御曹司は契約妻を甘く捕らえて離さない

神城葵

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1巻

1-3

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 私は情緒に無頓着なので、ラテアートも「可愛い」と眺めた後はおいしくいただくことを優先する。でも、楓さんはラテアートは今回が初めてらしいし、ココアパウダーで描かれているイルカは確かに可愛い。

「スマホで撮影して、後で見返すのはどうですか?」
「そうする」

 おそらく一般的だろう方法を提案すると、楓さんはスマホを取り出してパシャリと無造作に撮影した。SNS映えは気にしないらしい。まあ、そもそもSNSはやっていないだろう。
 私は、桜のラテにストローを差した。鮮やかなピンクのラテは、苺の味と桜の香りが程よくミックスされていておいしい。

「この後は、どうする?」

 楓さんは、ちらりと背後に視線を向けた。その先に、入り口で見た興信所の男女がいる。

「夕食の予約は何時ですか?」
「十八時」

 私が自分の腕時計を見ると、十三時を過ぎたばかりだった。あと五時間もある。

「なら、買い物に付き合っていただけたら」
「欲しいものがあるのか?」
「羽織るものを忘れたので、ストールか上着を買いたくて」

 十八時からディナーなら、家に帰るのは二十一時を過ぎる。春とはいえ、袖丈の短いワンピース一枚では少し肌寒い。

「それは、俺が払うのは……」
「駄目です。私の私物ですから」

 初回のデートでディナーをご馳走にならざるを得ないのに、服まで買っていただくわけにはいかない。

「お店の格式はどのくらいですか?」
「君のその服で問題ないと思う」
「わかりました。買い直す覚悟もしていたので、よかったです」

 お店は空調が整えられていると思うけれど、温度設定はスーツの男性に合わせている可能性があるので、脱いでしまうコートよりはボレロがいいかもしれない。

「……服を一枚買うのに、五時間かかるのか?」
「そこまで時間はかけませんが」

 ちょっと引いた感じで質問され、私は苦笑した。ウィンドウショッピングでもないし、買う物が決まっているから、そんなに時間はかからないと思う。
 ただ、そうなると十八時までの時間潰しに困るのである。そのことを察したらしい楓さんが、僅かに首を傾げた。可愛らしい仕種なのに、艶やかに映るのは何故だろう。

「この後、買い物をしてから行けそうなところとなると……」
「どうせなら美術館にも行きます? 至高のジュエリー展」
「いいのか? 俺と行ったら買わされるぞ」

 宝石展というものは、展示するだけでなく販売も兼ねている時がある。
 たぶん私は渋い顔をしたのだろう、楓さんが笑う。面白い玩具を見つけた子どもみたいな笑い方で、綺麗だけど可愛い。美形は得だなあ。

「婚約指輪用の石を選んでもいいが」
「早すぎます。疑われます」
「結婚前提のデートだから、早すぎるということもないんだがな」
「まだ、結婚を決めたわけではない設定です」

 私たちは声を潜めて――二つ後ろの席に座っている男女に聞こえないよう会話した。私はスマホを手に取って色々な展示会を検索し、そして悲鳴を飲み込んだ。
 何故、これを見落としていたのか。できることなら、大学院に進んで研究したいとさえ思っていたものなのに。私が院に進まなかったのは、代わりに留学させてもらったからである。

「楓さん。行きましょう。服はさっさと買いますから、急ぎましょう」
「どうした?」
「フランス古典文学の展示があるんです。規模はとっても小さいですけれど!」

 百貨店の催事場という限られたスペースで、フランス古典文学をテーマにして絵画や原本の展示が開催されていた。たぶん、絵画の販売がメインで原本展示は僅かだと思うけれど、どうしても観ておきたい。
 私の静かな熱意に圧されたのか、楓さんが了承してくれたので、私たちはカフェを出て売店に行った。そこで大きなイルカのぬいぐるみを買って発送手続きをした後、フランス古典文学展示会が行われている百貨店に向かった。服は、そこのレディースフロアで買えばいい。


 レディースフロアに着くなり、私は目についたセレクトショップに入った。すぐに店員の女性が近づいてきてくれたので、今日のワンピースに合わせた上着が欲しいと相談した。ちなみに楓さんは、私の隣で興味なさげに立っている。

「そのお召し物に合わせるようでしたら、こちらのボレロは如何いかがでしょう。この春の新作です」

 店員さんが選んでくれたのは、薄い桜色のボレロだった。試着してみると、このワンピースによく似合う。

「楓さん。どうでしょう?」

 この服でディナーは大丈夫かという意味で訊いたら、楓さんは私をじっと凝視して頷いた。

「似合ってる」
「……そういうことではなく。ドレスコードは問題ないか訊きたかったんですが」

 私が肩を落とすと、楓さんだけでなく店員さんもきょとんとしている。しまった、カップルらしくいちゃいちゃ演技を続けるべきだったか。
 そう思って素早く店内を見回したところ、興信所の男女はいない。あの二人のファッションはカジュアルだから、この店には入らない判断らしい。店の入り口の近くにいるのが見えた。

「ドレスコードなら、問題ない」
「そっちを訊いたつもりでした」

 私はボレロを脱いで、店員さんに「買います」と渡した。そのまま会計に行って、お支払いをする。結構なお値段だけれど、仕方ない出費だ。
 ボレロは着ていくことにして、タグや値札を切り取ってもらう。ふわりと羽織ると、店員さんがノベルティだと言って小さな香水の瓶をくれた。
 サンプルを嗅がせてもらったら、桜の花のような軽い香りがする。これくらいならディナーにも支障ないだろうから、手首にワンプッシュした。小さな瓶をバッグに入れた時、楓さんが少し驚いたように私を見ていることに気づく。
 店員さんに見送られながらショップを出た後、展示会場に行く為、エスカレーターに向かう。少し間を空けてついてくる男女の様子を窺いながら、私は隣を歩く楓さんに問いかけた。

「楓さん」
「何だ?」
「さっき、お店で微妙な表情になってましたけれど。私、何かしましたか?」

 私の質問に、楓さんはああ、と笑った。意外に、よく笑う人だと思う――笑うといっても、微笑む程度だけど。

「君が香水を付けたことに驚いた」

 身だしなみ程度の香りだと思うけど、きつかったかな?
 そんな疑問が顔に出てしまったらしく、楓さんは説明を補足してくれた。

「水族館で君に近づいた時もいい匂いがしたから、香水を付けてきているんだと思ってた。あれは香水じゃなくて君の匂いか」
「……それ、セクハラですよ……」

 今日、私が香水を付けたのは先程が初めてだ。家を出た時は、何も付けていなかった。それをいい匂いと男性に言われるのは何となく恥ずかしい。相手次第では、女性はぞっとしてしまう発言でもある。楓さんが美形すぎるせいか、私は許せるけれど。
 セクハラと言ったものの、照れ隠しであることは楓さんには伝わってしまったらしい。小さな子どもを見る目で微笑まれた。

「気をつける。変質者だとは思われたくない」
「……そうしてください」

 笑いを噛み殺している楓さんと、おそらく赤くなっているだろう私。――少なくとも、さっきの接近を「嫌だ」と思わない程度には、楓さんへの好感はある。
 後をつけてくる興信所の人たちからは、どんな風に見えていることか。
 所かまわずいちゃついている恋人同士でしたと報告してくれればいいなと前向きに考えることにして、私たちはエスカレーターに乗った。
 何度かエスカレーターを乗り継いで最上階に辿り着くと、展示会場の入り口がすぐそこにある。楓さんと二人でチケットを買い、入場した。
 そんなに大きな会場ではないけれど、武勲詩や叙事詩の写本の複製、有名な作品をモチーフにした絵画が展示されている。
 写本の複製に見入っていると、楓さんが私の耳元に囁いた。

「読めるのか?」

 その艶やかな色気ある声も、今は気にならない。私の全神経は、目の前の写本に集中している。推しが目の前にいたら、他のことは二の次になるのは仕方ない。

「少しだけ。これを読めるようになりたくて、まずはフランス語からと思ってフランス文学科に入学したんです。そこから、アキテーヌやポワトゥーの歴史も勉強したり」

 古フランス語で書かれた写本は、とても難解だ。特徴的な文法だし、類韻という技巧は他言語では上手く翻訳できない。類義語を当てはめることが一般的な古フランス語を学びたくて、一年ほどフランスに留学させてもらった。
 でも、一年やそこらで身につくものでもない。現代フランス語の発音は磨かれたけれど、古フランス語やオイル語については辞書がないと解読できないままである。
 私は気持ちを切り替え、展示物を堪能することにした。

「十二勇将の絵……」

 古典の写本複製の次は、絵画が展示されている。私の一番好きな作品の絵もたくさんあった。昔の絵の複製だけでなく、近代から現代の画家による新しい絵もあった。
 解説を読みながらじっくり絵を見ていると、楓さんも珍しそうに鑑賞している。興味のない人には退屈かなと心配だったから、少し安心した。
 その時、一枚の絵に私の目が引き寄せられる。
 色鮮やかな絵が多い展示品の中で、黒一色で描かれたそれは、私の大好きな勇将が騎馬して剣を構えている構図だった。
 他の絵とは一線を画するように、洋画とも日本画ともつかない不思議な線で描かれたその絵は、華やかな絵に埋もれることなく、むしろ異彩を放っている。
 思わず見惚れてしまっていたら、スーツの男性が近づいてきた。

「こちら、如何いかがでしょう? 複製画になりますが、販売もしておりますので」

 そう言われて、入り口で受け取ったパンフレットを見たら――確かに、ここは絵画の販売もしていると書いてあった。

「どうぞ、こちらへ」

 男性に案内されるままに展示スペースを抜けると、パーテーションで仕切られた場所に出る。いくつかに分かれたそこには、椅子とテーブルが用意されていて、商談している人達が見えた。

「先程お客様がご覧になっていた作品は、十四番の『聖騎士』ですね。こちらは複製画ですが制作数が少なく、私どもで扱っているものは番号も若いのでお勧めの品です。額装込みで五十万円と、お求めやすい価格になっております」

 五十万円。払えないことはないけれど、ぽんと勢いで買うのは躊躇ためらわれる金額だ。買ったとして、部屋に飾ることは……できる。壁には十分な余白がある。

「うーん……」
「ローンもお組みできますよ」

 私が迷っていることを見抜いた男性がにこやかに、だけどしっかりと勧めてくる。

「いえ、どうせ買うならローンを組むつもりはないんですけど……」
「それは失礼いたしました。如何いかがでしょう、この展示会が終わりましたらアメリカに出ることになる作品ですが」

 そう言われると、欲しくなってしまうのは人の性というものだ。
 以前の私なら、働いているし、家に入れるお金は月に五万円だし、ボーナスもあるし……と自分に言い訳して買っていたと思う。だけど今はそんな余裕はないはずだ。焼け石に水であっても、無駄遣いすることは憚られる。

「すみません、また改めます。ご縁があったら、その時に」

 やんわり断って、私は椅子から立ち上がった。一瞬呆気に取られた男性も、食い下がることはせずに「ではまたの機会に」と丁寧な対応を崩さない。
 後ろ髪を引かれる思いでブースを出たら、それまで黙っていた楓さんが口を開いた。

「欲しかったなら、買えばいい」
「そういうわけには」

 会社が不渡りを出すか出さないかの家の娘が、ぽんと使っていい金額ではない。それが全額私の稼いだお金であっても。

「まあ、君が本当にフランス文学が好きなのはわかった」
「フランス古典です。近世や現代のフランス文学はあまり知りませんから、そこ、混同しないでください。そもそもフランス文学を読むだけなら、わざわざオイル語や古フランス語を勉強する必要はありません」

 私は早口で楓さんの感想を訂正した。フランス文学には疎いので、そういう話題を振られても一般的な知識しかない。その点を誤解されては困るし、フランス古典オタクとして、そこは譲れないのである。

「あ、ああ。わかった。すまない。――まだ続きがある。最後まで観るんだろう?」

 私の勢いに気圧されたように頷いた楓さんが、私より頭一つは高い位置の視線を、場内に巡らせて促した。

「はい」

 絵画の途中で販促スペースに入ってしまったものの、展示場に戻る通路はある。そこから会場に戻り、私たち――私は、今まで資料でしか観たことのない写本の複製や絵画の展示を楽しんだ。興信所の二人は、まだ私たちを観察している。
 ――楓さんは、楽しくなかったかなあ……。私はめちゃくちゃ幸せだけど。
 展示場から出た私が少し不安になって隣を見上げると、楓さんは無表情だった。私と似ていて、あまり感情を表に出さない人らしい。……ん? でも、今日は結構笑ってた……よね? それなりに楽しんでくれたと、思い上がってもいいのかな。
 会ったのは、今日で二回目。長い時間一緒にいるのは、今日が初めて。だけど、彼の人となりはよくわからない。思ったよりは話しやすい、それだけ。
 何気なく時計に目を向けたら、十七時を過ぎていた。意外と長い時間、展示物を観ていたことになる。
 それに黙って付き合ってくれた辺り、悪い人ではない。そう思った私をよそに、楓さんも時計をちらりと見た。

「そろそろ店に向かうか」
「はい」

 私たちは楓さんが手配したタクシー……ではなく、お店からのお迎えだというハイヤーに乗り、レストランに向かったのだった。


 都内の一等地に店を構えるレストランは、入り口からして豪華だった。スクラッチタイル貼りの、日本ではなくヨーロッパを思わせる建物だ。
 ウェイティングルームは内装も絢爛けんらんとしているけれど、それに負けない楓さんの華やかさときたら……美人の隣に座るのは引け目があるものの、楓さんくらい突き抜けているとそんな感想もなくなる。次元が違うみたいな感じだ。
 楓さんと一緒にシャンパンを飲み終えた頃に男性が近づいてきて、私たちを案内してくれた。細部まで精緻な装飾が施されたウェイティングルームを出て、階段を上がった先の廊下を進んで目的の部屋に通される。
 ここも絵画や装飾品が美しく、壁を彩るように煌めくクリスタルが綺麗だった。広々としていて、本来なら二人で利用する部屋ではない気がする。
 私がテーブルに着くと、楓さんも向かいに座った。すぐにワインリストを開いた楓さんが、私に問いかける。

「何を飲む?」
「シャンパンで」

 私の答えを聞いて、楓さんが男性ウェイターにヴーヴ・クリコ・ラ・グランダムをオーダーする。私はあまりワインはわからないけれど、名前を聞いたことはある。

「楓さん。私、ワインには詳しくないので、お任せしていいですか?」
「わかった。料理はどうする?」

 アラカルトで一品ずつ選ぶか、それともコースかということ? こういうお店って、コース料理は先に予約しなくて大丈夫なのかなと不思議に思ったら、コースのお料理とは別に何かオーダーするかという質問だった。

「それもお任せします」

 何せ、私の手元にあるメニューではお値段の表記がない。いわゆる「ランクを上げたらプラス五千円」とか、そういうものがわからないのである。
 あまり待つことなく、今度は金髪の外国人男性がシャンパンのボトルを持ってきてグラスに注いでくれたので、軽く乾杯した。シャンパン特有の繊細な気泡と芳醇さが、舌を楽しませる。
 メニューをさっと読んだ楓さんが、私に問いかける。

「今日のメインは仔羊だ。俺は仔牛のロティに変えるが、君は?」
「私も仔牛で」

 仔羊は嫌いではないけれど、骨付きで出てくることが多いからあまり気が進まない。

「魚は……オマールブルーか。問題ない?」
「大丈夫です」

 ウェイターに綺麗な発音のフランス語で注文し、楓さんはシャンパングラスに手を伸ばした。

「綺麗な発音ですね」
「ああ、君もフランス語はできるんだったな」
「こういうところで困らない程度には」

 謙遜せずに笑った私に、楓さんも微笑んだ。シャンパンに口をつけ、満足そうに味わっている。
 それからは運ばれてくるお料理に舌鼓を打っていたら、楓さんに問いかけられた。

「口に合う?」
「はい。……あの、忘れるところでしたが」

 いけない、今日の最大の目的は退職についての相談だ。綺麗な水族館と貴重な展示物、おいしいお料理に浮かれている場合ではない。

「何かあったか?」
「あったというよりは、これから起こすといいますか……私の今の勤務先ですが。退職した方がいいんですよね?」
「そうだな。君のキャリアを邪魔してしまうのは申し訳ないが、働くにしても俺の側にいてほしい」

 これは別に彼が私を好きだからではなく、契約上のことである。お互いのスケジュールを把握して管理できる方が、夫婦生活や育児においてメリットがあるというだけのこと。

「寿退職としても問題ないですか?」
「かまわない。結婚式には、君の会社の上司や同僚を呼んでもいい」

 楓さんが優雅に雲丹のムースを平らげた後、オマールブルーのポワレが私達の前に置かれた。
 注がれた白のプルミエ・クリュ・レ・ピュセルの、果実の爽やかな甘みと上品な香りが口の中に広がっていく。

「お式の規模は、どのくらいですか?」
「あまり控えめにすると疑われるが、仰々しいのも気詰まりだ。双方合わせて五百人くらいでいいんじゃないか」

 その人数で、どこが仰々しくないのか。それ以上の規模は、最早王侯貴族の結婚式だ。
 楓さんとはこの価値観のすり合わせが必要だと認識し、私は心構えを新たにする。

「式場はどこに?」
「うちのブライダル部門で、手頃な式場を探させる。なければ空いたところで。俺は吉日にこだわりはないから、土日ならどこでもいい。君は?」
「私もいつでも。六月の土日はもう埋まってそうですけどね……」
「なら、どこか別のホテルのバンケットルームでもいい。金を惜しまなければ何とかなる」

 創業一家の権限でとは言っても、六月なんて結婚式のハイシーズンだ。そう都合良く空いているだろうか。

「楓さん。……私に契約を持ち出すより先に、式場を押さえてました?」
「ああ」

 私の問いに、楓さんは悪びれずに頷いた。確かに、先々まで考えて動くのは悪いことではない。まして私たちの結婚は、恋愛ではなくビジネスだ。事務的かつ計画的に進めても何も問題ない。

「私の退職は、二ヶ月後くらいです。最後の半月は有休消化できますけど、それまでは出勤の必要があります。花嫁修業はできません」
「問題ない。うちに嫁ぐんじゃなく、俺と結婚するだけだからな。それに、眞宮家の令嬢なら礼儀作法は大丈夫だろう。――実際、君の食事は綺麗だ」
「ありがとうございます」

 褒められたので、お礼を返しておく。そこに運ばれてきた仔牛のロティは、やわらかさも焼き加減も味も盛りつけも、何もかもが絶品だった。付け合わせの春野菜はフレッシュハーブのジュレで彩られ、マッシュポテトもオーヴンの焼き目が綺麗だ。
 お肉に合わせて、楓さんがペアリングせずに選んだ赤のムートン・ロートシルトを飲むと、絶妙なマリアージュが発生する。楓さんは、ここまで計算していたんだろうか。

「おいしい。このワイン、とても合いますね」
「シャトー・ラトゥールと迷ったんだが、俺はムートンの方が好きなんだ」

 シャトー・ラトゥールとムートン・ロートシルト。どちらも有名な高級ワインで、私は口にするのは初めてだった。赤ワインはお肉を活かす為のものだと思っていたけれど、本当においしいものは、お料理との相乗効果をもたらすと知った。続いて、チーズ、デザート、ミニャルディーズを選ぶ。私は何種類かのチーズの他に、バニラアイスとショコラスフレ、そしてギモーヴとマカロンを取り分けてもらった。
 楓さんも、甘味は私と同じものを選んでいる。そこで初めて気づいたのだけど、全体的にお料理のサイズが私の分は控えめだった。最後まで食べきれるようにお店が配慮してくれたのかな。――ううん、たぶん楓さんの指示だ。さりげない気遣いは、私に感謝を望むものではないからこそ、嬉しかった。
 そして、お会計は済まされていた。こういうお店に男性と二人で来たことがないから、タイミングがわからなかった。この場――個室だし人目もないし、ここで半額渡していいものだろうか。
 紅茶にミルクを入れ、私は溜息をついた。

「どうした?」
「お会計……せめて自分の分はと思っていたんですけれど」

 お財布には二十万円入れてきた。本当はもう少し多かったけれど、セレクトショップでボレロを買ったので減ってしまった。社会人三年目なので、そろそろクレジットカードを持とうかと思った時期に父の会社が破綻寸前に陥ったと知り、カードは作っていない。

「それは俺に格好をつけさせてくれるということで、片づいた話じゃなかったのか」
「……どう考えても、ここのお料理はそれで片づけていいレベルではありません」

 私はギモーヴを口にした。レストランの最後の一皿、というレベルを遙かに超えておいしい。

「あの絵を買う為に貯金したことにすればいい」
「でも」
「夫婦になったら財布は同じだ。気にすることはない」

 そういうことにしていいんだろうか。私が悩んでいると、楓さんは楽しそうに笑った。

「まるで百面相だな。君は考えていることが素直に顔に出る」
「すみません」
「責めてない。まあ、秘書として働く時は表情を抑えてくれると助かるかな」
「……善処します」

 私は「感情」が薄いから、家族以外には無表情と言われることが多かった。でも、楓さんには百面相に映っているらしい。
 今まで「素直に顔に出る」とか、それを「抑えてほしい」と誰かから言われたことはない。そもそも、両親と姉以外で私の心を表情から汲み取った人は楓さんが初めてだ。
 自分の感情表現について考えながら、私は楓さんと一緒にその店を後にした。楓さんは、遠回りになるのに家まで送ってくれた。親切な人だと思う。 



   2.彼女との関係


 仕事中、デスクに射し込む光が眩しく感じて顔を上げた。途端、秘書の月足智久ともひさが窓のブラインドを下ろす。まだ晩春と初夏の境だが、日中の陽射しはかなり強くなっている。

「気づくのが遅れました」
「……いや。休憩するか」

 ずっとパソコンの液晶を見ていたから、少し目の奥が疲れた。そう言ったら、月足はブルーベリーのサプリメントと白湯を出してくる。細かいところに気のつく男だ。
 一ノ瀬グループの中核である一ノ瀬商事。その取締役専務が俺の肩書きだ。次期社長といった方が通りはいい。
 自社ビルの最上階にある役員フロアの一室で、俺はグループの上半期仮決算を見越し、下半期の計画表を注視していた。

「エネルギー問題はついて回るな」
「はい」
「輸送コストを考えたら、東南アジアの産油国に投資した方がいいくらい、誰でもわかるからな」

 結果、投資される側が投資したい企業を選ぶ売り手市場になっている。幸い、うちは産油国との付き合いがあるので優先されているが、それもいつまで続くかわからない。
 多少輸送コストが上がっても、製油コストが低い良質さと埋蔵量が見込めるなら、新しい取引先を増やすことは問題ない。むしろ、いくらあってもいい。


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