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新たな始まり
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### 新たな始まり
翌日の朝、陽が傾きかけた空が、まだ眠たげにまぶたを半分開けているような時間帯だった。
窓の外には、昨夜の雨が残した水たまりが、朝の光をちりばめた鏡のように反射していた。
マンションのリビングには、カズとマサシの二人だけが残っていた。
ハヤトの姿はもうなく、彼の足跡は、ドアの外に消えていった。
テーブルの上には、朝食のあとがまだ片付けきれていない。
コーヒーの香りが、ほんの少し、空気の中に漂っている。
マサシはソファに深く沈み込み、スケッチブックを膝の上に載せていた。
カズは窓辺に立って、外の街を見つめていた。
「結局、塔って何だったんだ?」
マサシの声は、静かだった。
まるで、自分に問いかけるように。
カズは振り返らずに答えた。
「何だ、マサシ。気付かなかったのか? 塔は『まだ』という言葉の形だ。
『まだ書かない』じゃなくて、『まだ終わらせない』ための、
『まだ信じたい』ための、影。それが、あの塔だ」
マサシは眉をひそめた。
「言葉の形⋯⋯?」
「ああ。塔が見えたのは、オレたちが『まだ』を抱えていたからだ。『まだ書きたい』って思ってるから、『まだ伝えたい』って願ってるから、塔は、そこに立っていた。でも、もう塔は消えた。それはつまり——」
カズがようやく振り向いた。
「オレたちが、塔じゃなくとも、『まだ』を灯せるようになったってことだ」
マサシは黙ってスケッチブックのページをめくった。
そこに描かれたのは、老人の背中。
荒れた道を歩くその姿は、どこか孤独だったが、でも、その足元には、小さな光が差している。
まるで、彼自身が、塔の代わりに灯を運んでいるように。
「俺はさ⋯⋯」
とマサシが言った。
「あの老人が、主人公に何を教えたのか、ずっと気になってた。でも、今思うと、教えたのは言葉じゃない気がする。むしろ、『まだ話せてないこと』そのものだったんだと思う。『まだ言えない』ってこと、『まだ終わってない』ってこと—―それが、一番の教訓だったんだ」
カズはうなずいた。
「物語ってさ、完結するためにあるんじゃない。終わらせないためにあるんだ。だから、塔は『終わり』じゃなくて、『始まり』の象徴だった。『まだ』という扉を開くための、鍵みたいなものだ」
マサシが笑った。
「じゃあ、俺たちが見た塔は、全部、自分たちの心の投影だったってことか?」
「そうさ。塔は外にあるんじゃない。心の奥底に、誰もが持ってる『まだ』の形。それが、たまたま、塔という形をとって現れたんだ。でも、今はもう、形にする必要がない。だって、灯は、ここにある」
カズは自分の胸を、また軽く叩いた。
その音は、小さかったが、確かなものだった。
沈黙が、ふたりの間に落ちた。
でも、それは不快なものではなかった。
むしろ、言葉の続きを待つような、静けさだった。
やがて、マサシがスケッチブックを閉じて、
「カズ、お前のノート——妹の視点で書くって言ってたよな。なんで、彼女の妹だったんだ?」
カズは少し考えた。
そして、静かに口を開いた。
「姉が病院で笑った日——あの日、妹は、何も言えなかった。
『よかったね』とも、『大丈夫?』とも、言えなかった。ただ、ベッドの横に立って、手を握って、涙をこらえていただけ。でも、そのとき、妹の心の中には、『まだ、話せてないこと』が山ほどあった。『もっと早く気づいてあげられたのに』『もっと優しくしてあげればよかった』『まだ、一緒に過ごしたかった』——
そういう、言えない『まだ』が、心をぐしゃぐしゃにしていた。だから、その視点で書きたいと思った。言葉にできなかった、あの『まだ』を、物語で灯したい」
マサシは目を伏せた。
「⋯⋯俺も、似たようなもんかもな。描いてる老人も、きっと何かを言えなかったんだろう。
だから、主人公に、自分の物語を託した。『まだ終わってない』って、誰かに伝えたくて」
カズが立ち上がり、キッチンへ向かった。
カップを二つ取り出し、お湯を沸かす。
「塔は、『まだ』を具現化した場所だった。でも、今は、その『まだ』を、自分たちの手で運べる。ペンで、絵筆で、言葉で、音で——形を変えながら、灯し続けることができる」
ケトルの音が、小さな歌のように響いた。
「でもな⋯⋯」
とマサシが言った。
「もし、誰かが『もう、終わりにしたい』って思ったら? そのときは、塔は現れないのかな?」
カズはカップにインスタントコーヒーを注ぎながら、
「現れないよ。塔は、『まだ』を願う心にしか、見えない。『終わりにしたい』って思う人は、もう、灯す気力がないってことだ。でも——」
彼はマサシの前にカップを置いた。
「それも、ひとつの真実だ。物語には、終わりを望む瞬間も、ある。でも、塔が消えるのは、終わりを決めたからじゃない。『まだ』を、別の形で抱えられるようになったからだ。灯が消えたんじゃなくて、心の中に移っただけなんだ」
マサシはカップを手に取り、熱さに指を縮めた。
「⋯⋯つまり、塔は、俺たちが弱かったから見えてたってことか?」
「違う。塔は、オレたちが弱いから見えたんじゃない。むしろ、強くなりたかったから見えたんだ。『まだ』を諦めたくないって、心の奥で叫んでたから。塔は、その叫びに応えて、姿を現した。今は、その叫びが、ペンになった。スケッチブックになった。原稿用紙になった」
マサシは、ふっと笑った。
「⋯⋯なんか、ずいぶん詩っぽいな、お前」
「詩じゃなくて、真実だよ」
カズも微笑んだ。
「物語って、詩みたいなもんだ。
終わりがない。でも、だからこそ、続いていく。塔は、その『続いていく』ってことを、形にして見せてくれた。今は、その形を、オレたちが作る番なんだ」
外の空が、少しずつ明るくなっていった。
雨雲は去り、青空が顔を出し始めた。
水たまりには、その青が映り、まるで小さな空の鏡のようだ。
マサシが立ち上がり、窓の外を見た。
「⋯⋯また、誰かが塔を見るかもしれないな」
「きっと、そうだろう」
カズもそばに立った。
「誰かが、『まだ』を抱えて、ペンを取る瞬間——そのとき、塔は、またどこかに立っているはずだ」
「でも、その人は、塔に登る必要はない。だって、灯は、自分の胸にあるって、どこかで気づいてるはずだから」
二人は、肩を並べて、外の街を見つめた。
どこかのアパートの窓から、ノートを開く音が聞こえてきそうだった。
誰かが、鉛筆を走らせ、
誰かが、言葉を探し、
誰かが、『まだ』を形にしようとしている。
「なあ、カズ」
「ん?」
「俺たちの物語も、まだ、終わってないよな?」
カズは、ゆっくりと頷いた。
「ああ。終わってなんか、ない。終わらせない。だって——」
彼は、自分のノートを手に取り、新しいページを開いた。
「まだ、書き始めてすら、いないんだから」
雨上がりの風が、カーテンをふわりと揺らした。
その向こうには、青い空と、まだ誰も知らない物語たちが、静かに、でも確かに、息づいていた。
塔はもうない。
でも、灯は、ここにある。
そして、
どこかの誰かの胸にも、
今、
確かに——
灯っている。
翌日の朝、陽が傾きかけた空が、まだ眠たげにまぶたを半分開けているような時間帯だった。
窓の外には、昨夜の雨が残した水たまりが、朝の光をちりばめた鏡のように反射していた。
マンションのリビングには、カズとマサシの二人だけが残っていた。
ハヤトの姿はもうなく、彼の足跡は、ドアの外に消えていった。
テーブルの上には、朝食のあとがまだ片付けきれていない。
コーヒーの香りが、ほんの少し、空気の中に漂っている。
マサシはソファに深く沈み込み、スケッチブックを膝の上に載せていた。
カズは窓辺に立って、外の街を見つめていた。
「結局、塔って何だったんだ?」
マサシの声は、静かだった。
まるで、自分に問いかけるように。
カズは振り返らずに答えた。
「何だ、マサシ。気付かなかったのか? 塔は『まだ』という言葉の形だ。
『まだ書かない』じゃなくて、『まだ終わらせない』ための、
『まだ信じたい』ための、影。それが、あの塔だ」
マサシは眉をひそめた。
「言葉の形⋯⋯?」
「ああ。塔が見えたのは、オレたちが『まだ』を抱えていたからだ。『まだ書きたい』って思ってるから、『まだ伝えたい』って願ってるから、塔は、そこに立っていた。でも、もう塔は消えた。それはつまり——」
カズがようやく振り向いた。
「オレたちが、塔じゃなくとも、『まだ』を灯せるようになったってことだ」
マサシは黙ってスケッチブックのページをめくった。
そこに描かれたのは、老人の背中。
荒れた道を歩くその姿は、どこか孤独だったが、でも、その足元には、小さな光が差している。
まるで、彼自身が、塔の代わりに灯を運んでいるように。
「俺はさ⋯⋯」
とマサシが言った。
「あの老人が、主人公に何を教えたのか、ずっと気になってた。でも、今思うと、教えたのは言葉じゃない気がする。むしろ、『まだ話せてないこと』そのものだったんだと思う。『まだ言えない』ってこと、『まだ終わってない』ってこと—―それが、一番の教訓だったんだ」
カズはうなずいた。
「物語ってさ、完結するためにあるんじゃない。終わらせないためにあるんだ。だから、塔は『終わり』じゃなくて、『始まり』の象徴だった。『まだ』という扉を開くための、鍵みたいなものだ」
マサシが笑った。
「じゃあ、俺たちが見た塔は、全部、自分たちの心の投影だったってことか?」
「そうさ。塔は外にあるんじゃない。心の奥底に、誰もが持ってる『まだ』の形。それが、たまたま、塔という形をとって現れたんだ。でも、今はもう、形にする必要がない。だって、灯は、ここにある」
カズは自分の胸を、また軽く叩いた。
その音は、小さかったが、確かなものだった。
沈黙が、ふたりの間に落ちた。
でも、それは不快なものではなかった。
むしろ、言葉の続きを待つような、静けさだった。
やがて、マサシがスケッチブックを閉じて、
「カズ、お前のノート——妹の視点で書くって言ってたよな。なんで、彼女の妹だったんだ?」
カズは少し考えた。
そして、静かに口を開いた。
「姉が病院で笑った日——あの日、妹は、何も言えなかった。
『よかったね』とも、『大丈夫?』とも、言えなかった。ただ、ベッドの横に立って、手を握って、涙をこらえていただけ。でも、そのとき、妹の心の中には、『まだ、話せてないこと』が山ほどあった。『もっと早く気づいてあげられたのに』『もっと優しくしてあげればよかった』『まだ、一緒に過ごしたかった』——
そういう、言えない『まだ』が、心をぐしゃぐしゃにしていた。だから、その視点で書きたいと思った。言葉にできなかった、あの『まだ』を、物語で灯したい」
マサシは目を伏せた。
「⋯⋯俺も、似たようなもんかもな。描いてる老人も、きっと何かを言えなかったんだろう。
だから、主人公に、自分の物語を託した。『まだ終わってない』って、誰かに伝えたくて」
カズが立ち上がり、キッチンへ向かった。
カップを二つ取り出し、お湯を沸かす。
「塔は、『まだ』を具現化した場所だった。でも、今は、その『まだ』を、自分たちの手で運べる。ペンで、絵筆で、言葉で、音で——形を変えながら、灯し続けることができる」
ケトルの音が、小さな歌のように響いた。
「でもな⋯⋯」
とマサシが言った。
「もし、誰かが『もう、終わりにしたい』って思ったら? そのときは、塔は現れないのかな?」
カズはカップにインスタントコーヒーを注ぎながら、
「現れないよ。塔は、『まだ』を願う心にしか、見えない。『終わりにしたい』って思う人は、もう、灯す気力がないってことだ。でも——」
彼はマサシの前にカップを置いた。
「それも、ひとつの真実だ。物語には、終わりを望む瞬間も、ある。でも、塔が消えるのは、終わりを決めたからじゃない。『まだ』を、別の形で抱えられるようになったからだ。灯が消えたんじゃなくて、心の中に移っただけなんだ」
マサシはカップを手に取り、熱さに指を縮めた。
「⋯⋯つまり、塔は、俺たちが弱かったから見えてたってことか?」
「違う。塔は、オレたちが弱いから見えたんじゃない。むしろ、強くなりたかったから見えたんだ。『まだ』を諦めたくないって、心の奥で叫んでたから。塔は、その叫びに応えて、姿を現した。今は、その叫びが、ペンになった。スケッチブックになった。原稿用紙になった」
マサシは、ふっと笑った。
「⋯⋯なんか、ずいぶん詩っぽいな、お前」
「詩じゃなくて、真実だよ」
カズも微笑んだ。
「物語って、詩みたいなもんだ。
終わりがない。でも、だからこそ、続いていく。塔は、その『続いていく』ってことを、形にして見せてくれた。今は、その形を、オレたちが作る番なんだ」
外の空が、少しずつ明るくなっていった。
雨雲は去り、青空が顔を出し始めた。
水たまりには、その青が映り、まるで小さな空の鏡のようだ。
マサシが立ち上がり、窓の外を見た。
「⋯⋯また、誰かが塔を見るかもしれないな」
「きっと、そうだろう」
カズもそばに立った。
「誰かが、『まだ』を抱えて、ペンを取る瞬間——そのとき、塔は、またどこかに立っているはずだ」
「でも、その人は、塔に登る必要はない。だって、灯は、自分の胸にあるって、どこかで気づいてるはずだから」
二人は、肩を並べて、外の街を見つめた。
どこかのアパートの窓から、ノートを開く音が聞こえてきそうだった。
誰かが、鉛筆を走らせ、
誰かが、言葉を探し、
誰かが、『まだ』を形にしようとしている。
「なあ、カズ」
「ん?」
「俺たちの物語も、まだ、終わってないよな?」
カズは、ゆっくりと頷いた。
「ああ。終わってなんか、ない。終わらせない。だって——」
彼は、自分のノートを手に取り、新しいページを開いた。
「まだ、書き始めてすら、いないんだから」
雨上がりの風が、カーテンをふわりと揺らした。
その向こうには、青い空と、まだ誰も知らない物語たちが、静かに、でも確かに、息づいていた。
塔はもうない。
でも、灯は、ここにある。
そして、
どこかの誰かの胸にも、
今、
確かに——
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