続・性春時代

あかいとまと

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続く物語2

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### 続く物語2

『塔の扉には、風が声を乗せてきた』  

「まだ、書き終わってないでしょう?」  

 その声は、ハヤトの記憶の奥底から響いてきたようだった。  
 幼い頃、初めて物語を書いた夜。
 鉛筆を折りながら、枕元に置いた原稿用紙に「続きは明日書く」と書いたあの日の自分。  
 その声は、今の彼自身でもあった。  

『ノートのページが、一枚、また一枚と浮かび上がる。  
途切れた言葉たちが、光の粒子となって宙に舞い、影の街の空を彩る。  
“でも、もしも——”が青い星になり、  
“きっと、これから——”が小さな月になり、  
“だから、もう一度——”が、塔へと続く橋になった』  

「⋯⋯俺たちの、未完成の物語が、ここに集まってるのか」 
 
 カズの声は低く、震えていた。
 彼の机の上には、三年前に書きかけた長編の最終章が、未完成のまま眠っていた。
 主人公の死をどう描くべきかわからず、ペンを置いたまま、もう二度と開けなかった。  

 マサシは赤インクで、ノートの隅にこう書き加えた。
  
「未完成って、終わらせてないってことじゃなくて⋯⋯まだ、終わらせたくないってことかもしれないね」  

 ハヤトはその言葉を胸に刻み、ペンを走らせる。  

『ミナが橋を歩き始める。  
影は彼女の隣を、静かに歩く。  
「怖くないの?」とミナが問う。  
「怖いよ」と影は答える。  
「でも、怖いからこそ、進む価値があるんだ」  

塔の扉が、音もなく開いた。  
中には、無数の机が並んでいた。  
一つ一つの机の上には、ペンとインクと、表紙のない本。  
壁には、時計がない。  
代わりに、それぞれの机の前に、小さな灯が灯っている。  
その明かりの強さが、その人の“今”を表していた』  

「ここは⋯⋯」

 と、カズが呟く。  

「まるで、俺たちの部屋だ」  

 確かに、そこに並ぶ机は、彼らがいつも物語を書いてきた机とそっくりだった。  
 傷のつき方、インクの染み、ペン立ての位置まで——。 

『ミナの机の前に立つと、灯がふっと大きく揺れた。  
本の表紙に、文字が浮かび上がる。  
『まだ、終わらせないで』  

“誰が書いたの?”  
“あなた自身だよ”  
影の声が、本の中から聞こえる。  
“あなたが、書くのをやめた瞬間、この物語は、ここで待っていた。  
書き直す勇気を持てば、続きはここにある”』  

 ハヤトは自分の机を見つめた。  
 そこには、彼が半年前に捨てた小説の原稿——「灯のない街」というタイトルの、途中で止まった物語があった。  
 主人公は、光を失った街で一人の少女と出会い、彼女の手を取って歩き出すところで、ハヤトは筆を置いた。
  
「どう続けていいか、わからなかった」  

 でも今、彼は気づいた。  
 あの物語は、終わらなかったんじゃない。  
 待っていたのだ。  

『レイが、ミナの背中を押すように言った。  
“ここは、過去を悔やむ場所じゃない。  
未来を、もう一度選ぶ場所だ”  

ミナは、ペンを取った。  
インクは黒ではなかった。  
淡い金色で、まるで朝の光のようだった。  
彼女は、一文字目を書く前に、深く息を吸った。  
“書けない”という言葉が、喉の奥で渋っていた。  
でも、影がそっと手を重ねてきた。  
「大丈夫。書けなくても、書こうとしてる。  
それだけで、物語は動き出す」  

そして、ミナは書いた。  
『でも、もしも——』  

その一文が、本全体を金色に染めた。  
途切れていた物語が、今、再び呼吸を始めた』  

「⋯⋯俺も、書こう」
  
 カズが、自分の机に歩み寄った。  
 彼のノートには、「彼女が死ぬべき理由」というメモが、赤く書き殴られていた。  
 でも今、彼はそれを消さず、その横にこう書いた。 
 
『でも、もしも彼女が、死なずに済む方法を見つけたら?』  

 マサシは立ち上がり、自分の机の前に立つ。  
 彼の物語は、主人公がすべてを失い、海に飛び込むところで終わっていた。
  
「あのとき、救いなんて描けなかった」
  
 彼は静かに言った。
  
「現実には、そんなに綺麗な終わりなんてないと思ってた」  

 でも、ここで彼は気づいた。  
 物語は、現実を模倣するためじゃない。  
 現実を超えるための、一筋の光なんだ。  

 彼はインクを赤のままにし、力強く書き始めた。
  
『海に落ちた瞬間、彼の手を掴む影があった。  
“まだ、帰る場所がある”』  

 ハヤトは、二人の背中を見ながら、自分の机に座った。  
『灯のない街』の最終ページ。  
 彼は、そこにこう綴った。  

『主人公は、少女の手を取って歩き出した。  
そして、街の一番暗い角で、一つの灯を見つけた。  
灯は、小さくて、ふらふらと揺れていた。  
でも、消えてはいなかった。  
“まだ、灯ってる”  
少女が微笑んだ。  
“だって、誰かが、まだ見つけてほしいって思ってるから”』  

 その瞬間、塔全体が光に包まれた。  
 影の街の逆さの建物が、ゆっくりと正されていく。  
 地面が震え、空が割れ、無数の物語のページが風に舞い上がった。  
 それらは、書きかけの夢、途中で投げ捨てられた希望、言葉にできなかった思い——。  
すべてが、金色の光となって、夜空を照らし始めた。

「⋯⋯終わった?」

 と、カズが呟く。
  
「いや」

 マサシが微笑んだ。

「始まったんだ」

 塔の外では、雨が止んでいた。  
 雲の切れ間から、朝の光が差し込み、影だったはずの輪郭が、少しずつ色を持ち始める。  
 街の灯が、一つ、また一つと灯っていった。  
 誰かの声が聞こえる。  
 誰かの笑い声が響く。  
 それは、物語が、再び歩き出した音だった。

 ハヤトは自分の本をそっと閉じた。  
 表紙には、まだタイトルはなかった。  
 でも、もう「灯のない街」という言葉は、そこに刻まれていない。  
 代わりに、ペン先から生まれた新しい物語が、静かに息をしていた。

「未完成って、弱さじゃないんだな」  

 彼は空を見上げながら言った。 
 
「迷ったって、止まったって、いい。でも、また書きたいと思った瞬間——その物語は、ずっとそこで待ってくれてる」

 カズがノートをめくった。
  
「彼女が死ぬべき理由」という赤い文字の横に、今ではもう十数ページの物語が広がっている。  
 彼女は病院のベッドから起き上がり、窓の外の桜を見て笑った。  
 そして、誰かの手を握り返した。  

「救いなんて、最初からないって思ってた」 
 
 カズは小さく笑った。
  
「でも、探せば、どこにでもあるもんなんだな」

 マサシのマンガでは、主人公が海から引き上げられたあと、浜辺で一人の老人と出会う。  
 その老人は、かつて同じ場所で自らを捨てかけた男だった。
  
「お前が戻ってきたってことはさ」
  
 老人は波を見つめながら言った。  

「誰かが、お前をまだ必要としてるってことだ」
  
 マサシはそのセリフを書いたとき、初めて自分のマンガに「希望」という言葉を許した。

 塔の中の灯は、すべてが等しく輝いていたわけではない。  
 弱々しくチラついているものもあれば、力強く燃えているものもある。  
 でも、どれ一つとして、完全に消えてはいなかった。  
 それが、ここが「終わりの場所」ではなく、「続きの場所」である証だった。

『ねえ、影って⋯⋯もしかして』
  
 ミナがふと口を開いた。、
  
『私たちの、書けなかった思いとか、伝えられなかった言葉とか——そういうものでできてるんじゃない?』

 影は、ただ微笑んだ。  
 その輪郭は、次第に薄れていった。  
 でも、消えることはなかった。  
 代わりに、それぞれの作家の肩に、静かに手を置いたような、温もりを残して。

「影じゃないよ」
  
 影の声が、塔全体に響いた。
  
「僕らは、『まだ』という言葉の形だ。  
『まだ書かない』じゃなくて、『まだ終わらせない』ための、  
『まだ信じたい』ための、影。  
だから、いつでも戻っておいで。  
ペンを取るその瞬間、僕らは君のとなりにいる」

 塔の扉が、再び音もなく閉じた。  
 でも、誰もそれを気にも留めなかった。  
 なぜなら――。  
 もう、ここに来るための扉は、外にあるのではなく、それぞれの胸の中にあることに、気づいたからだ。

 マンションの部屋への帰り道、空はすっかり明るくなっていた。  
 三人はいつものマンションの部屋の前で立ち止まった。
  
「また、書くか?」
  
 マサシが尋ねる。
  
「当たり前だろ」

 カズが笑う。

「今度は、ちゃんと最後まで」

 ハヤトだけ、少し遅れてマンションの部屋に入った。  
 リビングテーブルの隅に、新しいノートを広げる。  
 インクは、まだ乾いていない。  
 ペンの先が、紙の上を滑る。  

『物語は、終わらない。  
終わらせない。  
そして——  
終わらせたくないからこそ、  
また、書き始める』

 外では、誰かが傘を畳み、誰かが新しい靴を履き替えて、誰かが、ふと空を見上げた。  

 その瞬間、どこかで、また一冊の本が、静かにページをめくった。





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