだった。
しかし結果は惨敗で、折角指名した最年長のナンバーワンDomの命令に、佑は何一つ従うことができなかった。
基本の「come(おいで)」にも「kneel(お座り)」にも佑は反応できずに、逆に相手の優し気なDomキャストに怒りを覚えた。ただ立ち尽くし拳を握る佑に、そのDomのキャストも驚いたようで、いくらか命令(コマンド)繰り返した後で、無駄だと知ると話を聞いてくれた。
「そうなんだ。……全く、どんな相手の命令でも反応できないのかい?」
「……ああ」
「怒りの衝動性、かぁ……普通、Domのコマンドが聞けない状態にある時には、Sub dropの可能性が高いんだけどね。目の前のDomの気配が強すぎたり、コマンドが無理すぎたりすると陥る、怯えた状態……何もできなくなって、酷いと失神してしまう感じなんだけど」
「俺の場合はとにかく怒りで……目の前が真っ赤になる感じなんっすよ……」
「うーん……自己防衛本能が高すぎるのかもしれないね」
「自己防衛?」
「うん、君からは強く、Subの魅惑的な匂いがするよ。この僕が、君が望むならなんでも命令してあげたいって……業務外でも良いって思えるほどにね」
「そう、なんっすか……?」
そんなことを言われたのは初めてだった。Domといえば佑を蹂躙し捻じ伏せに来るもので、「優しく命令してくれるもの」だとは思ったことがなかった。長い髪を縛った年長の男は、そっと佑の頬に手を伸ばしてくる。佑は一瞬、身を引きかけたものの、我慢してぐっと唇を噛み相手の愛撫を受け入れた。
「そう、だから……君はSubの属性度合いが高いゆえにDomに狙われやすいし、そのDomの気配に過敏に反応して過剰な暴力衝動にかられるんじゃないかな」
「過剰……防衛すか」
「そう、そんな感じ。なんだ、お触り我慢できるじゃない……『Good boy(良い子だ)』」
「……っ!」
褒められ頭を撫でられた瞬間、ちりっと指先に電流が走った。
相手に触れられているのに怒りを超えて、初めての感情だった。心地良い、と言い換えても良いかもしれない感情に佑はさっと身を翻した。心臓が、バクバクする。
「どうしたの……?」
「いや……なん、でも」
心臓のあたりをぎゅうっと握り締める。ここにいちゃいけない、逃げなければ……そんな思いで頭がいっぱいになる。
「君、今……」
Domのキャストが何か言いかけた時だった。プレイ終了のアラームが鳴る。スマホを握ったキャストは残念そうに佑を振り返った。
「どうするかい?……延長する?」
「いや……。っいい、っす。これで。話も聞いてもらえたし?」
わざと笑顔で明るくふるまう。キャストの方も「そう」とやや寂し気に返事はしたものの引き留めはしなかった。それで終わりだった。
あのちりちりとした先の感覚の先に何かあるかもしれない……それは佑にも分かった。けれどその先に行くのは恐ろしく、いやまた覗く自身の暴力の気配を恐れて、もう二度と店には行かなかった。
1-3
「さあ、君も飲んで飲んで」
宴会の席だった。佑は席に着いた途端、この接待に呼び出されたことを心底後悔していた。
接待先のN不動産の幹部たちは比較的若く、自社の幹部たちでは話しが合わないだろうと、若手の中から盛り上げ役で佑は呼ばれていた。確かにN不動産の連中は若かった。といってもそのほとんどが四十代だろう。しかし宴席の上座に座る男、今日は来れなかったN不動産の社長の代理という男は三十も前半に見えた。
西沢圭吾。N不動産社長の息子だということだった。
(そいつが、なんっでDomなんだよ……!)
しかも鈍感な佑が見て一目でDomと見抜けるほどに圧倒的なオーラを匂わせたDomだった。宴席の末に座る佑にまでその存在感が圧となって押し寄せてくるほどだ。
見た目はクールないかにも仕事の出来そうな男。襟足を短く刈り上げた黒髪と身体に纏うダークグレイのシックなスーツが似合いの美丈夫だった。喋り方は柔らかく、老舗の不動産屋にしては品が良い。昔気質なこの世界で少し浮いているほどに上品で優し気さえ感じられる男だった。
「おい、東雲。西沢さんにもお酌に行け」
「え。……俺っすか」
「そうだ、年齢も近いだろう。話の一つでも聞いて勉強させてもらってこい」
年上の同僚に勧められて、佑は仕方なしに上座へと向かう。
何でもないような顔をして笑顔を張り付け、圭吾の前へとそっと近寄った。
「あの、東雲と言います。酒のお代わりを……」
「ああ、いただこうか。……君は若いな。いくつ?」
「あ、はい。二六です。ここでは最年少になります」
(クソ……吐き気がする…)
答えながらも、けれど佑はその男の顔さえまともに見れない。
匂い立つDomの気配で背筋がゾクゾクとして、胃が殴られた後のように重い。思わずよろけると、その肩を圭吾ががっしりと掴んだ。
「っと、大丈夫かい?少し気分が悪そうだが……」
圭吾が顔を覗き込んでくる。目がカチッと合うと、その強い瞳に魅入られて一瞬、佑は声が出せなかった。両者の間に不思議な間があって、暫くにらみ合うように見つめ合う。
不味い……多分Subだとバレている。
「君は……?」
「……っいや、大丈夫っす。はは、酒が回ったのかな。……ありがとうございます。失礼します」
腕を振り切り逃げるようにその場を去った。その後もどうにか作り笑顔で酌をして回るのだが、足がすくんでなかなか再度その男には近づけなかった。
男も普通で、たまにちらりと視線を送ってくるのだが、その視線に強引さはない。ただ、物を見るような目で、佑を見つめていた。
(やべ……。限界……だ)
「ちょっと、俺……しょんべん行ってきていいっすか……」
「おう、早く戻れよ」
こそっと耳打ちした隣の席の上司は上機嫌で、佑が席を抜けると言っても引き留められなかった。これ幸いと、トイレに駆け込む。本当に吐き気が強く、個室に入るなり佑は嘔吐した。昨日のダメージが残ってる中での酒に、あのDomだ。
吐けるだけ吐いてしまうと、今度は身体が寒さで震えだす。
酒が回った頭では身体の平衡を保つことができずに、扉を開けようとして鍵に手をかけたところで個室の中にへたり込んでしまった。動けない。寒い、寒い。頭が痛い。頭をガンガンとハンマーで内側から殴られているようだった。
(なんで俺がこんな目に合わなきゃいけない……!?)
怒りで我を取り戻そうとするが、それも無理だった。怒りが長続きせず、身体の痛みの方に直ぐ意識がいってしまう。かなり不味い状態だった。
「君……大丈夫か?」
どれだけ時間がたっただろうか。
痙攣する身体を抱えて、個室内で蹲っているところに、声がかかった。けれど意識が朦朧としている。声が出せない。
「大丈夫か?」
再度優し気な声が降ってくる。電流のように、何かが体を走り抜けた。その声に答えたいと急に思う。
このままじゃ、動けない。助けを……。震える足でドアに縋り立ち上がる。膝が笑って立っていられずに、すぐに狭い個室で崩れ落ちた。
相手がドア越しに何かを言っている。その声に焦りが加わっているのが分かる。けれど、動けない。瞼が僅かに震えただけだった。
「たす、け……」
最後まで言えなかった。優しくも低く逆らえない甘い声が身体を包み込んでいる。
そして佑の意識はそこで途切れた。
1-4
夜だった。
いや、少なくともその部屋は夜だった。真っ暗な中に、床からの間接照明が灯り、薄く部屋を照らす。湿度がちょうどよく、咳き込んで目覚めた佑だったが、その部屋の心地よさに直ぐに咳が止んだ。薄明かりさえ眩しくて、佑は何度も瞬く。視界がぼやけていた。
(あれから……どうなったんだっけ)
動こうとするが指一本動かせない。
(確か……誰かの声が──)
柔らかな羽毛布団に包まれて、ベッドに寝かされているようだった。自分の家ではない。会社の誰かの家だろうか。そうだとすると迷惑をかけてしまった。しかも接待の席で、大失態だ。
ぐるぐると考えていると、ふいに人影が自分の上に落ちた。何かを言っている。言葉はまだ聞き取れなかったので、緩く首を振る。
眠い……それと同じくらいに頭が痛い。頭痛を思い出すとともに身体が寒さでガタガタと震えだす。
「……か?」
低い、穏やかな声が何かを聞いてくる。
もっと大きな声で喋ってくれよ、と佑は思う。痛みで、何も聞こえないんだ。口を開き、息を吸い込むとヒュッと喉が鳴った。激しくせき込んで、思わず身を縮める。その途端、全身が針に突き刺されてでもいるかのように痛んだ。関節はぎしぎしと軋んでいる。恐ろしいほどの倦怠感がした。
(……やべぇ。薬……)
目線だけで自分の鞄を探す。それに応えたかのように、影が一瞬遠ざかり、また手に何かを持って帰ってくる。目の前に翳されるそれ……白い本体に薄青いラベルの、抑制剤。
「この薬か?」
今度ははっきりと聞き取れた。こくりと頷いて佑は受け取ろうと手を伸ばす。ありがたい、これできっと身体が楽になる。だが、折角伸ばした掌に薬を握らされても、口元まで持っていくことができない。それどころか、口を自然に開けるのが難しい。咳は断続的に出るというのに、咳以外の時には歯が食いしばってしまってガチガチと鳴るだけだ。
「何てことだ。なぜここまで我慢した? こんな状態じゃ薬も飲めないだろう」
(うるせぇ......な。俺の勝手だ)
穏やかな声だが、どこか呆れが混じっていた。
佑は心の中でだけ相手へ悪態をついて、ぼやける影を睨みつける。それを認めたのか影が大きく、それと分かるようにため息を吐いた。
薬をボトルから取り出すと今度は佑には預けずに覆い被さってくる。
その途端、色濃く、いや、色ではない。匂いが、濃いバニラにも似た香りが強く香った。何とも言えない、思わず惹かれる匂いだった。お香にも似た静かな香りが底に、刺激的でスパイシーな香りも入り混じる。うっとりと目を閉じかけたところで、佑は漸く気づいた。
(コイツ……宴席にいたDomだ……!)
思わず背筋が凍りついた。
Domが発する誘惑の香り。人によってはオーラとも威圧感とも言うそれ。宴会場では、佑が近づけもしなかった圧倒的なDomの気配。
マジかよ……と佑は唸る。漸く頭がはっきりとしてきた。目の前の男に焦点が合う。
上着を脱ぎ、タイを緩めて肩へとかけた圭吾がざらりと自身の掌に抑制剤を落とした。伸し掛かるようにして佑の上へとくると、額同士がつきそうな距離まで近づいてくる。呼気が唇に触れる。その吐息も甘いバニラだ。噎せ返るようなバニラの香りをまとった圭吾が、唇を開く。目の前の瞳にくぎ付けになって、目が離せない。動けない。
圭吾がゆっくりと口を開いた。
「良い子だ──名前は? Say(言え)」
頬に掌が触れる。びくんっと佑の体が反応した。自然と口が開いて、掠れた声が喉から出た。
「っ……しののめ……たす、く……」
「Good boy(良い子だ)。きちんと言えたな」
圭吾の笑みの気配。ついで頭を撫でられる。
気持ち良かった。身体がふわりと軽くなって、関節の痛みが消える。なんだこれは。佑は混乱する。
「なら次は薬だ。──佑。Open(口開け)」
「……ん」
甘えたような声が出て、これじゃ駄目だと思うのに佑は気づいたら口をそっと開いていた。唇は期待に震えている。次はどんなコマンドが来るのかと待ち構えている。下肢が勃起してないのが不思議なほどゾクゾクとした快感が腰から背中を這い上がってきた。
「もっとだ……Open(開けろ)。そのままStay(待て)だ」
圭吾に言われるままに口を更に開く。唾液がこぼれ落ちそうになってきたが、佑は圭吾の命令を聞いて指先一つ動かせない。いや、動きたくない。
圭吾はそのまま佑を待たせると、抑制剤を己の口にざらりと流し込む。口の中で数度、大きな塊をかみ砕くようにガリッと噛んでから、佑の上に再度伸し掛かってきた。
「──っ!」
圭吾が佑の唇を奪った。大きく開いている口の中へ舌を使って、抑制剤の欠片を押し込んでくる。舌を使って次々に抑制剤が押し込まれる。咥内を熱い舌が動き回る。
抑制剤とともに、圭吾の唾液が佑の咥内に溢れた。自身の唾液と混じって、えも言われぬ甘さになる。
「分かるな? 飲み込むんだ。そう、そのまま……」
「──……んっ」
躊躇いがないわけではなかった。けれど、圭吾の声に反応して、佑はこくんと喉を鳴らして唾液混じりのそれを飲み下した。それは甘い欲望を感じさせるには十分だった。身体中に走る抗うことの出来ない主に伴う性への欲求。
「Good(良い子だ)」
目の前に男の満面の笑みが広がった。心臓がドクンと大きく脈打つのが分かった。
再度頭を撫でられ、今度は先ほどよりも長く、毛先にも触れられてそのまま頬や顎先も擽られる。思わずすりっとその大きな手に頬をすり寄っていた。温かく、気持ちいい。気づけば下半身に熱が溜まっていた。掌から伝わる熱に感情が昂る。
「……可愛いな。そのまま俺の言うことをきいてれば良い」
意外そうに笑う声が優しい。先ほど悪態をついた声と同じとは思えない。低く響く声の余韻に薄く瞼を閉じて応えると、影がまた覆い被さってきた。
「Stay(待て)だ、佑」
「っん……」
薄く開いたままだった佑の唇に圭吾の唇が再度重なった。舌を柔らかに絡めとられて、歯の裏側を舐め上げられる。布団の上から優しく胸板をとんとんと宥めるように叩かれて、心臓が痛いほど鳴り始める。強引に命令されたほうがいっそ楽になる。なのに圭吾は優しい。その優しさとまだ効かない薬に欲情が止められない。
そして、むくむくと自身の下肢が熱を篭らせながら勃ち上がるのが分かった。
(嫌、だ……嫌だ……っ、止めてくれ──)
意識は拒もうとしているのに、褒められ頬を撫でられて、心と身体が歓喜しているのが分かった。しかも連続しての優しいコマンドに、いつもは感じる嫌悪感が全くない。
ただただ脳内が震えるほどに嬉しくて──きちんと命令を守れていることに、そして褒められることに、自分が誇らしく、嬉しい。
それが体に直結しているかのように、勃起したそれを抑えることが出来ない。
「ん? ……どうした。気持ち良いだろう?」
長く優しい口づけの合間に、ふいに圭吾が顔を上げた。もじもじと下肢を揺すり、どうにかして壁側へと向こうとする佑に気づいた様子で、声は意外にも真摯だった。
(そうじゃない……! つうか、見んなよ。ぁ……駄目、駄目だって……)
圭吾が布団を捲ってきて、下肢に手を伸ばそうとしていた佑の腕を掴んで止める。
佑が思わず自身を見下ろすと、リネンのパジャマに着替えさせられており、その下肢が分かりやすく完全にペニスが布地を押し上げ、触って欲しいとばかりに震えている。
「ああ、勃起しているのか」
「……るっせ……」
漸く自発的な、だが掠れた吐息のような言葉が出た。その僅かながらも反抗的な様子に圭吾は瞬きをしてからふっと軽く吹き出すように笑って、更に距離を詰めてくる。
「その態度は可愛くないな。……このままじゃ苦しいだろう、手伝ってやろうか?」
「っ……! なに、言って……」
「遠慮なんかしなくて良い」
「えんりょ、なんかじゃ……って、マジ、待てって……!」
「それは私の台詞だ。大人しくしてろ、Stay(待て)だ」
何とか腕を持ち上げて緩く手で仰ぐようにして圭吾を止めようとするも、今の佑では叶わなかった。体の痛みは取れてきたものの、力が入らない。頭の芯は甘く溶けたままだ。
そこへ停止のコマンドを放たれて、佑はググっと唇を噛んだ。それから降参とばかりに腕を枕元へと落とした。圭吾の指令は不思議と受け入れられる。いや、受け入れて服従したいと体がそう叫んでいる。
(まだ薬が効いていないせいかもしれない。身体が弱っているせいかも……あー…駄目だ、わっかんねぇ……)
考えはまとまらなかった。分かっているのは、そうしているうちにも下肢は張り詰め、次に起こることを体が期待しているということだ。
けれど、そこは最後の意思表示とばかりに佑が腕を上げた姿勢でぐっと拳を握っていると、その拳を柔らかに圭吾の手が握ってきて、ぽんぽんと頭を撫でられた。拒みたい気持ちとそのまま服従したい気持ちがない交ぜになる。逃げ出すべきなのか、従うべきなのか。
だがそんな佑の思いとは裏腹に下着がずらされ、勃起した下肢があらわになる。
そこへ何の躊躇もなく顔を伏せる圭吾がちらりと視界の端に見えた。ついで、勃起しているそれが熱い口腔の粘膜に包まれる感触。
その瞬間、電気を受けたように腰が跳ねた。
「……っ! なんっ……んッぁ」
「……可愛い声で鳴けよ……?」
「なに、言って……んっんっ……はぁ!」
DomがSubにフェラチオをしている。
恋人同士やパートナーならともかくも、そんな話はいままで聞いたことがない。Domは圧倒的な力でSubを従わせ、屈服させるはずなのだ。だが圭吾は、佑に奉仕にも似た行為をしている。頭を垂れている。
(信じらんねぇ……ッ。こいつDomのくせして……俺のを、口に……!)
この性格が災いして、性的な体験が佑は少なかった。ノーマルの女性と一、二度経験があるだけだ。しかもそれは共に失敗していた。つまりは童貞だ。
そんな佑にこの刺激は強すぎた。ヌルヌルと口腔内でしゃぶられただけで、あっという間に上り詰めてしまう。
「アッ……は、止めっ、んんっン……はぁ……ァ」
「……っ気持ちいの間違い、だろ?」
顔を上げた圭吾が笑う。今度は指で扱き上げられる。佑は耐えた。枕元のシーツを握り、下肢を震わせながら足を突っ張らせる。けれど大きな波はすぐにやってきた。
「ッ……ぃ、ぁっん……ンう、イク……イクッ──!」
絶頂はあっけないほど早く訪れた。腰がビクビクと震えて、大量の白濁を圭吾の手に、自身の下腹にぶちまける。息が上がっていた。目の目がちかちかする。
ゆるっとシーツを握り締めていた指先から力を抜くと、そこに圭吾の乾いた手が重なってきた。そっと指先を絡められて、額へとキスされる。
「Good(よくできたな)」
落ち着いた声で宥めるように髪まで梳かれて、佑はほう……と目を閉じかける。放出の余韻と体力の消耗で精魂尽き果てていた。命令を無事に達成できたという達成感がそれに拍車をかける。
しかしそれも、下肢を拭われ圭吾がベッドの隣に入ってきた時までだった。さも当然のように布団を捲り、佑の横に身を横たえようとする圭吾に佑は叫んだ。といっても掠れ声で弱弱しいものだったが。
「なっんで……一緒に……!」
思わず布団を捲って逃げようと足掻く佑を片腕でいともたやすく制して圭吾がしれっと返す。
「一つ目にここは俺の部屋だから。二つ目に今は午前2時過ぎで俺も眠いから、だな。……おい、暴れるな」
それでも何とかのバレようと力の入らぬ腕で抵抗する佑を、圭吾が苦笑しつつ胸に抱き込む。大柄な身体で押さえつけられて、佑は顔を真っ赤にして抵抗してみるも、今は全然力が入らなかった。ベッドへと四肢を押さえつけられて、その上に乗り上げられる。耳元に圭吾のため息が浅く聞こえて佑はびくりと身体を固くした。
「……キスするぞ」
「え!?」
「あんまり抵抗するんなら、またキスするぞ」
その途端佑の口の中にじゅわっと唾液が溢れた。股間も熱くなり、全身が火照る。先ほどのキスを思い出し、身体が勝手に反応していた。
「──……っ!」
こんなの俺じゃねぇ。
佑はそう叫びたかった。すぐ上にいる男に殴りかかりたかった。だが、叫びたかったが、声は出ず、握った拳には全く力が入らなかった。うずうずと身体が疼く。喉はカラカラだ。
どうしてそんな言葉が出たのかわからない。Domの男の香りに包まれて、頭がパニックになったとしか思えなかった。低く、佑は言った。
「なら……キスしてみせろよ」
「ん……?」
「もう一度……してみろって言ってんだよ」
「はは。Domに命令するSubなんて聞いたことがないぞ」
男は意外そうに、けれど激するでもなくどこか楽しそうに目を細めると更に佑へ伸し掛かってきた。ベッドがギシリと軋む。圧倒的な存在感で男が佑を戒める。
「誘ったのはお前だからな……?」
黒い瞳が佑を捉えて離さない。
近づいてくる瞳をこれ以上見ないようにと、佑は目を閉じその唇を迎え入れた。
そこまでの記憶しか佑にはない。
1-5
翌朝。
広いベッドの上で一人、佑は目覚めた。今までにない爽快な気分での目覚めだった。体が軽い。眩暈も耳鳴りも、どんよりと雲がかかったような思考もない。
ぐるりと部屋を見渡すと、キングサイズはあろうかと思われるベッドが中央にあるだけの簡素な部屋であることが分かった。シーツは白、壁も白、高い天井も白。床は防音のためか薄墨色のカーペットが敷かれていた。
ぽけっと佑はそれらを眺めた。
生まれ変わったような気分だった。今までの自分は薄い殻の中にいて、それが割られ、剥がされて漸く生身の自分が出てきた……そんなイメージだった。
薄いカーテンから覗く、日の光が白く眩しい──
「って、え? 何時、今! 俺仕事……!!」
急ぎ立ち上がると、シーツに足が絡んで盛大にベッド脇に落ちてしまった。ドスンというその音を聞きつけたのだろう、すぐにベッド脇の扉が開いた。
「どうした!?……って、何をやっているんだ?」
圭吾だ。白いYシャツにグレーのスラックス姿の男がなんとも呆れたような声で問うてくる。それもしょうがない、佑は元凶となったふわふわの上掛け布団と一緒にベッド下にずり落ちてしまっていた。溜息をついた圭吾が苦笑しながら手を差し伸べてくる。一瞬その腕に手を伸ばしかけて、結局はその手を振り払い佑はどうにか自分で起き上がった。
立ってみて改めて体調の良さがわかる。いつも頭の隅にこびりついているような、Domへの嫌悪感もすっかり拭い去られている。言い表しようのない晴れやかな気分だった。
そっと自分の両手を握っては開いてみる。びりびりと快感に似た何かが体中を電気のように走っていた。
「ふむ。立てるならもう大丈夫だろうな……リビングに来ないか? 話がある」
圭吾に声をかけられてはっと振り仰ぐ。圭吾は壁に凭れると、首をやや傾げて観察者の目で佑を見詰めていた。深い色の瞳だ。中まで見通されるような──。
(そうだった、俺は昨夜こいつと……!)
あられもない記憶がよみがえる。
瞬間にざわりと皮膚が粟立つのが分かったが、それが嫌悪でないことに佑は驚いた。身体が喜んでいる。昨夜の行為は、記憶は、お前に正しい事だったのだと全身が叫んでいた。
佑は羞恥で赤くなりそうになる顔を逸らして、圭吾へ威嚇のような声を上げる。
「俺、は……っ! お前に話なんて……ない。それより、仕事に行かねぇと……」
「仕事は休みだ。会社にはそう伝えてある」
「なんっで、そんな勝手なこと! しかもなんであんたが……」
「お前がSubだと伝えたからな」
「っ!?」
今度こそ痛みのような怒りで全身が粟立った。
佑は職場に自分がSubだと明かしていなかった。もともと運が良かったことに職場にはDomがいなかった。Subはいたが暗黙の了解でお互い黙ってもいた。佑にとって(横暴な)Domがいない職場であることがどんなにか救いだったか。……Subであることを意識しないでいられた唯一の場所が社内だったのに。
「お前っ!!」
今にも圭吾へ殴りかかろうとしたその時だった。
「明かさないと、お前を俺が連れて帰れなかったからな」
「どういう……意味だ」
圭吾が壁から離れて、佑の目の前まで歩いてきた。佑は握った拳を下ろせないまま、圭吾を見上げた。幾ら睨みつけても圭吾は涼しい顔だ。どこかこの状況を面白がっているようでもある。
「そのままの意味だ。お前がトイレで倒れて、俺が助けた。どうしたとお前の会社の人間が聞いてきたから、そのままSubの発作だと伝えた。それで俺もDomだと明かしたところ、俺がお前を連れ帰るのを理解してもらえた」
「そんな……」
絶望的な展開だった。これで会社の人間に自分がSubだと知れた。しかも発作が起きて、Domに連れ帰られたなんて……そこまで知られれば、後は誰にでも自ずと展開が想像できるだろう。Subの不調は薬でも抑えられるが、Domとプレイをすることが一番の薬になる。
(俺がこいつとシたことを、社内の人間に知られた……!)
それは佑にとって、セックスを見られること以上に恥ずかしいことだった。誤魔化せるものなら今すぐになんでもする。土下座でもなんでも。
「なんだ。Subだと会社の人間に伝えてなかったのか? 別に恥ずかしい事じゃないだろう」
「……っ!! あんたにとってはそうだろうな! けど、俺にとっては……っ!」
「プレイは恥ずかしいことじゃない。皆している。いや……君はそもそも、Subであることが恥ずかしいのか?」
「──うるっせぇな!!」
図星だった。
従属し、頼り、躾けられ甘やかされる性。
それが、心底気に食わない。目の前のDomへの怒りを超えて、自分自身への怒りを羞恥を指摘されて、とうとう佑は殴りかかった。
「おっと」
しかし、振り上げたその拳は圭吾には届かなかった。腕を取り捩じ上げられて、床に押さえつけられる。あっという間に佑の視点が反転した。
そんな目にあったのは初めてだった。無様に床に転がされて天井を見ている。しかも、そこから動けない。圭吾が軽く腕を捻っただけで、上から体重を少しかけられただけで、指先一つも動かせなかった。
「くそっ!! 放せよ!」
「嫌だね。君がもう暴力を振るわないと言うなら退くが……」
「殴らねぇと気がすまねぇ!」
「だろうな……君の心臓が、怒りで大きく鳴ってるのを感じるよ」
圭吾が嘆息する。
「君が落ち着くまでこうしていよう」
「……コマンドを、使えば良いじゃねえか」
「無理強いはしたくない」
唸る佑を片腕と身体とで押さえつけながら、圭吾がさも当然のように言った。
圭吾の落ち着いた心臓の音が衣服越しに佑にも伝わってきた。力強く脈打つ心臓。微動だにしない身体。落ち着いたDomらしい、王者の風格さえある男が、自分を言葉ではなく力で押さえつけている。
もっと怒りが継続しても良い筈だった。けれど衣服越しでもわかる圭吾の熱い体温と心音を暫く感じていると、急激に怒りと……羞恥とが冷えていくのが分かった。
羞恥。
そう、佑のDomへの怒りの根底は、Subである自分への劣等感にあった。
何故俺が頼らなければならない? 何故俺が圧せられなければならない? 何故俺が……支配される側なんだ。
悔しい。悔しい。悔しい。
そして、屈服しなければならない己が猛烈に恥ずかしい。そんな性を持って生まれたことが恥ずかしい。極端な自己否定。自己羞恥。自分がSubであることを、誰にも……知られたくない。根底にあるのはそんな気持ちだった。
(結局……弱いものとしてSubを見下し偏見を持っているんだ俺は。世の中がどう動こうと、どんなにSubを受け入れようと関係ない。俺を今まで蔑んできたDomどもと、俺は同じだ……!)
歯噛みして佑は天井を睨みつけた。圭吾への怒りなどとうに消え失せていた。
「退け」
「ん?」
「……落ち着いたから、退けってんだよ」
低く言う佑の顔を覗き込んで、圭吾は身体の上からゆっくりと退いた。
差し出された手を今度は拒まなかった。力強い腕に自身の腕を絡めて引き上げられる。
「……話が、あるんだろ?」
「ああ」
「聞くよ」
急に大人しくなった佑を圭吾はいぶかし気に暫く見つめていたが、「ならこっちだ」と佑をリビングへと連れて行った。
1-6
誘われた広いリビングにも、過剰な装飾はなかった。人の生活の匂いはかろうじてするが、何物もシンプルで無駄なものがない。趣味をうかがわせる本も、絵も、勿論脱ぎ捨てたスーツなんてものも何もなかった。ただ、寝室と同じく壁も高い天井も白い。床は大理石で、白っぽいそれのせいもあって、白亜の城を思い起こさせた。
ぽつんと置かれた硝子のリビングテーブルに腰かけて待っていると、圭吾は対面式のキッチンからマグに入れた珈琲を持って戻ってきた。
「どうぞ。熱いから気を付けて」
「……サンキュ」
優しい声だった。しかしそれ以上話が進まない。二人して暫く静かに向かい合って珈琲をすする。
佑はそこでようやく気付く。あの甘いバニラの香りが今日はしない。いや、微かに香る程度にはするが、それは部屋の天井に吊るされたファンによって霧散する程度の香りだ。
「あんた……初めから俺がSubだって分かっててやったな?」
思わず佑は身を乗り出した。圭吾はその言葉にカップを置くと口端を軽く引き上げた。
「やった、とは?」
「Domの気配、必要以上に強く出してただろ」
立ち上がり詰問する。対する圭吾は余裕の笑みで、首を傾げて足を組み佑を見上げた。
「君こそ、Subの気配が強く滲んでた」
「……っ知らねぇよ、そんなこと。ただ、昨日はちょっと……具合が悪くて」
「それは最初知らなかった。ただ今もほら、君が感情を露わにするとムスクのような香りがする。宴会の席に着いた途端、強く君の匂いがした。君がSubだって、しかも飢えたSubだってすぐにわかったよ。だから、誘われているのかと思った」
「そんな……!」
馬鹿な……とは言えなかった。偶にDomから声をかけられるのは自分のせいなのは分かっていた。風俗で指名したDomにも似たようなことを言われていたし、突っかかってくるDomにも度々匂いのことは言われていたからだ。
しかし、それでは自分は据え膳として圭吾の前に現れて、圭吾はそれに真摯に応えていただけだということになる。暴力や乱暴な言葉ではなく、気配で応えていただけだと。
「だから、中座した君を追っていったんだ。そうしたら、君は個室の中で倒れていて……いや、流石にリフォーム屋の皆さんだ。簡単な工具ですぐに扉を外して君を救いだしてくれたぞ」
軽やかに笑う圭吾の正面で、力なく佑は椅子へと腰かけた。つまりは、そういうことだ。佑が求愛し(実は具合が悪かっただけだが)、圭吾が応え、しかも具合が悪いと分かると圭吾は佑を介抱までしてくれた。……前後のあれこれは置いておいてもだ、佑にとって恩人であることには変わりなかった。
「……すまん」
「ん?」
「俺の、勘違いだった。あんたは、俺の知ってる腐ったDom達とは違った。だから、スマン。それと、昨日は助けてくれて……サンキュ」
「ありがとう」とは恥ずかしくて正面切って言えなかった。そんな佑を見ながら圭吾は腕を前に出してテーブルの上で両手を組む。「それは全然良いんだが……」と、眉をやや寄せた顔は困惑しているように見えた。
「しかし君は……アレだな。いつもあんなになるまで我慢しているのか? その、倒れるほど?」
「いや……アレは発作なんだ。阿呆なDomに思い知らせてやった後に、必ず来るぶり返し。普段は抑制剤で治まるんだけど、昨日はあんたの気に当てられた。だから発作がひどくなったんだ。あんたが薬を飲ませてくれたおかげで……──プレイをしてくれたおかげで、多分、発作が治まったんだと思う」
阿呆なDomという言葉に圭吾がピクリと反応したのを無視して、佑は話した。本当のことだ、嘘は言ってない。そろりと圭吾を見ると、圭吾は口端を曲げて低い声で確認してきた。
「つまり……君は普段、その濃い匂いでDomに相当絡まれてるのか?」
「……まぁ、な」
「それを暴力で解決している?」
「そうだけど……」
「これからもそうするつもりか?」
「それは……あいつら次第だな」
はぁっと深い溜息を圭吾が漏らした。
「君のDom嫌いが分かったような気がするよ」
「うるせーな。絡んでくるやつが悪いんだよ」
「だがこれからも続けていくっていうのは、危険すぎだ。実際今日、君は私に勝てなかった。暴力沙汰だって、表に出れば会社も辞めざるをえないかもしれない」
「うっ……」
理路整然と説かれれば、返す言葉はなかった。佑だって、自分の中の凶暴性が嫌になることだってある。我を忘れて暴力に身を任せるのは愉快だし爽快だ。だが、終わった後の何とも言えない味の悪さ。相手が悪いと分かってはいても、それに拳でしか返せない己のことが──佑は好きではなかった。
だが仕方ないのだ。現状を打破するには、己の身は己で守るしかない。
それが分かっているからだろう。圭吾も暫く黙っていた。そして、口を開いたかと思えばこんなことを言った。
「私が君を躾てみようか?」
「は?」
それが二人の始まりだった。
2-1
「それで……その、躾? られることになったんだ?」
立ち飲みの、露天居酒屋のにぎやかな端っこの席で愁が顔を真っ赤にして佑へ聞いた。顔が赤いのは何も酒のせいだけではないらしかった。「躾」と小さい声で繰り返す。
佑は背の高いひょろりとした友人を見上げて「誰が」と眉を寄せた。焼酎の水割りをグイっと喉奥に流し込む。
二人の背後では冬の気配が濃厚で、風が吹きすさんでいた。けれど酒と屋根から下がる風よけのビニールシートのおかげで、寒さを感じることはない。あと二週間ほどでクリスマス。皆が笑い、年末の雰囲気に酔っていた。陽気な笑い声があちこちで上がる。
「勿論断ってやったぜ。なーにが躾けるだ。……あいつの、Domのオモチャになるのはごめんだ」
「え、でも……そのDomの人には助けてもらったんだろ?」
「……まぁ、な」
愁にはフェラチオをされたりキスをした経緯をぼかして話してあった。単にコマンドを使われて体調が安定したということだけをかいつまんで……要は脚色していた。
あの出来事からもう十日以上になる。
「躾」を提案された時、佑は一瞬ぽかんとしてしまった。そしてそれから、猛烈な怒りがわいてきた。いつもの、Domに対する怒りだ。ずきずきと頭の芯が痛み、結局こいつもかといった反発が頭を擡げる。
立ち上がりぶらっと拳を下げて、揺れる視界に耐え、佑は顔を上げた。
「……世話になった。その礼は言う。けど……その提案には乗れねぇ」
「へえ。どうしてだい……?」
対する圭吾は面白そうに口端に微かな笑みさえも浮かべている。「良い提案だと思うんだけどな」と付け加えられてぐっと奥歯を噛み締める。
「俺は気に入らないDomには従いたくねぇんだよ」
「そうなのかい? けど君は昨日、あんなに可愛く私のコマンドに応えてくれて……」
「あれは……! 薬が切れてたせいだ。あんな酷い発作、別にあんたでなくとも……多分、ああなった筈だ」
反論する声がどことなく歯切れ悪くなってしまうのは仕方なかった。確かに佑はこの男の手で、唇で……感じていたのだから。生まれて初めて従属の快感、性的な快楽、そして信じられない程の今朝の爽快感。それらは紛れもない事実だった。
しかも、この男からは今はDomの香りが薄い。何となく肩透かしをくらってしまうのだ。怒りを継続させることが妙に難しい。
「とにかく、一度考えてみてくれ。……君のためだ」
テーブルの上に、名刺が置かれた。名前とアドレスだけのシンプルなものだ。プライベート用だろう。目の前で破って捨てるわけにもいかず、佑はそれを睨みつけた。圭吾はそんな佑を前ににこりと微笑むと手に鞄を持ち立ち上がった。
「それじゃ、私は仕事に行ってくる。君は好きなだけここで休むと良い。冷蔵庫やシャワーもご自由に。帰るときも扉はオートロックだ、気兼ねせずにな」
「……すぐに帰る」
「まあ、それも良いだろう。兎に角、気を付けて」
さりげない動作だった。圭吾は身を乗り出し、佑の頬をひと撫でして指を離す。反論も何も返す隙はなかった。ただ驚いて立ち尽くす佑を後に、男は部屋を出ていった。触れられた頬は熱く、混乱しながら暫く佑はそこへ立ち続けた。
そこまでを思い出し、はは、と乾いた笑いをする佑に対して愁は眉を寄せた。そして弱気な愁には珍しく、迷いつつもぽつりと返してくる。
「……その提案……受けた方が良いんじゃないかな」
「ええ? 冗談だろ……」
手をひらひらと降って誤魔化すように笑う佑に、愁は食い下がる。
「だって、その……コマンドが聞けたんだろ? 僕以外のDomのコマンド、聞けた試しがないよね? 佑」
「それは、そうだけど……」
「もう暴力はしたくないって……そうも言ってたよね?」
ぐっと言葉に詰まる。
「良い機会じゃないかな……。佑がDomを嫌う理由は知ってるよ? 嫌な目に合ってるのを僕も見てきたし。けど、助けてくれたその人には心を開いてみても良いんじゃないかな。コマンド、嫌じゃなかったんでしょ?」
ぐぐっと迫ってくる愁に、佑は返事を返すことができない。うっすらとジャスミンのような香りが愁からは漂っている。……この友人であるDomは普段極力その気配を消して側にいてくれる。勿論それは佑への配慮だ。だから珍しく、Domのオーラを発して喋る愁に佑は僅かだが混乱していた。
「愁……?」
酔っているわけではなさそうだ。何となく身を反らして友人の名を呼ぶと、一瞬困ったように愁が佑を見下ろした。それから、ゆっくりと目を逸らして、視線を戻した時には佑の方を照れが滲んだ目線で見る。
「あの、さ。僕……パートナーができたんだ」
「え」
瞬間、佑の背筋は凍り付いた。聞き間違いかと、うすら笑いで聞き返す。
「……恋人ってこと、か?」
「うん……」
しっかりと愁は頷いた。その頬がやはり赤い。対照的に佑の顔からは血の気がどんどん引いていく。自分のことどころではない。愁に恋人? 浮いた話一つ聞いたことのなかった愁に!?
なにかがカタカタと鳴っている。気づけば手が震えて、持っていたグラスの底がカウンターにぶつかっていた。はっとして、佑はグラスを置いたが、愁はそんな佑にも気づかず喋り始めた。
「はは、急に思えるだろうけどさ。……長く片思いしてた相手がいたんだ実は。年末も近いし……今年こそはって思い切って告白したら、思いがけずOKだったんだ。恋人兼パートナーでよろしくお願いしますってなって。……自分でも信じられないよ、こんな僕にパートナーができたなんて……」
頬が紅潮し、照れを滲ませてどこか夢見るように喋る愁に、佑は自分の変化を悟られまいと、顔を上げ必死で笑顔を作った。
「へえ。そりゃめでたいな。パートナーってことは……相手は……Sub、なんだよな? 男? 女?」
最後は恐る恐る聞く形になってしまった。これで男だと言われたら……。嫌な予感は的中した。愁は頬を掻きながら小さな声で答えた。
「うん、Subの……可愛い男の子だよ。人懐っこい猫みたいなんだ、三つ年下」
「へ、へぇ……」
ショックだった。女だと言われた方がどんなにか良かったか。男だなんて……。
(じゃあ、なんで俺じゃ駄目だったんだ……?)
自然と浮かんできたその言葉に、じわりと胸が痛む。ずきずきと頭痛がして、体調が悪いわけでもないのに腹の底がずんと重くなった。
それから後の話は、ほとんど耳に入らなかった。ただ愁はしきりに圭吾の躾を勧め、「僕にはもう佑を助けられないから」と、パートナー以外にコマンドを使うことはできないと言った。別にDomとSubの間にそんなルールは存在しない。ただ愁は、恋人以外にもうコマンドを使うことはないと決めているようだった。
気づけば一人、自宅のマンションの部屋前に立っていた。そこではっと、愁にちゃんとしたお祝いの言葉を言ってなかった、と気づく。急いでスマホを開き、「良かったな! おめでとう!」と連絡する。すぐに返事が返ってきて、「ありがとう、佑に一番に伝えられて嬉しいよ」と文面にはあった。
「……嬉しい、か」
スマホを握り締めて、佑はその場にしゃがみ込んだ。ごつっと固い扉に額を当てる。
ずっと、愁が好きだった。
気づいたのは高校生一年の夏だった。街で絡んできたDomを例のごとく佑がボロボロになるまで殴っていた場に愁が遭遇した。そこで初めて愁が「Stay」のコマンドを口にし、佑は勢いその場にへたり込んでしまった。暴行はそこで止んだ。
愁は佑の話を聞き、そこで「僕が佑の最後の砦になるよ」と微笑んだ。そして確かに、佑の体は愁のコマンドだけは受け入れることができた。そこには信頼があるからだと、佑は思った。感動した。親友への信頼という感情が自分の中にあることに驚いてもいた。
それがいつしか恋情に代わったのはいつだろうか。高校生活も終わりに近づき、進路が決定的に離れたと確定した時だったかもしれない。
(俺は……愁が好きだ)
自分の想いに気づいても、強情でプライドが高い佑にはそれを声に出すことができなかった。
二人の仲は親密で、もしかしたらあの頃愁は自分を好きだったかもしれないという思いが今の佑にはある。……当時も、それを肌で感じてはいた。愁の、自分へ注がれる熱い視線。差し伸べられる優しさに、唯一自分を従わせる事ができるコマンド。
しかし万が一にも……親友という立場が壊れることが怖かった。
そして、進学に伴い上京した愁は、大学を卒業すると地元へと帰ってきた。また密な交流が再開された。けれどその愁の目に、前の情熱はもうなかった。
それからもう四年……。
「はは、ざまぁねぇよな」
固執し、諦めきれずに愁をずっと想っていた。想っていただけだった。何も、しなかった。それがこの結果だ。
失恋した。大失恋だ。
けれどそれを相談できる、愚痴る相手さえ自分にはいない。自分には愁だけだった。
寒風が、羽織っていたコートを翻し地面を擦る。埃にまみれたコートの裾を見て、まるで自分みたいだと佑は自嘲した。
2-2
失恋しても朝は来る。当たり前だが。
少し腫れぼったい目をした自分を鏡の中に見る。別に泣いたわけじゃないのに……。
昨夜は流石の佑もあまり寝られなかった。寝転んではみたものの、瞼の裏に思い起こされるのは愁の笑い顔や照れたような眼差しだけだ。情けない……。
そんな自分にかつを入れたくて深夜に筋トレをしてみたりもした。寝返りも打った。布団を蹴って毛布だけにくるまってもみた。眠気は全然やってこなかった。重い、胸の苦しみだけが強くなるばかりだった。
朝になり、佑はそんな自分に憮然として歯磨きをし、髭をあたって鏡の前から離れた。
朝食は大事だ。
何があっても、佑は必ず食べるようにしている。自分の元気の源だと思っていた。
今日は簡単に、スーパーで買ったカット野菜のサラダに作り置きのゆで卵二個、トースト二枚をインスタントコーヒーで黙々と食べる。いつもならスマホでニュースやSNSを覗きながらのながら食べだったが、今日はそういう気分になれなかった。
──気が重いのには他にも理由があった。
「よう。おじょーちゃんは、今日は元気か?」
「……っす」
出社すると、いきなり背後から肩を叩かれた。振り返るまでもない。同僚の五十がらみの男が何事も無かったようにすれ違い追い抜いていく。
あの日からだ。いや正確には週末が明けて出社した日からだった。
今までは普通に「東雲」と名字で呼ばれていた。それが、一部の男性社員から「お嬢ちゃん」と佑にとっては屈辱的なあだ名で呼ばれるようになった。やはりあの日から一気に社内に佑がsubであることが知れ渡っていたのだった。言っている方に悪意はない。ただ単に、年下の同僚をからかっているだけだ。実はSubだった佑が珍しくてしょうがないのだ。
それが分かるだけに、反応がしづらかった。怒っていいのか、笑ってごまかせば良いのか……いや、怒って良い筈だった。DomやSubへの差別的な言動は法律でも禁止されている。若い者たちの間では、DomやSubを揶揄いの対象にするのが恥ずかしいという認識さえあった。
しかし、社内の安穏な雰囲気がそれを言い出しづらくさせていた。「悪気がないという悪意」がこんなにも厄介だとは佑は知らなかった。
(これが同調圧力ってやつなのかもな……)
ぼんやりと佑は考える。鬱々とした気分にさせるのはこれが原因だった。仲の良かった先輩や後輩が、途端に醜い獣に見える。人はなぜ少数派を囲い、攻め、揶揄しようとするのか。
ただ、有難いことにその呼び方をするのはほとんどが40代以上の男性社員だけだった。女性社員や若い社員は今まで通り接してくれる。
「あまり気にすんなよ……」
ロッカールームに入ると、今度は年配の先輩社員、仕事上のパートナーの加藤が声をかけてきた。
「はは……どうもっす」
佑は頭を下げる。一緒に行動する彼がSubに偏見がないらしいのも有難かった。
「娘がな、Subなんだよ」
苦笑いするようにぼそっと加藤が言った。はっとして佑は隣を見た。胡麻塩頭の加藤は目線は下げたまま着替えつつ、ぼそぼそと喋る。佑も隣で着替えながら、何でもない風にして話を聞いた。
「もう良い年頃で一人娘なんだよ……来年は就職だ。親としちゃ、今まで以上に社会に出すのが心配でね。お前さんが揶揄われてるのを見ると、娘を見てるようでな……。無理はするなよ」
バタンとロッカーの扉が閉められる。それっきりだった。加藤は振り返ると、いつものカラッとした笑顔で佑を見た。
「さあ、今日も外回りだ」
「はい!」
滲みそうになる涙を堪えて佑は加藤に続いてロッカールームを出た。
凍えるような寒さの日だった。日は薄曇りの空の向こう側にいて、風が冷たい。
あれからまた数日が経って日曜日の午後、佑は圭吾のマンションに戻ってきていた。名刺は破り圭吾の部屋のゴミ箱へ捨てていたから、記憶と地図アプリで辿り着いた。
マンションは完全なオートロックだったから、下の入り口でインターホンを押さなければ相手と会えない。
何度も帰ろうとして、いや待てと己を律してまた入口へと戻る。
その度に監視カメラが気にかかる。
このままでは通報されるぞと意を決したのは、何度目か扉の前へと立ってたっぷりと5分は迷ってからだった。震える指で部屋番号を押す。
「はい」
「……俺、東雲だけど……」
「──待ってたよ。入りなさい」
声に揶揄が少しでも入っていたら、佑は逃げ出していただろう。だが、圭吾の声はあくまで真摯で優しく、どこか嬉しがっている様子だった。ほっと胸をなでおろして、けれど眉間の皴を濃くしてから佑は自動ドアを潜りエレベーターで部屋へと向かう。どんな顔をして再会すればよいのか佑にはわからなかった。
分からなかったから自然と怒ったような顔つきになった。
部屋では玄関の扉を開けて、圭吾が微笑んで待っていた。佑は見上げて口を曲げた。圭吾は腕を広げて佑を玄関先でそっと抱き寄せた。
「おかえり」
「……なんで、おかえりなんだよ」
佑は何となくそうされるだろうなと予想していたので、抵抗はしなかった。抵抗しなかったが、指一本動かさずにじっと全身で圭吾を観察していた。
「ここしかないと思ったから?」
耳元で優しい声が揺れている。バニラの濃厚な香りが圭吾から漂ってきた。佑は乾いた笑いで返した。
「はは、えらい自信家だな」
「そう? けど君は戻ってきてくれた」
「……まぁな」
「さあ、部屋にどうぞ」
「……邪魔しまっす」
腕を解かれて身体が自由になる。だが視線が、圭吾の視線が自分に注がれているのが分かる。全身を舐めるように見つめている。それは不快ではなく、妙な高揚感を佑にもたらした。
(どうかしてる……こいつも俺も)
そう心で呟いて、手を繋がれ導かれるままあの何もない白いリビングへ佑は圭吾へと付いていった。
2-3
最初はDomの強い気に当てられた。
次に顔を合わせた時は……あんなことをされたせいで……部屋も暗かったし、実際よくわからないまま意識が飛んだ。
翌朝はまず躾けるという話に怒りを感じたし、どちらかというと部屋の方に強い印象が残っていたからまた思い出せずに……。
何を言いたいかというと、圭吾の顔を、姿かたちをしっかりと認識したのは今回が初めてだということだ。
「また珈琲で良いかな?」
振り返る姿は背筋がきちんと伸びていて、改めて見る圭吾は清々しいまでの色男ぶりだった。
休みだからだろうか、宴席では綺麗に撫でつけられていた黒髪は今日はラフに下ろされている。その下の強い意志を感じさせる太い目の眉がキリリと上がっていた。目許には左目に泣き黒子がポツンとあって、二重のくっきりした瞳にそこはかとない色気を感じさせる。真っすぐな鼻梁にやや大きめの薄い唇が今は微笑みを浮かべていた。
「あ、ああ。サンキュ」
「いえいえ? 貰い物の菓子があるんだがあるんだ……これもどうぞ」
「ん。どーも」
「なんだ。言葉少なだな、今日は」
笑い方は上品に口の端を上げるだけだ。差し出されたのは白い小皿に盛られた色とりどりの小さな焼き菓子で、佑は思わず手を伸ばす。
何かスポーツでもしているのだろうか、近づかれると白いシャツの上からでもその胸板の厚みがしっかりと分かった。手足が長く、腰の位置も高い。皿を差し出した手は爪先まで綺麗で大きかった。
男らしい、と言って良い姿だった。にも関わらず、纏う空気や物腰は柔らかだ。
そこにギャップがあって、わずかな隙があり……圭吾をより魅力的な男に見せていた。
ほんのり、バニラの香りが部屋中に広がっている。その匂いは圭吾がリラックスしていることを物語っていた。
「……で? 私はお眼鏡にかなったかな?」
ふいに、目の前へ手を差し伸べられる。とっくに珈琲をセッティングし終えた圭吾がすぐ側に立っていた。佑に向けられた掌はやや丸くカーブを描いて指がわずかに曲げられている。佑が首を差し出せば頬のラインに添うだろう形だった。
「……どういう意味だよ」
意図は分かったものの、思わず佑は身を引いていた。あの大きな手に自分から顎を乗せたら最後、この男の言いなりに自分はなってしまうだろうと何となく予感がした。だから返事はどうしてもそっけなくなる。これ以上側に近寄ってはいけないと本能が告げていた……恐怖に近かったかもしれない。
「さっきから君は熱心に私のことを見ていた。観察していたんだろう?」
「別に……」
微かだが、圭吾が眉を寄せた。
「その態度はいけないな。これから私たちは一時とはいえ、パートナーになるんだ。質問にはちゃんと答えて? Say(言って)」
突然コマンドを使われて、佑の背中に電流が走る。ぐぐっと唇をかんだところで、抵抗は無意味だと悟る。気持ちがまだ追いつかないだけで、いつもの嫌悪感がやはりない。優しい声が、抵抗する気力を奪うようだった。
それでも答える唇は震えていた。
「……見て、たよ。確かにあんたを観察してた。嫌味なくらいいい男だ」
ふっと圭吾が柔らかく微笑んだ。佑はその瞳に吸い寄せられるように見入った。深い、濃い茶色の瞳が印象的だった。
「良く言えたな、Good(良い子だ)。Come(おいで)」
気づけば、圭吾の掌に頬を摺り寄せていた。頬に柔らかく触れる手は大きく、温かく、そして乾いていた。すりっと顎先を動かして、堪能する。これはご褒美だ。きちんと圭吾の問いに応えられたことへのご褒美。
……ご褒美と思える自分の思考にぞっとしながらも、その行為を止めることができない。
頭では分かっているのに、身体が先に動いてしまう。そして与えられるご褒美は、些細な撫でる行為一つでさえも、中毒性を持って佑を縛り付けるのだ。
ひとしきり頬や顎先を撫でると、圭吾の指はそっと佑の唇へと触れてきた。下唇の表面をなぞり、上唇の縁をなぞる。その隙間に親指を差し込まれ、歯列を撫でられて漸く、はっと佑は身を引いた。これはコマンドじゃない。そこまで許すわけにはいかなかった。
「……止めろよ、こういうの」
「こういうの、とは?」
愉快気に圭吾が正面へと座る。その姿も、所作一つ一つが優美だ。
「こういう……意味もなく、触る行為だよ」
「意味はあるよ。君を触って、撫でて、私に……Domに慣れさせる」
「……俺を手懐けようって?」
「言い様だな。君にとっては悪い話じゃない……君の暴力行為は過剰防衛だ。だから、まずは私に……Domに慣れさせる。Domは怖いものじゃないって、君の体に分からせる。佑もそれを望んでいるから、今日ここに来たんだろ」
笑って、圭吾が珈琲を手に取った。佑は言葉に詰まったが、一瞬ふと気になったことを聞き返す。
「分かったよ。でもそれで? 俺には利があるとして、あんたの目的はなんだ? 俺なんて扱いづらいSubを捕まえなくても……あんたなら引く手数多だろ」
すると、圭吾は一瞬眉を寄せて珍しく困ったような顔を見せた。ついで微笑し、さも当然というように首を傾げる。
「君に一目惚れなんだ」
「はぁ!?」
予想外の理由に佑は思わず声を上げた。疑わしさが籠った眼差しを圭吾に向けると、圭吾は笑って腕を組む。
「本当だ。君にStayを使ったときに、私には君しかいないと思った」
「あんた……ゲイ?」
「そうだな、ゲイでDomで、Subの君に求婚してる」
「俺は……少なくとも、ゲイじゃない。あんたの求愛に応えることは出来ない」
圭吾の手によってイカされておいてよく言うと自分でも思ったが、本当なのできっちりと反論しておく。
「そうか、なら契約にはアナルは使わないよう明記しよう」
「アナル!? 契約?」
圭吾は立ち上がり、キッチンの奥の部屋に消えると紙とペンを手に帰ってきた。サラサラと「契約書」と紙の中央上に書き込むと、にっこりと笑って佑を見据えた。
「この世の中の大半は契約で成り立っている。私と君のことも書面ではっきりさせておかないと」
「……変な奴だな……」
「はは、よく言われるよ」
それから圭吾は二つ三つ、佑に質問をすると、手書きで契約書を作成した。内容は簡易で分かりやすく、佑も同意した。圭吾が右下に流麗な字でサインをする。その下に、なんだか緊張しながら佑も自身の名前を書いた。
「それじゃ、これからよろしく」
「んっ!?」
テーブル越しにぐっと頭を引き寄せられてキスをされる。足元に、契約書と書かれた紙がひらりと落ちた。
『1 契約期間は十二月十七日~三月十六日までの3か月とする。
2 西沢圭吾(以下D)は東雲佑(以下S)とパートナーとして1の期間を過ごすこととする。
3 DはSに対してアナルを使った行為は行わない。
4 D(またはS)からの申し出にのみ、この契約は解消される。
5 この契約は自動更新される。
十二月十七日 西沢 圭吾
東雲 佑 』
2-4
(よく考えたらおかしいよな!?)
翌日になって、ようやく佑はそう思い至った。
トイレの改修工事で、新しい洋便器をトラックから下ろしている時だった。今日は午前中にこのトイレ改修を終わらせれば、午後はお得意様回りだ。「そっち、気をつけろよ」と、加藤が声をかけてくる。「っす」と答えながら商品を玄関先まで運ぶ。
仕事には細心の注意を払いながら、頭の中は昨日のことでいっぱいだった。
圭吾の要求や提案はストレートで何も迷いがない。だから引きずられてつい契約書にサインしてしまったが、本当にあれで良かったのかと今更ながら思う。
契約書はコピーされてお互いの手元に一部ずつある。
「詳細はまた後日にでも、話し合おう。そのあたりは柔軟にいければと思っている。とりあえず、パートナーとして親密に付き合っていこうな」
別れ際、圭吾はそう言って佑の頬を撫で送り出した。
(親密ってなんだ!? そもそもパートナーって何するんだ?)
この年までパートナーが一人もいなかった佑である。欲しいとも思わなかったし、パートナーなど得ずに独りで生きていくんだと思っていた。
仕事の休憩時間に、社用車の中でそっとスマホを開いて検索する。「Dom/Sub パートナー」「パートナーとは」「Dom しつけ」などと打ち込んだが、出てくるのは出会い系のサイトやマッチングアプリの広告ばかりだった。
違うんだよなぁ……と画像検索に切り替える。すると、一番上に小学校低学年向けと思われるイラストが出てきた。男女、男性同士、女性同士のペアが仲良く手を繋いでいるイラスト。タイトルには「さまざまな性(せい)のかたち(ドムとサブ)」とある。そして、イラストの下部には大きく、「おたがいのしんらいがだいじ」と書いてある。説明はたったそれだけだった。
なぜだか、胸が痛くなった。Doomを信頼する? この俺が? 今更?
冷えてしまった肉まんを頬張りながら、なおも検索を続けている時だった。ぽこん、という音とともにメッセージアプリが着信を知らせた。
「こんにちは。今日も冷えるね。良かったら、今夜また家に来ないか? 夕飯を一緒に食べよう。鍋を準備して待ってる 圭吾」
ビクッとして、思わずスマホを取り落としそうになった。
まさか契約の翌日に誘われるとは思ってもみなかった。
(はは。ままごとみたいなこれに、付き合えってか?)
冷めた目で文面を読み返す。「今日は無理……」そっけなく打ち返しかけて、昨日別れ際に頬に触れた指先や、契約後の突然のキスを思いだす。ままごとなら、もうすでに始まっている。契約にサインはしたし、本気かどうかは分からないが、圭吾は佑に一目惚れだという。
(確かに、これを逃すと後がもうねんだよな……)
自分から圭吾の家に足を向けたこともちくりと胸を刺す。決めたじゃないか、もう暴力はしない。普通のSubとして、まっとうな人生を送りたい。……心の底ではSubを見下し、Domを拳で殴りつけるような生活とはもう縁を切るんだって。
「いいよ。仕事終わったら……七時過ぎにはあんたの家に向かうよ 佑」
迷ったのち、休み時間ぎりぎりでその短い文面を打ち終わり送信した。
圭吾の家に着いたのは、約束より遅く八時前になった。仕事が終わり、遅くなる旨を電話で伝えても、圭吾は優しく、「待ってる」と電話の向こうで囁いただけだった。
圭吾の家の玄関で、佑は盛大に迎えられた。一応はと手土産に缶ビールを提げていた佑だったが、その腕ごと圭吾の広い胸に抱きしめられる。ふわりと優しい、だがやや長い抱擁は、仕事場から駆け足で来た佑の緊張をほっと和らげるには十分だった。
「おかえり」
「なんで、おかえりなんだよ」
「君の、もう一つの我が家だから?」
「はは、実家と思えってか」
昨日も似たようなやり取りをしたなと思いながら、片腕で軽く背を抱き返す。柔らかなセーターの下に男の確かな体を感じた。乏しい恋愛経験の中……女性を長らく好きだと思っていた。愁が自分にとってはイレギュラーで特別なんだと。けれど、圭吾に抱きしめられてもキスされても嫌悪感がないところをみると自分はバイなのかもしれないと、ぼんやり佑は考えた。勿論そんなこと目の前の男にはいまさら言えやしないけど。
鍋は鳥すきだった。程よく弾力のある地鶏が、やや甘めの出汁で白菜などの野菜とともにぐつぐつと煮えている。解いた卵に潜らせて食べれば、高級な牛肉に勝るとも劣らないうまさだった。
「うっまっ……これ、あんたが作ったのか?」
「いや、残念ながら料理は出来ないんだ。通いのハウスキーパーさんに火を通すまでは下ごしらえをやって貰ってた」
「はは、そうなんだ? 器用そうだから何でもできるんだ思ったよ」
「佑は、料理は?」
「独り暮らしだからな。簡単なものなら作れるぜ」
「それは凄いな。じゃあ今度、手料理をふるまってくれないか」
「人様に食わせるような飯じゃないぜ?」
「私が食べてみたいんだ」
「もの好きだな、あんたも」
佑はつい吹き出した。会話も弾んで酒も進んだ。圭吾は聞き上手で、要所要所でさりげなく佑を褒めてくれた。
圭吾の掌の上で転がされているという事は分かっている。だが、手放しで褒められて可愛がられることに佑は慣れていなかった。いつも自分から他人には距離を置いていたせいだ。だから、契約書という名目で可愛がられるのには安心した。安心して甘えることができたし、屈託なく笑うこともできた。
──何もない、白い部屋で二人。食べた鍋は確かに美味かった。
ビールもたらふく飲んで、そろそろ暇をしようかと佑が腰を上げかけた時だった。
何のはずみでか、佑の箸がテーブルの下に転がり落ちた。硝子のテーブルだから転がった箸が思いがけず圭吾の足元まで転がっていくのが見えた。
「ああ。私が……」
「いいよ、俺が取る」
佑は立ち上がりテーブルの下へ身体を潜らせた。腕を伸ばすだけでは届かずに、結局は椅子から降りて圭吾の傍へ寄って蹲り箸を手に取った。そこで、ふいにバニラの香りが強く匂った。佑が勢い見上げるのと、微笑んだ圭吾が足を組むのが一緒だった。
「佑、Kneel(お座り)」
「え」
ぺたんと、そのまま尻が落ちてしまった。足は斜め後ろに、崩すように跪いた。佑は訳が分からずに呆然とコマンドを聞いていた。酒のせいも、和やかな食事の雰囲気もあっただろう。それで、自然と体が動いてしまっていた。
圭吾が立ち上がる。
「Come(おいで)」
「っ!」
圭吾が一歩、奥の部屋へと足を踏み出す。見上げた佑の位置からは、圭吾の微笑む口元と顎先、胸板と太ももしか見えない。余りに大きく見えた。威圧的だった。けれどその口から零れる声は優しくて、脳が混乱する。
「どうした、Come(おいで)だ」
もう一度、今度は指先で顎下を撫でられて呼ばれた。バニラが……濃厚な香りが頭の芯を痺れさせる。そろりと佑は腰を上げた。体重を四肢に分けて、四つん這いになる。手首の付け根が、膝が、予想以上に痛かった。そのまま両手両足で歩き出すとぎくしゃくと身体がこわばって、不自然に体が揺れた。
「そう、ゆっくりで良い。ここまでおいで」
圭吾は寝室の隣の、奥の部屋の扉を開けて待っていた。膝がゴリゴリと擦れて痛い。シャツやスラックスは四つん這いには向いていない、あちこちが引き攣って動きづらいことこの上なかった。何とか屈辱的な姿勢のまま、圭吾の足元までたどり着いた。ほんの数メートル「四つ足」で歩いただけなのに、嫌な汗をかいていた。
「見て。ここが私と君のプレイルームだよ」
中を覗き込んで驚いた。広い一室のカーペットの上に、更にコルクが貼ってある。思わず四つん這いのまま部屋のうちまで歩むと、手首の痛みは変わらずも膝の痛みは随分と楽になった。
圭吾も部屋へと入ってきて、部屋にいくつも置かれた大型のクッションを背に胡坐をかいた。部屋には大小のクッション以外には何もない。
「どうだい? 急ごしらえにしては上等だろう?」
「はは、嬉しいって……顔すりゃいいのかよ」
「そうだね。佑、Come(ここまでおいで)」
指先で呼ばれることに若干の苛立ちを感じたが、佑は素直に圭吾へと近寄った。
「もっと、Come(おいで)」
「もっとって……」
今や鼻の先に圭吾の唇が触れるほどに近い。
「もっとだ」
「つっても、これ以上は」
視線を思わず避けると、「Come」と鋭く呼ばれた。
(ああ、そうか。こいつは……)
佑はのしっと、前足代わりの両腕でじゃれつく犬のように圭吾の胸を押し倒す。圭吾は満足げにその背を抱いてきた。
「Good(良い子だ)。そのまま……もっと」
「分かったよ!」
噛みつく勢いで、キスをする。柔らかな声を奪い、舌を絡めとって唾液をすする。
これは命令だから……と理性が言い訳をする。命令が嬉しい……と本能が歓喜する。佑の中はぐちゃぐちゃだった。
「良い子だ、佑は呑み込みが早い」
体の上下があっという間に入れ替えられた。クッションに背を埋めて、腕を差しだすと圭吾が上から覆い被さってくる。これは契約だ。俺はこいつに躾けられる。
「Open(口を開けて)」
「んっ……ふぁ」
長い口づけだった。そのまま数度上下を入れ替え抱きしめ合ってキスをして、結局、その日の夜は圭吾の家に佑は泊った。
2-5
佑の生活は激変した。
まず、仕事が早く上がれる日には、圭吾の家に直接「帰る」ようになった。夕食を一緒に食べそれぞれ風呂に入ると、プレイルームに籠って「躾」の開始だ。簡単なコマンドを繰り返し、佑の抵抗感がなくなるまで行う。それも深夜に及ぶようなことはなく、また佑がちょっとでも疲れを見せたらそこで終了という優しいものだった。夜は圭吾のベッドで圭吾の腕に抱かれて眠った。
そして、圭吾の部屋に寄れない日は──。
「おはよう、佑。体調はどう?」
圭吾からのモーニングコールで起こされる。
そのまま、電話をスピーカーモードに切り替えて、お互いに朝のルーティーンをこなしながらのおしゃべりだ。着替えや歯磨きはもとより、トイレの中にまでスマホを持ち込むように圭吾には言われていた。最後のは流石に丁重にお断りしたが、圭吾は未だ諦めていないようだった。
「はよ。体調は問題ない、おかげさまで絶好調だよ。あんたこそ忙しいんじゃないの? 身体、大丈夫?」
「はは、こちらも問題ない。君のおかげですごく調子が良いよ。今日はクリスマスだね。どんなに遅くなっても良いから、私の家に寄るんだよ? 一緒に過ごそう」
「……了解」
「Good(良い子だ)。さて佑。おはようのキスは?」
「それ、恥ずかしいって……」
「コミュニケーションだよ、佑。さあ、キスして?」
「……っ!」
キスをさせるコマンドなどない。というか、電話でキスも何もない。なのに、圭吾はキスを強請る。佑はたっぷりと一分近く迷ってから、スマホを口元に持ってくるとごく小さくチュッとリップ音だけを響かせた。恥ずかしさで死にそうだった。
「……Good(良い子だな)」
圭吾の方からも、リップ音が返ってくる。気恥ずかしさに真っ赤になりながら、スマホ相手に怒鳴るような早口で佑は返す。
「……っ、どんだけ甘いんだよあんた。今までの恋人にも……パートナーにもこうしてきたのか?」
「さあ、どうかな?」
圭吾は楽しそうだ。答えないのを狡いと思いながらも不快感はない。
それからまた他愛無いおしゃべりをして、出勤と同時に電話を切る。
夜も夜で、帰宅したら同じように電話を初めて、夜寝るまでずっと電話をつなぎっぱなしだった。
電車に揺られながら、そっと佑はマフラーに口元を埋める。
(付き合い立ての中高生カップルかよ……)
一瞬だって、目を離したくない。そんな執着が圭吾からは感じられた。
出会ったばかりだし、この関係は契約だからこその筈だ。けれど、それだけでこうも甘やかされるものなのだろうか。……唐突だった告白を思い出す。あれは本当だろうか。一目惚れなんてこの世に存在するのかと悩みながら電車を降り、職場へと向かった。
体調の良さは、そのまま精神の安定にも繋がっていた。
「おじょーちゃん、クリスマスも出勤なんて偉いな。旦那が寂しくしてんじゃないのか?」
出社と同時に、ちょっと癖のある同僚が絡んできた。にやにやと笑っているとこを見ると、揶揄し、卑猥な連想をしているのはすぐにわかった。以前の佑なら猛烈に怒り、自分を恥じ、その日一日は最悪に終わっただろう。それが、今では余裕で許せる。いや、許してはいないが、この人は所詮こういう人なんだと冷めた目で見ることができる。
だから言い返せる。
「それ、セクハラっすよ佐野さん。それと、ご指摘どおりクリスマスなんで俺早く帰りたいんっすよね、協力してくださいね」
「お、……おう」
言い返されると思っていなかった様子の佐野は、きまり悪そうに先に更衣室を出ていった。隣に並んでいた加藤がにやっと笑って、佑の脇腹を突いてきた。佑は笑顔で応えた。
以前受注した手すりの取り付けと、室内の段差解消がその日の主な仕事だった。玄関には簡易スロープを取り付け、敷居には段差に合わせて斜めに小さなゴム材を取り付ける。手すりも施主の八十近いご婦人に実際使ってもらいながら家中に取り付けた。広く、段差が多く、部屋数も多いわりに古い総二階の家が、簡易ながらバリアフリーに生まれ変わった。
「まぁ、素晴らしいわ。嬉しい……これで安心して年が越せるわ」
笑顔で深々と頭を下げた施主は、その場でバスルームとキッチンのリフォームも依頼してくれた。追加受注はままあることだが、大口の依頼になった。上々の出来だった。車に戻ると加藤と拳を突き合わせて、やったと喜び合った。
そのまま帰社し、所長に報告をする。所長も満足げで、定時で帰宅して良いと告げられた。
仕事が終わると早速圭吾にメッセージを送る。
「仕事、定時で上がれた。すぐ向かうな」
「こちらも今終えたよ。早く会いたい、君を抱きしめたいよ」
返事はすぐに返ってきて、佑を擽ったい気持ちにさせた。
──別に圭吾に恋心を抱いているわけではない。愁にはフラれたばかりだ。その傷口はまだじくじくと痛む。
いや、それだからこそ……。
佑は考える。フラれて傷心のところを佑は慰められているのだ。圭吾にその気はないにしろ結果そうなってしまっている。一人でいる時間が減りいつも隣には圭吾がいて、考え込む時間もないほど目いっぱい愛される。
全身に甘い蜜をたっぷりと注がれている気分だった。
こちらをまっすぐに見据えてくる視線に偽りがないから、佑も妙に安心して身を委ねることができた。
(ケーキでも……買っていってやるか)
たった数日を一緒に過ごしただけだが、圭吾が甘いものに目がないのは既に知っていた。佑のためにといつも何かしら摘まめる甘いものを用意してくれている圭吾だが、必ず一緒にそれを口にするのだ。しかも美味そうに。
高級なものは食べなれているだろうことは予想できた。だから、わざわざ高いホテルメイドのケーキなどにはせずに、職場の女の子たちから聞いた「地元の美味しいケーキ屋さん」へと向かった。着いてみると、青い庇が可愛らしいこじんまりとした個人経営の店だったので、恐る恐る予約ではないことを伝えてみたが、有難いことにクリスマスケーキは当日販売分がまだ残っているということだった。
買ったのはスタンダードなショートケーキ型のクリスマスケーキ。真っ白いクリームの上に赤い苺が中央にうずたかく積まれている。二人で分けるにはちょうど良いサイズだった。おまけにクリスマス当日だからとジンジャークッキーを貰って、佑は良い気分で店を出た。
視界の隅を白いものがちらつき、振り仰ぐと、薄曇りの暗い色の空からは薄灰色の雪が舞い落ちてきたところだった。
「ホワイトクリスマス、か……」
思わず口に出していた。
やや湿った、積りもしないだろうすぐに溶けてしまうような雪。それでも聖夜に見る雪は都会では新鮮で、神聖に思えた。
気分が高揚しているのが自分でも分かり、やや気恥ずかしくマフラーへと顎先を埋めた時だった。
「あん? お前……Subじゃねぇの?」
声がかかった。
しゃがれた、だがまだ若い声だった。とともに、強烈なじゃ香の香りが身体にまとわりつく。
佑が出てきた店に今にも入ろうとしている男がこちらを見ていた。銀色に近く脱色された髪に、不機嫌そうな整った顔。巨躯には革ジャンにジーンズをまとい、ロングブーツには鋲が打ち付けてあった。ある意味クラシカルな不良スタイルで、隣にまだ幼いといっても良い若い女性を連れていた。
佑は嫌な予感がして一歩下がった。今日は、もめごとに巻き込まれたくない。
男はお構いなしに女を抱いていた腕を離し、佑へと近寄ってくる。間違いない、この気配は……Domだ。
「んんー? ……逃げんじゃねぇよ。俺が脅してるみたいじゃねぇか」
「何か、ご用ですか?」
腕が伸びてくるのを咄嗟に避ける。男は首を傾げて空ぶった手を見つめ、へらっとにやけた笑いを零した。そして一歩大きく踏み出すと、今度こそ佑の二の腕をガッシリと掴んだ。佑だってけっして小さい方ではない。けれど男はそんな佑の腕を捩じり上げ顔を覗き込むほどの上背があった。
「ご用も何も、Subじゃないの? って聞いてんだけど」
「あなたに……答える必要はないかと思いますが?」
「なんだよ。隠すなよなぁ……ぷんぷん匂うんだよ、SubのドMの気配が」
「……Subだったらどうだっていうんですか」
佑は堪えていた。掴まれた腕を振りほどこうにも、逆側の手に握ったケーキが気にかかる。圭吾のためにせっかく買ったケーキ。
けれど、目の前の男は大人しく身をすくめるだけの佑に何やら勘違いをしたらしい。後ろから声をかける女に鋭く「Stay(そこで待ってろ)!」と命令をすると、にやにやと笑いながら佑に顔を近づけた。
「さぁ、そこに跪けよ。Kneel(お座り)だ。それから、Roll(仰向けになれ)!」
「──っ」
ぶわりと全身の毛が逆立つような怒りが佑を覆った。
Rollは佑が苦手な姿勢で、それを知った圭吾もあまり使わないコマンドだった。腹を出して寝転がる姿勢はそのまま服従を示すかのようで、弱みを晒す姿に似ていて佑は毛嫌いしていた。
突っ立ったままぶるぶると拳を握り怒りに耐える佑に、男はさらに勘違いを重ねたようだった。腕を離し、がっと佑の顎を掴む。
Stayを命じられた女が弾かれたように動いた。男の腕に縋りつく。よく見れば、女の首筋にはCollar(首輪)が巻かれていた。真っ赤な、エナメルにラメがちりばめられたCollar。
(はっ。こんな男の専属のSubか……可哀そうに)
女は必死に止めに入っていた。
「嵐士、止めなよ! この人うちらに何の関係もないじゃん!」
「んぁ? なんだよお前まで。これからがお楽しみだろうがよ」
「ダメだって! 止め……っ」
「うっせーな、邪魔すんな! てめぇなんざ、そこに這ってろ! Crawl(四つん這いになれ)!!」
「ひっ」
がくんと、女の膝から力が抜けたのが一目でわかった。男がGlareを放ったらしかった。
Domが自身のSubだけに発することができる、威圧感。圧迫感や目力のようなもの。Subはこれに飲まれると身動きできなかったり最悪Sub dropに陥る。
女は何の前触れもなくその場で膝を着いた。助ける暇もなかった。尖ったアスファルトの表面で薄いカラーストッキングが裂け、膝からは出血していた。そして、女は涙を浮かべて失禁していた。雪で濡れ始めたアスファルトの上に、女を中心に黒く染みが広がる。
男が嘲笑った。
「うっわ、お前しょんべん漏らしてんのかよ。くっせー。今日は俺に近寄んなよ!?」
「心配しなくても、俺が近寄れなくしてやんよっ!」
女に気をとられていた男の側頭部に、佑はいきなり拳を叩き付けた。その勢いのまま、ぐらっと傾いた男の横腹を蹴り上げる。
自分のことだけなら我慢ができた。けれど、女に……女性にあんなことをする目の前の男が信じられなかった。自分を優しく扱うDom──圭吾を知っていたからこそ、我慢が出来なかったのだ。
「てめぇが、腹ァ晒せよ!」
呻きながら転がった男の腹を蹴り、上向かせる。咄嗟に顔尾を腕で覆い防御の姿勢をとった男の、ガラ空きのそのわき腹や肋骨を遠慮なく靴底で踏みつける。腹を抱えて蹲れば、その横っ面を渾身の力で蹴りつけた。
怒りは一瞬にして燃え上がり、自分ではもう止められない。
一方的な暴力は、しかしすぐに終わった。店先での騒ぎを聞きつけたケーキ屋の店員が複数人で割って入ってくれたのだ。佑は男たちに支えられながら、肩で息をしていた。女が、弾けるように立ち上がってよろよろと男に取り縋って泣いた。
「はぁはぁ……」
手からはとっくにケーキの箱なんて吹き飛んでいた。駐車場の端でへしゃげている箱に近づく。白い箱からクリームと苺がはみ出していた。蹴られ殴られて、ボコボコになったのは男の方なのに、今の佑は自身がこの無残なケーキのようだと思った。惨めだった。
「お客さん! お客さん!?」
店員が呆然とする佑に声をかけてくる。
佑は自身の手や、血反吐で汚れた靴に目をやった。指先が細かく震えているのは、怒りの余波か、後悔の念か。
(また、暴力を……)
こんな自分を変えようと圭吾と契約したのではなかっただろうか。圭吾は怒るだろうか。落胆するだろうか。合わせる顔がない。このまま逃げ出したい。
けれど……会いたい。猛烈に圭吾の顔が見たかった。
「すみません……ケーキ、まだありますか?」
それだけをやっと声に出せた。女に支えられて店前を後にする男には目もくれずに、佑は店へと戻っていった。
2-6
汚れた靴は拭いた。拳にできてしまったかすり傷は仕事でいつものことだ。ケーキも買い直した。けれど圭吾の家へと向く足取りは重かった。一階のエントランスで迷いながらも笑顔を作ると、インターフォンを鳴らしカメラへ向けて顔を寄せる。
『仕事お疲れ様。上がっておいで』
圭吾の静かで穏やかな声がした。それだけで泣きたいような、胸を掻きむしりたいような気持ちになる。のろのろとエレベーターから降りてドアの前にたどり着くと、タイミングを計ったように丁度ドアが開いた。
圭吾はオフホワイトのセーターにチノパン姿で、リラックスした、だが小奇麗な格好をしていた。すぐに「おかえり」と玄関に迎え入れられる。広げられた腕が、佑をハグしようとする。
そんな圭吾を見て佑は堪らなくなり一歩後ずさる。
自分はこの抱擁を受けて良い人間なんかじゃない。そして、一気に喋り出した。
「き、今日はさ。本当ならもっと早くに来れそうだったんだ。あんたが待ってくれるって言ってたしさ。ただ、何か手土産をって思ってケーキ屋に寄ったんだ。そしたら案の定店前で馬鹿なDomに出くわしちまって、最初は俺も耐えてたんだぜ? けど絡んでくるのはしつこいし、ツレの女の子に乱暴なこともしてさ。俺我慢できなくて。はは……なんで俺なんだろうな。他のやつにはない何かが出てんのかな。でもって俺は……なんでこう、キレやすいのかな」
佑の早口で一方的なお喋りは中途でぽつりと切れた。
圭吾は黙ってそれを聞いていた。佑は沈黙に耐えられずに何度も息を吸っては吐いた。数度繰り返してやっと出た声は自分でも信じられないほど弱弱しく、掠れていた。
「結局また、相手を殴っちまった……」
圭吾はその言葉に一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐに微笑んで佑へと指を伸ばしてきた。佑の頬を優しく撫でる。
肌に触れる指先にピクリと佑の肩は揺れたが、拒むことはしなかった。ただゆっくりと瞼を伏せてから、顔を上げて苦笑いの表情を浮かべる。
「やっぱり俺には無理だよ。……どうしても暴力への衝動が止められない」
「君のそれは虐げられる者からの反撃だ。私は暴力を良しとはしないが……問題は君じゃない、彼らにある」
「けど、なんで俺なんだ……? Subなんて世のなかには山ほどいるのに。俺だけが……勿論、他にも被害にあってるSubは大勢いるだろうけど……」
「人間は弱いものを、弱いと決めつけたものを徹底して非難し排除する。それが目立つ相手であればあるほど、支配下に置こうとする。君はDomからすれば、非常に魅惑的なSubだ。香り立つ気配が……他のSubとずいぶん違う」
「はは。つまりあれか。Dom様はそういうSubには人格なんてないと思ってるってことか」
佑の顔から苦笑いの表情が消えた。唇を軽く噛み締め、床へと視線を落とす。と、ふいに柔らかな声が上から降ってきた。
「……ケーキをくれないか」
「え?」
「ケーキを渡してほしい」
訳も分からず佑がケーキの箱をそっと手渡すと、圭吾は佑に部屋へと上がるよう促した。
「折角君が買って来てくれたケーキだ。後で食べよう」
あの白いリビングに連れていかれる。硝子のダイニングテーブルの上には、所狭しと料理が並べられていた。焼き上がったばかりなのだろう、皮がパリッとしたターキーの丸焼きにカット野菜とフルーツの盛り合わせ。キャビアの前菜にサーモンのマリネ。一口サイズのキッシュに、カプレーゼ、生ハムにチーズの盛り合わせ。
食事でもしようというのだろうか、キッチンに入る圭吾に戸惑いを隠せずに佑は声をかけた。
「圭吾さん、悪いんだけど……。俺、今食事はちょっと……」
「勿論分かってる」
速足でキッチンを通り抜けると端にある冷蔵庫へ歩み、圭吾はそこにケーキを仕舞ってしまう。呆然と立ち竦む佑の前まで戻ってくると、圭吾はその頬を両手で包んだ。真摯な眼差しが佑の目の前まで迫っていた。
3-1
股間や乳首が下着に擦れて痛い、という経験を佑は初めてした。
昨夜は、いやほんの数時間前までは、今痛い箇所を圭吾が指でくすぐり撫で摘んで、舌で愛撫していたのだ。
あまりに濃密で、いっそ清々しいくらいにいやらしい時間だった。こうして今、仕事へ行こうと支度している方が非現実的に思えるほどの……生々しい記憶。
何時間にも渡った行為中に佑は幾度となく果てた。逆に圭吾は一度、途中に佑の足の間に放っただけで後は佑を追い上げる行為にのみ徹していた。コマンドも最初こそ圭吾は意識して使用していたようだが、後半にはもう……ただ佑を甘やかす甘い言葉を吐くだけだった。
つまりは、昨日のあれは──単なるセックスだった。
佑を慰めるためのセックス。
幼児が泣いているのを親に慰められているのと同じだ。抱かれて腕の中で愛されて、良い子だねと甘やかされる。それに性的なニュアンスが加わっただけだ。
「今日ぐらい休めば良いのに」
タイを結んでいると洗面室の入り口から圭吾が顔をのぞかせた。ほとんど寝ていない佑を慮っての言葉で、起きてから何度も聞いている。鏡に映る佑の目許は腫れぼったく寝不足が明らかだ。鏡を通して視線が交わる。圭吾は心配げな、呆れているような何とも言えない表情だ。返す佑の表情は──。
「クリスマスの夜にセックスし過ぎたんで疲れて会社に出れません、なんて言える分けねぇだろ」
敢えてぶっきらぼうで、微かな自嘲を含んでいた。眉根をキュッと寄せて、軽く睨むように圭吾を見返す。
「私のせいだって?」
「……そうは、言ってねぇけど……」
気づけば佑のすぐ後ろに圭吾は立っていた。微笑みを浮かべた圭吾も、しっかりとシャツにスラックスを穿いている。どうも自分だけが出社して、佑は休ませようとしていたらしい。
「もうちょっと甘えてくれても良いのに、ハニー」
耳元で囁かれてぎょっと身を引くと、佑の身はすっぽりと圭吾の腕の中に収まった。腰に緩く回された腕がそっと佑を抱く。
「さっきまであんなに可愛く私の腕の中で鳴いていたのに、もう出ていってしまうのかい?」
「っ……そういう言い方、止めろよ」
「どうして?」
低音が鼓膜に響いて佑の全身を震わせる。やっとの思いで声を絞り出した佑は顔を上げて鏡越しに圭吾を睨んだ。
「……俺はあんたのペットでも恋人でもない」
佑は、鏡に映った自分の火照った頬やうるんだ瞳に愕然としながらも圭吾に言い放った。圭吾の微笑んだ瞳を見ると胸が締め付けられる自分を自覚しながら、あえて強気に言い募る。
「これは、全て契約の内なんだろ?」
「そうだと、言って欲しい?」
シャツの上からするりと胸板を撫でられる。乳首が肌着に擦れて思わず声を上げそうになり、佑は体を震わせた。圭吾は腰を抱く腕に力を込めると佑の背と自分の胸がぴったり重なるように佑を抱き締める。鏡を通して佑をしっかりと見つめると唇の端を引き上げ笑った。
「契約の内だとも言えるし、そうでもないとも言える。……君次第だよ、佑」
「どう、いう意味」
「一目惚れだって言ったろう?」
言葉の最後に被せるようにして顎先を捕らえられて上向かされる。次に何が来るかを佑は知っていた。知っていて、そっと目を閉じた。
そして、柔らかく温かな感触が唇に触れた。
(なんだよ。ちょっと甘やかされたくらいでぐらつくほど弱い男だったのか? 俺は)
佑は電車の窓に映る自身の影を睨みつけていた。
圭吾の家から出社し、仕事を終えて帰宅する最中だった。
昨夜から夕方にかけて色々な意味で酷使した体はボロボロだった。寝不足のせいか頭の芯もずきずきと痛む。今も満員電車の人の波に揺られながらなんとか立っているという有様だ。明日が休みで良かったと心底そう思う。
(甘い言葉を囁かれて、子供みたいにあやされて……それだけであの男に心許そうってのかよ)
そう心で呟いてみても、胸の中にぽつりと温かく火が灯る感触があるのも分かっていた。
圭吾は、佑の悲しみも怒りもすべて承知したうえで一晩中佑を甘やかしてくれた。虐げる側の、支配する側のDomである圭吾がなぜそんなにも、Subの佑を理解を示してくれるのかはわからない。
あの若さで次期社長として成功していて、Domで、……いい男だ。挫折など知らないだろう。屈辱的な思いなどしたことさえないだろう。なのにあの優しさは、度が過ぎるほどの甘えさせ癖はどこから来るのか。弱者への理解は、どうやってあの男の中に生まれた?
考えれば考えるほどわからない。
(……惹かれているのかもしれない)
それを認めるのは何故だが悔しい気がした。出会ってまだ間もない。名前と肩書と、その手のぬくもりだけを知っている男。
(このまま、あいつの手に慣らされて甘やかされて……俺はDomへの、自分への嫌悪を捨て去ることができるのか?)
悶々と佑が考え続けている時だった。肩を軽く叩く者がいた。
「佑……?」
声にハッと振り返ると、そこには愁がいた。高校からの同級生。佑の……想い人だった男。相変わらずひょろと細くて、頼りなさそうな……お人よしが前面に出ている笑顔。仕事帰りだろうことは胸に抱えている鞄で分かった。
「やっぱり佑だ。珍しいな、一緒になるなんて」
佑が呆然としているうちに、愁はよいしょと隣へ並んでしまう。愁はニコニコと妙にご機嫌で、佑をじっと見下ろしてくる。佑は佑でいきなりのことに驚いたものの、何とか笑顔で返事をした。
「お、おう。そうだな。つうか……確か家、こっちじゃなかっただろ?」
「うん。今から愛実(めぐみ)くんの家に行くんだ。その、例の……パートナーの」
後半は消え入りそうな、けれど喜びを隠せない声音で愁は告げた。恥ずかしいのかしきりに鼻の頭を掻いている。
そんな愁の態度を見て、佑は自分の中に生まれた痛みが予想外に小さいことに驚いていた。ちくりと胸は刺されている。けれど嫉妬と呼ぶほど大きく深くはなく、少し寂しいような隙間風が吹いたようなそんな思いだった。
自然と小さく微笑んで、佑は愁を見上げた。
「そうか、仲良くやってんだな」
「うん、まあね。あ! それよりも。僕、佑の相手の西沢さん? 今日見かけたよ」
「え?」
突然の話の展開に佑は首を傾げた。何故、愁が圭吾の顔を知っているのだろうと不思議にも思った。その思いを読んだかのように愁が軽く手を振った。
「いや、その……実は佑から話を聞いた後で心配になってさ。どんな人なんだろうって、会社の、N不動産のHPを検索したんだ。そしたら、会社紹介の中に西沢さんの名前と顔写真があって……顔を覚えてたんだ」
「心配、してくれたのか」
「そりゃ、親友が妙な奴とパートナー契約してたら大変だもの」
当然と胸を張る愁に佑も自然と口元が緩んだ。
「そっか。……それで? 今日見かけたってのは?」
「たまたまN不動産の前を通りかかった所で中が見えてね。丁度西沢さんが社から出てくるところだったんだよ。そこに行き合わせたんだ」
「……どう、思った?」
なんだか緊張して、小声で佑は聞き返した。すると愁は一瞬困ったよう、戸惑ったような様子で口をつぐんだ。それから思案して言葉を選んで語り出した。
「うん、なんだか……怖そうな人に見えたよ。仕事の最中だったからかもしれないけど、部下っぽい人を怒鳴って、叱り飛ばしてた。それも往来で」
意外な答えに佑は目を丸くした。あの圭吾が? 怒鳴った?
「ううん、本当は僕の見間違いで、違う人かもしれないんだけど……けど顔が、写真そっくりで」
「あ、ああ。そりゃ……仕事とプライベートは別物、なのかもな」
戸惑いつつも佑は相槌を打つ。すると愁はさらに眉根を寄せて、佑を見下ろした。
「まあ、けどね。あの若さだし、ご苦労も相当あるだろうからね」
「そうだな」
「しかもあの身体じゃない? 最近は法や施設なんかも整って来てるけど、並大抵の努力では健常者にはかなわないだろうしね」
「へ?」
「いや、だからこそ不動産業界に身をおいているのかも? 部下に厳しいのもそのせいでとか……自分にとって暮らしやすい街づくりとか、家作りとかもあるだろうし」
「なに、言ってんだ愁」
「佑こそ何言ってんだよ。ほら……車椅子じゃんか、あの人」
一瞬で佑の頭の中が真っ白になった。
圭吾が、車椅子? 今朝の今朝まであんなに元気だったのに?
「はっ、何言ってんだよ愁。あの人は、体に傷一つない……今朝だって普通に」
「え? じゃあ……俺の見間違い? 他人の空似?」
愁はしきりに首を傾げている。
佑は気が気じゃなかった。あの後、もしかしたら現場ででも事故にあった? けどそんな、そんな連絡受けていない。
そこまで考えて思い至った。自分と圭吾の契約のことは、多分、圭吾サイドの人間は誰一人知らないんじゃないかと。自分こそ愁には話したが、親兄弟には話していない。それなら、自分のところに連絡などあろうはずがない。
急いでスマホを取り出し電話しようとして、電車内であることに漸く気づく。頭が混乱していた。
「悪い、愁。俺次で降りるわ」
「あ、うん」
電車が駅に着くまでが佑には異様に長く感じられた。ドアが開くと愁を振り返りもせずに、飛び降りる。
「何かあったら、連絡して!」
そう叫ぶ愁の声を背後に、急ぎホームの隅まで走る。今度こそと履歴から圭吾の名前をタップしてスマホを耳に当てる。自分の心臓の音がうるさい。まさか、という思いが嫌な汗をかかせた。
「……佑?」
耳慣れた、優しい声がすぐに現れた。良かった、電話には出れるらしい。まだオフィス内にいるのか、それとももう自宅か。圭吾の背後は静かだった。
「どうしたんだい、まだ……外にいるんだろ? その騒々しさは駅かな」
「あんた、あんたこそっ……何も、なかったのか……?」
あまりに普通な態度の圭吾に、佑は最初の勢いを忘れて最後は小さく掠れ声で問いかけた。
「どうしたんだ、佑。何もないよ、いつもどおりさ。佑の方こそ、体調は大丈夫だったかい?」
優しい声音。別に嘘をついているようでもない。どっと力が抜けて、佑はその場に座り込んだ。軽く眩暈もした。溜息とともに半笑いになる。こんなに焦って馬鹿みたいだ。
「俺は……大丈夫だよ。あんたが、あんたこそ……無事なら良いんだ。勘違いしたんだ、多分」
「勘違い……?」
そうだ、愁が見間違えたんだろう。HPの写真と本人とじゃ修正もあるし、別人に違いない。
「いや、いいんだ。今日は疲れてて……流石に早く寝るからさ。おやすみの電話は今日は良いから」
「そう、か? 分かった。声が聞けて嬉しかったよ。それじゃあ、佑。おやすみ」
「おやすみ、圭吾さん」
ほっと息を吐いて佑は電話を切った。何でもなかった。事故でも怪我でも。
「はは、手が震えてやんの……」
スマホを仕舞い、両手をかざしてみる。興奮のせいか、ざっと失せた血の気が戻ってきていた。頭を上げ、ゆっくりと立ち上がる。周囲は帰宅途中だろう人々で溢れかえっている。
どうしてあんなにも必死になって、ホームに駆け降りてしまったのだろう。
朝にセックスだけだの、契約のせいだのと言っていたくせに。佑は数時間前の自分自身の気持ちや言葉を思い出して一人苦笑いを浮かべた。
「どうすんだよ、中途半端な駅で降りちまったぞ」
答えは分かっていた。もう、自分を誤魔化せなかった。
毎朝幸せで満ち足りた気持ちで目覚め、朝夕に交わした短い言葉に一喜一憂していた。今朝の辛いはずの身体の痛みや疲れも、どこか心を満たしていたものだったと今更ながら気づく。
今だって、あれだけ好きだった愁への思いを、受け入れ、笑って恋人の許に見送れるようになってさえいた。
(俺は……圭吾さんを好きなんだ……)
認めてしまえば、それは端から戸惑いのため息に変わっていった。
圭吾は自分を好きだという。一目惚れだと笑う。その言葉に嘘はないだろう。だが佑は圭吾のことをまだなにも知らない。それでもこの想いを素直に告げれば、きっと喜んで受け入れてくれるだろう。
だが、それでは違うと佑の中の何かが警鐘を鳴らす。
自分は圭吾のことを何も知らないのと同じように、圭吾もまた佑の全てを知っている訳ではないはずだ。
恋など知らずにここまできた。
人を信じることさえ、忘れていたようなものだった。
自分に恋ができるだろうか。
──おそらく自分は恋というものがなにかすら分かっていない。それはDomとSubの関係に似た、信頼と信用なのかもしれない。
自分に欠けているものを突きつけられるようで、佑は一人ホームから薄暗い冬空を眺めた。
3-2
数日間、佑はもやもやした気持ちで毎日を過ごした。
自分の恋心を自覚したこと。
そして圭吾にそっくりだという車椅子の男の存在。
圭吾からは相変わらず朝に夕にと連絡が入ってきていたが、佑は言葉少なに返すのみで、部屋への誘いもやんわりと断っていた。できるだけ圭吾のことは考えないように、意識の隅へと追いやっていた。
そんな佑をどう感じたのだろうか。明日は大晦日という日に、圭吾からその日、二度目の電話があった。
正月を一緒に過ごさないかという誘いだった。
「家族とは不仲でね。毎年一人で静かに年を越すんだ。……今年は佑と過ごしたい」
……断る理由はいくらでもつけようがあった。郷里に帰る、友達と過ごす。
けれど、普段聞きなれない圭吾の家族のことや、独りであの白亜の城でポツンと過ごす圭吾を思うと、会いたいという思いがそれらに勝った。気づけば「いいよ」と返事をしていた。
圭吾は喜び、大晦日の午後から正月三が日までを一緒に過ごそうと声を弾ませた。流石に長すぎではと戸惑った佑だったが、除夜の鐘付きから始まって、初詣をし、良ければ温泉にも泊ろうなどと次々と提案されては、圭吾の喜びが伝わってきてそれにも頷かざるをえなかった。
翌日、さっと部屋を片付けると約束の時間に佑は家を出た。
いつもとは違い、圭吾がマンション前まで車で迎えに来てくれていた。佑でも知っているBMWのエンブレム。座り心地の良いソファのような助手席に乗り込むと、濃灰のカジュアルスーツに髪を綺麗に撫でつけた圭吾が「久しぶり」と笑った。
その笑顔を見ると僅かながら緊張していた自分の気持ちがほっと解れていくのが佑には分かった。
「なんだよ。ほんの数日ぶり、だろ」
つい、軽口を叩く。圭吾はそんな佑のリラックスした雰囲気を感じ取ったのか微笑んで答える。
「いや、今回は長かった。電話してもメッセージを送っても何だか余所余所しかったろう? 今日も実は直前で断られるんじゃないかとひやひやしていたんだ」
「そんな、こと。しねぇよ。ここ数日は……あれだ、ちょっと調子が悪かっただけで」
「そう、それなら良かった」
疑いもせずに、圭吾はにっこりと笑った。その顔をやっぱり好きだなと眺めていると。いたずらめいた表情で圭吾が身を乗り出してきた。
「佑。Kiss(口づけて)」
「は。……ええ? こんな往来で!?」
「車の中じゃないか。さあ、キスだよ。もっと寄って……Come(おいで)」
「……わかったよ」
軽く顎に手を添えられて、佑は照れつつもやや乱暴に圭吾のシャツの襟首を掴んだ。自らも身を寄せて引き寄せながら噛みつくようなキスをする。圭吾のあの特有の、バニラの匂いが微かにした。
じんわりと唇が温かい。
久しぶりのコマンド。
コマンドでのキスは、戸惑いと照れとともに、命令に従うことへの心地よさを佑の中に確かに残した。
「……っ、これで良いか」
「良いね。Good boy(良い子だ)」
圭吾は嬉しそうに目を細めて、佑の髪を撫でる。暫くその髪の感触を楽しんだ後、顔を真っ赤にした佑を横目に車のシフトレバーを引いた。晴れ晴れとした声で告げる。
「今日はデートをしよう。デパートに行って買い物をして、夜はフレンチのディナーだ」
そして、そのとおりになった。
佑は自身ではとても手が出ない高級スーツの売り場やシューメーカーに連れていかれて、全身隈なくコーディネートされた。濃い黒に近い深紅のシャツに格子模様の白っぽいコーデュロイのスーツを合わせられた時には派手過ぎると抗議した佑だったが、その場で試着させられると小作りな顔に、濃く印象的な二重のまだまだヤンチャそうな顔つきの佑には、その奇抜さが良く似合った。
その後、下着や靴下、香水まで買いそろえて二人はデパートを出た。佑は「金の使いすぎ」「勿体ない」「俺には似合わない」とその都度固辞したものの、最後には諦めて全てを受け取っていた。買い与える側の圭吾があまりにも嬉しそうだったからだ。
フレンチレストランは、都内から少し離れた郊外にあった。
蔦が這うレンガ造りのこじんまりとしたビストロ風の店で、雰囲気は温かく暖炉には火が入っていた。出される料理も気取らない田舎風のパテや煮込み料理、子羊のローストなど食べやすいものばかりだった。
圭吾は佑にはワインを勧めて、自分は運転だからとミネラルウォーターを口にしていた。
穏やかな夜だった。
一度圭吾の家に帰ってから改めて除夜の鐘を突きに外へ出た。二人とも深夜の街を子供のようにはしゃいで歩いた。
そのまま地元では有名な神社までゆっくりと歩き、しんしんと冷える中を派手な見た目の出店を見ながら参道を歩いた。既に年は開けていて、暗い境内にはそこだけ明かりがともされており大勢の人がいた。お参りをすますと無料で配られていた甘酒を手に「明けましておめでとう」と言い合った。
人並みに押されるように参道を下りながら、傍らに並んだ圭吾が佑を見下ろした。
「疲れてないかい?」
「勿論」
「なら、ちょっと早いが宿に行こう」
「こんな時間から……? 大丈夫なのか、チェックイン」
年が明けたとはいえ、時刻はまだ深夜一時過ぎだ。
「親戚が経営してる旅館なんだ。融通がきく」
少し悪戯っぽい笑みを浮かべた圭吾が人混みに紛れて佑の指先を握った。
タクシーで乗り付けたのは市街から離れ、少し山間に入った小さな温泉街だった。佑はその街の名前こそは知っていたものの来たのは初めてだった。
街は小さな川を挟んで両側に大小の旅館が立ち並び、小路から緩い階段で下りられる河原には露天風呂つきの大衆浴場が設けられていた。ひなびた雰囲気の温泉街のそここには新年を祝う提灯に灯りがつけられ、ぽつりぽつりと浴衣姿で小路を歩く人々の姿が印象的で、佑はうっとりと見惚れた。
ライトアップされた宿の暖簾や看板の前を次々と過ぎて、タクシーは細い道を行き、最奥の和風旅館の大門前で停まった。
圭吾に促されてタクシーを下り大門からエントランスを覗くと、日本庭園風に設えられたそこには温泉の小川が流れ、足湯が楽しめる東屋が広い前庭に数ヵ所見えた。その奥の和風の建物は黒い瓦をはきどっしりと大きく、ライトアップされた白壁と黒い窓枠の対比も美しい、どこかスタイリッシュな建物だった。
「よくお越しくださいました」
入り口の木製の自動ドア前では、厚手の作務衣を着た若い男性が笑みと共に二人を出迎えてくれた。年のころは圭吾とそう変わらないのではないだろうか。愛想の良い笑みに細い目、左目尻に泣き黒子。旅館の経営者だろうかと考えていると、圭吾が俄に近づき、その青年に片腕を伸ばして不意に抱き締めた。
「敦! 久しぶり」
「圭吾さんも、お元気そうで」
「……今日は無理を言ったな」
「いえいえ、ちょうどキャンセルが一件出たところだったので。それ以前に、僕が圭吾さんの頼みを断るわけないじゃないですか」
敦と呼ばれた青年も嬉しげに圭吾の肩を抱き返している。
「えっと……?」
一人置いてきぼりにされた佑が二人の顔を交互に見ていると、身を離した圭吾が隣の青年から佑へと微笑みを移した。
「佑、こちらは坂木敦くん。ここの跡取りで番頭をしている、私の一つ下の従兄弟なんだ。敦、こちらは……」
「東雲佑様ですね。話は圭吾さんから聞いております。圭吾さんとは小さい頃から親しくさせていただいていて……。今日は当館でゆっくりお過ごしください」
丁寧に礼をされて、佑は慌てて礼を返した。
「ど、どうも」
(知ってるって……どこまでを!?)
下げた顔がカッと赤くなったが、そんな佑の内心を知ってか知らずか、圭吾は佑の手をそっと握ってくる。敦もそんな二人を見ても驚くでもなく、佑と圭吾から手荷物を受け取るとにこにこと二人を旅館の中へと案内した。
「少しロビーで休んでいてくれ。私はチェックインの手続きをしてくるから」
「う、うん」
靴を脱いで上がるタイプのロビーは鏡のように磨かれた漆黒の板間。一見、古い日本家屋風だが、バリアフリーが徹底されており、目立つ段差もなく奥へと続く廊下も手すり付きで広々としていた。
ロビーの手前にあるカウンターに留まる二人を残して、佑は奥のソファが並べられたスペースへと向かった。そこは広い中庭が見渡せるように前面がガラス張りで、佑は少し迷ってからやや通路よりに席をとった。
館内はほんのりと明るく、皮張りのソファまでもが室温で暖かい。ほっと息をつくと俄に眠気が襲ってきた。こっくりと眠気に負けたのはほんの一瞬だった。
気づけば少し離れたソファに、こちらへ横顔を向けて圭吾が座っていた。圭吾は傍らの誰かに目線をあげてきつい口調でなにかを言っていた。眉間に皺が寄って、険しい顔つきだ。
違和感があった。あの圭吾が人にあんな視線を向けるなんて。だから不安になってつい声をあげた。
「圭吾さん?」
ぴくりと圭吾が肩を揺らした。そして「彼」は怪訝そうにこちらをゆっくりと振り返った。
「誰だ。「ここ」で俺と圭吾を見間違えるやつは」
声は圭吾より幾分低く、とがっていた。憎々しげに眉をよせ、口許を曲げた表情は圭吾のそれとは全く違っていた。
今度こそ、佑は完全に目を覚ました。
「圭吾さん、じゃない……?」
「俺をあの腑抜けと一緒にするな。なんだ、お前。圭吾のなんなんだ」
首を傾げる男から、侮蔑の言葉と共に強く麝香が香る。これは強い怒りの波動と……Dom特有の香りだ。
佑はガバリとソファから立ち上がると、くらくらする頭を押さえて男の前へ立った。男の傍らへ立っていた若いスーツの男が思わずといった様子で佑に手を差し伸べかけたが、男がそれを視線で制した。
男は、ソファへ座っていたのではなかった。
ソファの間にあるやや広いスペースへと、車椅子を乗り入れて、そこに座っていたのだった。
「あんた……誰、だ?」
黒いざっくりと編まれたニットに、腰から下は深紅の膝掛け。体は少し圭吾より細身だろうか。首筋のラインが、顎先がとがっている。愁が見かけたという男の話を思い出す。確かにこれでは遠目では圭吾と見分けがつかない。
一気に不安に襲われる。圭吾はどこに行ったのだろう。この男は誰だ? 気配はとても良く似ているのに、圭吾と違いその眼差しは凍るほど冷たい男。対峙しているだけで、冷や汗が流れる。
何も言えずに呆然としている佑を見て、男はイライラとした様子で毒づいた。
「それは俺が聞いている。どうやら圭吾の知り合いらしいが──。ははぁん、お前か。最近圭吾が手に入れたとかいうオモチャは」
「なっ!?」
「しかもあんた……その気配、Subだな。なんだ、あいつ。とうとう化けの皮が剥がれやがった。一生、パートナーは持たないとか言いやがって」
「なん、だよ……それ」
話の意味がわからない。ただ、男から感じるのは圭吾への悪意。混乱して身動きさえ出来ない佑の表情を見て、男がニヤリと笑った。
「あいつの側にいたら、いずれあんたも殺されるぞ」
「雅紀!」
二人の間に鋭い声が飛んだ。
はっと佑が振り返ると、血相を変えた圭吾が立ち尽くしていた。一瞬、睨み合うように圭吾と雅紀と呼ばれた男が向かい合う。二人の間に沈黙が流れ、最初に口を開いたのは雅紀の方だった。
「ほら、ご主人様のお迎えだぜ」
雅紀がふいに、腕を伸ばして佑の尻を叩いた。Domにいきなり性的な接触をはかられて、瞬時に佑の怒りのボルテージが上がった。
「っ、何すんだよお前……!」
「止すんだ、佑! 私が、私が代わりに謝るから……」
「なんっ、で」
腕を引き留められて、佑は呆然と圭吾を振り返った。
その間に、雅紀は何事もなかったような平然とした態度で傍らに控えていたスーツの男を手招いた。男は丁寧な仕草で雅紀の足をステップにのせると、雅紀の背後へと回る。そのまま、車椅子の向きを変えさせて雅紀は圭吾と佑へ向き直りわざとらしくニコリと笑った。
「明けましておめでとう、圭吾。悪いが、「ここ」の部屋は全部俺のものだ。泊まるなら他所にするんだな」
「雅紀……!」
「はは、またな」
何故か泣きそうな声で圭吾がその名前を呼んだ。雅紀はそれを嘲笑うと指先で投げやりに背後の男へと何やら指示し、あとは奥へと伸びる廊下の先へゆっくりと消えていった。
「すみません、佑様」
声にはっと気づけば圭吾の後ろに申し訳なさそうな顔をした敦が控えていた。圭吾も珍しく佑から視線をはずしている。いつもの圭吾とはまるで違うその表情や雰囲気。佑は目線を圭吾から外せずに、声のトーンを落とした敦の言葉を聞いた。
「申し訳ないのですが、先ほどお部屋が……僅差で埋まってしまいまして……。今、姉妹旅館へ繋ぎましたので、今日はそちらへお泊まりください」
それはどう聞いても苦しい言い訳だった。けれど旅館はもうどうでも良かった。
「圭吾さん。あれは……誰なんだ?」
佑は圭吾を見上げて、答えを待った。
圭吾は雅紀が消えていった廊下の奥を見つめていた。そして佑を見ずに、目を逸らした。中庭の冬枯れた庭園へ目をやると、呟くように声を絞り出す。
「あいつは、西沢雅紀。俺の……双子の弟だ」
3ー3
敦が新たに手配してくれた宿は真新しいホテル旅館だった。
俺たち二人は黙ってチェックインを済ませて、部屋へと向かった。案内された部屋は落ち着いた和洋室だった。奥には温泉の内風呂がついていると言い残して、ホテルスタッフは去った。
「さっきのはなんなんだよ……」
佑は部屋の中央で圭吾に詰め寄った。少し責めるような口調になってしまっていた。けれど納得がいかなかった。実の弟はいえ、「俺」の体に他のDomが不用意に触ったってのに……そんな思いが沸き起こる。
「け、契約……なのは分かってるけどさ。俺はあんたのSubだろ!? しかも尻、なんて……俺はあんた以外に触られるのなんて、嫌だった! なんで止めてくれなかったんだよ!?」
吐き捨てるように言う。
圭吾があの場にいなければまた他人を殴っていたかもしれない。圭吾が止めたから我慢もできた。ただ、理不尽な扱いを受けたことには変わりない。自尊心がチクリと痛んだ。圭吾なら守ってくれると思ったのに……。
圭吾に近づいた佑を、苦い表情で見据えなにかに耐えるように唇を噛んで、圭吾は低く一言だけ告げた。
「……すまない」
「謝ってほしいんじゃない! ただ、納得のいく説明が……欲しいんだ」
二人して、和室の端に立ち尽くす。沈黙は嫌に長く感じた。
どっちもが譲らない。そんな雰囲気に佑がため息を吐こうとした時だった。
「話すよ。……座ろう」
目の前の座卓を目線で示して圭吾が深くうなだれた。そんな圭吾を見るのは初めてだった。なんだか自分が酷いことをしている気分になって、佑はぎゅっと拳を握った。
圭吾がテーブルにセットしてあった急須や茶碗を使い、温かなほうじ茶を淹れた。目の前に差し出されたそれを促されて手にとって、一口飲むと、佑の肩からほっと力が抜けた。圭吾も同じ思いだったのだろう。目線が合うと少しぎこちなさは残るものの、佑へと小さく笑いかけた。
「まずは、やはり謝らせて欲しい。愚弟が、君に失礼をはたらいた。本当に申し訳なかった」
圭吾に深々と頭を下げられて、佑はもじっと身動いだ。
「……ん。それは、もう……良くないけど、良いよ。触ってきたあいつが悪いんだし」
「君を庇ってやらなかったことも、詫びる。私はどうしても弟に強く出られない……弟に引け目があるんだ」
「引け目……?」
「ああ、大きな貸しがある」
そこまで話すと圭吾は一度目を逸らした。そう、この反応だ。いつもまっすぐに瞳を向けてくる圭吾が、何故だか佑を見ない。
苦しげに、吐き出すように圭吾は告げた。
「雅紀のあの足は、半身不随は……私のせいなんだ」
思わぬ告白に佑は目を見張った。
「どういうことだ……?」
「君には、いつかは話さないといけないと分かっていた」
辛そうに目をまた伏せる圭吾に、佑は思わず腕を伸ばしていた。テーブルの上で固く握られた圭吾の両手の上に自分の手を重ねる。圭吾が今から何か、もっと重要なことを話そうとしているのが分かった。
けれど、それを聞くのが怖くもあった。あのいつも優しく穏やかな圭吾をここまで乱し、憔悴させることとはなんだ?
佑は圭吾の顔をじっと見つめた。今更ながら好きだ、と思う。こんな真剣な話の最中なのに顔を見て手を触れているだけで、心がグッと引き寄せられるのが分かる。
だから、できることなら、圭吾が背負っているそれを一緒に背負いたいとも思う。
佑は勇気づけるように圭吾の手をぎゅっと握った。
「以前に、家族と疎遠だと言う話はしたと思う。……私の母親は5歳の時に交通事故で亡くなった。その事故に巻き込まれて、雅紀も半身不随になった。そのせいか父親とは、仕事以外のプライベートではもう何年も会話していない」
「けど、事故……なんだろ? それがなんで圭吾さんのせいなんだよ」
混乱して佑は問い返す。圭吾は辛そうに目を閉じてから、佑の手を恐る恐るという風にそっと握り返した。まるで佑に縋るように。
「あの日、母と私と雅紀は買い物に出掛けていた。来年から小学一年生だったからランドセルを買いにデパートへ行ったんだ。二人ともお揃いのランドセルを買って貰って、そこまでは良かったんだが……きっかけは些細なことだった。買い物も終えて、昼食を食べて帰ろうという話になった。母は左右に私たちの手を繋いでいて、「何が食べたい?」って聞いてきた。……歩道を歩きながら何を食べるかで雅紀と喧嘩になったよ」
ここからは、事故のショックか記憶が曖昧なんだが……と圭吾は付け足し声をいっそう落とした。
「私はハンバーガーかなにかを、雅紀はファミレスでスパゲティーを、とかなんとか主張していた気がする。結局、母はハンバーガーにしましょうと言ってくれた。「いつもお兄ちゃんが我慢しているから」って。嬉しかったよ。嬉しくて嬉しくて、母親の手を振り払って横断歩道へ飛び出した。そして道の中央で振り返った。「早く行こうよ」って声をかけた。そこに──追いかけてきた母親と手を繋いで走ってきた雅紀の二人に、トラックがぶつかったんだ」
「っ……!」
佑は声もでなかった。ただ圭吾の手を強く握った。しかし握り返してくる力は弱く、圭吾の顔色は依然として悪い。自分を落ち着かせるためか、浅く息を吸っているのが分かった。
「しかも私は……トラックが来ていることに気づいた私は、事故の直前、咄嗟に──「Stay!」と叫んでしまったんだ。今来ると危ない、そういう警告だった……筈だ。母は……Subだった。私の言葉に反応して、一瞬動きが止まったのが分かった。手を繋がれたままの雅紀も逃げようがなかった筈だ……私のせいで、二人は逃げ遅れた。目の前でトラックに撥ね飛ばされる二人を、私は見ていた」
衝撃の事実の連続で、佑はかける言葉も見つからなかった。ただじっと圭吾の手を握っていた。
「だから私は……雅紀に頭が上がらない。あいつから母親を奪い、自由を奪った。……あいつもそんな俺を憎んでいる」
佑の指先を圭吾が痛いほどに強く握った。その手が震えているような気がして、佑は立ち上がり側に寄った。
何を言って良いのか分からなかった。分からなかったが、今はこうする他思い付かなかった。
「佑……」
圭吾を腕の中に抱き寄せる。
強ばる圭吾の肩を撫でて、そっと胸の中に頭を抱き込んだ。
胸が痛かった。全身が熱くなり、今にも涙が溢れそうになった。
勿論、雅紀も苦しいだろう。身体が動かないのは辛かろう、忌々しかろうと思う。一緒に母親を亡くした悲しみも思えばそれは想像を絶するに余りある。
だが圭吾もこの二十数年もの間、ずっと自分を責め続けていた。雅紀と同じく母親を失くし、母親殺しの自責の念にかられ、弟には憎まれて……。
子供のしたことだというには、あまりにも残酷で取り返しのつかない罪。
それを背負って、圭吾は生きてきた。そう思うと自然と涙が溢れた。
「君が、泣くことはない」
背を丸めて肩を震えさせる佑に、優しく圭吾が声をかけた。
「だって……あんたが可哀想だ」
「私はそれ相当の罪を犯した。だから仕方ないんだ……」
「けど、だってあんただって子供だった! 悪気はなかったのに!」
「周りの大人もそう言ってくれたよ。父も、今は関係が冷えきっているが、子供の頃は私を雅紀と同等に扱ってくれた。いや今も、仕事を任せてくれている」
そう、そこに突然の事故があっただけだ。
誰がその罪を問えるだろうか。
今のままでは、誰にとっても不幸なままだ。誰一人救われない。
「あんたは……自分をもう許すべきだよ」
「許してくれる相手は、冷たい土の中だ。もう一人は……私を嫌っている。許される筈はない」
圭吾が佑の頬に流れる涙を指で拭い、片手で腰を抱く。膝の上にのせて、子供にするように身体を揺らしてくれた。慰めるつもりが逆に慰められていた。
「もう遅い……今日はもう寝よう」
圭吾が佑の涙に濡れた目を大きな手のひらで覆った。
眠ることを促すいつもと変わらない優しい手に、佑は目蓋を伏せる。
圭吾の手に手のひらを重ねた。
──俺はやっぱり圭吾さんが本当に好きなんだ。圭吾さんが苦しんでいることが、こんなにも切ない。
3ー4
翌朝、佑がベッドで目を覚ました時には圭吾はもういなかった。
最初は洗面か温泉にでも行っているのだろうと思い、それからすぐに圭吾の荷物が全てなくなっていることに気づいた。そして座卓上に置いてあるメモにも。
佑は恐る恐るそのメモに近づいた。嫌な予感がした。
『佑へ。暫く一人で考えたいので、先に出ます。今は、君とどう向き合っていけば良いのか分からない。圭吾より』
「は……なん、で?」
佑はメモを呆然と眺めた。何度読み返しても、文面は変わらない。
一瞬、膝の力が抜けそうになった。
昨日あんなに重大な話をしてくれた。だから今日はゆっくり二人で時間を過ごして、色々と話し合ってみたかった。
「あんたに……一歩近づけたと思ったのに」
圭吾は一歩どころか何歩も遠ざかってしまった。そんな気がした。
メモをぎゅっと握りしめる。
だがすぐに、手の中でくしゃりとつぶれてしまった文字にはっとして手を開く。崩れ落ちるように座り込んで、急いでグシャグシャになってしまったメモを座卓の上で伸ばす。
もう一度文面に目を通したところで、視界が、ふいに歪んだ。
気づけば涙が溢れていた。
(そうだ……何を思い上がってたんだ。俺と圭吾さんは恋人でもなんでもない。本当のDomとSubのパートナーでもない。ただの……契約上の関係なのに、深く踏み込んでしまった……。圭吾さんにきっと、嫌な思いをさせたんだ)
そう考えると、再び涙が零れ落ちた。
誰かを想って泣くなんて、初めてだった。胸が苦しい、圭吾が恋しくて堪らなかった。迷惑だと思われても、圭吾の側にいたい。圭吾が過去に囚われているのだというのなら、そこから救いだしたかった。
(そうだ……俺は圭吾さんを助けたい。圭吾さんに、必要とされる存在になりたいんだ!)
佑は涙を拭って立ち上がると、浴衣を脱ぎ、買って貰ったスーツに着替えた。
まずは圭吾がどこに行ってしまったのか、それを突き止めなければならなかった。
ホテルをチェックアウトして、佑は敦の働く旅館へと向かった。
一瞬、雅紀に出会ってしまったらと頭をよぎったが、それでも構わない、今は圭吾を探し話すことが先決だ。そう頭を切り替えた。
旅館のフロントに着くと、敦はカウンター内で急がしそうに立ち働いていた。ちょうどチェックアウトの時刻だった。
佑は目の合った敦に軽く会釈をすると、ホテルのロビーを指差し待っているとジェスチャーで伝えた。
チェックアウトをするの客達を送り出す敦や他の従業員の姿を見つめていても、頭の中は圭吾のことでいっぱいだった。二十分ぐらいは待っただろうか、いつの間にか人影が少なくなっていたカウンターから敦が佑の元に来て「お待たせしました」と少し曖昧な笑みを浮かべた。
「前の席、よろしいですか?」
「もちろん、どうぞ。お忙しいのに、お時間いただいてすみません」
「いえ、大丈夫ですよ。それで、ご用件は……もしかして雅紀さんのことでしょうか?」
そう言われて圭吾は敦にも言わずホテルを出たのだと知り、佑は驚いた。「いえ、その」と言い淀んでから、心を決めてまっすぐに敦を見て問い掛けた。
「雅紀さんのことにも関係あるのかもしれません。けれど、今は圭吾さんの行方を知りたいんです。何処か心当たりはありませんか?」
「圭吾さん、ですか?」
今度驚いたのは敦だった。戸惑いを隠しきれず声を潜めて、不思議そうに首をかしげた。
「え。ご一緒だったのでは……?」
「朝になったら、座卓の上にこれが置かれていました」
当然二人でいると思われていたことに苦笑して、佑はしわを伸ばしたメモ用紙を敦へと差し出した。敦はそれを受けとると、目線を何度も上下させて内容を繰り返し読んでいた様子だった。そして、ハァ……と深く溜め息をついた。
「ちょっと、失礼します……」
そう言って、ネクタイを緩め、シャツのボタンを一つ外した。少しラフな雰囲気になった敦は身をソファへと預けて、綺麗に整えていた黒髪を軽く掻き上げた。暫く考える様子を見せた後、指の間から佑を見つめた。
「まず申し訳ありませんが、今圭吾さんがどこにいらっしゃるかは私では分かりかねます」
「そう、ですか……」
「そしてここからは、彼らの従兄弟としての話になりますが」
背筋を正し真剣な表情で佑を見つめる敦に、佑も身を乗り出し膝の上でぐっと強く拳を握った。
敦は何度か躊躇うように口を開き、また閉じては何処から話そうかと迷っているようだった。佑は敦がフロントや客前で見せる笑顔とはまったく違う、苦しげな表情をしているのを黙って見ていた。何を話されても大丈夫だと自身に言い聞かせて、佑は待った。
「……圭吾さんと雅紀さんの身に起きた事故のことはお聞きになりましたか?」
「はい、昨夜圭吾さんから聞きました……なんて言えばいいのか、俺、聞いていて泣いてしまって」
「はい、お二人だけでなく、そのお父様にも、私を含めた親族にも悲しく辛い事故でした」
敦は目を軽く伏せる。過去に思いを馳せるように、ゆっくりとした口調で敦は話した。
「当時は私も幼くて、事故の内容自体を詳しくは覚えていません。ただ、伯母がなくなったこと、雅紀さんがもう歩けないことなどは理解しました。長じては、親しくさせていただいていた圭吾さんや雅紀さん自身からも事故の話を聞きました。残念ながら、事故以来お二人は仲違いされていたので、別々に聞くことになりましたが……」
「仲違いと言うのはいつ頃から?」
「事故後、すぐにだということです。自身の身体のことや、お母様の死などを知らされてパニックになった雅紀さんを、圭吾さんが落ち着かせようとした途端、「お前が悪いんだ!」と叫ばれたとか」
聞いていてやはり辛い内容だった。
母を失い、弟は両足の自由まで奪われた。動かない足を前にして「お前が悪いんだ」と責め立ててくる雅紀に、圭吾は謝る以外にどうしようもなかっただろう。幼い二人の心に残った傷は、今もなお生々しく口を開いたままなのだろう。
佑と敦の間に重苦しい沈黙が流れた。
「……事故の直接の原因を敦さんはご存じなんですか?」
「はい。……学生時代に、圭吾さんが教えてくれました、それまでは、私は本当にただの事故だと聞かされていましたから。本当に驚きました」
少しの間、言葉を切ってそれから敦はまた喋り始めた。
「まさか、伯母がSubだったなんて。それが事故に繋がっただなんて。大学生時代の圭吾さんは『俺が代わりに死ねば良かったのに。俺が、雅紀と代わってやれれば……』と、よく言っていました。その頃の二人の仲は最悪で、すれ違っても口もきかなかったと記憶しています」
そこで佑は、雅紀に対する圭吾の態度を改めて理解することができた。
罪悪感から、雅紀を前にすると言い返せない、なんでもいうことを聞いてしまう。そこにはいびつな兄弟関係が存在するのだと分かった。
「圭吾さんは家から出てマンションで一人暮らしを始めました。その頃『もう、罪悪感に耐えられない』と、私に話をしてくれたのです。圭吾さんはいつも孤独で、人と距離をとっていました。事故のせいでしょう、自分がDomであることを嫌悪しているようでした」
佑は雅紀が放った言葉をふいに思い出した。
「それで、雅紀さんが「一生、パートナーは持たないとか言いやがって」って呟いていた……?」
「そうです、Subのパートナーは作らない。長らく、圭吾さんはそう宣言されていました」
「え、じゃぁ。俺との関係は──」
そこまで考えて合点がいった。
(ああ、だからあくまでも「契約」だったんだ……)
落胆とも気落ちともつかぬ感情が佑を襲った。
契約だから優しくしてくれた。契約だから躾もしてくれた。契約だから、あんなに気にかけてくれていた。佑は圭吾のSubに、パートナーに選ばれたわけではなかったのだ。
だから姿を消してしまった。
拒絶するように、紙切れ一枚で。暫くってどのくらい待てば良いんだ? 向き合い方が分からないってなんだ? 佑は唇を噛み、拳を再度ぎゅっと握り混む。
薄暗い感情の渦へと佑が沈み混んでいこうとしたそのときだった。
穏やかな声で敦が言った。
「圭吾さんは、あなたに出会ったことを嬉しそうに語ってくれましたよ」
「え?」
「まるで初めて恋に落ちた若者のようなはしゃぎっぷりで。見ていて微笑ましかったくらいです」
「あの圭吾さんが?」
「そう、あの圭吾さんがです」
秘密ですよとそこだけは微笑んで敦は唇の前に指を立てて見せた。
その微笑みをどうとって良いのか佑には分からなかった。自分は圭吾の特別なのだろうか。痛ましい事故の記憶を少しでも忘れさせる相手になれていたのだろうか。
佑は掌を開き、そこをじっと見つめた。自分はすぐに腕力に出るような人間だ。怒りの沸点が低い。そんな自分をコントロールすらできない。
ただ圭吾の側にいると気分が柔らいだ。新鮮な空気を胸一杯に吸えるような、自由で満たされた感覚を味わうことができた。
もしかしたら自分も、圭吾にそんな気持ちを味あわせることが出来ていたのだろうか。
「──ありがとうございます。俺、圭吾さんを探してみます。圭吾さんが俺を大切にしてくれたように、俺も圭吾さんを大切にしたい。それに、圭吾さんが俺を待っていてくれるような気がするから」
敦は緩めていたタイを閉め直しながら、頷いた。
腰を浮かし、敦は佑の拳にそっと手を置いた。佑は驚いて敦を見上げ、そこにある笑みを真摯に見つめ返した。
「会うつもりがあるなら、ぜひ追いかけてあげてください。圭吾さんは、ああ見えて臆病ですから。でも、きっと圭吾さんも佑君を待っていると思います」
優しい微笑みに、佑はしっかり頷いた。
そうだ、圭吾はいつだって佑を待っていてくれた。今度は佑が圭吾を追いかける番だ。
3ー5
そこに圭吾がいるとは思えなかったけれど、佑は圭吾のマンションに向かった。
インターホンを二度鳴らす。中に人がいる気配はない。もう一度を鳴らしたが、圭吾はいつもと同じように笑みを浮かべて出迎えてはくれなかった。
圭吾は佑を嫌いになった訳ではなく、佑にどこか負い目を感じているのかもしれなかったと佑は思う。圭吾がどんな人間でも佑が彼を嫌うはずがないのに。
佑が圭吾を追いかけると決めたのだ。
マンションにだって何度だって来る、街中を探したっていい。
(けどマジでどこにいんだよ……圭吾さん)
日を変えて何度も敬語のマンションを訪ねた。一緒に回った店にも顔を出してみた。けれど圭吾の消息は用として知れなかった。敦とも定期的に連絡を取っていたが、熱しの元にも連絡は来ていないということだった。
(仕方ない……最後の手段だ。職場に行ってみるか)
半休を取って、敬語の会社へと足を運ぶ。まだまだ風は冷たくて、心も凍えてしまいそうだった。あ早くあの声で命令されたい。「良い子だ」と褒めて貰いたい。
初めて訪れた圭吾の会社は、予想よりも随分と大きくて、少し佑はたじろいでしまった。けれど、ここで立ち止まるわけにはいかない。圭吾さんを取り戻すんだ。
「すみません。大友リフォームの東雲と申します。あの、社長はいらっしゃいますか……?」
受付の愛想の良い女性がニコリと帰化的な返答をする。
「申し訳ありません。社長の西沢は体調を崩しておまして……今日は出勤しておりません」
佑の眉が微かに寄る。まさか仕事にも顔を全く出していないのだろうか……。次の言葉を選んでいる時だった。背後から圭吾によく似た声が投げかけられた。
「なんだ、圭吾の所の犬じゃないか」
「な……っ!?」
失礼な物言いに佑が勢い良く振り返ると、今入ってきたばかりのエントランスに雅紀がいた。車いすに優雅に座り、先日と同じ男が傍に控えていた。雅紀はこちらが不気味に思うほど、上機嫌だった。
「圭吾はいないよ。ここ何日も会社を休んでいる。正月明けだっていうのに、社員に示しがつかないよ。──まぁ、いっそのことこのまま一生出て来ないんでも良いんだけどね」
僅かに前へ出て、佑は詰め寄った。
「圭吾さんをどこへやった?」
「俺が知っているとでも……?いいよ、圭吾に会わせてあげるよ。。表に車を待たせてあるから、お前も一緒にくるんだ」
「……分かった」
傍にいた男が軽く一礼して、先に雅紀を連れて会社を出る。佑はその後を追った。車の中ではお互い何一つ喋らなかった。ただ、隣に座った雅紀からは凍えるような冷たい気配が漂っているだけだった。
「さあ、ここが私のマンションだ」
案内されたマンションは、車いすで生活する雅紀のためだろう。広々としたエントランスに、幅の広い廊下を備えたマンションの最上階だった。何もなかった真っ白い圭吾の部屋と違って、雅紀の部屋は花や観葉植物、絵画で彩られていた。華やかなリビングに通されて、すぐに雅紀も正面に車いすを移動させる。見渡す限りで圭吾がいそうな気配はない。勢い、佑は身を乗り出して雅紀に剣のある声で問うた。
「それで?圭吾さんは……」
「圭吾はいないよ」
「は……?それじゃ、なんで俺を呼んだんだ」
「躾がなってないな。圭吾は今、いないだけだ、。少し待てよ。呼んである」
「圭吾さんは、元気なんだろうな!?」
「さてね。俺が圭吾の健康状態を知る必要などないしな」
「う……」
白けた沈黙が二人の間に落ちる。付き添いの男が雅紀と佐の前に温かな珈琲を運んで来た。佑は少し迷ってから、カップに手を伸ばした。
(そうだ、落ち着かなきゃ……・俺は慶伍さんに会ってただ話が沿いたいだけだ)
しかしその決意も長くは続かなかった。カップをソーサーに戻してしばらく経つと、抗い
がたい眠気が佑を襲ったのだった。
(な、んだ……これ。まさか、睡眠薬……?)
目の前で視線も合わさずに窓のそとぉお眺めている雅紀を睨みつける。しかし、声は出ず、立ち上がることも出来ずにそのまま佑は意識を手放した。
次に目覚めたとき、男の怒鳴り声が間近でした。
「佑!平気か……!?」
「圭吾、さん……?」
「雅紀、佑に何をした……!?」
気づけば、椅子からずり落ちて、圭吾の腕の中で抱き起こされているところだった。どうやら椅子から滑り落ちてしまったらしい。髪を掻き上げられて、表情を覗かれる。そこには、あんなにも恋い焦がれた、圭吾の顔がすぐ傍にあった。
「圭吾さん……!」
「ああ、俺が着たからにはもう大丈夫だ。雅紀、どういうことか話して貰おうか?」
「美しき主従愛……といったところか?別に何も。少しお茶を一緒にしていただけだ」
「お前の珈琲は客を昏倒させるのか!?」
「お疲れの様子でしたからね。誰かさんを探して、迷っていたみたいだ」
首の後ろに腕を入れられて、頭をしっかりと抱き寄せられる。圭吾の体温と少し早く打つ胸の鼓動が佑にはしっかり聞こえた。
「……少し、話そうじゃないか」
その声で、雅紀の傍にいた男が眉をやや寄せて、心配げな面持ちで佑の方へ手を伸ばした。最初は抵抗していた圭吾だが、最後にはその男の手も借りて、ぐんにゃりと力が抜けてしまった、佑の身体をソファへと寝かせた。佑が首を巡らすと、二人がテーブルを挟んで対峙しているのが見えた。
「なんで、お前はこんなことをする……!?雅紀、答えろ!」
「は、それこそ俺だってあんたに聞きたいよ。一人で幸せになろうなんて、虫が良すぎじゃない?」
「佑を巻き込むなんて……金輪際俺たちにはかかわらないでくれ」
「俺たち、ね。それにしてはそこの男から逃げ回っていたみたいだけど?」
ぐっと圭吾が言葉を詰まらせたのが分かった。良いんkんだ、と佐は心の中で呟いた。
(こうして、助けに来てくれた。それだけで、俺は……)
「甘いんだよ。一人で幸せになろうなんてさ。……ここまで、堕ちてきなよ」
憎々し気に雅紀の顔が歪む。圭吾と同じだからか、その表情は一層醜く佑の目には映った。
「お前のせいで、母さんは死に、俺はこんな身体になった!お前は俺に償う義務がある!」
「それは……っ。本当にすまないと思っている……」
「それじゃ、俺の前で土下座しなよ。それで、そこの男とは金輪際会わないって誓ってくれる?」
苦し気に圭吾の眉が寄り、唇は僅かに震えていた。重い沈黙がその場に落ちた。佑は何とかソファから身を起こして、圭吾の方を見つめていた。
「そんな、約束はできない」
絞り出すような声で圭吾は言った。佑はよろよろと立ち上がると圭吾の側へ一歩委でも近寄ろうと腕を伸ばした。そんな佑の様子に気付いた圭吾が立ち上がって、直ぐに肩を貸してくれる。
「無理はするな。すぐに、俺の部屋に帰ろう」
「返さないって言ったら……?」
静かに雅紀が首を傾げた。その頬には自重とも圭吾たちへの嘲りとでも、憐憫とでもいうような表情が浮かんでいた。
「圭吾、土下座しろ」
再度の命令に佑の中の何かが切れた。よろりと立ち上がり、圭吾に助けてもらいながらも正面から雅紀を睨みつける。
「あんたさ。結局、子供なんだよな」
「な、んだと!?」
「怪我も、母親のことも……可哀そうだとは思うよ。けど、周囲のことが全然見えてない。圭吾さんだって、母親を亡くしたのは同じだ。そかも、弟が自分のせいで歩けなくなってしまって……その後悔や重責を考えたことがあるのか!?」
「は、何を言うかと思えば……」
「アンタは悲劇のヒーローで、圭吾さんは悪役か。そうすれば、あんたは楽だもんな。折角の二人きりの兄弟なのに、それじゃ悲しすぎんだろ……」
最後に言葉は呟くようになってしまった。佑は本当に目の前の男が哀れでならなかった。憎み、恨むことでしか自分を保てなかった男。兄弟の絆を断絶し打て締まった男。本当なら二人で、様々な苦難を乗り越えることが出来たというのに。
「……甘えんなよ」
「う、煩い!」
「お願いだから周囲の救いの手を拒むなよ。俺も以前はそうだった。心を閉ざして、Subの自分を嫌いになって……だけどそれじゃ前に進めないんだよ。俺は、圭吾さんに会って変われた。あんたにだって、そういう人がいる筈だ」
「そんな人間なんていない!」
「いや、いる!あんたが気づいていないだけで、きっといる」
「そ、それでも、圭吾の罪は消えない!」
気圧されたように黙っていた圭吾がそっと佐をから手を離して巻きの前に進み出た。床に膝をつく。止める間もなかった。圭吾は腰を折り、深々と雅紀の前に頭を垂れた。
「母さんのこと、お前のけがのこと……本当にすまなかった」
「なっ……!?」
「確かに正面で謝ったことがなかった。俺はお前への気後れのせいで、こうやって対峙するのを避けていた。本当に、申し訳なかった。──けれど、佑に手を出すことは俺が許さない。お前への懺悔と佐とのことは何の関係も無い」
「開き直りかよ」
「そうとってくれても構わない。俺は、お前や母さんたちへの罪を背負ってこれからもやっていく。佑と一緒にな」
毅然と顔を上げると、圭吾は佑の手を力強く握った。
「明日からまたちゃんと出社する。お前も会社に顔を出してくれ」
「う、うるさい!煩いうるさいうるさい!」
「雅紀、さま……」
取り乱す雅紀へ傍にいた男が宥めるように声をかけた。
「……出ていけ。お前の面なんて見たくもない!」
最後の虚勢だろうか、雅紀が吐き捨てるように言うとくるりと背中を向けた。
「もう、来るな」
「ああ、……承知した」
敬語が佑の肩を抱く。雅紀は振り返らなかった。
佑と圭吾は、マンション前に停めていた圭吾の車に乗った。圭吾の匂いが微かにする。佑はほう……と息を吐いた。圭吾が心配げな様子で片手を佑の頬へ伸ばす。
「多分、睡眠薬でも盛られたな。あいつは自身が眠れないからって、常備している。俺たち兄弟の揉め事に巻き込んでしまってすまない……」
「……そうだよ。謝れよ」
「すまない……」
「巻き込んだことじゃなくて、俺の前から逃げたことを謝れって!」
はっとしたように圭吾が顔を上げた。
「俺は、あんたに救われた……なのに、あんたが逃げちまったんじゃ、前の俺に逆戻りだ」
「……そうだな。俺は、逃げ出さずにお前と話をするべきだった」
「そうだよ。……分かってんなら、良い」
「佑、俺の佑……」
雅紀が両腕を伸ばし佐の上体を引き寄せた。愛しげに、切なげに低い声で名前を呼ぶ。佑は小さな声で懇願した。
「アンタのマンションに連れて行ってくれ」
二人で縺れ込む様に寝室へと雪崩れ込む。
佑はベッドへ放られて、自分から着ていたシャツのタイを引き抜いた。その間にも圭吾の手は器用にタスクの下肢を暴いていく。スラックスを脱がされて、下着までベッドの下に落とされた。あっと言う間に互いに裸になった。圧し掛かってくる男の体温を佑は全身で受け止めた。
「お前は、本当に無茶ばかりをする」
「そういうところが好きだろ?」
佐が笑って見せると、圭吾は苦笑して小さな声で「Open」と呟いた。佑の身体がぴくんっと命令に反応する。そっと口を開いて、次に何が来るのかと瞳を潤ませて命令を待つ。
「もっとだ。舌を出すんだ、佐」
「ん……ぅ」
舌に舌が絡んで、懐かしい圭吾の味が口中へいっぱいに広がった。佑は一生懸命に舌を絡め返す。濡れた水音と、甘えたような自分の声が静かな寝室にやけに大きく響く。たっぷりと十分近く口づけをしたから、圭吾は佑の身体のラインを掌や指で辿り、唇をどんどん下げていく。もう下腹を超えて、緩く勃起したペニスに唇がつきそうだ。
「──圭吾、さん……」
「Openだ。足を大きく開いて、膝を自分で持ち上げてごらん?」
あまりに恥ずかしい命令を甘い声で圭吾は口にする。けれど佐は躊躇うことなく、膝裏に腕を通して、ぐっと内股を開いて期待に揺れるペニスを圭吾の前に晒した。数度、指で擦られて、そのまま熱い咥内へとペニスが包まれる。性急な口淫だった。圭吾は佑が感じるところを正確に責めて、頭を上下させて何度も力強くペニスを吸い上げた。
絶頂はすぐにやってきた。会陰を押されながら、びくびくと内股を震わせる。
「っ……んぁ、あ──……イクっ、いく……圭吾さん、放して……っ!」
「駄目だ。俺の口の中で果てるんだ」
「や、やぁ……っイク……イッくぅ……~~っ!!」
先端を強く吸われた途端、全身を痙攣させて、佑は絶頂に達した。びゅくっ!と白濁を吐き出したかと思えば、そのまま圭吾の喉奥へと精液を放ってしまう。細かく痙攣するタスクの身体を押さえるようにして、圭吾は最後の一滴までも搾り取るように股間から暫く顔を上げなかった。
「の、飲んだのか……?」
「ああ、美味かったぞ」
顔を漸く上げた圭吾がニヤリと笑う。佑はそれだけで真っ赤になってしまった。赤い目元を隠そうと腕を上げたところで、ぐいっと下肢を引き摺られた。足は大きく開脚させられたままだ。その太腿の内側へと圭吾が身体を進めてきた。片手で佑のイッたばかりのペニスを握って、会陰のあたりをゆっくりと優しくマッサージしてくる。そして、そのまま指はアナルへと触れて、緊張を解すように数度、小さな穴に指腹を擦り付けてから、くちっと指先を潜らせてくる。
「痛くないか……?」
「ん。へーき」
違和感はあったが痛みはない。時間をかけて指が奥の方まで侵入してくる。腸は自然と指を締め付けて、佑も内臓を軽く押し上げられるような苦しさを感じる。けれど、指は浅瀬に戻り、中の壁をゆるりと撫でくる。息を浅く吐いている時にそれは起こった。圭吾の指があるスポット押すと、タスクの身体がびくんっと跳ねた。強い快感が、その点を中心にしてじんわりと全身に広がってくる。
「……ぁ、あ……圭吾さんっ。そこぉ……~~っむり、」
「気持ち良いだろう?ここが佑の弱い所だな」
ぐりぐりと指でそのしこりを押されて、先程達したばかりだと言うのに、ペニスがぐんっと勃ち上がる。先端からは先走りが溢れて、思わずアナルを締め付けてしまった。圭吾は指を二本に増やすと、そのスポットを容赦なく責めてくる。佑は何回も、「イカせて」「出ちゃう」「許して」と繰り返し圭吾に懇願した。けれど身体は正直で、気づけば、股を置きく開いたまま、つま先立ちになり、圭吾の指の動きに合わせて、腰を上下に振っている自分がいた。
「んんっ──……!」
また、射精をしてしまった。アナルの入り口はもう緩々で、美味そうに圭吾の指を食んでいる。そしてその奥は、もっと最深部へと太く熱いものが欲しいのだと、蠢いて圭吾を誘っていた。
「なぁ……きて。あんたが、欲しいよ」
「ああ、俺も限界だ」
いつも余裕そうだった、圭吾の表情が歪んで笑っている。佑は再度、膝裏に腕を通して、足を大きく広げて、指先で、アナルをくにっと開いて見せた。早く熱塊が欲しくて堪らない。それを与えられるなら、どんな恥ずかしい格好でも出来た。くぱぁと開いた珊瑚色の襞に、圭吾が丸いペニスの先端を宛がう。それは、佑が想像していたのよりも、随分と大きなものだった。だが、今更そんな事は気にならなかった。早く、……と腰を揺すってみせる。
「──っ、あまり煽るな」
「圭吾さん」
ぐっと一番太い雁首が肉の輪を拡げながら進んできた。アナルが裂けてしまうのではないかというような鮮烈な体験だった。痛みと、違和感と、微かな快感。佑はその小さな快感を拾おうと懸命に、胸を上下させた。後半は、、一気だった。佑の腰を押さえたまま、ずずっとペニスが侵入してくる。得も言われぬ快感だった。とんっと、尻肉と敬語の恥骨がぶつかった。
「ぜんぶ、入ったぞ」
「んっ。分かる……圭吾さんで、いっぱいだ」
「少し、このままで待つか……?」
すぐにでも動きたいだろうに、圭吾が優しく佑の髪を掻き上げる。その耐える様子がいじらしく、また愛しかった。佑は足両足を圭吾の胴に絡めて、首筋をぎゅっと引き寄せた。
「……動いて」
囁くと、中でペニスがより大きさを増すのを感じた。それ以上の返事はなかった。
「あっ、あっ……や、んぅ……~~っんぁあ……んっ、あっあっ、ぁんっ」
突き上げられる度に、声が止まらなくなってきた。中は痺れたようになって、大きなストロークで中を穿たれる度に、前立腺を擦られて、何度も中イキを繰り返した。きゅんきゅんっと締め付けて、圭吾のペニスに粘膜が纏わりつく。
「そんなに、締め付けるな。俺が、もたない」
笑いを含んだ声が真上からする。だが、佑にはどうすることも出来ない。身体が勝手に反応してしまうのだ。激しい突き上げに佑自身のペニスも膨らんで、先走りをぽたぽたと自身の腹の上に垂らしていた。
「もう少し、深くいくぞ」
そう耳元で囁かれて、何がと聞く余裕もなかった。圭吾が両手を佑の身体の脇について、大きく腰を引き、それから容赦なくごっと腰を打ち付けてきた。あまりの衝撃に視界が白くちかちかと明滅する。知らないうちに佑は達していた。狭くくねったその器官に、ぐりっと圭吾の亀頭が入り込んでいる。かはっと詰まった声を吐き出す。そこからはもう嵐のようだった。圭吾は雄々しく腰を大きく振って、最奥のその場所ばかりを何度も突き下ろす。ペニスが硬さを増して、内部を殴りつけるような荒々しさで、佑はしがみ付くので精いっぱいだ。
「ひぁっ!ぁ、あんっ、あん……かは……っ!いく、イクイクイクいくぅ……っ!!」
どうにかなってしまうんじゃないかと思うほど、気持ちが良かった。何度も絶頂迎えて、その度に排出される精液はどんどん薄くなる。最後には空イキのようになってしまって、ペニスの先からは何もでなくなってしまった。
「けいごさ……っ!好き、好き……っ」
「俺もだ。佑……愛してる」
深く深くキスをされた。激しい腰つきがいよいよ速くなって痙攣する様に佐の中でペニスが暴れ回った。最後にずしんっと重く、奥壁を思いきり突き上げられる。足の先まで、快感が走り抜けた。低い呻き声が耳元でする。その途端、押さえつけられていた何かが弾けた。圭吾特有の甘いバニラの香りが部屋中に広がった。
「たすくっ!!」
名前を呼ばれて、熱い滾りを最奥に叩きつけられる。全身が歓喜に震えて、佑は一瞬息をするのさえ忘れた。じんわりと腹の奥が温かいもので満たされていく。これが欲しかったのだと、薄れていく意識の中で佑は圭吾の名を呼んだ。声に出ていたかは分からなかったけれど。
あれから、数か月が経った。
佐と圭吾は珠長に交際を重ねていた。身体を重ねた翌朝に、契約書は破棄した。
「これは、もう必要ないだろう?」
目を細めて嬉しそうに笑う圭吾の姿が嬉しかった。
雅紀からの接触もあれから一切なかった。
平穏がやっと訪れたのだ。
今日は、二人で佑が見ぬつけるチョーカーを購入しに街へ来ていた。二人で様々なものを見せて貰ったが、佑が気に入ったのは、太めのエナメルの首輪然とした黒のチョーカーだった。これを着けてしまえば、もう佑は圭吾のものになったという証だった。
「本当に良いのか?」
微笑んで圭吾が佑の首を軽く撫でる。佑は今更何をという風に笑み返した。
「これが、運命なんだよ」
不敵に微笑む。その瞳にはすさんだ荒々しさはもうなかった。信頼できるパートナーを見つけたのだ。これ以上の幸福があるだろうか。
「一生かけて、愛してくれよ」
「勿論だ」
二人は街の雑踏の中へと仲良く肩を並べて消えていった。
「だから、誰がお前なんかに跪くかよっ!」
目の前の男の腹を蹴り上げる。と、相手の男がかはっと腹を押さえて路地裏に蹲る。その頭や丸まった背中を更に靴底で蹴る。蹴る。蹴る。
深夜に近い真冬の繁華街、その裏道だった。周りは人で溢れていたが騒然として、誰も近づかない。
それはそうだろう、一般的に見ればそれは一方的な暴力で、暴力をふるっている方は我を忘れて暴力に酔っているのだ。
「なあ、もう止めろって!……っ佑!」
友人の制止の声が聞こえているが、耳奥がキーンと鳴って言葉としての意味をなさない。(馬鹿にしやがって、俺はモノじゃねぇんだよ!)
口にしたつもりが、興奮から声にならない。呼吸が浅いのが自分でも分かる。頭は怒りでいっぱいだ。体が熱く、今にでも叫び出したい、目の前の男をもっとぶちのめしてやりてぇ。
「分かったかよ、この糞が!」
最後の一踏みと、脚を上げたところで
「──……っ佑、Stay(待て)!」
と、振り絞るような声が背後から聞こえた。その途端、東雲佑の頭の中で何かがぷっつりと切れた。
怒りや暴力の衝動性がシュワシュワと溶けて消えていってしまう。よろけて足を下ろすと、友人を振り返って睨みつけた。
佑の友人、園田愁はひょろりと背丈だけは高い優男だ。今も自身のボディバッグを胸に両手でぎゅうっと掴んで、今にも倒れてしまいそうだった。対する佑はやや背は劣るものの、体格はそこそこに良い。じりっと押し迫ると、愁はその分だけじりっと後退した。
「……また俺に、コマンド使いやがったな、愁」
「だ、だって。……あのままじゃ、このオッサン、死んじまうよ」
「こいつがどーなったって、どうでも良いだろ? この俺を強制的に跪かせようとしやがった」
鋭い目つきで道端で呻く男を睨みつける。佑はSubとしてこの世に生を受けた。生まれながらの刻印。従属し、頼り、躾けられ甘やかされる性。
だが、佑は生まれてこの方、Domのパートナーを持ったことがない。
その負けん気の強さからか、どうしてもDomに逆らってしまうのだ。
男女以外の第二の性。DominantとSubmissive。
通称Domとsubの性が発見されて、もう数十年。所謂、支配する性と支配される性があるとが世界的に認知されてから半世紀は過ぎた。こういうことに疎い日本でさえも、ここ二十年程で法整備や抑制剤の承認が進み、国内での認知は九十%を超えるという調査結果もある。その程度に強弱はあるものの、Dou/Sub特性を有する者は、日本では人口の全体の二十数%、五人に一人は何らかの性向があるとのことだった。
佑と愁は共に二十六歳。DomやSubが当たり前に世の中に溢れる世界で産声を上げた、そういった世代だった。
「行こう、佑。これじゃ警察沙汰になっちまう……」
怯えて言う愁は、既に佑の通勤鞄を拾い上げて佑の袖を引いている。
急に冷えてきた十一月末。会社からの帰り道に高校時代の級友の愁と佑は飲んでいた。久しぶりの親友との飲み会で良い気持ちになって帰路につこうとしていた。
そこに、酔っぱらった四十前後の男が絡んできたのだ。身なりの立派な、いかにも成功している男然としていた。
男は自分をDomだと大声で公言し、「お前、Subだろ!?」といきなり佑の腕を掴んだ。
「……違いますよ」
佑は否定し、横にいた愁も佑をかばい前に出た。だが男は二人をじろじろと見定めるように見比べるとせせら笑いこう続けた。
「なんだ、糞弱いお守り付きか。けど首輪してねぇってことはお前のもんでもねんだろ、この糞ビッチそうなSub。匂いが堪んねぇな……いいから、こっちに来いよ。俺の方が良いご主人様になれる」
一瞬で佑をSub、愁をDomだと断定した男はそれなりに強いDom性を持つのだろう。社会的地位もある中年以上のDomの中にはSubを軽視する者もいる。男はその典型のようだった。そうして、佑はそういった一部のSub達が大嫌いだった。
だから声を低く威嚇したのだ。
「そうだったら、何だってんだよ」
「た、佑!」
「Subだってんなら、どうしたって言ってんだよ」
「は、はぁ……!? お前、Subの癖にDomに楯突く気かよ!」
男は一瞬怯み、そしてにやりと笑うと、いきなりなんの承諾もなしに「Kneel(跪け)!」と佑に命令してきたのだ。それが自分の命取りになるとは知らずに。
そして佑は男を殴り蹴り、ボコボコにした。一般的にDomからのコマンド(命令)を受け取ると、Subはそこに信頼関係がなくとも一瞬怯んでしまう。男はそれを狙ったようだったが、佑には効かなかった。効くどころか逆上して男を瀕死の目に合わせた。
幼いころからそうだった。
三歳児検診で佑がSubであることが分かると、両親はまず佑を柔道教室に通わせた。それが性に合っていた佑は長じて、自身で剣道とボクシングにも打ち込んだ。そこで佑はどんな性を持っていようと、人間はみな平等であるということを学んだ。
だが、皆が幼かった幼年期を過ぎ小学校も高学年に上がると、第二次性徴が訪れる。Domは一般的に成長が早く、体格も良くなってくる。そしてDom/Subともに次第に第二の性にも自覚し始める。
そこで生まれて初めて苛めにあった。
クラスのカースト上位者だったDomの男児に最初はシカトされ、自分の物を隠され壊されて、最終的には裏庭に呼び出された。他にノーマルの男児数人を引き連れたそのDomに、佑は最初、恐怖を感じた。怒りや強い感情を持ったDomを目の前にしたSubが時折陥る状態、Sub dropだった。猫に睨まれた鼠の子のように佑は震えた。
それを見て、男児たちは笑う。小突く。足蹴にする。次々と手を出してきた。
それでも恐怖で立ちすくんでいた佑だったが、最後にDomのその男児が目の前に来て、「Come(ほら、来いよ)!」と命令された時には、強い衝動を感じたのだった。胸の奥からメラメラと燃える怒りが顔を出す。身長のあったその男児めがけて、思い切り頭を振り上げると顎へと大きく頭突きをした。反撃にあうと思ってなかったその男児は、その場にどっと倒れこんだ。その彼の上に跨って、佑は拳を振り上げた。
……その後のことは覚えていない。
気づけば己の拳は血まみれで、相手のDomは鼻血を出した真っ赤な顔で気を失っていた。
大人たちが集まって、色々と話し合いをして……相手のDomの男児は転校していった。
その時からだ。Domの支配を受けないSubとしての人生がスタートしたのは。誰も佑に近づかなくなった。DomどころかノーマルやSubの同級生でさえも彼を恐れた。
しかも、何がそうさせるのか分からなかったが、少年期には街を歩くとよくDomの輩に絡まれた。そしてその度にその拳や足で、佑は相手を黙らせてきた。
そんな佑に友人と呼べる存在ができたのは高校に入ってからだった。地元の高校を受験した佑はやはり周囲から浮いていたが、一人、県外からの入学者だった園田愁という男が声をかけてきたのだ。
「ねえ、君毎日一人だよね? 一緒に昼ご飯食べない?」
ふにゃっとした笑顔の長身の男子生徒だった。
DomにSubが分かるように、SubにもDomが分かる。だから最初、またDomの馬鹿が絡んできやがったと佑は睨みつけた。だが、その視線にもにこっと笑顔を返すような鈍感な男だった愁は、いつの間にか佑の親友と呼べる位置にまで並んだ。また、よくDomに絡まれては相手を半殺しにしてきた佑の抑止剤に愁はなった。
Domに絡まれ、コマンドを言われると狂犬モードになる佑だったが、愁のコマンドだけは受け入れるようになっていたのだ。
「な? もうそこまでしたんだから良いだろ? 帰ろうよ、佑」
「ふん。……二度と俺にその面見せんなよ」
男に背を向けて、佑は漸く肩から力を抜いた。握った拳をぶらっと振って、そのままばんっと愁の背中を叩く。
「いってぇ~~」
「さっきの、コマンド分の仕返しな」
くっと笑って佑は愁と二人、その場を後にした。
1-2
朝が来た。
ベッドで唸り声を上げて佑は起き上がろうとしていた。
「あったま、痛ぇ……」
自分の低い掠れ声が脳内に響いて、それさえも頭痛の原因になる。いい気になったDomを自分=Subなんかが叩きのめした反動。翌日に来るそれをそう佑は捉えている。全身が泥のように重たく、瞼を開けていられない。真っすぐに体を起こすこともできない。
しょうがなくベッドサイドへと手を伸ばして、Subの抑制剤をざらざらと手に乗せて、量も確かめずに一気に口の中に放り込んだ。ガリッと砕いたそれは子供でも飲みやすいようにとあつらえられたイチゴ味だ。この身体の辛さを克服するためには今のところ、この抑制剤と…医者が言うにはDomの躾を受けることだという。
もちろん後者なんてのは佑にとってもってのほかで、定期的に来る主のいないSubとしての体調不良やDom撃退時などにはこの薬が佑の唯一の希望だった。
「糞っ……」
Subの宿命とやるせなさに佑は枕へと顔を埋めた。
数十分後、佑は身なりを整えて鏡の前で歯を磨いていた。
頭の芯にはまだずくずくとした痛みが残っているが、なんとか起き上がれるまでには回復した。今日は小規模だが取引先との飲み会もある。会社には是が非でも行かなければならなかった。
佑の会社は大手のリフォーム会社の営業所だ。飲み会の相手はそこそこ大きな不動産会社の元締め。接待での席で、失態を犯すことがないようにと、佑は襟を正し抑制剤を鞄に忍ばせて出社した。
満員電車に揺られて、会社に着く。朝礼を終えれば営業車に乗り換えてお得意先回りだ。師走に差し掛かろうとするこの時期に、大きなリフォームの依頼は少ない。地道に足で稼ぐんだというのが営業所長の言だった。結局は廊下の段差解消と手すりつけという小さな案件を一件受注できた。昼飯をとったら今度は電車に揺られて駅前でチラシ配りにポスティング。笑顔、笑顔笑顔。普段は簡単にできる仕事が今日は辛い。佑が大きく息を吐き出したところで、年配の先輩社員が心配げに聞いてきた。
「お前、今日顔色悪いよな。飲み会大丈夫か」
「はは、すいません……大丈夫っす」
「なら良いけどよ。ほら、行く前にこれでも飲んどけよ」
ウコン入りのドリンクを手渡された。苦笑いをしながらも、ありがたく頂くとする。
佑は会社では極力Subということを隠していた。隠すといっても公言していないだけで、普通、Sub同士やDomには相手がそうかどうかが分かる。直観に近いものだが、匂い立つフェロモンのようなものが感じられるという者もいる。
佑はそのあたりがどうも鈍く、気づけばDomに腕を掴まれていたり、肩をどつかれたりということが多かった。
(Domにはまともな奴がいねーのかよ……)
昨夜の一件が頭の隅でもやもやと蘇る。
勿論理性では、愁のような優しい、普通のDomがいることは分かっている。絡まれるのだって年中ではない。それでも圧倒的な被害の数に、その容赦のなさに、……そして彼らへの自分の中の加害性に、佑は辟易していた。
だから佑も一度、あまりの飢えと虚脱感にSub専門の風俗の扉を叩いたことがある。
もう何年も前のことだ。
専門職ならば、どんなSubの扱いにも慣れているだろう。自分でも素直に従えるだろうという思いからだった。
しかし結果は惨敗で、折角指名した最年長のナンバーワンDomの命令に、佑は何一つ従うことができなかった。
基本の「come(おいで)」にも「kneel(お座り)」にも佑は反応できずに、逆に相手の優し気なDomキャストに怒りを覚えた。ただ立ち尽くし拳を握る佑に、そのDomのキャストも驚いたようで、いくらか命令(コマンド)繰り返した後で、無駄だと知ると話を聞いてくれた。
「そうなんだ。……全く、どんな相手の命令でも反応できないのかい?」
「……ああ」
「怒りの衝動性、かぁ……普通、Domのコマンドが聞けない状態にある時には、Sub dropの可能性が高いんだけどね。目の前のDomの気配が強すぎたり、コマンドが無理すぎたりすると陥る、怯えた状態……何もできなくなって、酷いと失神してしまう感じなんだけど」
「俺の場合はとにかく怒りで……目の前が真っ赤になる感じなんっすよ……」
「うーん……自己防衛本能が高すぎるのかもしれないね」
「自己防衛?」
「うん、君からは強く、Subの魅惑的な匂いがするよ。この僕が、君が望むならなんでも命令してあげたいって……業務外でも良いって思えるほどにね」
「そう、なんっすか……?」
そんなことを言われたのは初めてだった。Domといえば佑を蹂躙し捻じ伏せに来るもので、「優しく命令してくれるもの」だとは思ったことがなかった。長い髪を縛った年長の男は、そっと佑の頬に手を伸ばしてくる。佑は一瞬、身を引きかけたものの、我慢してぐっと唇を噛み相手の愛撫を受け入れた。
「そう、だから……君はSubの属性度合いが高いゆえにDomに狙われやすいし、そのDomの気配に過敏に反応して過剰な暴力衝動にかられるんじゃないかな」
「過剰……防衛すか」
「そう、そんな感じ。なんだ、お触り我慢できるじゃない……『Good boy(良い子だ)』」
「……っ!」
褒められ頭を撫でられた瞬間、ちりっと指先に電流が走った。
相手に触れられているのに怒りを超えて、初めての感情だった。心地良い、と言い換えても良いかもしれない感情に佑はさっと身を翻した。心臓が、バクバクする。
「どうしたの……?」
「いや……なん、でも」
心臓のあたりをぎゅうっと握り締める。ここにいちゃいけない、逃げなければ……そんな思いで頭がいっぱいになる。
「君、今……」
Domのキャストが何か言いかけた時だった。プレイ終了のアラームが鳴る。スマホを握ったキャストは残念そうに佑を振り返った。
「どうするかい?……延長する?」
「いや……。っいい、っす。これで。話も聞いてもらえたし?」
わざと笑顔で明るくふるまう。キャストの方も「そう」とやや寂し気に返事はしたものの引き留めはしなかった。それで終わりだった。
あのちりちりとした先の感覚の先に何かあるかもしれない……それは佑にも分かった。けれどその先に行くのは恐ろしく、いやまた覗く自身の暴力の気配を恐れて、もう二度と店には行かなかった。
1-3
「さあ、君も飲んで飲んで」
宴会の席だった。佑は席に着いた途端、この接待に呼び出されたことを心底後悔していた。
接待先のN不動産の幹部たちは比較的若く、自社の幹部たちでは話しが合わないだろうと、若手の中から盛り上げ役で佑は呼ばれていた。確かにN不動産の連中は若かった。といってもそのほとんどが四十代だろう。しかし宴席の上座に座る男、今日は来れなかったN不動産の社長の代理という男は三十も前半に見えた。
西沢圭吾。N不動産社長の息子だということだった。
(そいつが、なんっでDomなんだよ……!)
しかも鈍感な佑が見て一目でDomと見抜けるほどに圧倒的なオーラを匂わせたDomだった。宴席の末に座る佑にまでその存在感が圧となって押し寄せてくるほどだ。
見た目はクールないかにも仕事の出来そうな男。襟足を短く刈り上げた黒髪と身体に纏うダークグレイのシックなスーツが似合いの美丈夫だった。喋り方は柔らかく、老舗の不動産屋にしては品が良い。昔気質なこの世界で少し浮いているほどに上品で優し気さえ感じられる男だった。
「おい、東雲。西沢さんにもお酌に行け」
「え。……俺っすか」
「そうだ、年齢も近いだろう。話の一つでも聞いて勉強させてもらってこい」
年上の同僚に勧められて、佑は仕方なしに上座へと向かう。
何でもないような顔をして笑顔を張り付け、圭吾の前へとそっと近寄った。
「あの、東雲と言います。酒のお代わりを……」
「ああ、いただこうか。……君は若いな。いくつ?」
「あ、はい。二六です。ここでは最年少になります」
(クソ……吐き気がする…)
答えながらも、けれど佑はその男の顔さえまともに見れない。
匂い立つDomの気配で背筋がゾクゾクとして、胃が殴られた後のように重い。思わずよろけると、その肩を圭吾ががっしりと掴んだ。
「っと、大丈夫かい?少し気分が悪そうだが……」
圭吾が顔を覗き込んでくる。目がカチッと合うと、その強い瞳に魅入られて一瞬、佑は声が出せなかった。両者の間に不思議な間があって、暫くにらみ合うように見つめ合う。
不味い……多分Subだとバレている。
「君は……?」
「……っいや、大丈夫っす。はは、酒が回ったのかな。……ありがとうございます。失礼します」
腕を振り切り逃げるようにその場を去った。その後もどうにか作り笑顔で酌をして回るのだが、足がすくんでなかなか再度その男には近づけなかった。
男も普通で、たまにちらりと視線を送ってくるのだが、その視線に強引さはない。ただ、物を見るような目で、佑を見つめていた。
(やべ……。限界……だ)
「ちょっと、俺……しょんべん行ってきていいっすか……」
「おう、早く戻れよ」
こそっと耳打ちした隣の席の上司は上機嫌で、佑が席を抜けると言っても引き留められなかった。これ幸いと、トイレに駆け込む。本当に吐き気が強く、個室に入るなり佑は嘔吐した。昨日のダメージが残ってる中での酒に、あのDomだ。
吐けるだけ吐いてしまうと、今度は身体が寒さで震えだす。
酒が回った頭では身体の平衡を保つことができずに、扉を開けようとして鍵に手をかけたところで個室の中にへたり込んでしまった。動けない。寒い、寒い。頭が痛い。頭をガンガンとハンマーで内側から殴られているようだった。
(なんで俺がこんな目に合わなきゃいけない……!?)
怒りで我を取り戻そうとするが、それも無理だった。怒りが長続きせず、身体の痛みの方に直ぐ意識がいってしまう。かなり不味い状態だった。
「君……大丈夫か?」
どれだけ時間がたっただろうか。
痙攣する身体を抱えて、個室内で蹲っているところに、声がかかった。けれど意識が朦朧としている。声が出せない。
「大丈夫か?」
再度優し気な声が降ってくる。電流のように、何かが体を走り抜けた。その声に答えたいと急に思う。
このままじゃ、動けない。助けを……。震える足でドアに縋り立ち上がる。膝が笑って立っていられずに、すぐに狭い個室で崩れ落ちた。
相手がドア越しに何かを言っている。その声に焦りが加わっているのが分かる。けれど、動けない。瞼が僅かに震えただけだった。
「たす、け……」
最後まで言えなかった。優しくも低く逆らえない甘い声が身体を包み込んでいる。
そして佑の意識はそこで途切れた。
1-4
夜だった。
いや、少なくともその部屋は夜だった。真っ暗な中に、床からの間接照明が灯り、薄く部屋を照らす。湿度がちょうどよく、咳き込んで目覚めた佑だったが、その部屋の心地よさに直ぐに咳が止んだ。薄明かりさえ眩しくて、佑は何度も瞬く。視界がぼやけていた。
(あれから……どうなったんだっけ)
動こうとするが指一本動かせない。
(確か……誰かの声が──)
柔らかな羽毛布団に包まれて、ベッドに寝かされているようだった。自分の家ではない。会社の誰かの家だろうか。そうだとすると迷惑をかけてしまった。しかも接待の席で、大失態だ。
ぐるぐると考えていると、ふいに人影が自分の上に落ちた。何かを言っている。言葉はまだ聞き取れなかったので、緩く首を振る。
眠い……それと同じくらいに頭が痛い。頭痛を思い出すとともに身体が寒さでガタガタと震えだす。
「……か?」
低い、穏やかな声が何かを聞いてくる。
もっと大きな声で喋ってくれよ、と佑は思う。痛みで、何も聞こえないんだ。口を開き、息を吸い込むとヒュッと喉が鳴った。激しくせき込んで、思わず身を縮める。その途端、全身が針に突き刺されてでもいるかのように痛んだ。関節はぎしぎしと軋んでいる。恐ろしいほどの倦怠感がした。
(……やべぇ。薬……)
目線だけで自分の鞄を探す。それに応えたかのように、影が一瞬遠ざかり、また手に何かを持って帰ってくる。目の前に翳されるそれ……白い本体に薄青いラベルの、抑制剤。
「この薬か?」
今度ははっきりと聞き取れた。こくりと頷いて佑は受け取ろうと手を伸ばす。ありがたい、これできっと身体が楽になる。だが、折角伸ばした掌に薬を握らされても、口元まで持っていくことができない。それどころか、口を自然に開けるのが難しい。咳は断続的に出るというのに、咳以外の時には歯が食いしばってしまってガチガチと鳴るだけだ。
「何てことだ。なぜここまで我慢した? こんな状態じゃ薬も飲めないだろう」
(うるせぇ......な。俺の勝手だ)
穏やかな声だが、どこか呆れが混じっていた。
佑は心の中でだけ相手へ悪態をついて、ぼやける影を睨みつける。それを認めたのか影が大きく、それと分かるようにため息を吐いた。
薬をボトルから取り出すと今度は佑には預けずに覆い被さってくる。
その途端、色濃く、いや、色ではない。匂いが、濃いバニラにも似た香りが強く香った。何とも言えない、思わず惹かれる匂いだった。お香にも似た静かな香りが底に、刺激的でスパイシーな香りも入り混じる。うっとりと目を閉じかけたところで、佑は漸く気づいた。
(コイツ……宴席にいたDomだ……!)
思わず背筋が凍りついた。
Domが発する誘惑の香り。人によってはオーラとも威圧感とも言うそれ。宴会場では、佑が近づけもしなかった圧倒的なDomの気配。
マジかよ……と佑は唸る。漸く頭がはっきりとしてきた。目の前の男に焦点が合う。
上着を脱ぎ、タイを緩めて肩へとかけた圭吾がざらりと自身の掌に抑制剤を落とした。伸し掛かるようにして佑の上へとくると、額同士がつきそうな距離まで近づいてくる。呼気が唇に触れる。その吐息も甘いバニラだ。噎せ返るようなバニラの香りをまとった圭吾が、唇を開く。目の前の瞳にくぎ付けになって、目が離せない。動けない。
圭吾がゆっくりと口を開いた。
「良い子だ──名前は? Say(言え)」
頬に掌が触れる。びくんっと佑の体が反応した。自然と口が開いて、掠れた声が喉から出た。
「っ……しののめ……たす、く……」
「Good boy(良い子だ)。きちんと言えたな」
圭吾の笑みの気配。ついで頭を撫でられる。
気持ち良かった。身体がふわりと軽くなって、関節の痛みが消える。なんだこれは。佑は混乱する。
「なら次は薬だ。──佑。Open(口開け)」
「……ん」
甘えたような声が出て、これじゃ駄目だと思うのに佑は気づいたら口をそっと開いていた。唇は期待に震えている。次はどんなコマンドが来るのかと待ち構えている。下肢が勃起してないのが不思議なほどゾクゾクとした快感が腰から背中を這い上がってきた。
「もっとだ……Open(開けろ)。そのままStay(待て)だ」
圭吾に言われるままに口を更に開く。唾液がこぼれ落ちそうになってきたが、佑は圭吾の命令を聞いて指先一つ動かせない。いや、動きたくない。
圭吾はそのまま佑を待たせると、抑制剤を己の口にざらりと流し込む。口の中で数度、大きな塊をかみ砕くようにガリッと噛んでから、佑の上に再度伸し掛かってきた。
「──っ!」
圭吾が佑の唇を奪った。大きく開いている口の中へ舌を使って、抑制剤の欠片を押し込んでくる。舌を使って次々に抑制剤が押し込まれる。咥内を熱い舌が動き回る。
抑制剤とともに、圭吾の唾液が佑の咥内に溢れた。自身の唾液と混じって、えも言われぬ甘さになる。
「分かるな? 飲み込むんだ。そう、そのまま……」
「──……んっ」
躊躇いがないわけではなかった。けれど、圭吾の声に反応して、佑はこくんと喉を鳴らして唾液混じりのそれを飲み下した。それは甘い欲望を感じさせるには十分だった。身体中に走る抗うことの出来ない主に伴う性への欲求。
「Good(良い子だ)」
目の前に男の満面の笑みが広がった。心臓がドクンと大きく脈打つのが分かった。
再度頭を撫でられ、今度は先ほどよりも長く、毛先にも触れられてそのまま頬や顎先も擽られる。思わずすりっとその大きな手に頬をすり寄っていた。温かく、気持ちいい。気づけば下半身に熱が溜まっていた。掌から伝わる熱に感情が昂る。
「……可愛いな。そのまま俺の言うことをきいてれば良い」
意外そうに笑う声が優しい。先ほど悪態をついた声と同じとは思えない。低く響く声の余韻に薄く瞼を閉じて応えると、影がまた覆い被さってきた。
「Stay(待て)だ、佑」
「っん……」
薄く開いたままだった佑の唇に圭吾の唇が再度重なった。舌を柔らかに絡めとられて、歯の裏側を舐め上げられる。布団の上から優しく胸板をとんとんと宥めるように叩かれて、心臓が痛いほど鳴り始める。強引に命令されたほうがいっそ楽になる。なのに圭吾は優しい。その優しさとまだ効かない薬に欲情が止められない。
そして、むくむくと自身の下肢が熱を篭らせながら勃ち上がるのが分かった。
(嫌、だ……嫌だ……っ、止めてくれ──)
意識は拒もうとしているのに、褒められ頬を撫でられて、心と身体が歓喜しているのが分かった。しかも連続しての優しいコマンドに、いつもは感じる嫌悪感が全くない。
ただただ脳内が震えるほどに嬉しくて──きちんと命令を守れていることに、そして褒められることに、自分が誇らしく、嬉しい。
それが体に直結しているかのように、勃起したそれを抑えることが出来ない。
「ん? ……どうした。気持ち良いだろう?」
長く優しい口づけの合間に、ふいに圭吾が顔を上げた。もじもじと下肢を揺すり、どうにかして壁側へと向こうとする佑に気づいた様子で、声は意外にも真摯だった。
(そうじゃない……! つうか、見んなよ。ぁ……駄目、駄目だって……)
圭吾が布団を捲ってきて、下肢に手を伸ばそうとしていた佑の腕を掴んで止める。
佑が思わず自身を見下ろすと、リネンのパジャマに着替えさせられており、その下肢が分かりやすく完全にペニスが布地を押し上げ、触って欲しいとばかりに震えている。
「ああ、勃起しているのか」
「……るっせ……」
漸く自発的な、だが掠れた吐息のような言葉が出た。その僅かながらも反抗的な様子に圭吾は瞬きをしてからふっと軽く吹き出すように笑って、更に距離を詰めてくる。
「その態度は可愛くないな。……このままじゃ苦しいだろう、手伝ってやろうか?」
「っ……! なに、言って……」
「遠慮なんかしなくて良い」
「えんりょ、なんかじゃ……って、マジ、待てって……!」
「それは私の台詞だ。大人しくしてろ、Stay(待て)だ」
何とか腕を持ち上げて緩く手で仰ぐようにして圭吾を止めようとするも、今の佑では叶わなかった。体の痛みは取れてきたものの、力が入らない。頭の芯は甘く溶けたままだ。
そこへ停止のコマンドを放たれて、佑はググっと唇を噛んだ。それから降参とばかりに腕を枕元へと落とした。圭吾の指令は不思議と受け入れられる。いや、受け入れて服従したいと体がそう叫んでいる。
(まだ薬が効いていないせいかもしれない。身体が弱っているせいかも……あー…駄目だ、わっかんねぇ……)
考えはまとまらなかった。分かっているのは、そうしているうちにも下肢は張り詰め、次に起こることを体が期待しているということだ。
けれど、そこは最後の意思表示とばかりに佑が腕を上げた姿勢でぐっと拳を握っていると、その拳を柔らかに圭吾の手が握ってきて、ぽんぽんと頭を撫でられた。拒みたい気持ちとそのまま服従したい気持ちがない交ぜになる。逃げ出すべきなのか、従うべきなのか。
だがそんな佑の思いとは裏腹に下着がずらされ、勃起した下肢があらわになる。
そこへ何の躊躇もなく顔を伏せる圭吾がちらりと視界の端に見えた。ついで、勃起しているそれが熱い口腔の粘膜に包まれる感触。
その瞬間、電気を受けたように腰が跳ねた。
「……っ! なんっ……んッぁ」
「……可愛い声で鳴けよ……?」
「なに、言って……んっんっ……はぁ!」
DomがSubにフェラチオをしている。
恋人同士やパートナーならともかくも、そんな話はいままで聞いたことがない。Domは圧倒的な力でSubを従わせ、屈服させるはずなのだ。だが圭吾は、佑に奉仕にも似た行為をしている。頭を垂れている。
(信じらんねぇ……ッ。こいつDomのくせして……俺のを、口に……!)
この性格が災いして、性的な体験が佑は少なかった。ノーマルの女性と一、二度経験があるだけだ。しかもそれは共に失敗していた。つまりは童貞だ。
そんな佑にこの刺激は強すぎた。ヌルヌルと口腔内でしゃぶられただけで、あっという間に上り詰めてしまう。
「アッ……は、止めっ、んんっン……はぁ……ァ」
「……っ気持ちいの間違い、だろ?」
顔を上げた圭吾が笑う。今度は指で扱き上げられる。佑は耐えた。枕元のシーツを握り、下肢を震わせながら足を突っ張らせる。けれど大きな波はすぐにやってきた。
「ッ……ぃ、ぁっん……ンう、イク……イクッ──!」
絶頂はあっけないほど早く訪れた。腰がビクビクと震えて、大量の白濁を圭吾の手に、自身の下腹にぶちまける。息が上がっていた。目の目がちかちかする。
ゆるっとシーツを握り締めていた指先から力を抜くと、そこに圭吾の乾いた手が重なってきた。そっと指先を絡められて、額へとキスされる。
「Good(よくできたな)」
落ち着いた声で宥めるように髪まで梳かれて、佑はほう……と目を閉じかける。放出の余韻と体力の消耗で精魂尽き果てていた。命令を無事に達成できたという達成感がそれに拍車をかける。
しかしそれも、下肢を拭われ圭吾がベッドの隣に入ってきた時までだった。さも当然のように布団を捲り、佑の横に身を横たえようとする圭吾に佑は叫んだ。といっても掠れ声で弱弱しいものだったが。
「なっんで……一緒に……!」
思わず布団を捲って逃げようと足掻く佑を片腕でいともたやすく制して圭吾がしれっと返す。
「一つ目にここは俺の部屋だから。二つ目に今は午前2時過ぎで俺も眠いから、だな。……おい、暴れるな」
それでも何とかのバレようと力の入らぬ腕で抵抗する佑を、圭吾が苦笑しつつ胸に抱き込む。大柄な身体で押さえつけられて、佑は顔を真っ赤にして抵抗してみるも、今は全然力が入らなかった。ベッドへと四肢を押さえつけられて、その上に乗り上げられる。耳元に圭吾のため息が浅く聞こえて佑はびくりと身体を固くした。
「……キスするぞ」
「え!?」
「あんまり抵抗するんなら、またキスするぞ」
その途端佑の口の中にじゅわっと唾液が溢れた。股間も熱くなり、全身が火照る。先ほどのキスを思い出し、身体が勝手に反応していた。
「──……っ!」
こんなの俺じゃねぇ。
佑はそう叫びたかった。すぐ上にいる男に殴りかかりたかった。だが、叫びたかったが、声は出ず、握った拳には全く力が入らなかった。うずうずと身体が疼く。喉はカラカラだ。
どうしてそんな言葉が出たのかわからない。Domの男の香りに包まれて、頭がパニックになったとしか思えなかった。低く、佑は言った。
「なら……キスしてみせろよ」
「ん……?」
「もう一度……してみろって言ってんだよ」
「はは。Domに命令するSubなんて聞いたことがないぞ」
男は意外そうに、けれど激するでもなくどこか楽しそうに目を細めると更に佑へ伸し掛かってきた。ベッドがギシリと軋む。圧倒的な存在感で男が佑を戒める。
「誘ったのはお前だからな……?」
黒い瞳が佑を捉えて離さない。
近づいてくる瞳をこれ以上見ないようにと、佑は目を閉じその唇を迎え入れた。
そこまでの記憶しか佑にはない。
1-5
翌朝。
広いベッドの上で一人、佑は目覚めた。今までにない爽快な気分での目覚めだった。体が軽い。眩暈も耳鳴りも、どんよりと雲がかかったような思考もない。
ぐるりと部屋を見渡すと、キングサイズはあろうかと思われるベッドが中央にあるだけの簡素な部屋であることが分かった。シーツは白、壁も白、高い天井も白。床は防音のためか薄墨色のカーペットが敷かれていた。
ぽけっと佑はそれらを眺めた。
生まれ変わったような気分だった。今までの自分は薄い殻の中にいて、それが割られ、剥がされて漸く生身の自分が出てきた……そんなイメージだった。
薄いカーテンから覗く、日の光が白く眩しい──
「って、え? 何時、今! 俺仕事……!!」
急ぎ立ち上がると、シーツに足が絡んで盛大にベッド脇に落ちてしまった。ドスンというその音を聞きつけたのだろう、すぐにベッド脇の扉が開いた。
「どうした!?……って、何をやっているんだ?」
圭吾だ。白いYシャツにグレーのスラックス姿の男がなんとも呆れたような声で問うてくる。それもしょうがない、佑は元凶となったふわふわの上掛け布団と一緒にベッド下にずり落ちてしまっていた。溜息をついた圭吾が苦笑しながら手を差し伸べてくる。一瞬その腕に手を伸ばしかけて、結局はその手を振り払い佑はどうにか自分で起き上がった。
立ってみて改めて体調の良さがわかる。いつも頭の隅にこびりついているような、Domへの嫌悪感もすっかり拭い去られている。言い表しようのない晴れやかな気分だった。
そっと自分の両手を握っては開いてみる。びりびりと快感に似た何かが体中を電気のように走っていた。
「ふむ。立てるならもう大丈夫だろうな……リビングに来ないか? 話がある」
圭吾に声をかけられてはっと振り仰ぐ。圭吾は壁に凭れると、首をやや傾げて観察者の目で佑を見詰めていた。深い色の瞳だ。中まで見通されるような──。
(そうだった、俺は昨夜こいつと……!)
あられもない記憶がよみがえる。
瞬間にざわりと皮膚が粟立つのが分かったが、それが嫌悪でないことに佑は驚いた。身体が喜んでいる。昨夜の行為は、記憶は、お前に正しい事だったのだと全身が叫んでいた。
佑は羞恥で赤くなりそうになる顔を逸らして、圭吾へ威嚇のような声を上げる。
「俺、は……っ! お前に話なんて……ない。それより、仕事に行かねぇと……」
「仕事は休みだ。会社にはそう伝えてある」
「なんっで、そんな勝手なこと! しかもなんであんたが……」
「お前がSubだと伝えたからな」
「っ!?」
今度こそ痛みのような怒りで全身が粟立った。
佑は職場に自分がSubだと明かしていなかった。もともと運が良かったことに職場にはDomがいなかった。Subはいたが暗黙の了解でお互い黙ってもいた。佑にとって(横暴な)Domがいない職場であることがどんなにか救いだったか。……Subであることを意識しないでいられた唯一の場所が社内だったのに。
「お前っ!!」
今にも圭吾へ殴りかかろうとしたその時だった。
「明かさないと、お前を俺が連れて帰れなかったからな」
「どういう……意味だ」
圭吾が壁から離れて、佑の目の前まで歩いてきた。佑は握った拳を下ろせないまま、圭吾を見上げた。幾ら睨みつけても圭吾は涼しい顔だ。どこかこの状況を面白がっているようでもある。
「そのままの意味だ。お前がトイレで倒れて、俺が助けた。どうしたとお前の会社の人間が聞いてきたから、そのままSubの発作だと伝えた。それで俺もDomだと明かしたところ、俺がお前を連れ帰るのを理解してもらえた」
「そんな……」
絶望的な展開だった。これで会社の人間に自分がSubだと知れた。しかも発作が起きて、Domに連れ帰られたなんて……そこまで知られれば、後は誰にでも自ずと展開が想像できるだろう。Subの不調は薬でも抑えられるが、Domとプレイをすることが一番の薬になる。
(俺がこいつとシたことを、社内の人間に知られた……!)
それは佑にとって、セックスを見られること以上に恥ずかしいことだった。誤魔化せるものなら今すぐになんでもする。土下座でもなんでも。
「なんだ。Subだと会社の人間に伝えてなかったのか? 別に恥ずかしい事じゃないだろう」
「……っ!! あんたにとってはそうだろうな! けど、俺にとっては……っ!」
「プレイは恥ずかしいことじゃない。皆している。いや……君はそもそも、Subであることが恥ずかしいのか?」
「──うるっせぇな!!」
図星だった。
従属し、頼り、躾けられ甘やかされる性。
それが、心底気に食わない。目の前のDomへの怒りを超えて、自分自身への怒りを羞恥を指摘されて、とうとう佑は殴りかかった。
「おっと」
しかし、振り上げたその拳は圭吾には届かなかった。腕を取り捩じ上げられて、床に押さえつけられる。あっという間に佑の視点が反転した。
そんな目にあったのは初めてだった。無様に床に転がされて天井を見ている。しかも、そこから動けない。圭吾が軽く腕を捻っただけで、上から体重を少しかけられただけで、指先一つも動かせなかった。
「くそっ!! 放せよ!」
「嫌だね。君がもう暴力を振るわないと言うなら退くが……」
「殴らねぇと気がすまねぇ!」
「だろうな……君の心臓が、怒りで大きく鳴ってるのを感じるよ」
圭吾が嘆息する。
「君が落ち着くまでこうしていよう」
「……コマンドを、使えば良いじゃねえか」
「無理強いはしたくない」
唸る佑を片腕と身体とで押さえつけながら、圭吾がさも当然のように言った。
圭吾の落ち着いた心臓の音が衣服越しに佑にも伝わってきた。力強く脈打つ心臓。微動だにしない身体。落ち着いたDomらしい、王者の風格さえある男が、自分を言葉ではなく力で押さえつけている。
もっと怒りが継続しても良い筈だった。けれど衣服越しでもわかる圭吾の熱い体温と心音を暫く感じていると、急激に怒りと……羞恥とが冷えていくのが分かった。
羞恥。
そう、佑のDomへの怒りの根底は、Subである自分への劣等感にあった。
何故俺が頼らなければならない? 何故俺が圧せられなければならない? 何故俺が……支配される側なんだ。
悔しい。悔しい。悔しい。
そして、屈服しなければならない己が猛烈に恥ずかしい。そんな性を持って生まれたことが恥ずかしい。極端な自己否定。自己羞恥。自分がSubであることを、誰にも……知られたくない。根底にあるのはそんな気持ちだった。
(結局……弱いものとしてSubを見下し偏見を持っているんだ俺は。世の中がどう動こうと、どんなにSubを受け入れようと関係ない。俺を今まで蔑んできたDomどもと、俺は同じだ……!)
歯噛みして佑は天井を睨みつけた。圭吾への怒りなどとうに消え失せていた。
「退け」
「ん?」
「……落ち着いたから、退けってんだよ」
低く言う佑の顔を覗き込んで、圭吾は身体の上からゆっくりと退いた。
差し出された手を今度は拒まなかった。力強い腕に自身の腕を絡めて引き上げられる。
「……話が、あるんだろ?」
「ああ」
「聞くよ」
急に大人しくなった佑を圭吾はいぶかし気に暫く見つめていたが、「ならこっちだ」と佑をリビングへと連れて行った。
1-6
誘われた広いリビングにも、過剰な装飾はなかった。人の生活の匂いはかろうじてするが、何物もシンプルで無駄なものがない。趣味をうかがわせる本も、絵も、勿論脱ぎ捨てたスーツなんてものも何もなかった。ただ、寝室と同じく壁も高い天井も白い。床は大理石で、白っぽいそれのせいもあって、白亜の城を思い起こさせた。
ぽつんと置かれた硝子のリビングテーブルに腰かけて待っていると、圭吾は対面式のキッチンからマグに入れた珈琲を持って戻ってきた。
「どうぞ。熱いから気を付けて」
「……サンキュ」
優しい声だった。しかしそれ以上話が進まない。二人して暫く静かに向かい合って珈琲をすする。
佑はそこでようやく気付く。あの甘いバニラの香りが今日はしない。いや、微かに香る程度にはするが、それは部屋の天井に吊るされたファンによって霧散する程度の香りだ。
「あんた……初めから俺がSubだって分かっててやったな?」
思わず佑は身を乗り出した。圭吾はその言葉にカップを置くと口端を軽く引き上げた。
「やった、とは?」
「Domの気配、必要以上に強く出してただろ」
立ち上がり詰問する。対する圭吾は余裕の笑みで、首を傾げて足を組み佑を見上げた。
「君こそ、Subの気配が強く滲んでた」
「……っ知らねぇよ、そんなこと。ただ、昨日はちょっと……具合が悪くて」
「それは最初知らなかった。ただ今もほら、君が感情を露わにするとムスクのような香りがする。宴会の席に着いた途端、強く君の匂いがした。君がSubだって、しかも飢えたSubだってすぐにわかったよ。だから、誘われているのかと思った」
「そんな……!」
馬鹿な……とは言えなかった。偶にDomから声をかけられるのは自分のせいなのは分かっていた。風俗で指名したDomにも似たようなことを言われていたし、突っかかってくるDomにも度々匂いのことは言われていたからだ。
しかし、それでは自分は据え膳として圭吾の前に現れて、圭吾はそれに真摯に応えていただけだということになる。暴力や乱暴な言葉ではなく、気配で応えていただけだと。
「だから、中座した君を追っていったんだ。そうしたら、君は個室の中で倒れていて……いや、流石にリフォーム屋の皆さんだ。簡単な工具ですぐに扉を外して君を救いだしてくれたぞ」
軽やかに笑う圭吾の正面で、力なく佑は椅子へと腰かけた。つまりは、そういうことだ。佑が求愛し(実は具合が悪かっただけだが)、圭吾が応え、しかも具合が悪いと分かると圭吾は佑を介抱までしてくれた。……前後のあれこれは置いておいてもだ、佑にとって恩人であることには変わりなかった。
「……すまん」
「ん?」
「俺の、勘違いだった。あんたは、俺の知ってる腐ったDom達とは違った。だから、スマン。それと、昨日は助けてくれて……サンキュ」
「ありがとう」とは恥ずかしくて正面切って言えなかった。そんな佑を見ながら圭吾は腕を前に出してテーブルの上で両手を組む。「それは全然良いんだが……」と、眉をやや寄せた顔は困惑しているように見えた。
「しかし君は……アレだな。いつもあんなになるまで我慢しているのか? その、倒れるほど?」
「いや……アレは発作なんだ。阿呆なDomに思い知らせてやった後に、必ず来るぶり返し。普段は抑制剤で治まるんだけど、昨日はあんたの気に当てられた。だから発作がひどくなったんだ。あんたが薬を飲ませてくれたおかげで……──プレイをしてくれたおかげで、多分、発作が治まったんだと思う」
阿呆なDomという言葉に圭吾がピクリと反応したのを無視して、佑は話した。本当のことだ、嘘は言ってない。そろりと圭吾を見ると、圭吾は口端を曲げて低い声で確認してきた。
「つまり……君は普段、その濃い匂いでDomに相当絡まれてるのか?」
「……まぁ、な」
「それを暴力で解決している?」
「そうだけど……」
「これからもそうするつもりか?」
「それは……あいつら次第だな」
はぁっと深い溜息を圭吾が漏らした。
「君のDom嫌いが分かったような気がするよ」
「うるせーな。絡んでくるやつが悪いんだよ」
「だがこれからも続けていくっていうのは、危険すぎだ。実際今日、君は私に勝てなかった。暴力沙汰だって、表に出れば会社も辞めざるをえないかもしれない」
「うっ……」
理路整然と説かれれば、返す言葉はなかった。佑だって、自分の中の凶暴性が嫌になることだってある。我を忘れて暴力に身を任せるのは愉快だし爽快だ。だが、終わった後の何とも言えない味の悪さ。相手が悪いと分かってはいても、それに拳でしか返せない己のことが──佑は好きではなかった。
だが仕方ないのだ。現状を打破するには、己の身は己で守るしかない。
それが分かっているからだろう。圭吾も暫く黙っていた。そして、口を開いたかと思えばこんなことを言った。
「私が君を躾てみようか?」
「は?」
それが二人の始まりだった。
2-1
「それで……その、躾? られることになったんだ?」
立ち飲みの、露天居酒屋のにぎやかな端っこの席で愁が顔を真っ赤にして佑へ聞いた。顔が赤いのは何も酒のせいだけではないらしかった。「躾」と小さい声で繰り返す。
佑は背の高いひょろりとした友人を見上げて「誰が」と眉を寄せた。焼酎の水割りをグイっと喉奥に流し込む。
二人の背後では冬の気配が濃厚で、風が吹きすさんでいた。けれど酒と屋根から下がる風よけのビニールシートのおかげで、寒さを感じることはない。あと二週間ほどでクリスマス。皆が笑い、年末の雰囲気に酔っていた。陽気な笑い声があちこちで上がる。
「勿論断ってやったぜ。なーにが躾けるだ。……あいつの、Domのオモチャになるのはごめんだ」
「え、でも……そのDomの人には助けてもらったんだろ?」
「……まぁ、な」
愁にはフェラチオをされたりキスをした経緯をぼかして話してあった。単にコマンドを使われて体調が安定したということだけをかいつまんで……要は脚色していた。
あの出来事からもう十日以上になる。
「躾」を提案された時、佑は一瞬ぽかんとしてしまった。そしてそれから、猛烈な怒りがわいてきた。いつもの、Domに対する怒りだ。ずきずきと頭の芯が痛み、結局こいつもかといった反発が頭を擡げる。
立ち上がりぶらっと拳を下げて、揺れる視界に耐え、佑は顔を上げた。
「……世話になった。その礼は言う。けど……その提案には乗れねぇ」
「へえ。どうしてだい……?」
対する圭吾は面白そうに口端に微かな笑みさえも浮かべている。「良い提案だと思うんだけどな」と付け加えられてぐっと奥歯を噛み締める。
「俺は気に入らないDomには従いたくねぇんだよ」
「そうなのかい? けど君は昨日、あんなに可愛く私のコマンドに応えてくれて……」
「あれは……! 薬が切れてたせいだ。あんな酷い発作、別にあんたでなくとも……多分、ああなった筈だ」
反論する声がどことなく歯切れ悪くなってしまうのは仕方なかった。確かに佑はこの男の手で、唇で……感じていたのだから。生まれて初めて従属の快感、性的な快楽、そして信じられない程の今朝の爽快感。それらは紛れもない事実だった。
しかも、この男からは今はDomの香りが薄い。何となく肩透かしをくらってしまうのだ。怒りを継続させることが妙に難しい。
「とにかく、一度考えてみてくれ。……君のためだ」
テーブルの上に、名刺が置かれた。名前とアドレスだけのシンプルなものだ。プライベート用だろう。目の前で破って捨てるわけにもいかず、佑はそれを睨みつけた。圭吾はそんな佑を前ににこりと微笑むと手に鞄を持ち立ち上がった。
「それじゃ、私は仕事に行ってくる。君は好きなだけここで休むと良い。冷蔵庫やシャワーもご自由に。帰るときも扉はオートロックだ、気兼ねせずにな」
「……すぐに帰る」
「まあ、それも良いだろう。兎に角、気を付けて」
さりげない動作だった。圭吾は身を乗り出し、佑の頬をひと撫でして指を離す。反論も何も返す隙はなかった。ただ驚いて立ち尽くす佑を後に、男は部屋を出ていった。触れられた頬は熱く、混乱しながら暫く佑はそこへ立ち続けた。
そこまでを思い出し、はは、と乾いた笑いをする佑に対して愁は眉を寄せた。そして弱気な愁には珍しく、迷いつつもぽつりと返してくる。
「……その提案……受けた方が良いんじゃないかな」
「ええ? 冗談だろ……」
手をひらひらと降って誤魔化すように笑う佑に、愁は食い下がる。
「だって、その……コマンドが聞けたんだろ? 僕以外のDomのコマンド、聞けた試しがないよね? 佑」
「それは、そうだけど……」
「もう暴力はしたくないって……そうも言ってたよね?」
ぐっと言葉に詰まる。
「良い機会じゃないかな……。佑がDomを嫌う理由は知ってるよ? 嫌な目に合ってるのを僕も見てきたし。けど、助けてくれたその人には心を開いてみても良いんじゃないかな。コマンド、嫌じゃなかったんでしょ?」
ぐぐっと迫ってくる愁に、佑は返事を返すことができない。うっすらとジャスミンのような香りが愁からは漂っている。……この友人であるDomは普段極力その気配を消して側にいてくれる。勿論それは佑への配慮だ。だから珍しく、Domのオーラを発して喋る愁に佑は僅かだが混乱していた。
「愁……?」
酔っているわけではなさそうだ。何となく身を反らして友人の名を呼ぶと、一瞬困ったように愁が佑を見下ろした。それから、ゆっくりと目を逸らして、視線を戻した時には佑の方を照れが滲んだ目線で見る。
「あの、さ。僕……パートナーができたんだ」
「え」
瞬間、佑の背筋は凍り付いた。聞き間違いかと、うすら笑いで聞き返す。
「……恋人ってこと、か?」
「うん……」
しっかりと愁は頷いた。その頬がやはり赤い。対照的に佑の顔からは血の気がどんどん引いていく。自分のことどころではない。愁に恋人? 浮いた話一つ聞いたことのなかった愁に!?
なにかがカタカタと鳴っている。気づけば手が震えて、持っていたグラスの底がカウンターにぶつかっていた。はっとして、佑はグラスを置いたが、愁はそんな佑にも気づかず喋り始めた。
「はは、急に思えるだろうけどさ。……長く片思いしてた相手がいたんだ実は。年末も近いし……今年こそはって思い切って告白したら、思いがけずOKだったんだ。恋人兼パートナーでよろしくお願いしますってなって。……自分でも信じられないよ、こんな僕にパートナーができたなんて……」
頬が紅潮し、照れを滲ませてどこか夢見るように喋る愁に、佑は自分の変化を悟られまいと、顔を上げ必死で笑顔を作った。
「へえ。そりゃめでたいな。パートナーってことは……相手は……Sub、なんだよな? 男? 女?」
最後は恐る恐る聞く形になってしまった。これで男だと言われたら……。嫌な予感は的中した。愁は頬を掻きながら小さな声で答えた。
「うん、Subの……可愛い男の子だよ。人懐っこい猫みたいなんだ、三つ年下」
「へ、へぇ……」
ショックだった。女だと言われた方がどんなにか良かったか。男だなんて……。
(じゃあ、なんで俺じゃ駄目だったんだ……?)
自然と浮かんできたその言葉に、じわりと胸が痛む。ずきずきと頭痛がして、体調が悪いわけでもないのに腹の底がずんと重くなった。
それから後の話は、ほとんど耳に入らなかった。ただ愁はしきりに圭吾の躾を勧め、「僕にはもう佑を助けられないから」と、パートナー以外にコマンドを使うことはできないと言った。別にDomとSubの間にそんなルールは存在しない。ただ愁は、恋人以外にもうコマンドを使うことはないと決めているようだった。
気づけば一人、自宅のマンションの部屋前に立っていた。そこではっと、愁にちゃんとしたお祝いの言葉を言ってなかった、と気づく。急いでスマホを開き、「良かったな! おめでとう!」と連絡する。すぐに返事が返ってきて、「ありがとう、佑に一番に伝えられて嬉しいよ」と文面にはあった。
「……嬉しい、か」
スマホを握り締めて、佑はその場にしゃがみ込んだ。ごつっと固い扉に額を当てる。
ずっと、愁が好きだった。
気づいたのは高校生一年の夏だった。街で絡んできたDomを例のごとく佑がボロボロになるまで殴っていた場に愁が遭遇した。そこで初めて愁が「Stay」のコマンドを口にし、佑は勢いその場にへたり込んでしまった。暴行はそこで止んだ。
愁は佑の話を聞き、そこで「僕が佑の最後の砦になるよ」と微笑んだ。そして確かに、佑の体は愁のコマンドだけは受け入れることができた。そこには信頼があるからだと、佑は思った。感動した。親友への信頼という感情が自分の中にあることに驚いてもいた。
それがいつしか恋情に代わったのはいつだろうか。高校生活も終わりに近づき、進路が決定的に離れたと確定した時だったかもしれない。
(俺は……愁が好きだ)
自分の想いに気づいても、強情でプライドが高い佑にはそれを声に出すことができなかった。
二人の仲は親密で、もしかしたらあの頃愁は自分を好きだったかもしれないという思いが今の佑にはある。……当時も、それを肌で感じてはいた。愁の、自分へ注がれる熱い視線。差し伸べられる優しさに、唯一自分を従わせる事ができるコマンド。
しかし万が一にも……親友という立場が壊れることが怖かった。
そして、進学に伴い上京した愁は、大学を卒業すると地元へと帰ってきた。また密な交流が再開された。けれどその愁の目に、前の情熱はもうなかった。
それからもう四年……。
「はは、ざまぁねぇよな」
固執し、諦めきれずに愁をずっと想っていた。想っていただけだった。何も、しなかった。それがこの結果だ。
失恋した。大失恋だ。
けれどそれを相談できる、愚痴る相手さえ自分にはいない。自分には愁だけだった。
寒風が、羽織っていたコートを翻し地面を擦る。埃にまみれたコートの裾を見て、まるで自分みたいだと佑は自嘲した。
2-2
失恋しても朝は来る。当たり前だが。
少し腫れぼったい目をした自分を鏡の中に見る。別に泣いたわけじゃないのに……。
昨夜は流石の佑もあまり寝られなかった。寝転んではみたものの、瞼の裏に思い起こされるのは愁の笑い顔や照れたような眼差しだけだ。情けない……。
そんな自分にかつを入れたくて深夜に筋トレをしてみたりもした。寝返りも打った。布団を蹴って毛布だけにくるまってもみた。眠気は全然やってこなかった。重い、胸の苦しみだけが強くなるばかりだった。
朝になり、佑はそんな自分に憮然として歯磨きをし、髭をあたって鏡の前から離れた。
朝食は大事だ。
何があっても、佑は必ず食べるようにしている。自分の元気の源だと思っていた。
今日は簡単に、スーパーで買ったカット野菜のサラダに作り置きのゆで卵二個、トースト二枚をインスタントコーヒーで黙々と食べる。いつもならスマホでニュースやSNSを覗きながらのながら食べだったが、今日はそういう気分になれなかった。
──気が重いのには他にも理由があった。
「よう。おじょーちゃんは、今日は元気か?」
「……っす」
出社すると、いきなり背後から肩を叩かれた。振り返るまでもない。同僚の五十がらみの男が何事も無かったようにすれ違い追い抜いていく。
あの日からだ。いや正確には週末が明けて出社した日からだった。
今までは普通に「東雲」と名字で呼ばれていた。それが、一部の男性社員から「お嬢ちゃん」と佑にとっては屈辱的なあだ名で呼ばれるようになった。やはりあの日から一気に社内に佑がsubであることが知れ渡っていたのだった。言っている方に悪意はない。ただ単に、年下の同僚をからかっているだけだ。実はSubだった佑が珍しくてしょうがないのだ。
それが分かるだけに、反応がしづらかった。怒っていいのか、笑ってごまかせば良いのか……いや、怒って良い筈だった。DomやSubへの差別的な言動は法律でも禁止されている。若い者たちの間では、DomやSubを揶揄いの対象にするのが恥ずかしいという認識さえあった。
しかし、社内の安穏な雰囲気がそれを言い出しづらくさせていた。「悪気がないという悪意」がこんなにも厄介だとは佑は知らなかった。
(これが同調圧力ってやつなのかもな……)
ぼんやりと佑は考える。鬱々とした気分にさせるのはこれが原因だった。仲の良かった先輩や後輩が、途端に醜い獣に見える。人はなぜ少数派を囲い、攻め、揶揄しようとするのか。
ただ、有難いことにその呼び方をするのはほとんどが40代以上の男性社員だけだった。女性社員や若い社員は今まで通り接してくれる。
「あまり気にすんなよ……」
ロッカールームに入ると、今度は年配の先輩社員、仕事上のパートナーの加藤が声をかけてきた。
「はは……どうもっす」
佑は頭を下げる。一緒に行動する彼がSubに偏見がないらしいのも有難かった。
「娘がな、Subなんだよ」
苦笑いするようにぼそっと加藤が言った。はっとして佑は隣を見た。胡麻塩頭の加藤は目線は下げたまま着替えつつ、ぼそぼそと喋る。佑も隣で着替えながら、何でもない風にして話を聞いた。
「もう良い年頃で一人娘なんだよ……来年は就職だ。親としちゃ、今まで以上に社会に出すのが心配でね。お前さんが揶揄われてるのを見ると、娘を見てるようでな……。無理はするなよ」
バタンとロッカーの扉が閉められる。それっきりだった。加藤は振り返ると、いつものカラッとした笑顔で佑を見た。
「さあ、今日も外回りだ」
「はい!」
滲みそうになる涙を堪えて佑は加藤に続いてロッカールームを出た。
凍えるような寒さの日だった。日は薄曇りの空の向こう側にいて、風が冷たい。
あれからまた数日が経って日曜日の午後、佑は圭吾のマンションに戻ってきていた。名刺は破り圭吾の部屋のゴミ箱へ捨てていたから、記憶と地図アプリで辿り着いた。
マンションは完全なオートロックだったから、下の入り口でインターホンを押さなければ相手と会えない。
何度も帰ろうとして、いや待てと己を律してまた入口へと戻る。
その度に監視カメラが気にかかる。
このままでは通報されるぞと意を決したのは、何度目か扉の前へと立ってたっぷりと5分は迷ってからだった。震える指で部屋番号を押す。
「はい」
「……俺、東雲だけど……」
「──待ってたよ。入りなさい」
声に揶揄が少しでも入っていたら、佑は逃げ出していただろう。だが、圭吾の声はあくまで真摯で優しく、どこか嬉しがっている様子だった。ほっと胸をなでおろして、けれど眉間の皴を濃くしてから佑は自動ドアを潜りエレベーターで部屋へと向かう。どんな顔をして再会すればよいのか佑にはわからなかった。
分からなかったから自然と怒ったような顔つきになった。
部屋では玄関の扉を開けて、圭吾が微笑んで待っていた。佑は見上げて口を曲げた。圭吾は腕を広げて佑を玄関先でそっと抱き寄せた。
「おかえり」
「……なんで、おかえりなんだよ」
佑は何となくそうされるだろうなと予想していたので、抵抗はしなかった。抵抗しなかったが、指一本動かさずにじっと全身で圭吾を観察していた。
「ここしかないと思ったから?」
耳元で優しい声が揺れている。バニラの濃厚な香りが圭吾から漂ってきた。佑は乾いた笑いで返した。
「はは、えらい自信家だな」
「そう? けど君は戻ってきてくれた」
「……まぁな」
「さあ、部屋にどうぞ」
「……邪魔しまっす」
腕を解かれて身体が自由になる。だが視線が、圭吾の視線が自分に注がれているのが分かる。全身を舐めるように見つめている。それは不快ではなく、妙な高揚感を佑にもたらした。
(どうかしてる……こいつも俺も)
そう心で呟いて、手を繋がれ導かれるままあの何もない白いリビングへ佑は圭吾へと付いていった。
2-3
最初はDomの強い気に当てられた。
次に顔を合わせた時は……あんなことをされたせいで……部屋も暗かったし、実際よくわからないまま意識が飛んだ。
翌朝はまず躾けるという話に怒りを感じたし、どちらかというと部屋の方に強い印象が残っていたからまた思い出せずに……。
何を言いたいかというと、圭吾の顔を、姿かたちをしっかりと認識したのは今回が初めてだということだ。
「また珈琲で良いかな?」
振り返る姿は背筋がきちんと伸びていて、改めて見る圭吾は清々しいまでの色男ぶりだった。
休みだからだろうか、宴席では綺麗に撫でつけられていた黒髪は今日はラフに下ろされている。その下の強い意志を感じさせる太い目の眉がキリリと上がっていた。目許には左目に泣き黒子がポツンとあって、二重のくっきりした瞳にそこはかとない色気を感じさせる。真っすぐな鼻梁にやや大きめの薄い唇が今は微笑みを浮かべていた。
「あ、ああ。サンキュ」
「いえいえ? 貰い物の菓子があるんだがあるんだ……これもどうぞ」
「ん。どーも」
「なんだ。言葉少なだな、今日は」
笑い方は上品に口の端を上げるだけだ。差し出されたのは白い小皿に盛られた色とりどりの小さな焼き菓子で、佑は思わず手を伸ばす。
何かスポーツでもしているのだろうか、近づかれると白いシャツの上からでもその胸板の厚みがしっかりと分かった。手足が長く、腰の位置も高い。皿を差し出した手は爪先まで綺麗で大きかった。
男らしい、と言って良い姿だった。にも関わらず、纏う空気や物腰は柔らかだ。
そこにギャップがあって、わずかな隙があり……圭吾をより魅力的な男に見せていた。
ほんのり、バニラの香りが部屋中に広がっている。その匂いは圭吾がリラックスしていることを物語っていた。
「……で? 私はお眼鏡にかなったかな?」
ふいに、目の前へ手を差し伸べられる。とっくに珈琲をセッティングし終えた圭吾がすぐ側に立っていた。佑に向けられた掌はやや丸くカーブを描いて指がわずかに曲げられている。佑が首を差し出せば頬のラインに添うだろう形だった。
「……どういう意味だよ」
意図は分かったものの、思わず佑は身を引いていた。あの大きな手に自分から顎を乗せたら最後、この男の言いなりに自分はなってしまうだろうと何となく予感がした。だから返事はどうしてもそっけなくなる。これ以上側に近寄ってはいけないと本能が告げていた……恐怖に近かったかもしれない。
「さっきから君は熱心に私のことを見ていた。観察していたんだろう?」
「別に……」
微かだが、圭吾が眉を寄せた。
「その態度はいけないな。これから私たちは一時とはいえ、パートナーになるんだ。質問にはちゃんと答えて? Say(言って)」
突然コマンドを使われて、佑の背中に電流が走る。ぐぐっと唇をかんだところで、抵抗は無意味だと悟る。気持ちがまだ追いつかないだけで、いつもの嫌悪感がやはりない。優しい声が、抵抗する気力を奪うようだった。
それでも答える唇は震えていた。
「……見て、たよ。確かにあんたを観察してた。嫌味なくらいいい男だ」
ふっと圭吾が柔らかく微笑んだ。佑はその瞳に吸い寄せられるように見入った。深い、濃い茶色の瞳が印象的だった。
「良く言えたな、Good(良い子だ)。Come(おいで)」
気づけば、圭吾の掌に頬を摺り寄せていた。頬に柔らかく触れる手は大きく、温かく、そして乾いていた。すりっと顎先を動かして、堪能する。これはご褒美だ。きちんと圭吾の問いに応えられたことへのご褒美。
……ご褒美と思える自分の思考にぞっとしながらも、その行為を止めることができない。
頭では分かっているのに、身体が先に動いてしまう。そして与えられるご褒美は、些細な撫でる行為一つでさえも、中毒性を持って佑を縛り付けるのだ。
ひとしきり頬や顎先を撫でると、圭吾の指はそっと佑の唇へと触れてきた。下唇の表面をなぞり、上唇の縁をなぞる。その隙間に親指を差し込まれ、歯列を撫でられて漸く、はっと佑は身を引いた。これはコマンドじゃない。そこまで許すわけにはいかなかった。
「……止めろよ、こういうの」
「こういうの、とは?」
愉快気に圭吾が正面へと座る。その姿も、所作一つ一つが優美だ。
「こういう……意味もなく、触る行為だよ」
「意味はあるよ。君を触って、撫でて、私に……Domに慣れさせる」
「……俺を手懐けようって?」
「言い様だな。君にとっては悪い話じゃない……君の暴力行為は過剰防衛だ。だから、まずは私に……Domに慣れさせる。Domは怖いものじゃないって、君の体に分からせる。佑もそれを望んでいるから、今日ここに来たんだろ」
笑って、圭吾が珈琲を手に取った。佑は言葉に詰まったが、一瞬ふと気になったことを聞き返す。
「分かったよ。でもそれで? 俺には利があるとして、あんたの目的はなんだ? 俺なんて扱いづらいSubを捕まえなくても……あんたなら引く手数多だろ」
すると、圭吾は一瞬眉を寄せて珍しく困ったような顔を見せた。ついで微笑し、さも当然というように首を傾げる。
「君に一目惚れなんだ」
「はぁ!?」
予想外の理由に佑は思わず声を上げた。疑わしさが籠った眼差しを圭吾に向けると、圭吾は笑って腕を組む。
「本当だ。君にStayを使ったときに、私には君しかいないと思った」
「あんた……ゲイ?」
「そうだな、ゲイでDomで、Subの君に求婚してる」
「俺は……少なくとも、ゲイじゃない。あんたの求愛に応えることは出来ない」
圭吾の手によってイカされておいてよく言うと自分でも思ったが、本当なのできっちりと反論しておく。
「そうか、なら契約にはアナルは使わないよう明記しよう」
「アナル!? 契約?」
圭吾は立ち上がり、キッチンの奥の部屋に消えると紙とペンを手に帰ってきた。サラサラと「契約書」と紙の中央上に書き込むと、にっこりと笑って佑を見据えた。
「この世の中の大半は契約で成り立っている。私と君のことも書面ではっきりさせておかないと」
「……変な奴だな……」
「はは、よく言われるよ」
それから圭吾は二つ三つ、佑に質問をすると、手書きで契約書を作成した。内容は簡易で分かりやすく、佑も同意した。圭吾が右下に流麗な字でサインをする。その下に、なんだか緊張しながら佑も自身の名前を書いた。
「それじゃ、これからよろしく」
「んっ!?」
テーブル越しにぐっと頭を引き寄せられてキスをされる。足元に、契約書と書かれた紙がひらりと落ちた。
『1 契約期間は十二月十七日~三月十六日までの3か月とする。
2 西沢圭吾(以下D)は東雲佑(以下S)とパートナーとして1の期間を過ごすこととする。
3 DはSに対してアナルを使った行為は行わない。
4 D(またはS)からの申し出にのみ、この契約は解消される。
5 この契約は自動更新される。
十二月十七日 西沢 圭吾
東雲 佑 』
2-4
(よく考えたらおかしいよな!?)
翌日になって、ようやく佑はそう思い至った。
トイレの改修工事で、新しい洋便器をトラックから下ろしている時だった。今日は午前中にこのトイレ改修を終わらせれば、午後はお得意様回りだ。「そっち、気をつけろよ」と、加藤が声をかけてくる。「っす」と答えながら商品を玄関先まで運ぶ。
仕事には細心の注意を払いながら、頭の中は昨日のことでいっぱいだった。
圭吾の要求や提案はストレートで何も迷いがない。だから引きずられてつい契約書にサインしてしまったが、本当にあれで良かったのかと今更ながら思う。
契約書はコピーされてお互いの手元に一部ずつある。
「詳細はまた後日にでも、話し合おう。そのあたりは柔軟にいければと思っている。とりあえず、パートナーとして親密に付き合っていこうな」
別れ際、圭吾はそう言って佑の頬を撫で送り出した。
(親密ってなんだ!? そもそもパートナーって何するんだ?)
この年までパートナーが一人もいなかった佑である。欲しいとも思わなかったし、パートナーなど得ずに独りで生きていくんだと思っていた。
仕事の休憩時間に、社用車の中でそっとスマホを開いて検索する。「Dom/Sub パートナー」「パートナーとは」「Dom しつけ」などと打ち込んだが、出てくるのは出会い系のサイトやマッチングアプリの広告ばかりだった。
違うんだよなぁ……と画像検索に切り替える。すると、一番上に小学校低学年向けと思われるイラストが出てきた。男女、男性同士、女性同士のペアが仲良く手を繋いでいるイラスト。タイトルには「さまざまな性(せい)のかたち(ドムとサブ)」とある。そして、イラストの下部には大きく、「おたがいのしんらいがだいじ」と書いてある。説明はたったそれだけだった。
なぜだか、胸が痛くなった。Doomを信頼する? この俺が? 今更?
冷えてしまった肉まんを頬張りながら、なおも検索を続けている時だった。ぽこん、という音とともにメッセージアプリが着信を知らせた。
「こんにちは。今日も冷えるね。良かったら、今夜また家に来ないか? 夕飯を一緒に食べよう。鍋を準備して待ってる 圭吾」
ビクッとして、思わずスマホを取り落としそうになった。
まさか契約の翌日に誘われるとは思ってもみなかった。
(はは。ままごとみたいなこれに、付き合えってか?)
冷めた目で文面を読み返す。「今日は無理……」そっけなく打ち返しかけて、昨日別れ際に頬に触れた指先や、契約後の突然のキスを思いだす。ままごとなら、もうすでに始まっている。契約にサインはしたし、本気かどうかは分からないが、圭吾は佑に一目惚れだという。
(確かに、これを逃すと後がもうねんだよな……)
自分から圭吾の家に足を向けたこともちくりと胸を刺す。決めたじゃないか、もう暴力はしない。普通のSubとして、まっとうな人生を送りたい。……心の底ではSubを見下し、Domを拳で殴りつけるような生活とはもう縁を切るんだって。
「いいよ。仕事終わったら……七時過ぎにはあんたの家に向かうよ 佑」
迷ったのち、休み時間ぎりぎりでその短い文面を打ち終わり送信した。
圭吾の家に着いたのは、約束より遅く八時前になった。仕事が終わり、遅くなる旨を電話で伝えても、圭吾は優しく、「待ってる」と電話の向こうで囁いただけだった。
圭吾の家の玄関で、佑は盛大に迎えられた。一応はと手土産に缶ビールを提げていた佑だったが、その腕ごと圭吾の広い胸に抱きしめられる。ふわりと優しい、だがやや長い抱擁は、仕事場から駆け足で来た佑の緊張をほっと和らげるには十分だった。
「おかえり」
「なんで、おかえりなんだよ」
「君の、もう一つの我が家だから?」
「はは、実家と思えってか」
昨日も似たようなやり取りをしたなと思いながら、片腕で軽く背を抱き返す。柔らかなセーターの下に男の確かな体を感じた。乏しい恋愛経験の中……女性を長らく好きだと思っていた。愁が自分にとってはイレギュラーで特別なんだと。けれど、圭吾に抱きしめられてもキスされても嫌悪感がないところをみると自分はバイなのかもしれないと、ぼんやり佑は考えた。勿論そんなこと目の前の男にはいまさら言えやしないけど。
鍋は鳥すきだった。程よく弾力のある地鶏が、やや甘めの出汁で白菜などの野菜とともにぐつぐつと煮えている。解いた卵に潜らせて食べれば、高級な牛肉に勝るとも劣らないうまさだった。
「うっまっ……これ、あんたが作ったのか?」
「いや、残念ながら料理は出来ないんだ。通いのハウスキーパーさんに火を通すまでは下ごしらえをやって貰ってた」
「はは、そうなんだ? 器用そうだから何でもできるんだ思ったよ」
「佑は、料理は?」
「独り暮らしだからな。簡単なものなら作れるぜ」
「それは凄いな。じゃあ今度、手料理をふるまってくれないか」
「人様に食わせるような飯じゃないぜ?」
「私が食べてみたいんだ」
「もの好きだな、あんたも」
佑はつい吹き出した。会話も弾んで酒も進んだ。圭吾は聞き上手で、要所要所でさりげなく佑を褒めてくれた。
圭吾の掌の上で転がされているという事は分かっている。だが、手放しで褒められて可愛がられることに佑は慣れていなかった。いつも自分から他人には距離を置いていたせいだ。だから、契約書という名目で可愛がられるのには安心した。安心して甘えることができたし、屈託なく笑うこともできた。
──何もない、白い部屋で二人。食べた鍋は確かに美味かった。
ビールもたらふく飲んで、そろそろ暇をしようかと佑が腰を上げかけた時だった。
何のはずみでか、佑の箸がテーブルの下に転がり落ちた。硝子のテーブルだから転がった箸が思いがけず圭吾の足元まで転がっていくのが見えた。
「ああ。私が……」
「いいよ、俺が取る」
佑は立ち上がりテーブルの下へ身体を潜らせた。腕を伸ばすだけでは届かずに、結局は椅子から降りて圭吾の傍へ寄って蹲り箸を手に取った。そこで、ふいにバニラの香りが強く匂った。佑が勢い見上げるのと、微笑んだ圭吾が足を組むのが一緒だった。
「佑、Kneel(お座り)」
「え」
ぺたんと、そのまま尻が落ちてしまった。足は斜め後ろに、崩すように跪いた。佑は訳が分からずに呆然とコマンドを聞いていた。酒のせいも、和やかな食事の雰囲気もあっただろう。それで、自然と体が動いてしまっていた。
圭吾が立ち上がる。
「Come(おいで)」
「っ!」
圭吾が一歩、奥の部屋へと足を踏み出す。見上げた佑の位置からは、圭吾の微笑む口元と顎先、胸板と太ももしか見えない。余りに大きく見えた。威圧的だった。けれどその口から零れる声は優しくて、脳が混乱する。
「どうした、Come(おいで)だ」
もう一度、今度は指先で顎下を撫でられて呼ばれた。バニラが……濃厚な香りが頭の芯を痺れさせる。そろりと佑は腰を上げた。体重を四肢に分けて、四つん這いになる。手首の付け根が、膝が、予想以上に痛かった。そのまま両手両足で歩き出すとぎくしゃくと身体がこわばって、不自然に体が揺れた。
「そう、ゆっくりで良い。ここまでおいで」
圭吾は寝室の隣の、奥の部屋の扉を開けて待っていた。膝がゴリゴリと擦れて痛い。シャツやスラックスは四つん這いには向いていない、あちこちが引き攣って動きづらいことこの上なかった。何とか屈辱的な姿勢のまま、圭吾の足元までたどり着いた。ほんの数メートル「四つ足」で歩いただけなのに、嫌な汗をかいていた。
「見て。ここが私と君のプレイルームだよ」
中を覗き込んで驚いた。広い一室のカーペットの上に、更にコルクが貼ってある。思わず四つん這いのまま部屋のうちまで歩むと、手首の痛みは変わらずも膝の痛みは随分と楽になった。
圭吾も部屋へと入ってきて、部屋にいくつも置かれた大型のクッションを背に胡坐をかいた。部屋には大小のクッション以外には何もない。
「どうだい? 急ごしらえにしては上等だろう?」
「はは、嬉しいって……顔すりゃいいのかよ」
「そうだね。佑、Come(ここまでおいで)」
指先で呼ばれることに若干の苛立ちを感じたが、佑は素直に圭吾へと近寄った。
「もっと、Come(おいで)」
「もっとって……」
今や鼻の先に圭吾の唇が触れるほどに近い。
「もっとだ」
「つっても、これ以上は」
視線を思わず避けると、「Come」と鋭く呼ばれた。
(ああ、そうか。こいつは……)
佑はのしっと、前足代わりの両腕でじゃれつく犬のように圭吾の胸を押し倒す。圭吾は満足げにその背を抱いてきた。
「Good(良い子だ)。そのまま……もっと」
「分かったよ!」
噛みつく勢いで、キスをする。柔らかな声を奪い、舌を絡めとって唾液をすする。
これは命令だから……と理性が言い訳をする。命令が嬉しい……と本能が歓喜する。佑の中はぐちゃぐちゃだった。
「良い子だ、佑は呑み込みが早い」
体の上下があっという間に入れ替えられた。クッションに背を埋めて、腕を差しだすと圭吾が上から覆い被さってくる。これは契約だ。俺はこいつに躾けられる。
「Open(口を開けて)」
「んっ……ふぁ」
長い口づけだった。そのまま数度上下を入れ替え抱きしめ合ってキスをして、結局、その日の夜は圭吾の家に佑は泊った。
2-5
佑の生活は激変した。
まず、仕事が早く上がれる日には、圭吾の家に直接「帰る」ようになった。夕食を一緒に食べそれぞれ風呂に入ると、プレイルームに籠って「躾」の開始だ。簡単なコマンドを繰り返し、佑の抵抗感がなくなるまで行う。それも深夜に及ぶようなことはなく、また佑がちょっとでも疲れを見せたらそこで終了という優しいものだった。夜は圭吾のベッドで圭吾の腕に抱かれて眠った。
そして、圭吾の部屋に寄れない日は──。
「おはよう、佑。体調はどう?」
圭吾からのモーニングコールで起こされる。
そのまま、電話をスピーカーモードに切り替えて、お互いに朝のルーティーンをこなしながらのおしゃべりだ。着替えや歯磨きはもとより、トイレの中にまでスマホを持ち込むように圭吾には言われていた。最後のは流石に丁重にお断りしたが、圭吾は未だ諦めていないようだった。
「はよ。体調は問題ない、おかげさまで絶好調だよ。あんたこそ忙しいんじゃないの? 身体、大丈夫?」
「はは、こちらも問題ない。君のおかげですごく調子が良いよ。今日はクリスマスだね。どんなに遅くなっても良いから、私の家に寄るんだよ? 一緒に過ごそう」
「……了解」
「Good(良い子だ)。さて佑。おはようのキスは?」
「それ、恥ずかしいって……」
「コミュニケーションだよ、佑。さあ、キスして?」
「……っ!」
キスをさせるコマンドなどない。というか、電話でキスも何もない。なのに、圭吾はキスを強請る。佑はたっぷりと一分近く迷ってから、スマホを口元に持ってくるとごく小さくチュッとリップ音だけを響かせた。恥ずかしさで死にそうだった。
「……Good(良い子だな)」
圭吾の方からも、リップ音が返ってくる。気恥ずかしさに真っ赤になりながら、スマホ相手に怒鳴るような早口で佑は返す。
「……っ、どんだけ甘いんだよあんた。今までの恋人にも……パートナーにもこうしてきたのか?」
「さあ、どうかな?」
圭吾は楽しそうだ。答えないのを狡いと思いながらも不快感はない。
それからまた他愛無いおしゃべりをして、出勤と同時に電話を切る。
夜も夜で、帰宅したら同じように電話を初めて、夜寝るまでずっと電話をつなぎっぱなしだった。
電車に揺られながら、そっと佑はマフラーに口元を埋める。
(付き合い立ての中高生カップルかよ……)
一瞬だって、目を離したくない。そんな執着が圭吾からは感じられた。
出会ったばかりだし、この関係は契約だからこその筈だ。けれど、それだけでこうも甘やかされるものなのだろうか。……唐突だった告白を思い出す。あれは本当だろうか。一目惚れなんてこの世に存在するのかと悩みながら電車を降り、職場へと向かった。
体調の良さは、そのまま精神の安定にも繋がっていた。
「おじょーちゃん、クリスマスも出勤なんて偉いな。旦那が寂しくしてんじゃないのか?」
出社と同時に、ちょっと癖のある同僚が絡んできた。にやにやと笑っているとこを見ると、揶揄し、卑猥な連想をしているのはすぐにわかった。以前の佑なら猛烈に怒り、自分を恥じ、その日一日は最悪に終わっただろう。それが、今では余裕で許せる。いや、許してはいないが、この人は所詮こういう人なんだと冷めた目で見ることができる。
だから言い返せる。
「それ、セクハラっすよ佐野さん。それと、ご指摘どおりクリスマスなんで俺早く帰りたいんっすよね、協力してくださいね」
「お、……おう」
言い返されると思っていなかった様子の佐野は、きまり悪そうに先に更衣室を出ていった。隣に並んでいた加藤がにやっと笑って、佑の脇腹を突いてきた。佑は笑顔で応えた。
以前受注した手すりの取り付けと、室内の段差解消がその日の主な仕事だった。玄関には簡易スロープを取り付け、敷居には段差に合わせて斜めに小さなゴム材を取り付ける。手すりも施主の八十近いご婦人に実際使ってもらいながら家中に取り付けた。広く、段差が多く、部屋数も多いわりに古い総二階の家が、簡易ながらバリアフリーに生まれ変わった。
「まぁ、素晴らしいわ。嬉しい……これで安心して年が越せるわ」
笑顔で深々と頭を下げた施主は、その場でバスルームとキッチンのリフォームも依頼してくれた。追加受注はままあることだが、大口の依頼になった。上々の出来だった。車に戻ると加藤と拳を突き合わせて、やったと喜び合った。
そのまま帰社し、所長に報告をする。所長も満足げで、定時で帰宅して良いと告げられた。
仕事が終わると早速圭吾にメッセージを送る。
「仕事、定時で上がれた。すぐ向かうな」
「こちらも今終えたよ。早く会いたい、君を抱きしめたいよ」
返事はすぐに返ってきて、佑を擽ったい気持ちにさせた。
──別に圭吾に恋心を抱いているわけではない。愁にはフラれたばかりだ。その傷口はまだじくじくと痛む。
いや、それだからこそ……。
佑は考える。フラれて傷心のところを佑は慰められているのだ。圭吾にその気はないにしろ結果そうなってしまっている。一人でいる時間が減りいつも隣には圭吾がいて、考え込む時間もないほど目いっぱい愛される。
全身に甘い蜜をたっぷりと注がれている気分だった。
こちらをまっすぐに見据えてくる視線に偽りがないから、佑も妙に安心して身を委ねることができた。
(ケーキでも……買っていってやるか)
たった数日を一緒に過ごしただけだが、圭吾が甘いものに目がないのは既に知っていた。佑のためにといつも何かしら摘まめる甘いものを用意してくれている圭吾だが、必ず一緒にそれを口にするのだ。しかも美味そうに。
高級なものは食べなれているだろうことは予想できた。だから、わざわざ高いホテルメイドのケーキなどにはせずに、職場の女の子たちから聞いた「地元の美味しいケーキ屋さん」へと向かった。着いてみると、青い庇が可愛らしいこじんまりとした個人経営の店だったので、恐る恐る予約ではないことを伝えてみたが、有難いことにクリスマスケーキは当日販売分がまだ残っているということだった。
買ったのはスタンダードなショートケーキ型のクリスマスケーキ。真っ白いクリームの上に赤い苺が中央にうずたかく積まれている。二人で分けるにはちょうど良いサイズだった。おまけにクリスマス当日だからとジンジャークッキーを貰って、佑は良い気分で店を出た。
視界の隅を白いものがちらつき、振り仰ぐと、薄曇りの暗い色の空からは薄灰色の雪が舞い落ちてきたところだった。
「ホワイトクリスマス、か……」
思わず口に出していた。
やや湿った、積りもしないだろうすぐに溶けてしまうような雪。それでも聖夜に見る雪は都会では新鮮で、神聖に思えた。
気分が高揚しているのが自分でも分かり、やや気恥ずかしくマフラーへと顎先を埋めた時だった。
「あん? お前……Subじゃねぇの?」
声がかかった。
しゃがれた、だがまだ若い声だった。とともに、強烈なじゃ香の香りが身体にまとわりつく。
佑が出てきた店に今にも入ろうとしている男がこちらを見ていた。銀色に近く脱色された髪に、不機嫌そうな整った顔。巨躯には革ジャンにジーンズをまとい、ロングブーツには鋲が打ち付けてあった。ある意味クラシカルな不良スタイルで、隣にまだ幼いといっても良い若い女性を連れていた。
佑は嫌な予感がして一歩下がった。今日は、もめごとに巻き込まれたくない。
男はお構いなしに女を抱いていた腕を離し、佑へと近寄ってくる。間違いない、この気配は……Domだ。
「んんー? ……逃げんじゃねぇよ。俺が脅してるみたいじゃねぇか」
「何か、ご用ですか?」
腕が伸びてくるのを咄嗟に避ける。男は首を傾げて空ぶった手を見つめ、へらっとにやけた笑いを零した。そして一歩大きく踏み出すと、今度こそ佑の二の腕をガッシリと掴んだ。佑だってけっして小さい方ではない。けれど男はそんな佑の腕を捩じり上げ顔を覗き込むほどの上背があった。
「ご用も何も、Subじゃないの? って聞いてんだけど」
「あなたに……答える必要はないかと思いますが?」
「なんだよ。隠すなよなぁ……ぷんぷん匂うんだよ、SubのドMの気配が」
「……Subだったらどうだっていうんですか」
佑は堪えていた。掴まれた腕を振りほどこうにも、逆側の手に握ったケーキが気にかかる。圭吾のためにせっかく買ったケーキ。
けれど、目の前の男は大人しく身をすくめるだけの佑に何やら勘違いをしたらしい。後ろから声をかける女に鋭く「Stay(そこで待ってろ)!」と命令をすると、にやにやと笑いながら佑に顔を近づけた。
「さぁ、そこに跪けよ。Kneel(お座り)だ。それから、Roll(仰向けになれ)!」
「──っ」
ぶわりと全身の毛が逆立つような怒りが佑を覆った。
Rollは佑が苦手な姿勢で、それを知った圭吾もあまり使わないコマンドだった。腹を出して寝転がる姿勢はそのまま服従を示すかのようで、弱みを晒す姿に似ていて佑は毛嫌いしていた。
突っ立ったままぶるぶると拳を握り怒りに耐える佑に、男はさらに勘違いを重ねたようだった。腕を離し、がっと佑の顎を掴む。
Stayを命じられた女が弾かれたように動いた。男の腕に縋りつく。よく見れば、女の首筋にはCollar(首輪)が巻かれていた。真っ赤な、エナメルにラメがちりばめられたCollar。
(はっ。こんな男の専属のSubか……可哀そうに)
女は必死に止めに入っていた。
「嵐士、止めなよ! この人うちらに何の関係もないじゃん!」
「んぁ? なんだよお前まで。これからがお楽しみだろうがよ」
「ダメだって! 止め……っ」
「うっせーな、邪魔すんな! てめぇなんざ、そこに這ってろ! Crawl(四つん這いになれ)!!」
「ひっ」
がくんと、女の膝から力が抜けたのが一目でわかった。男がGlareを放ったらしかった。
Domが自身のSubだけに発することができる、威圧感。圧迫感や目力のようなもの。Subはこれに飲まれると身動きできなかったり最悪Sub dropに陥る。
女は何の前触れもなくその場で膝を着いた。助ける暇もなかった。尖ったアスファルトの表面で薄いカラーストッキングが裂け、膝からは出血していた。そして、女は涙を浮かべて失禁していた。雪で濡れ始めたアスファルトの上に、女を中心に黒く染みが広がる。
男が嘲笑った。
「うっわ、お前しょんべん漏らしてんのかよ。くっせー。今日は俺に近寄んなよ!?」
「心配しなくても、俺が近寄れなくしてやんよっ!」
女に気をとられていた男の側頭部に、佑はいきなり拳を叩き付けた。その勢いのまま、ぐらっと傾いた男の横腹を蹴り上げる。
自分のことだけなら我慢ができた。けれど、女に……女性にあんなことをする目の前の男が信じられなかった。自分を優しく扱うDom──圭吾を知っていたからこそ、我慢が出来なかったのだ。
「てめぇが、腹ァ晒せよ!」
呻きながら転がった男の腹を蹴り、上向かせる。咄嗟に顔尾を腕で覆い防御の姿勢をとった男の、ガラ空きのそのわき腹や肋骨を遠慮なく靴底で踏みつける。腹を抱えて蹲れば、その横っ面を渾身の力で蹴りつけた。
怒りは一瞬にして燃え上がり、自分ではもう止められない。
一方的な暴力は、しかしすぐに終わった。店先での騒ぎを聞きつけたケーキ屋の店員が複数人で割って入ってくれたのだ。佑は男たちに支えられながら、肩で息をしていた。女が、弾けるように立ち上がってよろよろと男に取り縋って泣いた。
「はぁはぁ……」
手からはとっくにケーキの箱なんて吹き飛んでいた。駐車場の端でへしゃげている箱に近づく。白い箱からクリームと苺がはみ出していた。蹴られ殴られて、ボコボコになったのは男の方なのに、今の佑は自身がこの無残なケーキのようだと思った。惨めだった。
「お客さん! お客さん!?」
店員が呆然とする佑に声をかけてくる。
佑は自身の手や、血反吐で汚れた靴に目をやった。指先が細かく震えているのは、怒りの余波か、後悔の念か。
(また、暴力を……)
こんな自分を変えようと圭吾と契約したのではなかっただろうか。圭吾は怒るだろうか。落胆するだろうか。合わせる顔がない。このまま逃げ出したい。
けれど……会いたい。猛烈に圭吾の顔が見たかった。
「すみません……ケーキ、まだありますか?」
それだけをやっと声に出せた。女に支えられて店前を後にする男には目もくれずに、佑は店へと戻っていった。
2-6
汚れた靴は拭いた。拳にできてしまったかすり傷は仕事でいつものことだ。ケーキも買い直した。けれど圭吾の家へと向く足取りは重かった。一階のエントランスで迷いながらも笑顔を作ると、インターフォンを鳴らしカメラへ向けて顔を寄せる。
『仕事お疲れ様。上がっておいで』
圭吾の静かで穏やかな声がした。それだけで泣きたいような、胸を掻きむしりたいような気持ちになる。のろのろとエレベーターから降りてドアの前にたどり着くと、タイミングを計ったように丁度ドアが開いた。
圭吾はオフホワイトのセーターにチノパン姿で、リラックスした、だが小奇麗な格好をしていた。すぐに「おかえり」と玄関に迎え入れられる。広げられた腕が、佑をハグしようとする。
そんな圭吾を見て佑は堪らなくなり一歩後ずさる。
自分はこの抱擁を受けて良い人間なんかじゃない。そして、一気に喋り出した。
「き、今日はさ。本当ならもっと早くに来れそうだったんだ。あんたが待ってくれるって言ってたしさ。ただ、何か手土産をって思ってケーキ屋に寄ったんだ。そしたら案の定店前で馬鹿なDomに出くわしちまって、最初は俺も耐えてたんだぜ? けど絡んでくるのはしつこいし、ツレの女の子に乱暴なこともしてさ。俺我慢できなくて。はは……なんで俺なんだろうな。他のやつにはない何かが出てんのかな。でもって俺は……なんでこう、キレやすいのかな」
佑の早口で一方的なお喋りは中途でぽつりと切れた。
圭吾は黙ってそれを聞いていた。佑は沈黙に耐えられずに何度も息を吸っては吐いた。数度繰り返してやっと出た声は自分でも信じられないほど弱弱しく、掠れていた。
「結局また、相手を殴っちまった……」
圭吾はその言葉に一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐに微笑んで佑へと指を伸ばしてきた。佑の頬を優しく撫でる。
肌に触れる指先にピクリと佑の肩は揺れたが、拒むことはしなかった。ただゆっくりと瞼を伏せてから、顔を上げて苦笑いの表情を浮かべる。
「やっぱり俺には無理だよ。……どうしても暴力への衝動が止められない」
「君のそれは虐げられる者からの反撃だ。私は暴力を良しとはしないが……問題は君じゃない、彼らにある」
「けど、なんで俺なんだ……? Subなんて世のなかには山ほどいるのに。俺だけが……勿論、他にも被害にあってるSubは大勢いるだろうけど……」
「人間は弱いものを、弱いと決めつけたものを徹底して非難し排除する。それが目立つ相手であればあるほど、支配下に置こうとする。君はDomからすれば、非常に魅惑的なSubだ。香り立つ気配が……他のSubとずいぶん違う」
「はは。つまりあれか。Dom様はそういうSubには人格なんてないと思ってるってことか」
佑の顔から苦笑いの表情が消えた。唇を軽く噛み締め、床へと視線を落とす。と、ふいに柔らかな声が上から降ってきた。
「……ケーキをくれないか」
「え?」
「ケーキを渡してほしい」
訳も分からず佑がケーキの箱をそっと手渡すと、圭吾は佑に部屋へと上がるよう促した。
「折角君が買って来てくれたケーキだ。後で食べよう」
あの白いリビングに連れていかれる。硝子のダイニングテーブルの上には、所狭しと料理が並べられていた。焼き上がったばかりなのだろう、皮がパリッとしたターキーの丸焼きにカット野菜とフルーツの盛り合わせ。キャビアの前菜にサーモンのマリネ。一口サイズのキッシュに、カプレーゼ、生ハムにチーズの盛り合わせ。
食事でもしようというのだろうか、キッチンに入る圭吾に戸惑いを隠せずに佑は声をかけた。
「圭吾さん、悪いんだけど……。俺、今食事はちょっと……」
「勿論分かってる」
速足でキッチンを通り抜けると端にある冷蔵庫へ歩み、圭吾はそこにケーキを仕舞ってしまう。呆然と立ち竦む佑の前まで戻ってくると、圭吾はその頬を両手で包んだ。真摯な眼差しが佑の目の前まで迫っていた。
3-1
股間や乳首が下着に擦れて痛い、という経験を佑は初めてした。
昨夜は、いやほんの数時間前までは、今痛い箇所を圭吾が指でくすぐり撫で摘んで、舌で愛撫していたのだ。
あまりに濃密で、いっそ清々しいくらいにいやらしい時間だった。こうして今、仕事へ行こうと支度している方が非現実的に思えるほどの……生々しい記憶。
何時間にも渡った行為中に佑は幾度となく果てた。逆に圭吾は一度、途中に佑の足の間に放っただけで後は佑を追い上げる行為にのみ徹していた。コマンドも最初こそ圭吾は意識して使用していたようだが、後半にはもう……ただ佑を甘やかす甘い言葉を吐くだけだった。
つまりは、昨日のあれは──単なるセックスだった。
佑を慰めるためのセックス。
幼児が泣いているのを親に慰められているのと同じだ。抱かれて腕の中で愛されて、良い子だねと甘やかされる。それに性的なニュアンスが加わっただけだ。
「今日ぐらい休めば良いのに」
タイを結んでいると洗面室の入り口から圭吾が顔をのぞかせた。ほとんど寝ていない佑を慮っての言葉で、起きてから何度も聞いている。鏡に映る佑の目許は腫れぼったく寝不足が明らかだ。鏡を通して視線が交わる。圭吾は心配げな、呆れているような何とも言えない表情だ。返す佑の表情は──。
「クリスマスの夜にセックスし過ぎたんで疲れて会社に出れません、なんて言える分けねぇだろ」
敢えてぶっきらぼうで、微かな自嘲を含んでいた。眉根をキュッと寄せて、軽く睨むように圭吾を見返す。
「私のせいだって?」
「……そうは、言ってねぇけど……」
気づけば佑のすぐ後ろに圭吾は立っていた。微笑みを浮かべた圭吾も、しっかりとシャツにスラックスを穿いている。どうも自分だけが出社して、佑は休ませようとしていたらしい。
「もうちょっと甘えてくれても良いのに、ハニー」
耳元で囁かれてぎょっと身を引くと、佑の身はすっぽりと圭吾の腕の中に収まった。腰に緩く回された腕がそっと佑を抱く。
「さっきまであんなに可愛く私の腕の中で鳴いていたのに、もう出ていってしまうのかい?」
「っ……そういう言い方、止めろよ」
「どうして?」
低音が鼓膜に響いて佑の全身を震わせる。やっとの思いで声を絞り出した佑は顔を上げて鏡越しに圭吾を睨んだ。
「……俺はあんたのペットでも恋人でもない」
佑は、鏡に映った自分の火照った頬やうるんだ瞳に愕然としながらも圭吾に言い放った。圭吾の微笑んだ瞳を見ると胸が締め付けられる自分を自覚しながら、あえて強気に言い募る。
「これは、全て契約の内なんだろ?」
「そうだと、言って欲しい?」
シャツの上からするりと胸板を撫でられる。乳首が肌着に擦れて思わず声を上げそうになり、佑は体を震わせた。圭吾は腰を抱く腕に力を込めると佑の背と自分の胸がぴったり重なるように佑を抱き締める。鏡を通して佑をしっかりと見つめると唇の端を引き上げ笑った。
「契約の内だとも言えるし、そうでもないとも言える。……君次第だよ、佑」
「どう、いう意味」
「一目惚れだって言ったろう?」
言葉の最後に被せるようにして顎先を捕らえられて上向かされる。次に何が来るかを佑は知っていた。知っていて、そっと目を閉じた。
そして、柔らかく温かな感触が唇に触れた。
(なんだよ。ちょっと甘やかされたくらいでぐらつくほど弱い男だったのか? 俺は)
佑は電車の窓に映る自身の影を睨みつけていた。
圭吾の家から出社し、仕事を終えて帰宅する最中だった。
昨夜から夕方にかけて色々な意味で酷使した体はボロボロだった。寝不足のせいか頭の芯もずきずきと痛む。今も満員電車の人の波に揺られながらなんとか立っているという有様だ。明日が休みで良かったと心底そう思う。
(甘い言葉を囁かれて、子供みたいにあやされて……それだけであの男に心許そうってのかよ)
そう心で呟いてみても、胸の中にぽつりと温かく火が灯る感触があるのも分かっていた。
圭吾は、佑の悲しみも怒りもすべて承知したうえで一晩中佑を甘やかしてくれた。虐げる側の、支配する側のDomである圭吾がなぜそんなにも、Subの佑を理解を示してくれるのかはわからない。
あの若さで次期社長として成功していて、Domで、……いい男だ。挫折など知らないだろう。屈辱的な思いなどしたことさえないだろう。なのにあの優しさは、度が過ぎるほどの甘えさせ癖はどこから来るのか。弱者への理解は、どうやってあの男の中に生まれた?
考えれば考えるほどわからない。
(……惹かれているのかもしれない)
それを認めるのは何故だが悔しい気がした。出会ってまだ間もない。名前と肩書と、その手のぬくもりだけを知っている男。
(このまま、あいつの手に慣らされて甘やかされて……俺はDomへの、自分への嫌悪を捨て去ることができるのか?)
悶々と佑が考え続けている時だった。肩を軽く叩く者がいた。
「佑……?」
声にハッと振り返ると、そこには愁がいた。高校からの同級生。佑の……想い人だった男。相変わらずひょろと細くて、頼りなさそうな……お人よしが前面に出ている笑顔。仕事帰りだろうことは胸に抱えている鞄で分かった。
「やっぱり佑だ。珍しいな、一緒になるなんて」
佑が呆然としているうちに、愁はよいしょと隣へ並んでしまう。愁はニコニコと妙にご機嫌で、佑をじっと見下ろしてくる。佑は佑でいきなりのことに驚いたものの、何とか笑顔で返事をした。
「お、おう。そうだな。つうか……確か家、こっちじゃなかっただろ?」
「うん。今から愛実(めぐみ)くんの家に行くんだ。その、例の……パートナーの」
後半は消え入りそうな、けれど喜びを隠せない声音で愁は告げた。恥ずかしいのかしきりに鼻の頭を掻いている。
そんな愁の態度を見て、佑は自分の中に生まれた痛みが予想外に小さいことに驚いていた。ちくりと胸は刺されている。けれど嫉妬と呼ぶほど大きく深くはなく、少し寂しいような隙間風が吹いたようなそんな思いだった。
自然と小さく微笑んで、佑は愁を見上げた。
「そうか、仲良くやってんだな」
「うん、まあね。あ! それよりも。僕、佑の相手の西沢さん? 今日見かけたよ」
「え?」
突然の話の展開に佑は首を傾げた。何故、愁が圭吾の顔を知っているのだろうと不思議にも思った。その思いを読んだかのように愁が軽く手を振った。
「いや、その……実は佑から話を聞いた後で心配になってさ。どんな人なんだろうって、会社の、N不動産のHPを検索したんだ。そしたら、会社紹介の中に西沢さんの名前と顔写真があって……顔を覚えてたんだ」
「心配、してくれたのか」
「そりゃ、親友が妙な奴とパートナー契約してたら大変だもの」
当然と胸を張る愁に佑も自然と口元が緩んだ。
「そっか。……それで? 今日見かけたってのは?」
「たまたまN不動産の前を通りかかった所で中が見えてね。丁度西沢さんが社から出てくるところだったんだよ。そこに行き合わせたんだ」
「……どう、思った?」
なんだか緊張して、小声で佑は聞き返した。すると愁は一瞬困ったよう、戸惑ったような様子で口をつぐんだ。それから思案して言葉を選んで語り出した。
「うん、なんだか……怖そうな人に見えたよ。仕事の最中だったからかもしれないけど、部下っぽい人を怒鳴って、叱り飛ばしてた。それも往来で」
意外な答えに佑は目を丸くした。あの圭吾が? 怒鳴った?
「ううん、本当は僕の見間違いで、違う人かもしれないんだけど……けど顔が、写真そっくりで」
「あ、ああ。そりゃ……仕事とプライベートは別物、なのかもな」
戸惑いつつも佑は相槌を打つ。すると愁はさらに眉根を寄せて、佑を見下ろした。
「まあ、けどね。あの若さだし、ご苦労も相当あるだろうからね」
「そうだな」
「しかもあの身体じゃない? 最近は法や施設なんかも整って来てるけど、並大抵の努力では健常者にはかなわないだろうしね」
「へ?」
「いや、だからこそ不動産業界に身をおいているのかも? 部下に厳しいのもそのせいでとか……自分にとって暮らしやすい街づくりとか、家作りとかもあるだろうし」
「なに、言ってんだ愁」
「佑こそ何言ってんだよ。ほら……車椅子じゃんか、あの人」
一瞬で佑の頭の中が真っ白になった。
圭吾が、車椅子? 今朝の今朝まであんなに元気だったのに?
「はっ、何言ってんだよ愁。あの人は、体に傷一つない……今朝だって普通に」
「え? じゃあ……俺の見間違い? 他人の空似?」
愁はしきりに首を傾げている。
佑は気が気じゃなかった。あの後、もしかしたら現場ででも事故にあった? けどそんな、そんな連絡受けていない。
そこまで考えて思い至った。自分と圭吾の契約のことは、多分、圭吾サイドの人間は誰一人知らないんじゃないかと。自分こそ愁には話したが、親兄弟には話していない。それなら、自分のところに連絡などあろうはずがない。
急いでスマホを取り出し電話しようとして、電車内であることに漸く気づく。頭が混乱していた。
「悪い、愁。俺次で降りるわ」
「あ、うん」
電車が駅に着くまでが佑には異様に長く感じられた。ドアが開くと愁を振り返りもせずに、飛び降りる。
「何かあったら、連絡して!」
そう叫ぶ愁の声を背後に、急ぎホームの隅まで走る。今度こそと履歴から圭吾の名前をタップしてスマホを耳に当てる。自分の心臓の音がうるさい。まさか、という思いが嫌な汗をかかせた。
「……佑?」
耳慣れた、優しい声がすぐに現れた。良かった、電話には出れるらしい。まだオフィス内にいるのか、それとももう自宅か。圭吾の背後は静かだった。
「どうしたんだい、まだ……外にいるんだろ? その騒々しさは駅かな」
「あんた、あんたこそっ……何も、なかったのか……?」
あまりに普通な態度の圭吾に、佑は最初の勢いを忘れて最後は小さく掠れ声で問いかけた。
「どうしたんだ、佑。何もないよ、いつもどおりさ。佑の方こそ、体調は大丈夫だったかい?」
優しい声音。別に嘘をついているようでもない。どっと力が抜けて、佑はその場に座り込んだ。軽く眩暈もした。溜息とともに半笑いになる。こんなに焦って馬鹿みたいだ。
「俺は……大丈夫だよ。あんたが、あんたこそ……無事なら良いんだ。勘違いしたんだ、多分」
「勘違い……?」
そうだ、愁が見間違えたんだろう。HPの写真と本人とじゃ修正もあるし、別人に違いない。
「いや、いいんだ。今日は疲れてて……流石に早く寝るからさ。おやすみの電話は今日は良いから」
「そう、か? 分かった。声が聞けて嬉しかったよ。それじゃあ、佑。おやすみ」
「おやすみ、圭吾さん」
ほっと息を吐いて佑は電話を切った。何でもなかった。事故でも怪我でも。
「はは、手が震えてやんの……」
スマホを仕舞い、両手をかざしてみる。興奮のせいか、ざっと失せた血の気が戻ってきていた。頭を上げ、ゆっくりと立ち上がる。周囲は帰宅途中だろう人々で溢れかえっている。
どうしてあんなにも必死になって、ホームに駆け降りてしまったのだろう。
朝にセックスだけだの、契約のせいだのと言っていたくせに。佑は数時間前の自分自身の気持ちや言葉を思い出して一人苦笑いを浮かべた。
「どうすんだよ、中途半端な駅で降りちまったぞ」
答えは分かっていた。もう、自分を誤魔化せなかった。
毎朝幸せで満ち足りた気持ちで目覚め、朝夕に交わした短い言葉に一喜一憂していた。今朝の辛いはずの身体の痛みや疲れも、どこか心を満たしていたものだったと今更ながら気づく。
今だって、あれだけ好きだった愁への思いを、受け入れ、笑って恋人の許に見送れるようになってさえいた。
(俺は……圭吾さんを好きなんだ……)
認めてしまえば、それは端から戸惑いのため息に変わっていった。
圭吾は自分を好きだという。一目惚れだと笑う。その言葉に嘘はないだろう。だが佑は圭吾のことをまだなにも知らない。それでもこの想いを素直に告げれば、きっと喜んで受け入れてくれるだろう。
だが、それでは違うと佑の中の何かが警鐘を鳴らす。
自分は圭吾のことを何も知らないのと同じように、圭吾もまた佑の全てを知っている訳ではないはずだ。
恋など知らずにここまできた。
人を信じることさえ、忘れていたようなものだった。
自分に恋ができるだろうか。
──おそらく自分は恋というものがなにかすら分かっていない。それはDomとSubの関係に似た、信頼と信用なのかもしれない。
自分に欠けているものを突きつけられるようで、佑は一人ホームから薄暗い冬空を眺めた。
3-2
数日間、佑はもやもやした気持ちで毎日を過ごした。
自分の恋心を自覚したこと。
そして圭吾にそっくりだという車椅子の男の存在。
圭吾からは相変わらず朝に夕にと連絡が入ってきていたが、佑は言葉少なに返すのみで、部屋への誘いもやんわりと断っていた。できるだけ圭吾のことは考えないように、意識の隅へと追いやっていた。
そんな佑をどう感じたのだろうか。明日は大晦日という日に、圭吾からその日、二度目の電話があった。
正月を一緒に過ごさないかという誘いだった。
「家族とは不仲でね。毎年一人で静かに年を越すんだ。……今年は佑と過ごしたい」
……断る理由はいくらでもつけようがあった。郷里に帰る、友達と過ごす。
けれど、普段聞きなれない圭吾の家族のことや、独りであの白亜の城でポツンと過ごす圭吾を思うと、会いたいという思いがそれらに勝った。気づけば「いいよ」と返事をしていた。
圭吾は喜び、大晦日の午後から正月三が日までを一緒に過ごそうと声を弾ませた。流石に長すぎではと戸惑った佑だったが、除夜の鐘付きから始まって、初詣をし、良ければ温泉にも泊ろうなどと次々と提案されては、圭吾の喜びが伝わってきてそれにも頷かざるをえなかった。
翌日、さっと部屋を片付けると約束の時間に佑は家を出た。
いつもとは違い、圭吾がマンション前まで車で迎えに来てくれていた。佑でも知っているBMWのエンブレム。座り心地の良いソファのような助手席に乗り込むと、濃灰のカジュアルスーツに髪を綺麗に撫でつけた圭吾が「久しぶり」と笑った。
その笑顔を見ると僅かながら緊張していた自分の気持ちがほっと解れていくのが佑には分かった。
「なんだよ。ほんの数日ぶり、だろ」
つい、軽口を叩く。圭吾はそんな佑のリラックスした雰囲気を感じ取ったのか微笑んで答える。
「いや、今回は長かった。電話してもメッセージを送っても何だか余所余所しかったろう? 今日も実は直前で断られるんじゃないかとひやひやしていたんだ」
「そんな、こと。しねぇよ。ここ数日は……あれだ、ちょっと調子が悪かっただけで」
「そう、それなら良かった」
疑いもせずに、圭吾はにっこりと笑った。その顔をやっぱり好きだなと眺めていると。いたずらめいた表情で圭吾が身を乗り出してきた。
「佑。Kiss(口づけて)」
「は。……ええ? こんな往来で!?」
「車の中じゃないか。さあ、キスだよ。もっと寄って……Come(おいで)」
「……わかったよ」
軽く顎に手を添えられて、佑は照れつつもやや乱暴に圭吾のシャツの襟首を掴んだ。自らも身を寄せて引き寄せながら噛みつくようなキスをする。圭吾のあの特有の、バニラの匂いが微かにした。
じんわりと唇が温かい。
久しぶりのコマンド。
コマンドでのキスは、戸惑いと照れとともに、命令に従うことへの心地よさを佑の中に確かに残した。
「……っ、これで良いか」
「良いね。Good boy(良い子だ)」
圭吾は嬉しそうに目を細めて、佑の髪を撫でる。暫くその髪の感触を楽しんだ後、顔を真っ赤にした佑を横目に車のシフトレバーを引いた。晴れ晴れとした声で告げる。
「今日はデートをしよう。デパートに行って買い物をして、夜はフレンチのディナーだ」
そして、そのとおりになった。
佑は自身ではとても手が出ない高級スーツの売り場やシューメーカーに連れていかれて、全身隈なくコーディネートされた。濃い黒に近い深紅のシャツに格子模様の白っぽいコーデュロイのスーツを合わせられた時には派手過ぎると抗議した佑だったが、その場で試着させられると小作りな顔に、濃く印象的な二重のまだまだヤンチャそうな顔つきの佑には、その奇抜さが良く似合った。
その後、下着や靴下、香水まで買いそろえて二人はデパートを出た。佑は「金の使いすぎ」「勿体ない」「俺には似合わない」とその都度固辞したものの、最後には諦めて全てを受け取っていた。買い与える側の圭吾があまりにも嬉しそうだったからだ。
フレンチレストランは、都内から少し離れた郊外にあった。
蔦が這うレンガ造りのこじんまりとしたビストロ風の店で、雰囲気は温かく暖炉には火が入っていた。出される料理も気取らない田舎風のパテや煮込み料理、子羊のローストなど食べやすいものばかりだった。
圭吾は佑にはワインを勧めて、自分は運転だからとミネラルウォーターを口にしていた。
穏やかな夜だった。
一度圭吾の家に帰ってから改めて除夜の鐘を突きに外へ出た。二人とも深夜の街を子供のようにはしゃいで歩いた。
そのまま地元では有名な神社までゆっくりと歩き、しんしんと冷える中を派手な見た目の出店を見ながら参道を歩いた。既に年は開けていて、暗い境内にはそこだけ明かりがともされており大勢の人がいた。お参りをすますと無料で配られていた甘酒を手に「明けましておめでとう」と言い合った。
人並みに押されるように参道を下りながら、傍らに並んだ圭吾が佑を見下ろした。
「疲れてないかい?」
「勿論」
「なら、ちょっと早いが宿に行こう」
「こんな時間から……? 大丈夫なのか、チェックイン」
年が明けたとはいえ、時刻はまだ深夜一時過ぎだ。
「親戚が経営してる旅館なんだ。融通がきく」
少し悪戯っぽい笑みを浮かべた圭吾が人混みに紛れて佑の指先を握った。
タクシーで乗り付けたのは市街から離れ、少し山間に入った小さな温泉街だった。佑はその街の名前こそは知っていたものの来たのは初めてだった。
街は小さな川を挟んで両側に大小の旅館が立ち並び、小路から緩い階段で下りられる河原には露天風呂つきの大衆浴場が設けられていた。ひなびた雰囲気の温泉街のそここには新年を祝う提灯に灯りがつけられ、ぽつりぽつりと浴衣姿で小路を歩く人々の姿が印象的で、佑はうっとりと見惚れた。
ライトアップされた宿の暖簾や看板の前を次々と過ぎて、タクシーは細い道を行き、最奥の和風旅館の大門前で停まった。
圭吾に促されてタクシーを下り大門からエントランスを覗くと、日本庭園風に設えられたそこには温泉の小川が流れ、足湯が楽しめる東屋が広い前庭に数ヵ所見えた。その奥の和風の建物は黒い瓦をはきどっしりと大きく、ライトアップされた白壁と黒い窓枠の対比も美しい、どこかスタイリッシュな建物だった。
「よくお越しくださいました」
入り口の木製の自動ドア前では、厚手の作務衣を着た若い男性が笑みと共に二人を出迎えてくれた。年のころは圭吾とそう変わらないのではないだろうか。愛想の良い笑みに細い目、左目尻に泣き黒子。旅館の経営者だろうかと考えていると、圭吾が俄に近づき、その青年に片腕を伸ばして不意に抱き締めた。
「敦! 久しぶり」
「圭吾さんも、お元気そうで」
「……今日は無理を言ったな」
「いえいえ、ちょうどキャンセルが一件出たところだったので。それ以前に、僕が圭吾さんの頼みを断るわけないじゃないですか」
敦と呼ばれた青年も嬉しげに圭吾の肩を抱き返している。
「えっと……?」
一人置いてきぼりにされた佑が二人の顔を交互に見ていると、身を離した圭吾が隣の青年から佑へと微笑みを移した。
「佑、こちらは坂木敦くん。ここの跡取りで番頭をしている、私の一つ下の従兄弟なんだ。敦、こちらは……」
「東雲佑様ですね。話は圭吾さんから聞いております。圭吾さんとは小さい頃から親しくさせていただいていて……。今日は当館でゆっくりお過ごしください」
丁寧に礼をされて、佑は慌てて礼を返した。
「ど、どうも」
(知ってるって……どこまでを!?)
下げた顔がカッと赤くなったが、そんな佑の内心を知ってか知らずか、圭吾は佑の手をそっと握ってくる。敦もそんな二人を見ても驚くでもなく、佑と圭吾から手荷物を受け取るとにこにこと二人を旅館の中へと案内した。
「少しロビーで休んでいてくれ。私はチェックインの手続きをしてくるから」
「う、うん」
靴を脱いで上がるタイプのロビーは鏡のように磨かれた漆黒の板間。一見、古い日本家屋風だが、バリアフリーが徹底されており、目立つ段差もなく奥へと続く廊下も手すり付きで広々としていた。
ロビーの手前にあるカウンターに留まる二人を残して、佑は奥のソファが並べられたスペースへと向かった。そこは広い中庭が見渡せるように前面がガラス張りで、佑は少し迷ってからやや通路よりに席をとった。
館内はほんのりと明るく、皮張りのソファまでもが室温で暖かい。ほっと息をつくと俄に眠気が襲ってきた。こっくりと眠気に負けたのはほんの一瞬だった。
気づけば少し離れたソファに、こちらへ横顔を向けて圭吾が座っていた。圭吾は傍らの誰かに目線をあげてきつい口調でなにかを言っていた。眉間に皺が寄って、険しい顔つきだ。
違和感があった。あの圭吾が人にあんな視線を向けるなんて。だから不安になってつい声をあげた。
「圭吾さん?」
ぴくりと圭吾が肩を揺らした。そして「彼」は怪訝そうにこちらをゆっくりと振り返った。
「誰だ。「ここ」で俺と圭吾を見間違えるやつは」
声は圭吾より幾分低く、とがっていた。憎々しげに眉をよせ、口許を曲げた表情は圭吾のそれとは全く違っていた。
今度こそ、佑は完全に目を覚ました。
「圭吾さん、じゃない……?」
「俺をあの腑抜けと一緒にするな。なんだ、お前。圭吾のなんなんだ」
首を傾げる男から、侮蔑の言葉と共に強く麝香が香る。これは強い怒りの波動と……Dom特有の香りだ。
佑はガバリとソファから立ち上がると、くらくらする頭を押さえて男の前へ立った。男の傍らへ立っていた若いスーツの男が思わずといった様子で佑に手を差し伸べかけたが、男がそれを視線で制した。
男は、ソファへ座っていたのではなかった。
ソファの間にあるやや広いスペースへと、車椅子を乗り入れて、そこに座っていたのだった。
「あんた……誰、だ?」
黒いざっくりと編まれたニットに、腰から下は深紅の膝掛け。体は少し圭吾より細身だろうか。首筋のラインが、顎先がとがっている。愁が見かけたという男の話を思い出す。確かにこれでは遠目では圭吾と見分けがつかない。
一気に不安に襲われる。圭吾はどこに行ったのだろう。この男は誰だ? 気配はとても良く似ているのに、圭吾と違いその眼差しは凍るほど冷たい男。対峙しているだけで、冷や汗が流れる。
何も言えずに呆然としている佑を見て、男はイライラとした様子で毒づいた。
「それは俺が聞いている。どうやら圭吾の知り合いらしいが──。ははぁん、お前か。最近圭吾が手に入れたとかいうオモチャは」
「なっ!?」
「しかもあんた……その気配、Subだな。なんだ、あいつ。とうとう化けの皮が剥がれやがった。一生、パートナーは持たないとか言いやがって」
「なん、だよ……それ」
話の意味がわからない。ただ、男から感じるのは圭吾への悪意。混乱して身動きさえ出来ない佑の表情を見て、男がニヤリと笑った。
「あいつの側にいたら、いずれあんたも殺されるぞ」
「雅紀!」
二人の間に鋭い声が飛んだ。
はっと佑が振り返ると、血相を変えた圭吾が立ち尽くしていた。一瞬、睨み合うように圭吾と雅紀と呼ばれた男が向かい合う。二人の間に沈黙が流れ、最初に口を開いたのは雅紀の方だった。
「ほら、ご主人様のお迎えだぜ」
雅紀がふいに、腕を伸ばして佑の尻を叩いた。Domにいきなり性的な接触をはかられて、瞬時に佑の怒りのボルテージが上がった。
「っ、何すんだよお前……!」
「止すんだ、佑! 私が、私が代わりに謝るから……」
「なんっ、で」
腕を引き留められて、佑は呆然と圭吾を振り返った。
その間に、雅紀は何事もなかったような平然とした態度で傍らに控えていたスーツの男を手招いた。男は丁寧な仕草で雅紀の足をステップにのせると、雅紀の背後へと回る。そのまま、車椅子の向きを変えさせて雅紀は圭吾と佑へ向き直りわざとらしくニコリと笑った。
「明けましておめでとう、圭吾。悪いが、「ここ」の部屋は全部俺のものだ。泊まるなら他所にするんだな」
「雅紀……!」
「はは、またな」
何故か泣きそうな声で圭吾がその名前を呼んだ。雅紀はそれを嘲笑うと指先で投げやりに背後の男へと何やら指示し、あとは奥へと伸びる廊下の先へゆっくりと消えていった。
「すみません、佑様」
声にはっと気づけば圭吾の後ろに申し訳なさそうな顔をした敦が控えていた。圭吾も珍しく佑から視線をはずしている。いつもの圭吾とはまるで違うその表情や雰囲気。佑は目線を圭吾から外せずに、声のトーンを落とした敦の言葉を聞いた。
「申し訳ないのですが、先ほどお部屋が……僅差で埋まってしまいまして……。今、姉妹旅館へ繋ぎましたので、今日はそちらへお泊まりください」
それはどう聞いても苦しい言い訳だった。けれど旅館はもうどうでも良かった。
「圭吾さん。あれは……誰なんだ?」
佑は圭吾を見上げて、答えを待った。
圭吾は雅紀が消えていった廊下の奥を見つめていた。そして佑を見ずに、目を逸らした。中庭の冬枯れた庭園へ目をやると、呟くように声を絞り出す。
「あいつは、西沢雅紀。俺の……双子の弟だ」
3ー3
敦が新たに手配してくれた宿は真新しいホテル旅館だった。
俺たち二人は黙ってチェックインを済ませて、部屋へと向かった。案内された部屋は落ち着いた和洋室だった。奥には温泉の内風呂がついていると言い残して、ホテルスタッフは去った。
「さっきのはなんなんだよ……」
佑は部屋の中央で圭吾に詰め寄った。少し責めるような口調になってしまっていた。けれど納得がいかなかった。実の弟はいえ、「俺」の体に他のDomが不用意に触ったってのに……そんな思いが沸き起こる。
「け、契約……なのは分かってるけどさ。俺はあんたのSubだろ!? しかも尻、なんて……俺はあんた以外に触られるのなんて、嫌だった! なんで止めてくれなかったんだよ!?」
吐き捨てるように言う。
圭吾があの場にいなければまた他人を殴っていたかもしれない。圭吾が止めたから我慢もできた。ただ、理不尽な扱いを受けたことには変わりない。自尊心がチクリと痛んだ。圭吾なら守ってくれると思ったのに……。
圭吾に近づいた佑を、苦い表情で見据えなにかに耐えるように唇を噛んで、圭吾は低く一言だけ告げた。
「……すまない」
「謝ってほしいんじゃない! ただ、納得のいく説明が……欲しいんだ」
二人して、和室の端に立ち尽くす。沈黙は嫌に長く感じた。
どっちもが譲らない。そんな雰囲気に佑がため息を吐こうとした時だった。
「話すよ。……座ろう」
目の前の座卓を目線で示して圭吾が深くうなだれた。そんな圭吾を見るのは初めてだった。なんだか自分が酷いことをしている気分になって、佑はぎゅっと拳を握った。
圭吾がテーブルにセットしてあった急須や茶碗を使い、温かなほうじ茶を淹れた。目の前に差し出されたそれを促されて手にとって、一口飲むと、佑の肩からほっと力が抜けた。圭吾も同じ思いだったのだろう。目線が合うと少しぎこちなさは残るものの、佑へと小さく笑いかけた。
「まずは、やはり謝らせて欲しい。愚弟が、君に失礼をはたらいた。本当に申し訳なかった」
圭吾に深々と頭を下げられて、佑はもじっと身動いだ。
「……ん。それは、もう……良くないけど、良いよ。触ってきたあいつが悪いんだし」
「君を庇ってやらなかったことも、詫びる。私はどうしても弟に強く出られない……弟に引け目があるんだ」
「引け目……?」
「ああ、大きな貸しがある」
そこまで話すと圭吾は一度目を逸らした。そう、この反応だ。いつもまっすぐに瞳を向けてくる圭吾が、何故だか佑を見ない。
苦しげに、吐き出すように圭吾は告げた。
「雅紀のあの足は、半身不随は……私のせいなんだ」
思わぬ告白に佑は目を見張った。
「どういうことだ……?」
「君には、いつかは話さないといけないと分かっていた」
辛そうに目をまた伏せる圭吾に、佑は思わず腕を伸ばしていた。テーブルの上で固く握られた圭吾の両手の上に自分の手を重ねる。圭吾が今から何か、もっと重要なことを話そうとしているのが分かった。
けれど、それを聞くのが怖くもあった。あのいつも優しく穏やかな圭吾をここまで乱し、憔悴させることとはなんだ?
佑は圭吾の顔をじっと見つめた。今更ながら好きだ、と思う。こんな真剣な話の最中なのに顔を見て手を触れているだけで、心がグッと引き寄せられるのが分かる。
だから、できることなら、圭吾が背負っているそれを一緒に背負いたいとも思う。
佑は勇気づけるように圭吾の手をぎゅっと握った。
「以前に、家族と疎遠だと言う話はしたと思う。……私の母親は5歳の時に交通事故で亡くなった。その事故に巻き込まれて、雅紀も半身不随になった。そのせいか父親とは、仕事以外のプライベートではもう何年も会話していない」
「けど、事故……なんだろ? それがなんで圭吾さんのせいなんだよ」
混乱して佑は問い返す。圭吾は辛そうに目を閉じてから、佑の手を恐る恐るという風にそっと握り返した。まるで佑に縋るように。
「あの日、母と私と雅紀は買い物に出掛けていた。来年から小学一年生だったからランドセルを買いにデパートへ行ったんだ。二人ともお揃いのランドセルを買って貰って、そこまでは良かったんだが……きっかけは些細なことだった。買い物も終えて、昼食を食べて帰ろうという話になった。母は左右に私たちの手を繋いでいて、「何が食べたい?」って聞いてきた。……歩道を歩きながら何を食べるかで雅紀と喧嘩になったよ」
ここからは、事故のショックか記憶が曖昧なんだが……と圭吾は付け足し声をいっそう落とした。
「私はハンバーガーかなにかを、雅紀はファミレスでスパゲティーを、とかなんとか主張していた気がする。結局、母はハンバーガーにしましょうと言ってくれた。「いつもお兄ちゃんが我慢しているから」って。嬉しかったよ。嬉しくて嬉しくて、母親の手を振り払って横断歩道へ飛び出した。そして道の中央で振り返った。「早く行こうよ」って声をかけた。そこに──追いかけてきた母親と手を繋いで走ってきた雅紀の二人に、トラックがぶつかったんだ」
「っ……!」
佑は声もでなかった。ただ圭吾の手を強く握った。しかし握り返してくる力は弱く、圭吾の顔色は依然として悪い。自分を落ち着かせるためか、浅く息を吸っているのが分かった。
「しかも私は……トラックが来ていることに気づいた私は、事故の直前、咄嗟に──「Stay!」と叫んでしまったんだ。今来ると危ない、そういう警告だった……筈だ。母は……Subだった。私の言葉に反応して、一瞬動きが止まったのが分かった。手を繋がれたままの雅紀も逃げようがなかった筈だ……私のせいで、二人は逃げ遅れた。目の前でトラックに撥ね飛ばされる二人を、私は見ていた」
衝撃の事実の連続で、佑はかける言葉も見つからなかった。ただじっと圭吾の手を握っていた。
「だから私は……雅紀に頭が上がらない。あいつから母親を奪い、自由を奪った。……あいつもそんな俺を憎んでいる」
佑の指先を圭吾が痛いほどに強く握った。その手が震えているような気がして、佑は立ち上がり側に寄った。
何を言って良いのか分からなかった。分からなかったが、今はこうする他思い付かなかった。
「佑……」
圭吾を腕の中に抱き寄せる。
強ばる圭吾の肩を撫でて、そっと胸の中に頭を抱き込んだ。
胸が痛かった。全身が熱くなり、今にも涙が溢れそうになった。
勿論、雅紀も苦しいだろう。身体が動かないのは辛かろう、忌々しかろうと思う。一緒に母親を亡くした悲しみも思えばそれは想像を絶するに余りある。
だが圭吾もこの二十数年もの間、ずっと自分を責め続けていた。雅紀と同じく母親を失くし、母親殺しの自責の念にかられ、弟には憎まれて……。
子供のしたことだというには、あまりにも残酷で取り返しのつかない罪。
それを背負って、圭吾は生きてきた。そう思うと自然と涙が溢れた。
「君が、泣くことはない」
背を丸めて肩を震えさせる佑に、優しく圭吾が声をかけた。
「だって……あんたが可哀想だ」
「私はそれ相当の罪を犯した。だから仕方ないんだ……」
「けど、だってあんただって子供だった! 悪気はなかったのに!」
「周りの大人もそう言ってくれたよ。父も、今は関係が冷えきっているが、子供の頃は私を雅紀と同等に扱ってくれた。いや今も、仕事を任せてくれている」
そう、そこに突然の事故があっただけだ。
誰がその罪を問えるだろうか。
今のままでは、誰にとっても不幸なままだ。誰一人救われない。
「あんたは……自分をもう許すべきだよ」
「許してくれる相手は、冷たい土の中だ。もう一人は……私を嫌っている。許される筈はない」
圭吾が佑の頬に流れる涙を指で拭い、片手で腰を抱く。膝の上にのせて、子供にするように身体を揺らしてくれた。慰めるつもりが逆に慰められていた。
「もう遅い……今日はもう寝よう」
圭吾が佑の涙に濡れた目を大きな手のひらで覆った。
眠ることを促すいつもと変わらない優しい手に、佑は目蓋を伏せる。
圭吾の手に手のひらを重ねた。
──俺はやっぱり圭吾さんが本当に好きなんだ。圭吾さんが苦しんでいることが、こんなにも切ない。
3ー4
翌朝、佑がベッドで目を覚ました時には圭吾はもういなかった。
最初は洗面か温泉にでも行っているのだろうと思い、それからすぐに圭吾の荷物が全てなくなっていることに気づいた。そして座卓上に置いてあるメモにも。
佑は恐る恐るそのメモに近づいた。嫌な予感がした。
『佑へ。暫く一人で考えたいので、先に出ます。今は、君とどう向き合っていけば良いのか分からない。圭吾より』
「は……なん、で?」
佑はメモを呆然と眺めた。何度読み返しても、文面は変わらない。
一瞬、膝の力が抜けそうになった。
昨日あんなに重大な話をしてくれた。だから今日はゆっくり二人で時間を過ごして、色々と話し合ってみたかった。
「あんたに……一歩近づけたと思ったのに」
圭吾は一歩どころか何歩も遠ざかってしまった。そんな気がした。
メモをぎゅっと握りしめる。
だがすぐに、手の中でくしゃりとつぶれてしまった文字にはっとして手を開く。崩れ落ちるように座り込んで、急いでグシャグシャになってしまったメモを座卓の上で伸ばす。
もう一度文面に目を通したところで、視界が、ふいに歪んだ。
気づけば涙が溢れていた。
(そうだ……何を思い上がってたんだ。俺と圭吾さんは恋人でもなんでもない。本当のDomとSubのパートナーでもない。ただの……契約上の関係なのに、深く踏み込んでしまった……。圭吾さんにきっと、嫌な思いをさせたんだ)
そう考えると、再び涙が零れ落ちた。
誰かを想って泣くなんて、初めてだった。胸が苦しい、圭吾が恋しくて堪らなかった。迷惑だと思われても、圭吾の側にいたい。圭吾が過去に囚われているのだというのなら、そこから救いだしたかった。
(そうだ……俺は圭吾さんを助けたい。圭吾さんに、必要とされる存在になりたいんだ!)
佑は涙を拭って立ち上がると、浴衣を脱ぎ、買って貰ったスーツに着替えた。
まずは圭吾がどこに行ってしまったのか、それを突き止めなければならなかった。
ホテルをチェックアウトして、佑は敦の働く旅館へと向かった。
一瞬、雅紀に出会ってしまったらと頭をよぎったが、それでも構わない、今は圭吾を探し話すことが先決だ。そう頭を切り替えた。
旅館のフロントに着くと、敦はカウンター内で急がしそうに立ち働いていた。ちょうどチェックアウトの時刻だった。
佑は目の合った敦に軽く会釈をすると、ホテルのロビーを指差し待っているとジェスチャーで伝えた。
チェックアウトをするの客達を送り出す敦や他の従業員の姿を見つめていても、頭の中は圭吾のことでいっぱいだった。二十分ぐらいは待っただろうか、いつの間にか人影が少なくなっていたカウンターから敦が佑の元に来て「お待たせしました」と少し曖昧な笑みを浮かべた。
「前の席、よろしいですか?」
「もちろん、どうぞ。お忙しいのに、お時間いただいてすみません」
「いえ、大丈夫ですよ。それで、ご用件は……もしかして雅紀さんのことでしょうか?」
そう言われて圭吾は敦にも言わずホテルを出たのだと知り、佑は驚いた。「いえ、その」と言い淀んでから、心を決めてまっすぐに敦を見て問い掛けた。
「雅紀さんのことにも関係あるのかもしれません。けれど、今は圭吾さんの行方を知りたいんです。何処か心当たりはありませんか?」
「圭吾さん、ですか?」
今度驚いたのは敦だった。戸惑いを隠しきれず声を潜めて、不思議そうに首をかしげた。
「え。ご一緒だったのでは……?」
「朝になったら、座卓の上にこれが置かれていました」
当然二人でいると思われていたことに苦笑して、佑はしわを伸ばしたメモ用紙を敦へと差し出した。敦はそれを受けとると、目線を何度も上下させて内容を繰り返し読んでいた様子だった。そして、ハァ……と深く溜め息をついた。
「ちょっと、失礼します……」
そう言って、ネクタイを緩め、シャツのボタンを一つ外した。少しラフな雰囲気になった敦は身をソファへと預けて、綺麗に整えていた黒髪を軽く掻き上げた。暫く考える様子を見せた後、指の間から佑を見つめた。
「まず申し訳ありませんが、今圭吾さんがどこにいらっしゃるかは私では分かりかねます」
「そう、ですか……」
「そしてここからは、彼らの従兄弟としての話になりますが」
背筋を正し真剣な表情で佑を見つめる敦に、佑も身を乗り出し膝の上でぐっと強く拳を握った。
敦は何度か躊躇うように口を開き、また閉じては何処から話そうかと迷っているようだった。佑は敦がフロントや客前で見せる笑顔とはまったく違う、苦しげな表情をしているのを黙って見ていた。何を話されても大丈夫だと自身に言い聞かせて、佑は待った。
「……圭吾さんと雅紀さんの身に起きた事故のことはお聞きになりましたか?」
「はい、昨夜圭吾さんから聞きました……なんて言えばいいのか、俺、聞いていて泣いてしまって」
「はい、お二人だけでなく、そのお父様にも、私を含めた親族にも悲しく辛い事故でした」
敦は目を軽く伏せる。過去に思いを馳せるように、ゆっくりとした口調で敦は話した。
「当時は私も幼くて、事故の内容自体を詳しくは覚えていません。ただ、伯母がなくなったこと、雅紀さんがもう歩けないことなどは理解しました。長じては、親しくさせていただいていた圭吾さんや雅紀さん自身からも事故の話を聞きました。残念ながら、事故以来お二人は仲違いされていたので、別々に聞くことになりましたが……」
「仲違いと言うのはいつ頃から?」
「事故後、すぐにだということです。自身の身体のことや、お母様の死などを知らされてパニックになった雅紀さんを、圭吾さんが落ち着かせようとした途端、「お前が悪いんだ!」と叫ばれたとか」
聞いていてやはり辛い内容だった。
母を失い、弟は両足の自由まで奪われた。動かない足を前にして「お前が悪いんだ」と責め立ててくる雅紀に、圭吾は謝る以外にどうしようもなかっただろう。幼い二人の心に残った傷は、今もなお生々しく口を開いたままなのだろう。
佑と敦の間に重苦しい沈黙が流れた。
「……事故の直接の原因を敦さんはご存じなんですか?」
「はい。……学生時代に、圭吾さんが教えてくれました、それまでは、私は本当にただの事故だと聞かされていましたから。本当に驚きました」
少しの間、言葉を切ってそれから敦はまた喋り始めた。
「まさか、伯母がSubだったなんて。それが事故に繋がっただなんて。大学生時代の圭吾さんは『俺が代わりに死ねば良かったのに。俺が、雅紀と代わってやれれば……』と、よく言っていました。その頃の二人の仲は最悪で、すれ違っても口もきかなかったと記憶しています」
そこで佑は、雅紀に対する圭吾の態度を改めて理解することができた。
罪悪感から、雅紀を前にすると言い返せない、なんでもいうことを聞いてしまう。そこにはいびつな兄弟関係が存在するのだと分かった。
「圭吾さんは家から出てマンションで一人暮らしを始めました。その頃『もう、罪悪感に耐えられない』と、私に話をしてくれたのです。圭吾さんはいつも孤独で、人と距離をとっていました。事故のせいでしょう、自分がDomであることを嫌悪しているようでした」
佑は雅紀が放った言葉をふいに思い出した。
「それで、雅紀さんが「一生、パートナーは持たないとか言いやがって」って呟いていた……?」
「そうです、Subのパートナーは作らない。長らく、圭吾さんはそう宣言されていました」
「え、じゃぁ。俺との関係は──」
そこまで考えて合点がいった。
(ああ、だからあくまでも「契約」だったんだ……)
落胆とも気落ちともつかぬ感情が佑を襲った。
契約だから優しくしてくれた。契約だから躾もしてくれた。契約だから、あんなに気にかけてくれていた。佑は圭吾のSubに、パートナーに選ばれたわけではなかったのだ。
だから姿を消してしまった。
拒絶するように、紙切れ一枚で。暫くってどのくらい待てば良いんだ? 向き合い方が分からないってなんだ? 佑は唇を噛み、拳を再度ぎゅっと握り混む。
薄暗い感情の渦へと佑が沈み混んでいこうとしたそのときだった。
穏やかな声で敦が言った。
「圭吾さんは、あなたに出会ったことを嬉しそうに語ってくれましたよ」
「え?」
「まるで初めて恋に落ちた若者のようなはしゃぎっぷりで。見ていて微笑ましかったくらいです」
「あの圭吾さんが?」
「そう、あの圭吾さんがです」
秘密ですよとそこだけは微笑んで敦は唇の前に指を立てて見せた。
その微笑みをどうとって良いのか佑には分からなかった。自分は圭吾の特別なのだろうか。痛ましい事故の記憶を少しでも忘れさせる相手になれていたのだろうか。
佑は掌を開き、そこをじっと見つめた。自分はすぐに腕力に出るような人間だ。怒りの沸点が低い。そんな自分をコントロールすらできない。
ただ圭吾の側にいると気分が柔らいだ。新鮮な空気を胸一杯に吸えるような、自由で満たされた感覚を味わうことができた。
もしかしたら自分も、圭吾にそんな気持ちを味あわせることが出来ていたのだろうか。
「──ありがとうございます。俺、圭吾さんを探してみます。圭吾さんが俺を大切にしてくれたように、俺も圭吾さんを大切にしたい。それに、圭吾さんが俺を待っていてくれるような気がするから」
敦は緩めていたタイを閉め直しながら、頷いた。
腰を浮かし、敦は佑の拳にそっと手を置いた。佑は驚いて敦を見上げ、そこにある笑みを真摯に見つめ返した。
「会うつもりがあるなら、ぜひ追いかけてあげてください。圭吾さんは、ああ見えて臆病ですから。でも、きっと圭吾さんも佑君を待っていると思います」
優しい微笑みに、佑はしっかり頷いた。
そうだ、圭吾はいつだって佑を待っていてくれた。今度は佑が圭吾を追いかける番だ。
3ー5
そこに圭吾がいるとは思えなかったけれど、佑は圭吾のマンションに向かった。
インターホンを二度鳴らす。中に人がいる気配はない。もう一度を鳴らしたが、圭吾はいつもと同じように笑みを浮かべて出迎えてはくれなかった。
圭吾は佑を嫌いになった訳ではなく、佑にどこか負い目を感じているのかもしれなかったと佑は思う。圭吾がどんな人間でも佑が彼を嫌うはずがないのに。
佑が圭吾を追いかけると決めたのだ。
マンションにだって何度だって来る、街中を探したっていい。
(けどマジでどこにいんだよ……圭吾さん)
日を変えて何度も敬語のマンションを訪ねた。一緒に回った店にも顔を出してみた。けれど圭吾の消息は用として知れなかった。敦とも定期的に連絡を取っていたが、熱しの元にも連絡は来ていないということだった。
(仕方ない……最後の手段だ。職場に行ってみるか)
半休を取って、敬語の会社へと足を運ぶ。まだまだ風は冷たくて、心も凍えてしまいそうだった。あ早くあの声で命令されたい。「良い子だ」と褒めて貰いたい。
初めて訪れた圭吾の会社は、予想よりも随分と大きくて、少し佑はたじろいでしまった。けれど、ここで立ち止まるわけにはいかない。圭吾さんを取り戻すんだ。
「すみません。大友リフォームの東雲と申します。あの、社長はいらっしゃいますか……?」
受付の愛想の良い女性がニコリと帰化的な返答をする。
「申し訳ありません。社長の西沢は体調を崩しておまして……今日は出勤しておりません」
佑の眉が微かに寄る。まさか仕事にも顔を全く出していないのだろうか……。次の言葉を選んでいる時だった。背後から圭吾によく似た声が投げかけられた。
「なんだ、圭吾の所の犬じゃないか」
「な……っ!?」
失礼な物言いに佑が勢い良く振り返ると、今入ってきたばかりのエントランスに雅紀がいた。車いすに優雅に座り、先日と同じ男が傍に控えていた。雅紀はこちらが不気味に思うほど、上機嫌だった。
「圭吾はいないよ。ここ何日も会社を休んでいる。正月明けだっていうのに、社員に示しがつかないよ。──まぁ、いっそのことこのまま一生出て来ないんでも良いんだけどね」
僅かに前へ出て、佑は詰め寄った。
「圭吾さんをどこへやった?」
「俺が知っているとでも……?いいよ、圭吾に会わせてあげるよ。。表に車を待たせてあるから、お前も一緒にくるんだ」
「……分かった」
傍にいた男が軽く一礼して、先に雅紀を連れて会社を出る。佑はその後を追った。車の中ではお互い何一つ喋らなかった。ただ、隣に座った雅紀からは凍えるような冷たい気配が漂っているだけだった。
「さあ、ここが私のマンションだ」
案内されたマンションは、車いすで生活する雅紀のためだろう。広々としたエントランスに、幅の広い廊下を備えたマンションの最上階だった。何もなかった真っ白い圭吾の部屋と違って、雅紀の部屋は花や観葉植物、絵画で彩られていた。華やかなリビングに通されて、すぐに雅紀も正面に車いすを移動させる。見渡す限りで圭吾がいそうな気配はない。勢い、佑は身を乗り出して雅紀に剣のある声で問うた。
「それで?圭吾さんは……」
「圭吾はいないよ」
「は……?それじゃ、なんで俺を呼んだんだ」
「躾がなってないな。圭吾は今、いないだけだ、。少し待てよ。呼んである」
「圭吾さんは、元気なんだろうな!?」
「さてね。俺が圭吾の健康状態を知る必要などないしな」
「う……」
白けた沈黙が二人の間に落ちる。付き添いの男が雅紀と佐の前に温かな珈琲を運んで来た。佑は少し迷ってから、カップに手を伸ばした。
(そうだ、落ち着かなきゃ……・俺は慶伍さんに会ってただ話が沿いたいだけだ)
しかしその決意も長くは続かなかった。カップをソーサーに戻してしばらく経つと、抗い
がたい眠気が佑を襲ったのだった。
(な、んだ……これ。まさか、睡眠薬……?)
目の前で視線も合わさずに窓のそとぉお眺めている雅紀を睨みつける。しかし、声は出ず、立ち上がることも出来ずにそのまま佑は意識を手放した。
次に目覚めたとき、男の怒鳴り声が間近でした。
「佑!平気か……!?」
「圭吾、さん……?」
「雅紀、佑に何をした……!?」
気づけば、椅子からずり落ちて、圭吾の腕の中で抱き起こされているところだった。どうやら椅子から滑り落ちてしまったらしい。髪を掻き上げられて、表情を覗かれる。そこには、あんなにも恋い焦がれた、圭吾の顔がすぐ傍にあった。
「圭吾さん……!」
「ああ、俺が着たからにはもう大丈夫だ。雅紀、どういうことか話して貰おうか?」
「美しき主従愛……といったところか?別に何も。少しお茶を一緒にしていただけだ」
「お前の珈琲は客を昏倒させるのか!?」
「お疲れの様子でしたからね。誰かさんを探して、迷っていたみたいだ」
首の後ろに腕を入れられて、頭をしっかりと抱き寄せられる。圭吾の体温と少し早く打つ胸の鼓動が佑にはしっかり聞こえた。
「……少し、話そうじゃないか」
その声で、雅紀の傍にいた男が眉をやや寄せて、心配げな面持ちで佑の方へ手を伸ばした。最初は抵抗していた圭吾だが、最後にはその男の手も借りて、ぐんにゃりと力が抜けてしまった、佑の身体をソファへと寝かせた。佑が首を巡らすと、二人がテーブルを挟んで対峙しているのが見えた。
「なんで、お前はこんなことをする……!?雅紀、答えろ!」
「は、それこそ俺だってあんたに聞きたいよ。一人で幸せになろうなんて、虫が良すぎじゃない?」
「佑を巻き込むなんて……金輪際俺たちにはかかわらないでくれ」
「俺たち、ね。それにしてはそこの男から逃げ回っていたみたいだけど?」
ぐっと圭吾が言葉を詰まらせたのが分かった。良いんkんだ、と佐は心の中で呟いた。
(こうして、助けに来てくれた。それだけで、俺は……)
「甘いんだよ。一人で幸せになろうなんてさ。……ここまで、堕ちてきなよ」
憎々し気に雅紀の顔が歪む。圭吾と同じだからか、その表情は一層醜く佑の目には映った。
「お前のせいで、母さんは死に、俺はこんな身体になった!お前は俺に償う義務がある!」
「それは……っ。本当にすまないと思っている……」
「それじゃ、俺の前で土下座しなよ。それで、そこの男とは金輪際会わないって誓ってくれる?」
苦し気に圭吾の眉が寄り、唇は僅かに震えていた。重い沈黙がその場に落ちた。佑は何とかソファから身を起こして、圭吾の方を見つめていた。
「そんな、約束はできない」
絞り出すような声で圭吾は言った。佑はよろよろと立ち上がると圭吾の側へ一歩委でも近寄ろうと腕を伸ばした。そんな佑の様子に気付いた圭吾が立ち上がって、直ぐに肩を貸してくれる。
「無理はするな。すぐに、俺の部屋に帰ろう」
「返さないって言ったら……?」
静かに雅紀が首を傾げた。その頬には自重とも圭吾たちへの嘲りとでも、憐憫とでもいうような表情が浮かんでいた。
「圭吾、土下座しろ」
再度の命令に佑の中の何かが切れた。よろりと立ち上がり、圭吾に助けてもらいながらも正面から雅紀を睨みつける。
「あんたさ。結局、子供なんだよな」
「な、んだと!?」
「怪我も、母親のことも……可哀そうだとは思うよ。けど、周囲のことが全然見えてない。圭吾さんだって、母親を亡くしたのは同じだ。そかも、弟が自分のせいで歩けなくなってしまって……その後悔や重責を考えたことがあるのか!?」
「は、何を言うかと思えば……」
「アンタは悲劇のヒーローで、圭吾さんは悪役か。そうすれば、あんたは楽だもんな。折角の二人きりの兄弟なのに、それじゃ悲しすぎんだろ……」
最後に言葉は呟くようになってしまった。佑は本当に目の前の男が哀れでならなかった。憎み、恨むことでしか自分を保てなかった男。兄弟の絆を断絶し打て締まった男。本当なら二人で、様々な苦難を乗り越えることが出来たというのに。
「……甘えんなよ」
「う、煩い!」
「お願いだから周囲の救いの手を拒むなよ。俺も以前はそうだった。心を閉ざして、Subの自分を嫌いになって……だけどそれじゃ前に進めないんだよ。俺は、圭吾さんに会って変われた。あんたにだって、そういう人がいる筈だ」
「そんな人間なんていない!」
「いや、いる!あんたが気づいていないだけで、きっといる」
「そ、それでも、圭吾の罪は消えない!」
気圧されたように黙っていた圭吾がそっと佐をから手を離して巻きの前に進み出た。床に膝をつく。止める間もなかった。圭吾は腰を折り、深々と雅紀の前に頭を垂れた。
「母さんのこと、お前のけがのこと……本当にすまなかった」
「なっ……!?」
「確かに正面で謝ったことがなかった。俺はお前への気後れのせいで、こうやって対峙するのを避けていた。本当に、申し訳なかった。──けれど、佑に手を出すことは俺が許さない。お前への懺悔と佐とのことは何の関係も無い」
「開き直りかよ」
「そうとってくれても構わない。俺は、お前や母さんたちへの罪を背負ってこれからもやっていく。佑と一緒にな」
毅然と顔を上げると、圭吾は佑の手を力強く握った。
「明日からまたちゃんと出社する。お前も会社に顔を出してくれ」
「う、うるさい!煩いうるさいうるさい!」
「雅紀、さま……」
取り乱す雅紀へ傍にいた男が宥めるように声をかけた。
「……出ていけ。お前の面なんて見たくもない!」
最後の虚勢だろうか、雅紀が吐き捨てるように言うとくるりと背中を向けた。
「もう、来るな」
「ああ、……承知した」
敬語が佑の肩を抱く。雅紀は振り返らなかった。
佑と圭吾は、マンション前に停めていた圭吾の車に乗った。圭吾の匂いが微かにする。佑はほう……と息を吐いた。圭吾が心配げな様子で片手を佑の頬へ伸ばす。
「多分、睡眠薬でも盛られたな。あいつは自身が眠れないからって、常備している。俺たち兄弟の揉め事に巻き込んでしまってすまない……」
「……そうだよ。謝れよ」
「すまない……」
「巻き込んだことじゃなくて、俺の前から逃げたことを謝れって!」
はっとしたように圭吾が顔を上げた。
「俺は、あんたに救われた……なのに、あんたが逃げちまったんじゃ、前の俺に逆戻りだ」
「……そうだな。俺は、逃げ出さずにお前と話をするべきだった」
「そうだよ。……分かってんなら、良い」
「佑、俺の佑……」
雅紀が両腕を伸ばし佐の上体を引き寄せた。愛しげに、切なげに低い声で名前を呼ぶ。佑は小さな声で懇願した。
「アンタのマンションに連れて行ってくれ」
二人で縺れ込む様に寝室へと雪崩れ込む。
佑はベッドへ放られて、自分から着ていたシャツのタイを引き抜いた。その間にも圭吾の手は器用にタスクの下肢を暴いていく。スラックスを脱がされて、下着までベッドの下に落とされた。あっと言う間に互いに裸になった。圧し掛かってくる男の体温を佑は全身で受け止めた。
「お前は、本当に無茶ばかりをする」
「そういうところが好きだろ?」
佐が笑って見せると、圭吾は苦笑して小さな声で「Open」と呟いた。佑の身体がぴくんっと命令に反応する。そっと口を開いて、次に何が来るのかと瞳を潤ませて命令を待つ。
「もっとだ。舌を出すんだ、佐」
「ん……ぅ」
舌に舌が絡んで、懐かしい圭吾の味が口中へいっぱいに広がった。佑は一生懸命に舌を絡め返す。濡れた水音と、甘えたような自分の声が静かな寝室にやけに大きく響く。たっぷりと十分近く口づけをしたから、圭吾は佑の身体のラインを掌や指で辿り、唇をどんどん下げていく。もう下腹を超えて、緩く勃起したペニスに唇がつきそうだ。
「──圭吾、さん……」
「Openだ。足を大きく開いて、膝を自分で持ち上げてごらん?」
あまりに恥ずかしい命令を甘い声で圭吾は口にする。けれど佐は躊躇うことなく、膝裏に腕を通して、ぐっと内股を開いて期待に揺れるペニスを圭吾の前に晒した。数度、指で擦られて、そのまま熱い咥内へとペニスが包まれる。性急な口淫だった。圭吾は佑が感じるところを正確に責めて、頭を上下させて何度も力強くペニスを吸い上げた。
絶頂はすぐにやってきた。会陰を押されながら、びくびくと内股を震わせる。
「っ……んぁ、あ──……イクっ、いく……圭吾さん、放して……っ!」
「駄目だ。俺の口の中で果てるんだ」
「や、やぁ……っイク……イッくぅ……~~っ!!」
先端を強く吸われた途端、全身を痙攣させて、佑は絶頂に達した。びゅくっ!と白濁を吐き出したかと思えば、そのまま圭吾の喉奥へと精液を放ってしまう。細かく痙攣するタスクの身体を押さえるようにして、圭吾は最後の一滴までも搾り取るように股間から暫く顔を上げなかった。
「の、飲んだのか……?」
「ああ、美味かったぞ」
顔を漸く上げた圭吾がニヤリと笑う。佑はそれだけで真っ赤になってしまった。赤い目元を隠そうと腕を上げたところで、ぐいっと下肢を引き摺られた。足は大きく開脚させられたままだ。その太腿の内側へと圭吾が身体を進めてきた。片手で佑のイッたばかりのペニスを握って、会陰のあたりをゆっくりと優しくマッサージしてくる。そして、そのまま指はアナルへと触れて、緊張を解すように数度、小さな穴に指腹を擦り付けてから、くちっと指先を潜らせてくる。
「痛くないか……?」
「ん。へーき」
違和感はあったが痛みはない。時間をかけて指が奥の方まで侵入してくる。腸は自然と指を締め付けて、佑も内臓を軽く押し上げられるような苦しさを感じる。けれど、指は浅瀬に戻り、中の壁をゆるりと撫でくる。息を浅く吐いている時にそれは起こった。圭吾の指があるスポット押すと、タスクの身体がびくんっと跳ねた。強い快感が、その点を中心にしてじんわりと全身に広がってくる。
「……ぁ、あ……圭吾さんっ。そこぉ……~~っむり、」
「気持ち良いだろう?ここが佑の弱い所だな」
ぐりぐりと指でそのしこりを押されて、先程達したばかりだと言うのに、ペニスがぐんっと勃ち上がる。先端からは先走りが溢れて、思わずアナルを締め付けてしまった。圭吾は指を二本に増やすと、そのスポットを容赦なく責めてくる。佑は何回も、「イカせて」「出ちゃう」「許して」と繰り返し圭吾に懇願した。けれど身体は正直で、気づけば、股を置きく開いたまま、つま先立ちになり、圭吾の指の動きに合わせて、腰を上下に振っている自分がいた。
「んんっ──……!」
また、射精をしてしまった。アナルの入り口はもう緩々で、美味そうに圭吾の指を食んでいる。そしてその奥は、もっと最深部へと太く熱いものが欲しいのだと、蠢いて圭吾を誘っていた。
「なぁ……きて。あんたが、欲しいよ」
「ああ、俺も限界だ」
いつも余裕そうだった、圭吾の表情が歪んで笑っている。佑は再度、膝裏に腕を通して、足を大きく広げて、指先で、アナルをくにっと開いて見せた。早く熱塊が欲しくて堪らない。それを与えられるなら、どんな恥ずかしい格好でも出来た。くぱぁと開いた珊瑚色の襞に、圭吾が丸いペニスの先端を宛がう。それは、佑が想像していたのよりも、随分と大きなものだった。だが、今更そんな事は気にならなかった。早く、……と腰を揺すってみせる。
「──っ、あまり煽るな」
「圭吾さん」
ぐっと一番太い雁首が肉の輪を拡げながら進んできた。アナルが裂けてしまうのではないかというような鮮烈な体験だった。痛みと、違和感と、微かな快感。佑はその小さな快感を拾おうと懸命に、胸を上下させた。後半は、、一気だった。佑の腰を押さえたまま、ずずっとペニスが侵入してくる。得も言われぬ快感だった。とんっと、尻肉と敬語の恥骨がぶつかった。
「ぜんぶ、入ったぞ」
「んっ。分かる……圭吾さんで、いっぱいだ」
「少し、このままで待つか……?」
すぐにでも動きたいだろうに、圭吾が優しく佑の髪を掻き上げる。その耐える様子がいじらしく、また愛しかった。佑は足両足を圭吾の胴に絡めて、首筋をぎゅっと引き寄せた。
「……動いて」
囁くと、中でペニスがより大きさを増すのを感じた。それ以上の返事はなかった。
「あっ、あっ……や、んぅ……~~っんぁあ……んっ、あっあっ、ぁんっ」
突き上げられる度に、声が止まらなくなってきた。中は痺れたようになって、大きなストロークで中を穿たれる度に、前立腺を擦られて、何度も中イキを繰り返した。きゅんきゅんっと締め付けて、圭吾のペニスに粘膜が纏わりつく。
「そんなに、締め付けるな。俺が、もたない」
笑いを含んだ声が真上からする。だが、佑にはどうすることも出来ない。身体が勝手に反応してしまうのだ。激しい突き上げに佑自身のペニスも膨らんで、先走りをぽたぽたと自身の腹の上に垂らしていた。
「もう少し、深くいくぞ」
そう耳元で囁かれて、何がと聞く余裕もなかった。圭吾が両手を佑の身体の脇について、大きく腰を引き、それから容赦なくごっと腰を打ち付けてきた。あまりの衝撃に視界が白くちかちかと明滅する。知らないうちに佑は達していた。狭くくねったその器官に、ぐりっと圭吾の亀頭が入り込んでいる。かはっと詰まった声を吐き出す。そこからはもう嵐のようだった。圭吾は雄々しく腰を大きく振って、最奥のその場所ばかりを何度も突き下ろす。ペニスが硬さを増して、内部を殴りつけるような荒々しさで、佑はしがみ付くので精いっぱいだ。
「ひぁっ!ぁ、あんっ、あん……かは……っ!いく、イクイクイクいくぅ……っ!!」
どうにかなってしまうんじゃないかと思うほど、気持ちが良かった。何度も絶頂迎えて、その度に排出される精液はどんどん薄くなる。最後には空イキのようになってしまって、ペニスの先からは何もでなくなってしまった。
「けいごさ……っ!好き、好き……っ」
「俺もだ。佑……愛してる」
深く深くキスをされた。激しい腰つきがいよいよ速くなって痙攣する様に佐の中でペニスが暴れ回った。最後にずしんっと重く、奥壁を思いきり突き上げられる。足の先まで、快感が走り抜けた。低い呻き声が耳元でする。その途端、押さえつけられていた何かが弾けた。圭吾特有の甘いバニラの香りが部屋中に広がった。
「たすくっ!!」
名前を呼ばれて、熱い滾りを最奥に叩きつけられる。全身が歓喜に震えて、佑は一瞬息をするのさえ忘れた。じんわりと腹の奥が温かいもので満たされていく。これが欲しかったのだと、薄れていく意識の中で佑は圭吾の名を呼んだ。声に出ていたかは分からなかったけれど。
あれから、数か月が経った。
佐と圭吾は珠長に交際を重ねていた。身体を重ねた翌朝に、契約書は破棄した。
「これは、もう必要ないだろう?」
目を細めて嬉しそうに笑う圭吾の姿が嬉しかった。
雅紀からの接触もあれから一切なかった。
平穏がやっと訪れたのだ。
今日は、二人で佑が見ぬつけるチョーカーを購入しに街へ来ていた。二人で様々なものを見せて貰ったが、佑が気に入ったのは、太めのエナメルの首輪然とした黒のチョーカーだった。これを着けてしまえば、もう佑は圭吾のものになったという証だった。
「本当に良いのか?」
微笑んで圭吾が佑の首を軽く撫でる。佑は今更何をという風に笑み返した。
「これが、運命なんだよ」
不敵に微笑む。その瞳にはすさんだ荒々しさはもうなかった。信頼できるパートナーを見つけたのだ。これ以上の幸福があるだろうか。
「一生かけて、愛してくれよ」
「勿論だ」
二人は街の雑踏の中へと仲良く肩を並べて消えていった。
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