続・性春時代

あかいとまと

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サイン会

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 サイン会場は、朝の光を浴びて静かに目覚めていた。
 会場の外には、すでに列が長蛇のようにならび、風に揺れる旗や手作りのボードが彩りを添えていた。

『あなたの物語が、私の明日を変えました』
『カズ先生の再来です!』

 ――そんな言葉が書かれた紙を抱えた読者たちの瞳には、期待と熱意が宿っている。

 マサシは控室の椅子に座り、手のひらにじっとりと滲む汗を拭った。
 ポケットに忍ばせたペン――あの橘カズのペン――にそっと指を伸ばす。
 冷たい金属の感触が、現実を思い出させてくれた。

「緊張してますか?」

 声をかけたのは、多田だった。
 いつもの無表情ながら、目元にわずかな笑みを浮かべている。

「⋯⋯はい。でも、嬉しいです。こんなに多くの人に読んでいただけるなんて、夢みたいです」

「夢じゃない。君が一歩一歩、積み重ねてきた現実だ」

 多田は机の上に置かれたサイン本を軽く叩いた。

「あの日、君が提出した第二話のラフを読んだとき、俺は思ったよ。『また、ひとり、物語を背負う者が現れた』ってな。カズ・タチバナも、最初はこうしてサイン会に立ったんだ。震える手で、一冊一冊に名前を書いた。でも、その一筆一筆が、誰かの心に灯をともした。君も、今、その立場にいる」

 マサシは深く息を吸い、吐いた。

「カズの灯を、僕が受け継いでるってことですね」

「そうだ。でも、それは“継承”じゃなく、“継続”だ。君はカズ・タチバナの影を追うんじゃなく、自分の光を灯してる。読者が君の作品にカズ・タチバナの影を見るのは、きっと――物語の本質が、同じ場所から生まれているからだ」

 ドアの向こうから、スタッフの声が聞こえる。

「先生、そろそろです」

 マサシは立ち上がり、背筋を伸ばした。

「⋯⋯わかりました。行きます」

 会場に入ると、一斉に拍手が湧き起こった。
 思わず足が止まる。
 目の前に広がる光景に、胸が熱くなる。
 子供から大人まで、色とりどりの服を着た人々が、笑顔で手を振っている。
 そのどれひとつとして、同じ思いでここに来ているわけではないだろう。
 でも、全員が「物語」を通して、どこかでつながっている。

 最初に来たのは、中学生くらいの少女だった。
 震える手で本を差し出し、目を輝かせて言った。

「先生⋯⋯この作品を読んで、私もマンガを描くって決めました。カズ先生の作品も読みました。でも、先生の物語は、もっと“今”を感じさせてくれるんです。今の私の気持ち、全部、描いてるみたいで⋯⋯」

 マサシは静かに頷き、ペンを走らせた。

「――“未来の漫画家へ。君の物語を、誰よりも信じて”」

 少女は涙を浮かべ、小さく「ありがとう」と呟いて去っていった。

 次々と列は進む。
 一人ひとりと向き合うたび、マサシの心には、言葉にならない感情が積もっていく。
 ある読者は「この作品に出会わなければ、自殺していたかもしれない」と告白し、ある読者は「家族と和解できた」と笑った。
 ある青年は、「先生のペンは、カズ先生の魂を受け継いでいる」と言った。

 その言葉に、マサシは思わずペンを止めた。

「⋯⋯でも、僕はカズ先生じゃない。ただの、マサシって男です」

 青年は微笑んだ。

「だからこそ、すごいんです。カズ先生の影に圧倒されず、それでも同じ場所を目指してる。それが、尊敬できるんです」

 マサシの胸が、ぎゅっと締めつけられた。

 ――そうだ。
 自分はカズの“代わり”なんかじゃない。
 自分は、ただの“マサシ”だ。
 でも、その“マサシ”が、カズのペンとノートを手にし、カズの物語が届けた“光”を、今、別の形で誰かに届けている。

 サイン会が終わり、会場の灯りがひとつずつ消えていく。
 マサシは最後まで残り、床に落ちた一通の手紙に気づいた。
 封もされていない。
 中には、折りたたまれたメモ用紙。

『先生へ。  
私は、橘カズ先生の長年のファンでした。  
彼の最期のインタビューで、“次の物語は、きっと誰かの手で紡がれるだろう”と言っていたのを、ずっと覚えていました。  
先生の作品を読んだとき、その言葉を思い出しました。  
――“次の物語”は、ここにありました。  
どうか、そのペンを、決して離さないでください。  
私たちが、また物語に救われる日が来るまで』

 署名はない。

 マサシはその手紙を、そっと胸のポケットにしまった。
 そして、空を見上げた。
 夕暮れの空は、オレンジと紫が混ざり合い、まるで絵の具を溶かしたように広がっている。

 多田がそっと肩に手を置いた。

「⋯⋯重いだろう? でも、それだけ届いているってことだ」

「はい。でも、まだ⋯⋯全然、足りない気がします」

「足りないから、描き続けるんだ。足りないから、前に進めるんだ」

 マサシは、再びペンを取り出した。
 カズのペン。
 その先端には、小さな傷――長年、インクがにじみ、紙に刻まれた軌跡がある。

「カズ⋯⋯あなたは、どこまで物語を描きたかったんですか?  
 どこまで、人の心に届けようとしてたんですか?」

 答えは、風の中にはない。
 でも、マサシの胸の中には、ひとつだけ確かな思いがある。

 ――次は、僕が誰かの光になる番だ。

 数週間後。  
 新刊が発売された。
 表紙は、塔の向こうに昇る太陽。
 主人公が、影と手を取り合い、歩き出す瞬間を捉えた一枚だ。
 発売と同時に、書店は完売。
 ネットでは「心が震えた」「この作品で泣いた」という声が相次ぎ、SNSは炎上するように広がった。

 そして、ある夜。  
 マサシは自宅の机に向かっていた。
 次の話の構想を練るためのスケッチブックが、ページを重ねている。
 ふと、古いノートを手に取る。
 カズのノート。
 そこに書かれた、断片的なメモやスケッチ。
 そして、最後のページ――。  

『物語とは、  
誰かの“まだ言えない声”を  
代わりに叫ぶ行為だ。  
だから、  
迷ったときは、  
その声に耳を澄ませ。  
――君の物語は、  
誰かの“生きる理由”になる』

 マサシは、その言葉を何度も読み返した。
 そして、新しい原稿用紙に、一文字目を書いた。

『――塔の向こうには、  
まだ誰も見たことのない朝が、  
待っている』

 ペンが紙を滑る音。
 それは、静かな鼓動のように聞こえた。

 数ヶ月後。  
 マサシの作品は、アニメ化が決定した。
 制作会議の席で、プロデューサーが言った。

「テーマ曲の作詞を、マサシ先生に書いてもらいたいんですが、いかがでしょうか?」

 マサシは驚いた。
 自分はマンガ家であって、歌手でも詩人でもない。
 でも、ふと、カズのノートの言葉がよみがえる。

 ――物語とは、誰かの“まだ言えない声”を代わりに叫ぶ行為だ。

「⋯⋯わかりました。書かせてください」

 その夜、マサシはスタジオに立っていた。
 マイクの前に。
 初めての録音。
 自分の声がスピーカーから流れる。
 緊張で声が震える。
 でも、歌詞は、心の底から湧き出てきた。

『影を背負って 歩き始めた  
誰かの声が 道を照らす  
ペンの先に 未来を乗せて  
僕は、君の光になる』

 録音が終わり、スタッフたちが拍手を送る。
 マサシは、思わず涙をこぼした。

 ――カズ。
 聞こえていますか?  
 僕の声も、届いていますか?

 次の朝。  
 マサシはまた編集部を訪れた。
 新しい原稿を持って。
 多田は、いつものように無表情で、でも目を細めて言った。

「⋯⋯また、いいものを持ってきたな」

「はい。次は、もっと深いところに行きたいんです。カズが届けきれなかった“何か”――それを、僕が描きたい」

 多田は、ゆっくりと頷いた。

「⋯⋯そうか。じゃあ、そのペンを、しっかり握っておけよ。  
――塔の向こうへ、まだ終わってないんだからな」

 外は、また晴れていた。  
 風が、マサシの髪をなでる。  
 彼は空を見上げ、ポケットのペンに触れた。

「⋯⋯次は、もっと遠くへ。  
もっと、たくさんの人の心へ。」

 そして、彼は歩き出した。  
 次のコマへ――。  
 次の夢へ――。  
 塔の向こうへ。





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