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マサシの過去
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### マサシの過去
翌日のことだった。
マサシはカズに「話したいことがある」と、リビングで言った。
静かな午後の光が窓から差し込み、ふたりの影を柔らかく床に落としていた。
カーテンのすき間から入る風が、カズの手元の紅茶の湯気を揺らした。
「何? 話したいことって?」
カズがマサシに問う。
声はいつも通り穏やかで、でもどこか警戒しているようにも感じられた。
ふたりの関係は、再会してまだ日が浅い。
過去の記憶は確かに温かいけれど、今はそれだけでは繋がれない距離がある。
「実は俺⋯⋯ずっと親から虐待をされて育ってきたんだ」
言葉が口から零れた瞬間、マサシの胸がずきりと痛んだ。
まるで、長年蓋をしていた傷口を、今ようやく開けたような感覚。
空気の刺激が、まだ癒えない部分を鋭く刺す。
「えっ!?」
思わずカズが聞き返す。
紅茶のカップを置き、身を乗り出す。
その瞳には驚きと、すぐさま湧き上がる心配の色が浮かんでいた。
「自宅に帰るのが嫌だった。ずっと学校にいたかった。カズと過ごす毎日がとても楽しくて大切だった。でも、自宅に戻ると⋯⋯虐待が待っていた」
カズは無言で聞いている。
口を閉ざし、ただマサシの顔を見つめている。
その沈黙は、責めるでも、安易に慰めるでもなく、ただ「ここにいる」という意志の表れだった。
それが、マサシには何より救いだった。
「高校を卒業して、家を出ようとした。でも、親が認めてくれなかった。親の了承がなければアパートすら借りられない。俺は仕方なく自宅にいたんだ」
声が少しずつ震え始める。
思い出したくない記憶が、堰を切ったように押し寄せる。
夜中に台所で殴られ、階段から突き落とされ、食事も与えられず、部屋に閉じ込められた日々。
親の怒号が壁に跳ね返り、耳をつんざく。
それでも、学校に行けばカズがいて、笑ってくれた。
その記憶だけが、当時のマサシを支えていた。
「辛かったろうね⋯⋯」
カズの声は、低く、震えていた。
「カズがずっと姿をくらましていたから、尚更のこと辛かった」
マサシは目を伏せる。
あの頃の孤独を思い出す。
カズがいなくなってからの数年、彼の存在は、希望というより、失われた何かの象徴になっていた。
『あいつがいたら、こんなことにはならなかったかもしれない』という、甘く切ない幻想。
「ゴメン。オレも自分の心を見つめ直すためにいろんなところを放浪してたんだ。それで、戻るまで9年もかかってしまった」
カズの声には、深い後悔が混ざっていた。
マサシは顔を上げ、彼の目を見つめた。
「『カズが戻った』とハヤトから連絡をもらったときは嬉しくて涙が出たよ。でも、実際に会うまでは信じられなかった。あの時、喫茶店で会えたことに俺は本当に感謝してるよ」
「オレもだよ。あの時君にまた会えてなかったら、今の生活はなかったんだからな」
カズはそう言って、マサシの肩にそっと手を回した。
その温もりが、過去の冷たさを少しずつ溶かしていくように感じられた。
ふたりの間に、言葉以上のものが流れていた。
それは、時間と距離を越えて、ようやく再会した絆の確かさだった。
「つらい過去のことを話させて悪かったな。本当は黙ってたかったんじゃないのか?」
カズの問いに、マサシは首を横に振った。
「ううん。いつかは話さなきゃって思ってたから、これで良かったんだよ。何か、心の重荷が取れた感じ」
実際、胸の奥にずっと積もっていた石のようなものが、今ようやく消えた気がした。
言葉にすることで、それはもはや自分だけのものではなくなる。
共有された痛みは、もう完全には自分を縛れない。
「オレの家は家族皆んな仲が良かったから、虐待とかそういうの考えたことも無かったな」
カズはそう言って、遠い目をする。
彼の記憶の中には、夕飯のテーブルで笑い合う家族の姿がある。
母の手料理、父の冗談、兄のわんぱくぶり。
それらは、マサシにとっては夢のような光景だった。
「でも、だからこそ⋯⋯今こうして君の話を聞けて、よかったと思う。オレは、君がどんなに強かったか、やっと理解できた気がする」
マサシは少し驚いた。
強かった?
自分は、ただ逃げ場を求めていただけだ。
カズの存在にすがり、学校に長居し、傷を隠して笑っていた。
強さなんて、微塵も感じなかった。
「強かったって⋯⋯そんなことないよ。ただ、生き延びようとしていただけだ」
「それこそが、一番の強さなんじゃないか?」
カズの言葉は、静かで、でも確かな力を持っていた。
マサシはその意味を噛みしめる。
逃げず、壊れず、そして今ここにいる。
それだけでも、奇跡に近いことかもしれない。
ふと、マサシは思い出す。
高校時代、晴れた日にカズと屋上で弁当を食べたこと。
カズが「マサシって、いつも笑ってるよな」と言って、嬉しそうに笑ったこと。
あの時、マサシは「お前がいるからだよ」と答えただけだった。
でも本当は、笑っているふりをしていた部分もあった。
カズの前だけは、少しでも明るくいようと思って。
「あの頃、俺、けっこう無理してたんだよ。でも、お前がいてくれたから、何とかなってた」
「⋯⋯そうか。なら、オレも、君にとっての《居場所》になれてたってことだな」
カズの声は、どこか誇らしげだった。
マサシは胸が熱くなる。
《居場所》
その言葉が、どれほど重いものか、カズにはまだ完全には理解できないかもしれない。
でも、彼がそう思ってくれていること自体が、すでに救いだった。
「今も、そうさ。お前がいるって思うだけで、ここにいられる気がする」
言葉にすると、少し照れくさい。
でも、マサシはそれを隠さなかった。
カズも、照れ笑いを浮かべながら、「じゃあ、これからも、その居場所提供し続けるよ」と言った。
ふたりはしばらく、何も言わずに窓の外を見つめた。
夕暮れが近づき、空がオレンジと紫に染まり始めていた。
街の灯りが一つ、また一つと点り始める。
「これからどうする? 家とは⋯⋯もう関わりたくない?」
カズの問いに、マサシは静かに頷いた。
「うん。親とはもう縁を切った。戸籍上の手続きも済ませた。名前も変えた。今の俺は、あの家に縛られないように生きていく」
「名前も⋯⋯?」
「ああ。本名はもう使わない。マサシも、本当はもう違う名前なんだけど⋯⋯でも、お前がそう呼んでくれるなら、それでいい」
カズは少し目を潤ませた。
「マサシっていう名前、ずっと好きだったよ。君にしか似合わないと思ってた」
その言葉に、マサシは思わず笑った。
涙がこぼれそうになるのを、必死にこらえた。
「これからは、もっと正直に生きようと思う。過去を隠さず、傷も見せながら、でも前に進んでいきたい」
「それなら、オレもそばにいるよ。君の話を、いつでも聞くよ」
カズの言葉に、マサシは心から「うん」と頷いた。
ふたりの間に流れる静けさは、もう孤独を運ぶものではなく、温かい絆の証だった。
過去は消せない。
でも、それを背負いながらでも、歩き続けることはできる。
そして、その道の途中に、カズがいてくれるなら――。
マサシは、初めて「未来」を感じた気がした。
翌日のことだった。
マサシはカズに「話したいことがある」と、リビングで言った。
静かな午後の光が窓から差し込み、ふたりの影を柔らかく床に落としていた。
カーテンのすき間から入る風が、カズの手元の紅茶の湯気を揺らした。
「何? 話したいことって?」
カズがマサシに問う。
声はいつも通り穏やかで、でもどこか警戒しているようにも感じられた。
ふたりの関係は、再会してまだ日が浅い。
過去の記憶は確かに温かいけれど、今はそれだけでは繋がれない距離がある。
「実は俺⋯⋯ずっと親から虐待をされて育ってきたんだ」
言葉が口から零れた瞬間、マサシの胸がずきりと痛んだ。
まるで、長年蓋をしていた傷口を、今ようやく開けたような感覚。
空気の刺激が、まだ癒えない部分を鋭く刺す。
「えっ!?」
思わずカズが聞き返す。
紅茶のカップを置き、身を乗り出す。
その瞳には驚きと、すぐさま湧き上がる心配の色が浮かんでいた。
「自宅に帰るのが嫌だった。ずっと学校にいたかった。カズと過ごす毎日がとても楽しくて大切だった。でも、自宅に戻ると⋯⋯虐待が待っていた」
カズは無言で聞いている。
口を閉ざし、ただマサシの顔を見つめている。
その沈黙は、責めるでも、安易に慰めるでもなく、ただ「ここにいる」という意志の表れだった。
それが、マサシには何より救いだった。
「高校を卒業して、家を出ようとした。でも、親が認めてくれなかった。親の了承がなければアパートすら借りられない。俺は仕方なく自宅にいたんだ」
声が少しずつ震え始める。
思い出したくない記憶が、堰を切ったように押し寄せる。
夜中に台所で殴られ、階段から突き落とされ、食事も与えられず、部屋に閉じ込められた日々。
親の怒号が壁に跳ね返り、耳をつんざく。
それでも、学校に行けばカズがいて、笑ってくれた。
その記憶だけが、当時のマサシを支えていた。
「辛かったろうね⋯⋯」
カズの声は、低く、震えていた。
「カズがずっと姿をくらましていたから、尚更のこと辛かった」
マサシは目を伏せる。
あの頃の孤独を思い出す。
カズがいなくなってからの数年、彼の存在は、希望というより、失われた何かの象徴になっていた。
『あいつがいたら、こんなことにはならなかったかもしれない』という、甘く切ない幻想。
「ゴメン。オレも自分の心を見つめ直すためにいろんなところを放浪してたんだ。それで、戻るまで9年もかかってしまった」
カズの声には、深い後悔が混ざっていた。
マサシは顔を上げ、彼の目を見つめた。
「『カズが戻った』とハヤトから連絡をもらったときは嬉しくて涙が出たよ。でも、実際に会うまでは信じられなかった。あの時、喫茶店で会えたことに俺は本当に感謝してるよ」
「オレもだよ。あの時君にまた会えてなかったら、今の生活はなかったんだからな」
カズはそう言って、マサシの肩にそっと手を回した。
その温もりが、過去の冷たさを少しずつ溶かしていくように感じられた。
ふたりの間に、言葉以上のものが流れていた。
それは、時間と距離を越えて、ようやく再会した絆の確かさだった。
「つらい過去のことを話させて悪かったな。本当は黙ってたかったんじゃないのか?」
カズの問いに、マサシは首を横に振った。
「ううん。いつかは話さなきゃって思ってたから、これで良かったんだよ。何か、心の重荷が取れた感じ」
実際、胸の奥にずっと積もっていた石のようなものが、今ようやく消えた気がした。
言葉にすることで、それはもはや自分だけのものではなくなる。
共有された痛みは、もう完全には自分を縛れない。
「オレの家は家族皆んな仲が良かったから、虐待とかそういうの考えたことも無かったな」
カズはそう言って、遠い目をする。
彼の記憶の中には、夕飯のテーブルで笑い合う家族の姿がある。
母の手料理、父の冗談、兄のわんぱくぶり。
それらは、マサシにとっては夢のような光景だった。
「でも、だからこそ⋯⋯今こうして君の話を聞けて、よかったと思う。オレは、君がどんなに強かったか、やっと理解できた気がする」
マサシは少し驚いた。
強かった?
自分は、ただ逃げ場を求めていただけだ。
カズの存在にすがり、学校に長居し、傷を隠して笑っていた。
強さなんて、微塵も感じなかった。
「強かったって⋯⋯そんなことないよ。ただ、生き延びようとしていただけだ」
「それこそが、一番の強さなんじゃないか?」
カズの言葉は、静かで、でも確かな力を持っていた。
マサシはその意味を噛みしめる。
逃げず、壊れず、そして今ここにいる。
それだけでも、奇跡に近いことかもしれない。
ふと、マサシは思い出す。
高校時代、晴れた日にカズと屋上で弁当を食べたこと。
カズが「マサシって、いつも笑ってるよな」と言って、嬉しそうに笑ったこと。
あの時、マサシは「お前がいるからだよ」と答えただけだった。
でも本当は、笑っているふりをしていた部分もあった。
カズの前だけは、少しでも明るくいようと思って。
「あの頃、俺、けっこう無理してたんだよ。でも、お前がいてくれたから、何とかなってた」
「⋯⋯そうか。なら、オレも、君にとっての《居場所》になれてたってことだな」
カズの声は、どこか誇らしげだった。
マサシは胸が熱くなる。
《居場所》
その言葉が、どれほど重いものか、カズにはまだ完全には理解できないかもしれない。
でも、彼がそう思ってくれていること自体が、すでに救いだった。
「今も、そうさ。お前がいるって思うだけで、ここにいられる気がする」
言葉にすると、少し照れくさい。
でも、マサシはそれを隠さなかった。
カズも、照れ笑いを浮かべながら、「じゃあ、これからも、その居場所提供し続けるよ」と言った。
ふたりはしばらく、何も言わずに窓の外を見つめた。
夕暮れが近づき、空がオレンジと紫に染まり始めていた。
街の灯りが一つ、また一つと点り始める。
「これからどうする? 家とは⋯⋯もう関わりたくない?」
カズの問いに、マサシは静かに頷いた。
「うん。親とはもう縁を切った。戸籍上の手続きも済ませた。名前も変えた。今の俺は、あの家に縛られないように生きていく」
「名前も⋯⋯?」
「ああ。本名はもう使わない。マサシも、本当はもう違う名前なんだけど⋯⋯でも、お前がそう呼んでくれるなら、それでいい」
カズは少し目を潤ませた。
「マサシっていう名前、ずっと好きだったよ。君にしか似合わないと思ってた」
その言葉に、マサシは思わず笑った。
涙がこぼれそうになるのを、必死にこらえた。
「これからは、もっと正直に生きようと思う。過去を隠さず、傷も見せながら、でも前に進んでいきたい」
「それなら、オレもそばにいるよ。君の話を、いつでも聞くよ」
カズの言葉に、マサシは心から「うん」と頷いた。
ふたりの間に流れる静けさは、もう孤独を運ぶものではなく、温かい絆の証だった。
過去は消せない。
でも、それを背負いながらでも、歩き続けることはできる。
そして、その道の途中に、カズがいてくれるなら――。
マサシは、初めて「未来」を感じた気がした。
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