続・性春時代

あかいとまと

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29.

ハルの存在

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### ハルの存在

 翌朝、カズはいつもより少し早く目を覚ました。
 窓の外はまだ薄暗く、夜の気配が残っている。
 しかし、キッチンからかすかに聞こえる音に、彼は思わず眉をひそめた。
 ——何か料理をしている音だ。
 フライパンで何かを焼く音、鍋をかき混ぜる音。
 それに、妙にノリノリの音楽。

「⋯⋯まさか」

 カズは布団から抜け出し、スリッパを履いてリビングへ向かう。
 キッチンのドアを開けると、そこにはハルがエプロンをつけて、鍋を片手に、もう片方の手でスマホを片手に持ち、イヤホンから流れる音楽に合わせて肩を小刻みに揺らしていた。
 流れていたのは、90年代のJ-POPの名曲——スピッツの『チェリー』だ。

「兄貴⋯⋯何やってんの?」

 ハルはびっくりして振り返り、鍋を少し傾けてしまった。
 焦げた香りが少し漂う。

「お、おう! カズ! おはよう! ちょっと朝ご飯作ってみたんだよ。目玉焼きと味噌汁と、あと⋯⋯トースト焼いてる途中。ちょっと焦げちゃったけど!」

 カズは呆れたようにため息をつき、冷蔵庫を開けた。

「⋯⋯卵、割ってないじゃん。割ってないのにフライパンに放り込んでるよ」

「え? いや、割ったつもりだったんだけど⋯⋯」

「割ってないから、殻ごと入ってるよ」

「マジかよ!」

 ハルは慌てて卵をつまみ上げ、殻を剥がして再びフライパンへ放り込んだ。
 カズは苦笑いしながら、もう一つのフライパンを取り出し、黙って別の卵を割って焼き始めた。

「⋯⋯俺が作るよ。兄貴はもうちょっと練習してからにしろ」

「いや、いいって! 俺もちゃんとできるって!」

「見た感じ、できない」

「⋯⋯まあ、確かに料理は苦手だけどさ。でも、音楽はちゃんと聴いてるし! 今日のプレイリスト、めっちゃ考えたんだぞ? 朝は明るいJ-POP、昼は洋楽のアコースティック、夜はゆったりジャズって感じで!」

 カズは肩をすくめた。

「⋯⋯音楽は好きだけど、料理は別。音楽じゃご飯は炊けないよ」

「⋯⋯まあ、そうだけどさ」

 その会話を聞いて、マサシが寝ぼけ眼でリビングに現れた。

「おはよう⋯⋯って、ハルさん、本当に朝ご飯作ろうとしてるんですか?」

「おう、マサシ! 今、家庭の味を再現中なんだよ!」

「⋯⋯その味噌汁、味噌入れ忘れてますよ」

「えっ!? マジかよ!」

 ハヤトも静かにキッチンに入り、冷蔵庫から牛乳を取り出した。

「⋯⋯音楽はいいけど、音量はもう少し下げてください。隣の部屋で原稿書いてる人いますから」

「あ、ごめんごめん!」

 ハルは慌ててスマホの音量を下げ、それでも口ずさみながら、今度は味噌をスプーンで掬って汁に投入した。
 カズはそれを見守りながら、ふと、子どもの頃の兄を思い出した。
 あの頃のハルも、いつもこうやって無鉄砲で、失敗しても笑って、また立ち上がっていた。

「⋯⋯まあ、いいか。せっかくやってるんだし」

 カズは自分の作った目玉焼きを二つに分け、一つをハルの皿にのせた。

「⋯⋯これ、兄貴の分。ちゃんと火を通せよ?」

ハルは目を輝かせた。

「お、おう! ありがとうよ、カズ!」

 朝食のテーブルには、焦げたトースト、味噌が少なめの味噌汁、半熟過ぎる目玉焼き、そしてハルの「努力の結晶」としての炒め野菜(少し生焼け)が並んだ。
 しかし、誰も文句は言わなかった。
 むしろ、マサシは「意外と悪くない」と言い、ハヤトは「ハルさんの心意気が伝わってきました」と真顔で言った。

 食後、ハルは洗い物を進んですると言い出し、カズは半信半疑で見守った。
 しかし、意外にも、彼は手際よく食器を洗い、シンクを磨き、生ゴミの分別までちゃんとやった。

「⋯⋯意外と、やるじゃん」

「当たり前だろ! 俺、イラストレーターだけど、細かい作業は得意なんだよ。線を引くより、食器洗いのほうが楽だわ」

「⋯⋯それはどうかと思うけど」

 昼過ぎ、ハルはカズの部屋の机の上に置いてあった原稿に目をつけた。

「お、これ、新作?」

「⋯⋯うん。まだ途中だけど」

「読んでもいい?」

 カズは少し渋ったが、結局うなずいた。
 ハルはソファに座り、真剣な顔で原稿を読み始めた。
 途中で何度か笑い、何度か眉をひそめ、最後には深いため息をついた。

「⋯⋯すごいな、カズ。昔から文章はうまかったけど、今のは⋯⋯家族の温かさとか、日常のささやかな幸せとか、ちゃんと伝わってくる。俺、泣きそうになったよ」

 カズは驚いた。

「⋯⋯マジで?」

「うん。お前、本当に大人になったな。俺がいじめられて帰ってきたあの日、お前が作ったおにぎりの味、今でも覚えてる。あの味が、お前の小説に全部詰まってる気がする」

 カズは黙って、窓の外を見た。
 夏の風がカーテンを揺らし、遠くから子供の笑い声が聞こえた。

「⋯⋯兄貴も、何か書いてみたら?」

「え? 俺が? 小説とか無理だよ」

「イラストじゃなくて、文章で。昔、兄貴も日記とかつけてたじゃん。『今日、カズと公園行った。カズ、すべって転んだ。かわいそうだった』とか書いてたよ」

「⋯⋯覚えてんのかよ、それ!」

「うん。大事なことだから」

 ハルはしばらく黙り、それから小さく笑った。

「⋯⋯まあ、考えてみるか。でも、音楽の歌詞なら、ちょっとなら書けるかもな」

 その夜、ハルは自分の部屋で古いノートを取り出した。
 表紙には「未来の自分へ」と書かれていた。
 彼はペンを握り、静かに書き始めた。

> 「28歳のハルへ。  
> お前、まだ一人で生きてるの?  
> まだ、誰かのことをちゃんと見つめてる?  
> 俺は、カズの笑顔が見たい。マサシの冷静な言葉が聞きたい。ハヤトの静かな存在を感じたい。  
> お前も、そういう日々を手に入れられるよ。  
> 変わるのは、怖いかもしれない。  
> でも、カズみたいに、一歩ずつ進めばいい。  
> ——そして、朝ご飯はちゃんと卵を割ってから焼け。」

 翌日、ハルは朝から黙々と洗濯物を干していた。
 カズが見ると、干し方が意外に丁寧で、シワもついていない。

「⋯⋯マジで変わったな」

「当たり前だろ。俺も、カズの背中を見てたんだ。毎日、誰かのために料理して、誰かのために掃除して。それを見てたら、『俺も何かしなきゃ』って思ったよ」

 マサシがコーヒーを片手に近づいてきた。

「ハルさん、実は⋯⋯カズが一番心配してたのは、あなたが突然消えてしまうことでしたよ」

 ハルは手を止めた。

「⋯⋯そうか」

「『また、何も言わずに出てっちゃうんじゃないか』って。でも、今回は違う。あなた、ちゃんとここにいる」

 ハルは小さくうなずき、空を見上げた。

「うん。今回は、ちゃんといるよ」

 その夜、四人はまたリビングに集まり、カズの作ったカレーを食べた。
 ハルは「今度は俺が洗い物全部やる!」と宣言し、本当に全部片付けた。
 その後、彼は自分の部屋でギターを取り出し、軽くコードを弾いた。

 カズはドアの隙間からそっと覗き、ハルが口ずさんでいるメロディーを聞いた。
 優しくて、どこか懐かしい、新しい曲だった。

「⋯⋯兄貴、歌ってる」

 マサシが隣に立った。

「⋯⋯いいですね。この家に、また一つ、新しい音が増えました」

 ハヤトも静かにうなずいた。

「⋯⋯家族の音楽だな」

 カズはドアをそっと閉め、自分の部屋に戻った。
 原稿の続きを書きながら、彼は微笑んだ。

「⋯⋯まあ、しばらく居てもいいか」

 そして、その夜も、風に乗って、ハルの歌が、家全体にそっと包み込むように広がっていった。





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