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1巻
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プロローグ
六月、ジューンブライド。花嫁の季節。
梅雨の合間に晴れた今日、私は結婚する。
相手は一ノ瀬グループの御曹司、一ノ瀬楓。二十七歳。俗に言う玉の輿だと思う。
けれど私は彼に恋い焦がれていたわけでもなく、かといって嫌い抜いているわけでもない。彼の事情で契約結婚を申し込まれ、お金が必要だった私が受け入れた、ただそれだけの関係。
新婦控え室では、両親と姉が泣いている。もしかしたら、愛のない結婚だと気づかれているかもしれない。
それは、娘や妹が嫁ぐ喜びではなく、申し訳ないという類のものだったから――私は、挙式当日の花嫁らしくない溜息を零した。
『時間がもったいない。はっきり言えば、俺と契約してほしい』
求愛とは程遠いそんな言葉を受けて、私は彼と契約結婚をするのだから。
***
不意に重ねられた唇を、黙って受け入れた。そのまま抱き上げられ、ベッドに運ばれる。
「ん……」
キスが深くなり、舌を絡め取られた。
濡れた音がして、楓さんの舌が口内を撫でる。ぞく、と肌が粟立って――それが快感なのだと知った。
キスを繰り返しながら、唇に指が押し当てられた。ゆるりと撫でられた時、声が零れた。
「ふ……っあ……」
「くすぐったい?」
唇に触れられているだけなのに、全身が震える。唇を撫でていた指が、そっと口内に押し入ってきた。
「ん……っふ、ぁ……」
咥えさせられた指に、思わず舌を這わせる。節のない指を舐めると、楓さんの瞳孔が猫のように細められた。
バスローブをはだけられ、乳房を揉まれる。少し痛いくらいの刺激に思わず声を上げると、楓さんが耳に噛みついてきた。
「っ、ん……!」
耳に愛撫される度、体が震える。気持ちよくてぼうっとなった私を、楓さんがくすぐるように呼んだ。
「桃香」
またキスが降りてきて、同時に乳房が包まれる。大きな手が乳房を揉み、そこから湧く快感に喉を反らすと、首筋に口づけられる。
首、鎖骨、乳房にキスされ、乳首を指先で捏ねられた。
「っぁ、……あ……っ」
零れる声を抑えようと、口元を手で覆う。それでも、声は殺しきれない。
乳首の一方を指で、もう一方を唇で責められ、私は突き抜けるような快感に体を捩った。
「あ、ん……っあ、あ……!」
吸われたり、指で押される度、乳首の感度が上がっていくのがわかる。もう、彼の吐息だけで震えそうだった。
「ん……っ、あ、っあ……!」
乳房が解放され、バスローブを脱がされた。下着越しに秘部に指を添えられる。恥ずかしさに、手で顔を覆った。
するすると撫でられ、ショーツを剥ぎ取られる。剥き出しになった場所に、さっきまで私が咥えていた指が触れた。
「ん……っ」
声は抑えきれなくても、せめて顔は隠したい。楓さんの指が、少し乱暴に秘部を嬲る。くちゅりと濡れた音を立てて、指が差し込まれた。
「――……っ!」
違和感と異物感に、悲鳴を堪えた。痛みはそれほどではないけれど、圧迫感が強い。
「痛いか?」
少しだけ申し訳なさそうな楓さんの問いに、私は首を横に振った。だって、これは仕方のない痛みだ。私が初めてなのは――処女なのは、楓さんのせいじゃない。
そう達観したいのに、もう一本指が押し込まれ、思ってもいなかった痛みに思わず息を呑んだ。
「……っ、あ……っ」
私の体は、押し入ってくる異物に抗うように震えている。この先が怖くて息を殺した時、楓さんが乳房に吸いついた。
「あ……」
突然のことについていけない私の隙をつくように、差し込まれていた指がぐるりと回転する。
「あっ、ん……っ!」
思わず眉を顰めたけれど、楓さんは構わず行為を続けた。違和感が強くなった時、不意に下肢に熱い息がかかった。――私の体の中心に、楓さんが顔を埋めている。
羞恥に耐えかねて脚を閉じようとした時、一番弱いところを愛撫された。
「あ、っあ……っん、あ……!」
全身が、大きく震える。楓さんが吸いついたり歯を立てたりする度、胎内がどくりと脈打つのがわかった。
狭い膣で指が蠢き、押し広げながら弱い部分を擦られる。今まで知らなかった快感に、私は息をするのが精一杯だった。
「っん、あ……っふ……っ、あ……!」
両手の下に隠した顔が熱い。痛いのか気持ちいいのか、それもわからない。ただ、楓さんの指と舌に翻弄されている。
不意に指が引き抜かれた後、腰を抱かれる。熱くて硬いものが、私の中心に宛がわれた。それが何かは、知識としてだけ知っている。
「……っ」
怖くて震えそうになった時、ソレが私の中に挿入ってきた。
さっきまでとは比較にならない異物感と痛みに耐えかねた時、やわらかくキスされた。
下半身を意識から切り離したくて、私は楓さんのキスに溺れた。口内を嬲る舌に夢中になっていたら、体を引き裂くような痛みが襲った。
「っん……、ん、……!」
痛い。痛くて、熱くて、引き裂かれそう。早く終わってほしい。涙が零れ落ちたのを感じた時、楓さんが囁いた。
「痛むだろうが、我慢してくれ」
キスの合間に告げられた我儘に、私は何と答えればいいのかわからない。痛いのに、早く終わってほしいのに――逆らえない。
私をじっと見つめて、楓さんがゆっくり動き始めた。思わず、眉を顰める。
「っ、……ん……っ、あ……!」
痛みと異物感、それから――侵入されている違和感。同時に、ほんの少しだけ、快感が走る。
その快感だけを追おうとした時、体が反転させられた。
「いた……い……っ」
思わず悲鳴を零したけれど、楓さんは背中に口づけながら律動を始めた。――仕方ない、だってそうしないと終わらないことだもの。
わかっているのに、涙が零れるのはどうしてだろう。引き裂くような痛みも、灼けるような熱さも、今更なのに。
「っん、あ、ん……っ!」
耳に残る自分の声は、他人のもののように聞こえた。実際、こんなに痛いのに喘ぐなんて、他人だとしか思えない。
「あ……っあ、ん……!」
強い痛みと、僅かな快感――どちらも厭わしくて、早く終わってほしいと泣きながら、私は最悪の初夜を過ごした。
1.彼の提案
私、眞宮桃香の家は、そこそこの規模の不動産会社を経営している。が、父が内部留保より規模拡大に注力した結果、現状は不景気の煽りを受けて倒産寸前だ。
以来、二十四歳の私と二つ上の姉に持ち込まれるお見合い話は、それなりの結納金を用意してくれる相手ばかりになったけれど、正直、結納金程度では焼け石に水だった。何せ、父の負債は十億円以上になるのだから。
そんな時、旧財閥系の一ノ瀬グループ御曹司からお見合いの申し入れがあった。姉ではなく私を名指ししたことに疑問はあるものの、相手は今までにない資産家だ。条件として実家を救ってくれるなら、どんな相手とでも結婚するつもりだった。
桜が美しい盛りの春の日曜日。吉日を選んで、お見合いの席が設けられた。とはいえ、仲人は不在の簡素なものだ。
私は祖母からもらい受けた薄桃色の振袖を着て、美しい桜並木の道をタクシーで通り抜ける。お見合いの経験は何度かあるけれど、その度に緊張する。
そうして赴いたお見合いの席――都内でも屈指のラグジュアリーホテルのラウンジに着いた私は、事前の打ち合わせの通り、ウェイターに待ち合わせである旨を告げた。
上質な調度品を飾るように花々が生けられ、ふかふかの絨毯を敷きつめたラウンジの奥に、待たせ人がいた。
その人は、呆れるほど容姿端麗な男性だった。私が近づくと、すっと立ち上がる。物憂げな表情がよく似合う美貌と、ダークグレーのビスポークスーツ越しでもわかる引き締まった長身の、モデルのような体型。身につけているものは明らかに一流の品ばかりだった。
これは、私の方こそお断りされても仕方ないと思った。私も振袖で正装してきたけれど、明らかに相手の方が華やかだ。
「一ノ瀬楓です」
一ノ瀬楓――一ノ瀬さんは、声も良い。低すぎないテノールの声は艶やかで、年相応に若く張りがある。
「眞宮桃香です」
このお見合いが仲人を立ててのものではなく、本人のみの顔合わせという形を取っているのは一ノ瀬さんからの要望だ。理由はわからない。
一ノ瀬さんが肘掛け付きの椅子に座り、私はソファに腰を下ろす。帯を崩さないように姿勢を保つのは、バレエを習っていたおかげで体幹が鍛えられているので問題ない。
「早速ですが、私はこの話を進めたいと思っています」
前置きなしの一ノ瀬さんの言葉に、私は手にしたコーヒーカップを落としそうになる。今まで経験したお見合いでは、一応、相手を知ろうとする努力の会話があったはずなんだけど。
「進めたい、とは……?」
「結婚したいという意味です」
その言葉には何の熱もなくて、間違っても「まさかこの美形御曹司が私に一目惚れ⁉」とはならないくらい平坦で冷たい。
「その、釣書は拝見しましたが……いきなり結婚と言われても」
「見合いというのは、結婚を前提にしたものでは?」
冷静に言われて、私は言葉を探した。正論には正論で返すしかない。
「会ってすぐに、何の会話もなく『この話を進めたい』というのは、何かあるんだと思わせるには十分ですが」
私の答えに、一ノ瀬さんは小さく首を傾げた。
「桃香さんは、結婚する気がないのに見合い話を受けたと?」
「そうではなくて!」
思わず強い口調になった私に、一ノ瀬さんはふう、と溜息をついて――態度を一変させた。
「時間がもったいない。はっきり言えば、俺と契約してほしい」
「契約?」
「君の父上の負債の肩代わりと、会社を再建するのに必要な資金を提供する。貸すわけじゃないから返済はいらない」
法的な問題はこちらの弁護士と相談して対処する、と一ノ瀬さんは続けた。この傲岸不遜さを、一瞬でも隠せていたのはすごいと思った。
「その代わり、君は俺の妻として振る舞って、子どもを産んでほしい」
咳き込みそうになった私を咎める人はいないだろう。
「子ども」
「できれば二人以上。性別は問わない。出産後は俺もサポートするが、子どもたちがある程度の年齢になるまでは母親として接してほしい。その後なら離婚に応じる。さっき言った結婚の条件とは別に、普通の離婚として財産分与するし慰謝料も払う」
淡々と説明し、一ノ瀬さんはコーヒーを飲んだ。カップを持つ手つきも優雅そのものだ。
あまりに突拍子もない要求を受けると、人は冷静になれるらしい。私は、妙に落ち着いたまま、一ノ瀬さんの提案について思考を巡らせた。
父の負債を肩代わりしてくれる――これは私が結婚において最優先の条件として考えていたことだ。正しくは援助してもらえればという程度で、丸ごと肩代わりは想定外だけど、ありがたいのも事実。ロマンティストな姉の梨香がそんな結婚は嫌だと主張していたから、私がどうにかしなければと思っていた。
更に、事業再建までの資金援助。願ってもない申し出である。
対価は、私の人生。子どもを二人産んで、ある程度の年齢になるまで育児して、その間は一ノ瀬さんの妻として振る舞う――ざっと計算して二十年から三十年というところだろうか。
「……こちらへの条件が良すぎるんですが。約二十年、あなたの妻として振る舞って子どもを育てる、それへの対価が十億円以上って……」
私の疑心暗鬼な問いに、一ノ瀬さんは不思議そうな表情を返してきた。
「君は二十四歳だったか。女盛りを支払ってもらうには、この条件は必要な対価だと思う」
そっとコーヒーカップをソーサーに戻し、一ノ瀬さんは真顔で言った。
「妻として振る舞うだけでなく、出産と育児も要求している。きちんとした対価を払わないと申し訳ない」
確かに、妻として振る舞うだけでなく出産も必要となると、さっきの条件は妥当なのだろうか。残念ながら、契約結婚の相場なんてものは知らない。
「……」
私が思案していると、一ノ瀬さんは答えを迫ってきた。
「今この場で返事が欲しい。俺の方も都合があって、君が駄目なら他の女性を当たらなければならないから」
ここでの会話の口止め料は払うと続けた彼に、本当にこれは契約結婚の申し入れなんだと実感した。
「私、箱入り奥さまにはなりたくないので、仕事をしたいんですが」
「そのことなら、君の経歴を見た。今の職場は退職してもらって、俺の第二秘書にと思っている」
「一ノ瀬グループの次期会長の秘書ですか……」
務まるだろうかと思った私に、一ノ瀬さんは説明を続けた。
「事業の進捗やビジネスに関することは第一秘書の月足がいるから、君に頼むのはそう面倒なものにはならないと思う。一応、秘書という役職になる、という程度に思ってくれていい」
妻同様、お飾りということだ。そこまで言って、一ノ瀬さんは私を見つめた。綺麗な漆黒の瞳が映える美貌は、神秘的で幻想的だ。
「わかりました。お受けします。ですが」
私からも、融資以外に条件がある。それほど無理なものではない、とは思うけど。
「契約結婚であることは、私の家族には言わないでください」
「もちろん。俺の家族にも言うつもりはない。――じゃあ、契約に移ろうか」
一ノ瀬さんが立ち上がったので、私も席を立つ。そのままラウンジを抜け、受付の前も素通りして、一ノ瀬さんはエレベータの前で歩みを止めた。
「あの……?」
流れでついてきてしまったが、どこに行くのか。
「あそこで契約を交わすわけにはいかないからな。部屋を取ってある。そこで書面を見てサインしてほしい。印鑑がないなら、とりあえずは拇印でかまわない」
「実印は持ち歩いてます」
バッグの中の、更にポーチの底に入れてあるので、紛失の可能性は低い。ただしバッグを落としたらそれまでなので、持ち歩きには注意している。
「不用心じゃないのか」
「実家に泥棒が入ったことがあるもので」
私の答えに、一ノ瀬さんは眉を顰めた。綺麗な顔立ちだから、そんな表情も絵になる美しさだ。
「防犯セキュリティは?」
「簡易なものだったので。今はそれなりのものに変えてます」
私がそう答えた時、エレベータが開いた。一ノ瀬さんがカードキーをかざすと、最上階の数字が点灯する。
「君は、見合いとして家を出てきたんだな?」
「はい」
「なら、あまり遅くならないようにする。重要なものだけ確認して、細かいところのすり合わせはまた後日に」
「わかりました」
頷いた私に、一ノ瀬さんは満足そうに笑った。「感情の機微に疎い」と家族に評されている私でも一瞬ドキッとしたくらい、綺麗で邪気のない微笑みだった。
スイートルームの中でも特に高級だろう部屋に着き、一ノ瀬さんが扉を開ける。ホワイエを通り抜けた先に、リビングスペースがあった。
ゆったりとした造りのソファに座った一ノ瀬さんが、向かいの席を勧めてくれたので私も腰かける。ここでも帯を保護、姿勢維持は崩せない。
「契約書の雛形だ」
そう言って一ノ瀬さんが見せてくれたのは、本当に契約書だった。
大雑把な婚姻期間、子ども、財産分与その他。結婚に伴い、私が受ける資金援助と負債の肩代わり。それらが一つひとつ丁寧に説明されている。
「子どもについては、もし私か一ノ瀬さんのどちらか、あるいは双方が不妊症だったらどうなりますか?」
「そうか。その可能性があったな。……ブライダルチェックを受けて、不妊症だとわかった場合は子どもは無理強いしない。ただし、うちの親が子どもを諦めてくれるまでは夫婦として過ごしてほしい」
私の指摘にそう答えると、一ノ瀬さんが立ち上がる。どうしたのかと見つめていたら、室内のミニキッチンで紅茶を淹れてくれた。
「すみません、気が利かず」
「振袖で茶を淹れるなんて技術は、茶道の時だけでいいだろう」
その話し方から、私が茶道華道香道を習っていることを彼は把握しているようだ。釣書にきちんと目を通しているらしい。
「契約について質問してもいいですか?」
一ノ瀬さんがソファに座ったタイミングで、私は質問することにした。受けるつもりの契約とはいえ、気になることは多々ある。
「どうぞ」
「どうして、十億円以上も払って私と結婚を?」
あまりにも契約の準備が整いすぎている。私の問いに、一ノ瀬さんは気怠げに首を傾げた。
「そろそろ、財産目当てで寄ってくる女が鬱陶しい」
「はあ」
財産目当てじゃなく、一ノ瀬さん自身を好きな人もいるんじゃないかな。それほど綺麗な人だ。
「親もうるさいし、結婚して身を固めるしかないと思った。が、適当な人材がいない」
女性ではなく人材と言う辺り、とことんビジネスライクな人だと思う。
「別に結婚後に女遊びするつもりはないが、束縛されるのも好きじゃない。でも子どもは欲しい。そんな俺の自己中心な事情に付き合ってくれる人材となると、な」
白磁のティーカップに口をつけてそう言うと、一ノ瀬さんは長い足を組んだ。いわゆる俺様座りが、この上なく様になっている。
「ある程度、金で動いてくれる人材がいい。加えて、当人にも特技が欲しい」
「お金の面はわかりますが」
何せ十億円の負債だ。これを肩代わりしてもらう恩は計り知れない。
「私には特技というほどのものはありませんが」
「見合いの釣書を見ていたら、君の『趣味』にはフランス語とスペイン語とあった。どの程度話せる?」
「フランス語は、ビジネス文書くらいでしょうか。専門書は辞書が必要です。スペイン語は日常会話なら何とか」
私はフランス古典が読みたくて勉強した結果、その分野なら辞書なしで読み書きできる。短期だけどフランスに留学もしたので会話はできるものの、経済学の専門書は難しい。スペイン語に至っては、バスク地方で必要に応じて覚えた程度だ。
「十分だ」
頷いて、一ノ瀬さんは言葉を続けた。
「レセプションやパーティーでは、フランス語が重宝される。俺だけじゃなく、妻も話せるに越したことはない」
優雅な所作で紅茶を飲み、一ノ瀬さんは私を見つめた。正面、横顔、どの角度から見ても非の打ち所のない美形で羨ましい。
「つまり、ある程度はお金で動かせて、且つあなたの邪魔にならない程度の妻が欲しいと」
「そういうことだ」
一ノ瀬さんは、理解が早くて助かると言った。
「私もお金目当てで結婚しますが、一ノ瀬さんも」
「楓でいい」
「……楓さんも、私の邪魔にはならないようにしてくれる、ということでいいですか」
「邪魔? 俺が?」
「ええ。私、あなたの第二秘書になるんでしょう? 仕事に家庭の事情を持ち込まれたくないので」
例えば喧嘩した時、それを職場でまで引きずられても困る。そこは私も気をつけないといけないけど。
「お互いの利益を考えての契約ですよね? 私、負債を肩代わりしてもらう恩はありますが、それは結婚生活で返済するつもりです。それから、子ども……お金の為に子どもを産むというのは私の倫理観に反するので、積極的な妊活はしたくありません」
さっきは、あまりの好条件に一も二もなく頷いてしまったけど。
お金の為に子どもを産むのは、何だか人身売買のようで嫌だ。「必要だから産む」というのもわからなくはないけれど、私が私の意思で契約結婚するからといって、生まれてくる子どもに迷惑をかけたくない。
……まあ、お金の為に結婚するのも大概ではある。
「わかった。子どもについては授かりものとして除外しよう。ただ、授かった場合は子どもが独り立ちできるまで『親』として育てたい。婚姻期間をその分延長できるか?」
「わかりました」
私の希望を汲んでくれた楓さんに感謝する。こちらの希望も聞き入れてくれるなら、先にはっきり言っておいた方がいいので、私はもう一つの懸念を伝えることにした。
「それと、性行為ですが。子どもを授かる為にも拒否はしませんが」
「そうしてくれると助か――」
「私は未経験なので、そこを考慮していただけると嬉しいです。ブライダルチェックは、エコーや血液検査なら受けますが、内診はちょっと遠慮したいというのが本音です」
「……つまり、処女?」
私のあけすけな表現に数秒沈黙した後、楓さんが確かめるように訊いてきた。
「はい」
「男女交際の経験は?」
「ありますというよりは、なくはない程度のものです」
「……そうか」
ソファに背を預けるように深く座り直して、楓さんは髪をくしゃりとかき混ぜた。困惑しているらしいことは、何となく窺えた。
「すみません、お手数おかけします」
私が謝ると、楓さんは微妙な顔になった。
「いや……謝られることでもない」
確かに、契約結婚の相手としては、異性関係が派手よりはマシなのかもしれない。
私が一人で納得したところで楓さんも動揺を落ち着かせたらしく、連絡先の交換になった。アプリを起動してIDを交換し、携帯番号も登録する。ついでにメールアドレスも教えて、さっき見せてもらった契約書の雛形の送付を依頼した。
「この契約については口外無用なのはわかりますが、お互いの家族にも秘密でしたよね? 今日のお見合いで突然結婚が決まったとなると、それなりの理由がないと苦しいです」
「ああ。俺が君の経歴を気に入っての見合いで、会ったらお互い意気投合したから話を進めたことにしてほしい」
「でも、フランス語ができる程度のことなら、楓さんの周囲にはたくさんいそうですが」
私の疑問に、楓さんは肩を竦めてみせた。
「確かに、何人かはいた。が、俺の好みじゃなかった」
「好みですか……」
そこ、重要なんだ……? まあ、結婚するなら大切なことだけど、契約ならどうでもいい気がする。
「仕事の上での好みだ。彼女たちの背後にある親や親戚関係が面倒だった。その点、君の実家は問題ない」
眞宮不動産はそこそこの規模で関東を中心にいくつか支店もあるけれど、一ノ瀬グループとは比較にならない。それが、彼の希望にはちょうどよかったんだろうか。
「お金で黙ってくれないお家柄の方々だったということですか?」
「いや、むしろもっとよこせと言われかねなかった」
それは確かに困るだろう。だけど、私との契約で負債十億円プラス今後の運転資金を支援してくれる楓さんが辟易する金額って、一体いくらなのか。
「そういうわけで、金で動いてくれて、且つ理不尽な要求をしそうにない家の娘となると、かなり絞られていた。その中で、フランス語が堪能で英語とスペイン語もできるのは君だけだった」
そんな事情で私が選ばれたのか。語学を勉強しておいてよかった。そう思うくらい、この契約は私には願ってもないものだ。
六月、ジューンブライド。花嫁の季節。
梅雨の合間に晴れた今日、私は結婚する。
相手は一ノ瀬グループの御曹司、一ノ瀬楓。二十七歳。俗に言う玉の輿だと思う。
けれど私は彼に恋い焦がれていたわけでもなく、かといって嫌い抜いているわけでもない。彼の事情で契約結婚を申し込まれ、お金が必要だった私が受け入れた、ただそれだけの関係。
新婦控え室では、両親と姉が泣いている。もしかしたら、愛のない結婚だと気づかれているかもしれない。
それは、娘や妹が嫁ぐ喜びではなく、申し訳ないという類のものだったから――私は、挙式当日の花嫁らしくない溜息を零した。
『時間がもったいない。はっきり言えば、俺と契約してほしい』
求愛とは程遠いそんな言葉を受けて、私は彼と契約結婚をするのだから。
***
不意に重ねられた唇を、黙って受け入れた。そのまま抱き上げられ、ベッドに運ばれる。
「ん……」
キスが深くなり、舌を絡め取られた。
濡れた音がして、楓さんの舌が口内を撫でる。ぞく、と肌が粟立って――それが快感なのだと知った。
キスを繰り返しながら、唇に指が押し当てられた。ゆるりと撫でられた時、声が零れた。
「ふ……っあ……」
「くすぐったい?」
唇に触れられているだけなのに、全身が震える。唇を撫でていた指が、そっと口内に押し入ってきた。
「ん……っふ、ぁ……」
咥えさせられた指に、思わず舌を這わせる。節のない指を舐めると、楓さんの瞳孔が猫のように細められた。
バスローブをはだけられ、乳房を揉まれる。少し痛いくらいの刺激に思わず声を上げると、楓さんが耳に噛みついてきた。
「っ、ん……!」
耳に愛撫される度、体が震える。気持ちよくてぼうっとなった私を、楓さんがくすぐるように呼んだ。
「桃香」
またキスが降りてきて、同時に乳房が包まれる。大きな手が乳房を揉み、そこから湧く快感に喉を反らすと、首筋に口づけられる。
首、鎖骨、乳房にキスされ、乳首を指先で捏ねられた。
「っぁ、……あ……っ」
零れる声を抑えようと、口元を手で覆う。それでも、声は殺しきれない。
乳首の一方を指で、もう一方を唇で責められ、私は突き抜けるような快感に体を捩った。
「あ、ん……っあ、あ……!」
吸われたり、指で押される度、乳首の感度が上がっていくのがわかる。もう、彼の吐息だけで震えそうだった。
「ん……っ、あ、っあ……!」
乳房が解放され、バスローブを脱がされた。下着越しに秘部に指を添えられる。恥ずかしさに、手で顔を覆った。
するすると撫でられ、ショーツを剥ぎ取られる。剥き出しになった場所に、さっきまで私が咥えていた指が触れた。
「ん……っ」
声は抑えきれなくても、せめて顔は隠したい。楓さんの指が、少し乱暴に秘部を嬲る。くちゅりと濡れた音を立てて、指が差し込まれた。
「――……っ!」
違和感と異物感に、悲鳴を堪えた。痛みはそれほどではないけれど、圧迫感が強い。
「痛いか?」
少しだけ申し訳なさそうな楓さんの問いに、私は首を横に振った。だって、これは仕方のない痛みだ。私が初めてなのは――処女なのは、楓さんのせいじゃない。
そう達観したいのに、もう一本指が押し込まれ、思ってもいなかった痛みに思わず息を呑んだ。
「……っ、あ……っ」
私の体は、押し入ってくる異物に抗うように震えている。この先が怖くて息を殺した時、楓さんが乳房に吸いついた。
「あ……」
突然のことについていけない私の隙をつくように、差し込まれていた指がぐるりと回転する。
「あっ、ん……っ!」
思わず眉を顰めたけれど、楓さんは構わず行為を続けた。違和感が強くなった時、不意に下肢に熱い息がかかった。――私の体の中心に、楓さんが顔を埋めている。
羞恥に耐えかねて脚を閉じようとした時、一番弱いところを愛撫された。
「あ、っあ……っん、あ……!」
全身が、大きく震える。楓さんが吸いついたり歯を立てたりする度、胎内がどくりと脈打つのがわかった。
狭い膣で指が蠢き、押し広げながら弱い部分を擦られる。今まで知らなかった快感に、私は息をするのが精一杯だった。
「っん、あ……っふ……っ、あ……!」
両手の下に隠した顔が熱い。痛いのか気持ちいいのか、それもわからない。ただ、楓さんの指と舌に翻弄されている。
不意に指が引き抜かれた後、腰を抱かれる。熱くて硬いものが、私の中心に宛がわれた。それが何かは、知識としてだけ知っている。
「……っ」
怖くて震えそうになった時、ソレが私の中に挿入ってきた。
さっきまでとは比較にならない異物感と痛みに耐えかねた時、やわらかくキスされた。
下半身を意識から切り離したくて、私は楓さんのキスに溺れた。口内を嬲る舌に夢中になっていたら、体を引き裂くような痛みが襲った。
「っん……、ん、……!」
痛い。痛くて、熱くて、引き裂かれそう。早く終わってほしい。涙が零れ落ちたのを感じた時、楓さんが囁いた。
「痛むだろうが、我慢してくれ」
キスの合間に告げられた我儘に、私は何と答えればいいのかわからない。痛いのに、早く終わってほしいのに――逆らえない。
私をじっと見つめて、楓さんがゆっくり動き始めた。思わず、眉を顰める。
「っ、……ん……っ、あ……!」
痛みと異物感、それから――侵入されている違和感。同時に、ほんの少しだけ、快感が走る。
その快感だけを追おうとした時、体が反転させられた。
「いた……い……っ」
思わず悲鳴を零したけれど、楓さんは背中に口づけながら律動を始めた。――仕方ない、だってそうしないと終わらないことだもの。
わかっているのに、涙が零れるのはどうしてだろう。引き裂くような痛みも、灼けるような熱さも、今更なのに。
「っん、あ、ん……っ!」
耳に残る自分の声は、他人のもののように聞こえた。実際、こんなに痛いのに喘ぐなんて、他人だとしか思えない。
「あ……っあ、ん……!」
強い痛みと、僅かな快感――どちらも厭わしくて、早く終わってほしいと泣きながら、私は最悪の初夜を過ごした。
1.彼の提案
私、眞宮桃香の家は、そこそこの規模の不動産会社を経営している。が、父が内部留保より規模拡大に注力した結果、現状は不景気の煽りを受けて倒産寸前だ。
以来、二十四歳の私と二つ上の姉に持ち込まれるお見合い話は、それなりの結納金を用意してくれる相手ばかりになったけれど、正直、結納金程度では焼け石に水だった。何せ、父の負債は十億円以上になるのだから。
そんな時、旧財閥系の一ノ瀬グループ御曹司からお見合いの申し入れがあった。姉ではなく私を名指ししたことに疑問はあるものの、相手は今までにない資産家だ。条件として実家を救ってくれるなら、どんな相手とでも結婚するつもりだった。
桜が美しい盛りの春の日曜日。吉日を選んで、お見合いの席が設けられた。とはいえ、仲人は不在の簡素なものだ。
私は祖母からもらい受けた薄桃色の振袖を着て、美しい桜並木の道をタクシーで通り抜ける。お見合いの経験は何度かあるけれど、その度に緊張する。
そうして赴いたお見合いの席――都内でも屈指のラグジュアリーホテルのラウンジに着いた私は、事前の打ち合わせの通り、ウェイターに待ち合わせである旨を告げた。
上質な調度品を飾るように花々が生けられ、ふかふかの絨毯を敷きつめたラウンジの奥に、待たせ人がいた。
その人は、呆れるほど容姿端麗な男性だった。私が近づくと、すっと立ち上がる。物憂げな表情がよく似合う美貌と、ダークグレーのビスポークスーツ越しでもわかる引き締まった長身の、モデルのような体型。身につけているものは明らかに一流の品ばかりだった。
これは、私の方こそお断りされても仕方ないと思った。私も振袖で正装してきたけれど、明らかに相手の方が華やかだ。
「一ノ瀬楓です」
一ノ瀬楓――一ノ瀬さんは、声も良い。低すぎないテノールの声は艶やかで、年相応に若く張りがある。
「眞宮桃香です」
このお見合いが仲人を立ててのものではなく、本人のみの顔合わせという形を取っているのは一ノ瀬さんからの要望だ。理由はわからない。
一ノ瀬さんが肘掛け付きの椅子に座り、私はソファに腰を下ろす。帯を崩さないように姿勢を保つのは、バレエを習っていたおかげで体幹が鍛えられているので問題ない。
「早速ですが、私はこの話を進めたいと思っています」
前置きなしの一ノ瀬さんの言葉に、私は手にしたコーヒーカップを落としそうになる。今まで経験したお見合いでは、一応、相手を知ろうとする努力の会話があったはずなんだけど。
「進めたい、とは……?」
「結婚したいという意味です」
その言葉には何の熱もなくて、間違っても「まさかこの美形御曹司が私に一目惚れ⁉」とはならないくらい平坦で冷たい。
「その、釣書は拝見しましたが……いきなり結婚と言われても」
「見合いというのは、結婚を前提にしたものでは?」
冷静に言われて、私は言葉を探した。正論には正論で返すしかない。
「会ってすぐに、何の会話もなく『この話を進めたい』というのは、何かあるんだと思わせるには十分ですが」
私の答えに、一ノ瀬さんは小さく首を傾げた。
「桃香さんは、結婚する気がないのに見合い話を受けたと?」
「そうではなくて!」
思わず強い口調になった私に、一ノ瀬さんはふう、と溜息をついて――態度を一変させた。
「時間がもったいない。はっきり言えば、俺と契約してほしい」
「契約?」
「君の父上の負債の肩代わりと、会社を再建するのに必要な資金を提供する。貸すわけじゃないから返済はいらない」
法的な問題はこちらの弁護士と相談して対処する、と一ノ瀬さんは続けた。この傲岸不遜さを、一瞬でも隠せていたのはすごいと思った。
「その代わり、君は俺の妻として振る舞って、子どもを産んでほしい」
咳き込みそうになった私を咎める人はいないだろう。
「子ども」
「できれば二人以上。性別は問わない。出産後は俺もサポートするが、子どもたちがある程度の年齢になるまでは母親として接してほしい。その後なら離婚に応じる。さっき言った結婚の条件とは別に、普通の離婚として財産分与するし慰謝料も払う」
淡々と説明し、一ノ瀬さんはコーヒーを飲んだ。カップを持つ手つきも優雅そのものだ。
あまりに突拍子もない要求を受けると、人は冷静になれるらしい。私は、妙に落ち着いたまま、一ノ瀬さんの提案について思考を巡らせた。
父の負債を肩代わりしてくれる――これは私が結婚において最優先の条件として考えていたことだ。正しくは援助してもらえればという程度で、丸ごと肩代わりは想定外だけど、ありがたいのも事実。ロマンティストな姉の梨香がそんな結婚は嫌だと主張していたから、私がどうにかしなければと思っていた。
更に、事業再建までの資金援助。願ってもない申し出である。
対価は、私の人生。子どもを二人産んで、ある程度の年齢になるまで育児して、その間は一ノ瀬さんの妻として振る舞う――ざっと計算して二十年から三十年というところだろうか。
「……こちらへの条件が良すぎるんですが。約二十年、あなたの妻として振る舞って子どもを育てる、それへの対価が十億円以上って……」
私の疑心暗鬼な問いに、一ノ瀬さんは不思議そうな表情を返してきた。
「君は二十四歳だったか。女盛りを支払ってもらうには、この条件は必要な対価だと思う」
そっとコーヒーカップをソーサーに戻し、一ノ瀬さんは真顔で言った。
「妻として振る舞うだけでなく、出産と育児も要求している。きちんとした対価を払わないと申し訳ない」
確かに、妻として振る舞うだけでなく出産も必要となると、さっきの条件は妥当なのだろうか。残念ながら、契約結婚の相場なんてものは知らない。
「……」
私が思案していると、一ノ瀬さんは答えを迫ってきた。
「今この場で返事が欲しい。俺の方も都合があって、君が駄目なら他の女性を当たらなければならないから」
ここでの会話の口止め料は払うと続けた彼に、本当にこれは契約結婚の申し入れなんだと実感した。
「私、箱入り奥さまにはなりたくないので、仕事をしたいんですが」
「そのことなら、君の経歴を見た。今の職場は退職してもらって、俺の第二秘書にと思っている」
「一ノ瀬グループの次期会長の秘書ですか……」
務まるだろうかと思った私に、一ノ瀬さんは説明を続けた。
「事業の進捗やビジネスに関することは第一秘書の月足がいるから、君に頼むのはそう面倒なものにはならないと思う。一応、秘書という役職になる、という程度に思ってくれていい」
妻同様、お飾りということだ。そこまで言って、一ノ瀬さんは私を見つめた。綺麗な漆黒の瞳が映える美貌は、神秘的で幻想的だ。
「わかりました。お受けします。ですが」
私からも、融資以外に条件がある。それほど無理なものではない、とは思うけど。
「契約結婚であることは、私の家族には言わないでください」
「もちろん。俺の家族にも言うつもりはない。――じゃあ、契約に移ろうか」
一ノ瀬さんが立ち上がったので、私も席を立つ。そのままラウンジを抜け、受付の前も素通りして、一ノ瀬さんはエレベータの前で歩みを止めた。
「あの……?」
流れでついてきてしまったが、どこに行くのか。
「あそこで契約を交わすわけにはいかないからな。部屋を取ってある。そこで書面を見てサインしてほしい。印鑑がないなら、とりあえずは拇印でかまわない」
「実印は持ち歩いてます」
バッグの中の、更にポーチの底に入れてあるので、紛失の可能性は低い。ただしバッグを落としたらそれまでなので、持ち歩きには注意している。
「不用心じゃないのか」
「実家に泥棒が入ったことがあるもので」
私の答えに、一ノ瀬さんは眉を顰めた。綺麗な顔立ちだから、そんな表情も絵になる美しさだ。
「防犯セキュリティは?」
「簡易なものだったので。今はそれなりのものに変えてます」
私がそう答えた時、エレベータが開いた。一ノ瀬さんがカードキーをかざすと、最上階の数字が点灯する。
「君は、見合いとして家を出てきたんだな?」
「はい」
「なら、あまり遅くならないようにする。重要なものだけ確認して、細かいところのすり合わせはまた後日に」
「わかりました」
頷いた私に、一ノ瀬さんは満足そうに笑った。「感情の機微に疎い」と家族に評されている私でも一瞬ドキッとしたくらい、綺麗で邪気のない微笑みだった。
スイートルームの中でも特に高級だろう部屋に着き、一ノ瀬さんが扉を開ける。ホワイエを通り抜けた先に、リビングスペースがあった。
ゆったりとした造りのソファに座った一ノ瀬さんが、向かいの席を勧めてくれたので私も腰かける。ここでも帯を保護、姿勢維持は崩せない。
「契約書の雛形だ」
そう言って一ノ瀬さんが見せてくれたのは、本当に契約書だった。
大雑把な婚姻期間、子ども、財産分与その他。結婚に伴い、私が受ける資金援助と負債の肩代わり。それらが一つひとつ丁寧に説明されている。
「子どもについては、もし私か一ノ瀬さんのどちらか、あるいは双方が不妊症だったらどうなりますか?」
「そうか。その可能性があったな。……ブライダルチェックを受けて、不妊症だとわかった場合は子どもは無理強いしない。ただし、うちの親が子どもを諦めてくれるまでは夫婦として過ごしてほしい」
私の指摘にそう答えると、一ノ瀬さんが立ち上がる。どうしたのかと見つめていたら、室内のミニキッチンで紅茶を淹れてくれた。
「すみません、気が利かず」
「振袖で茶を淹れるなんて技術は、茶道の時だけでいいだろう」
その話し方から、私が茶道華道香道を習っていることを彼は把握しているようだ。釣書にきちんと目を通しているらしい。
「契約について質問してもいいですか?」
一ノ瀬さんがソファに座ったタイミングで、私は質問することにした。受けるつもりの契約とはいえ、気になることは多々ある。
「どうぞ」
「どうして、十億円以上も払って私と結婚を?」
あまりにも契約の準備が整いすぎている。私の問いに、一ノ瀬さんは気怠げに首を傾げた。
「そろそろ、財産目当てで寄ってくる女が鬱陶しい」
「はあ」
財産目当てじゃなく、一ノ瀬さん自身を好きな人もいるんじゃないかな。それほど綺麗な人だ。
「親もうるさいし、結婚して身を固めるしかないと思った。が、適当な人材がいない」
女性ではなく人材と言う辺り、とことんビジネスライクな人だと思う。
「別に結婚後に女遊びするつもりはないが、束縛されるのも好きじゃない。でも子どもは欲しい。そんな俺の自己中心な事情に付き合ってくれる人材となると、な」
白磁のティーカップに口をつけてそう言うと、一ノ瀬さんは長い足を組んだ。いわゆる俺様座りが、この上なく様になっている。
「ある程度、金で動いてくれる人材がいい。加えて、当人にも特技が欲しい」
「お金の面はわかりますが」
何せ十億円の負債だ。これを肩代わりしてもらう恩は計り知れない。
「私には特技というほどのものはありませんが」
「見合いの釣書を見ていたら、君の『趣味』にはフランス語とスペイン語とあった。どの程度話せる?」
「フランス語は、ビジネス文書くらいでしょうか。専門書は辞書が必要です。スペイン語は日常会話なら何とか」
私はフランス古典が読みたくて勉強した結果、その分野なら辞書なしで読み書きできる。短期だけどフランスに留学もしたので会話はできるものの、経済学の専門書は難しい。スペイン語に至っては、バスク地方で必要に応じて覚えた程度だ。
「十分だ」
頷いて、一ノ瀬さんは言葉を続けた。
「レセプションやパーティーでは、フランス語が重宝される。俺だけじゃなく、妻も話せるに越したことはない」
優雅な所作で紅茶を飲み、一ノ瀬さんは私を見つめた。正面、横顔、どの角度から見ても非の打ち所のない美形で羨ましい。
「つまり、ある程度はお金で動かせて、且つあなたの邪魔にならない程度の妻が欲しいと」
「そういうことだ」
一ノ瀬さんは、理解が早くて助かると言った。
「私もお金目当てで結婚しますが、一ノ瀬さんも」
「楓でいい」
「……楓さんも、私の邪魔にはならないようにしてくれる、ということでいいですか」
「邪魔? 俺が?」
「ええ。私、あなたの第二秘書になるんでしょう? 仕事に家庭の事情を持ち込まれたくないので」
例えば喧嘩した時、それを職場でまで引きずられても困る。そこは私も気をつけないといけないけど。
「お互いの利益を考えての契約ですよね? 私、負債を肩代わりしてもらう恩はありますが、それは結婚生活で返済するつもりです。それから、子ども……お金の為に子どもを産むというのは私の倫理観に反するので、積極的な妊活はしたくありません」
さっきは、あまりの好条件に一も二もなく頷いてしまったけど。
お金の為に子どもを産むのは、何だか人身売買のようで嫌だ。「必要だから産む」というのもわからなくはないけれど、私が私の意思で契約結婚するからといって、生まれてくる子どもに迷惑をかけたくない。
……まあ、お金の為に結婚するのも大概ではある。
「わかった。子どもについては授かりものとして除外しよう。ただ、授かった場合は子どもが独り立ちできるまで『親』として育てたい。婚姻期間をその分延長できるか?」
「わかりました」
私の希望を汲んでくれた楓さんに感謝する。こちらの希望も聞き入れてくれるなら、先にはっきり言っておいた方がいいので、私はもう一つの懸念を伝えることにした。
「それと、性行為ですが。子どもを授かる為にも拒否はしませんが」
「そうしてくれると助か――」
「私は未経験なので、そこを考慮していただけると嬉しいです。ブライダルチェックは、エコーや血液検査なら受けますが、内診はちょっと遠慮したいというのが本音です」
「……つまり、処女?」
私のあけすけな表現に数秒沈黙した後、楓さんが確かめるように訊いてきた。
「はい」
「男女交際の経験は?」
「ありますというよりは、なくはない程度のものです」
「……そうか」
ソファに背を預けるように深く座り直して、楓さんは髪をくしゃりとかき混ぜた。困惑しているらしいことは、何となく窺えた。
「すみません、お手数おかけします」
私が謝ると、楓さんは微妙な顔になった。
「いや……謝られることでもない」
確かに、契約結婚の相手としては、異性関係が派手よりはマシなのかもしれない。
私が一人で納得したところで楓さんも動揺を落ち着かせたらしく、連絡先の交換になった。アプリを起動してIDを交換し、携帯番号も登録する。ついでにメールアドレスも教えて、さっき見せてもらった契約書の雛形の送付を依頼した。
「この契約については口外無用なのはわかりますが、お互いの家族にも秘密でしたよね? 今日のお見合いで突然結婚が決まったとなると、それなりの理由がないと苦しいです」
「ああ。俺が君の経歴を気に入っての見合いで、会ったらお互い意気投合したから話を進めたことにしてほしい」
「でも、フランス語ができる程度のことなら、楓さんの周囲にはたくさんいそうですが」
私の疑問に、楓さんは肩を竦めてみせた。
「確かに、何人かはいた。が、俺の好みじゃなかった」
「好みですか……」
そこ、重要なんだ……? まあ、結婚するなら大切なことだけど、契約ならどうでもいい気がする。
「仕事の上での好みだ。彼女たちの背後にある親や親戚関係が面倒だった。その点、君の実家は問題ない」
眞宮不動産はそこそこの規模で関東を中心にいくつか支店もあるけれど、一ノ瀬グループとは比較にならない。それが、彼の希望にはちょうどよかったんだろうか。
「お金で黙ってくれないお家柄の方々だったということですか?」
「いや、むしろもっとよこせと言われかねなかった」
それは確かに困るだろう。だけど、私との契約で負債十億円プラス今後の運転資金を支援してくれる楓さんが辟易する金額って、一体いくらなのか。
「そういうわけで、金で動いてくれて、且つ理不尽な要求をしそうにない家の娘となると、かなり絞られていた。その中で、フランス語が堪能で英語とスペイン語もできるのは君だけだった」
そんな事情で私が選ばれたのか。語学を勉強しておいてよかった。そう思うくらい、この契約は私には願ってもないものだ。
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