続・性春時代

あかいとまと

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「おい、兄貴!」

 ハルが来て数日経った頃、カズがバスルームから飛び出してきてハルを呼んだ。

「ん、何?」

 きょとんとした顔で、ハルが応じる。

「この家ではトイレとバスルームでのオナニーは禁止! 出したかったら部屋でティッシュに出せよ!」

「あぁ、ごめんごめん。風呂に入ってると、つい抜きたくなるよな」

 悪びれもせずに、ハルが応える。

「ったく、掃除する方の身にもなれよ!」

 カズがそう言うと、ハルは、

「えっ、お前ら皆んな部屋でだけ出してんの?」

 不思議そうに尋ねるハルに、

「はい。そのための個室ですから」  

 マサシが冷静に言うと、ハヤトも頷いて、

「そりゃそうだろ。共有スペースでそんなことしてたら、誰だって気分悪いだろ」

 と付け加えた。
 ハルは湯気の残るバスルームのドアにもたれかかり、タオルを肩にかけたまま、眉をひそめた。  

「いや、でもさ⋯⋯風呂って、なんか自然とそういう気分になるじゃん? 湯船につかって、身体を洗って⋯⋯そしたら、そりゃ、ちょっとだけ手を滑らせたくなるってもんよ」  

「だから、それは“ちょっとだけ”じゃなくて、ちゃんと自制しろって話だよ」 
 
 カズが呆れたように片手を挙げた。  

「お前、昨日もトイレの便座にベタベタついてたの、誰の仕業かって聞かれてんの無視してただろ? あれ、絶対お前だろ。しかも、流しもしてないし」  

 ハルは少し赤くなったが、すぐに笑い飛ばした。  

「あー、あれか⋯⋯すまんすまん。ついてた? 俺、気づかなかったわ。てっきり拭いたつもりだったんだけどな」  

「拭いてないよ! 鏡にも飛んでたし、洗面台の蛇口のところ、ヌルヌルだったぞ!」
  
 ハヤトが声を荒げた。  

「おいおい、そこまで言うかよ⋯⋯」
  
 ハルは肩をすくめたが、その態度に三人の視線がさらに冷たくなる。  

 マサシが静かに、しかし鋭く言った。  

「ハルさん。俺たち、ここがシェアハウスだってことはわかってるよね? 個室はあるけど、バスルームもトイレも、みんなで使う場所だ。そこに、お前の欲望の跡を残すのは、ただのマナー違反だ。衛生的にも、精神的にも、受け入れがたいことなんだよ」  

 ハルはその言葉に、初めて真剣な表情を浮かべた。  

「⋯⋯そうか。そこまで考えてなかったわ。ごめん、本当に」  

 彼の声には、先ほどの軽さはなく、本気の反省の色が込められていた。  

 カズが少し表情を和らげて言った。  

「まあ、初めてのシェア生活なんだから、そりゃいろいろあるよな。でもな、俺たちも人間だ。気持ちよく暮らしたいし、お互いに尊重し合いたい。だから、ルールは守ってほしい」  

「うん。わかったよ。もう二度としない。風呂で抜こうなんて、絶対に思わねーから」  

「それならいい。でもね、もし我慢できなくなったら、部屋でちゃんとティッシュ使って、ゴミ箱に捨てなよ。それが最低限の配慮だ」
  
 マサシが念を押す。  

「ああ、もちろん。ゴミ箱に捨てるし、匂いも漏れないようにビニール袋に入れて、ちゃんと蓋して捨てるよ。約束する」  

 ハヤトが少し笑って、

「そこまでしてくれたら、文句ないな」

 と言った。  

 場の空気が和らいだところで、カズがふと尋ねた。  

「⋯⋯でもよ、兄貴。お前、そんなに抜きまくってんのか? 一日何回やってんの?」  

 ハルは照れくさそうに頭をかいた。  

「いや、別に一日何回もってわけじゃないけど⋯⋯でも、わりと頻度は高いかな。特に風呂の中とか、一人の時間があると、なんか自然と手が伸びちゃうんだよな」  

「それ、ちょっと依存気味じゃね?」 
 
 ハヤトが眉をひそめる。  

「依存? んなわけあるか。ただ、性欲が強いだけだよ。二十代後半だし、普通だろ?」  

「普通の範囲を超えていると思うよ」
  
 マサシが冷静に分析した。  

「俺たちだって、もちろん抜くよ。でも、朝起きてから夜寝るまで、何回も何回もってことはない。それが日常になっちゃってると、生活のリズムも狂うし、集中力も落ちる。それに、現実の人間関係にも影響が出る可能性がある」  

 ハルは黙って聞いていた。  

「⋯⋯まあ、確かに、最近ちょっと、仕事の集中力は落ちてるかもな。イラスト描いてるときも、すぐ気が散るし⋯⋯」  

「それ、もしかして、抜くことばっかり考えてるからじゃない?」
  
 カズが鋭く突いた。  

 ハルは思わず口をつぐんだ。  

 しばらくの沈黙の後、彼は小さく笑った。  

「⋯⋯言われてみれば、確かに、最近の自分の行動パターン、ちょっと異常かもな。朝起きて、トイレ行って、そのまま部屋で抜いて、朝ごはん食べて、またちょっと作業して、また抜いて⋯⋯」  

「それ、一日の半分以上をそれにつかってない?」 
 
 ハヤトが呆れた。  

「いや、そこまでは⋯⋯でも、多いのは認めるわ」  

 マサシが真剣な目で言った。  

「ハルさん。依存って、本人が気づかないうちに深まってるんだよ。それが生活に支障をきたすレベルになってからじゃ、遅い。今、気づけたのは、むしろチャンスだ。ちょっと、自分の性欲と向き合ってみたらどうだ?」  

「向き合う⋯⋯か」  

 ハルは天井を見上げて、深く息を吐いた。  

「でもさ、抜くのをやめろってこと? それって、人間の自然な欲求じゃん」  

「やめろとは言わない。だけど、コントロールしろ、って話だよ」  

 マサシが続ける。  

「例えば、一日一回に決める。朝起きてから、夜寝る前までに、一回だけ。それも、ちゃんと部屋で、清潔に、配慮して。それで我慢できたら、次の日も同じ。習慣を変えるのは大変だけど、やるしかない」  

「⋯⋯それなら、やってみるか」  

 ハルは真剣な顔で頷いた。  

「それに、抜いてる時間があったら、他のことに使った方が有意義だろ」
  
 カズが言う。  

「例えば、筋トレとか、読書とか、外に出て散歩するとか。体を動かせば、性欲も自然と調整されるし、気分もよくなる」  

「確かに、最近運動してないな⋯⋯」  

「それも原因の一つかもな」  

 ハヤトが笑った。  

「まあ、俺たちもサポートするよ。もし、我慢できそうにないってときは、『ちょっと危ない』って言ってくれ。一緒にゲームしたり、外に飲みに行ったりするから」  

「⋯⋯ありがとな」  

 ハルは心からそう言った。  

 それから数日後。  

 ある夜、ハルの部屋のドアがノックされた。  

「ハル、いる?」  

 声はマサシだった。  

「あ、どうした?」  

 ドアを開けると、マサシはノートパソコンを抱えて立っていた。  

「今から、俺たち三人でオンライン麻雀やるんだ。ハルも来ない?」  

「麻雀? ああ、やったことあるよ。でも、そんなにうまくないけど」  

「いいんだよ。勝ち負けより、一緒に何かやる時間が大切なんだ。それに、お前、最近部屋にこもってばっかりだろ? たまには外の空気、吸いなよ」  

 ハルは少し迷った。  

 正直、今まさに、風呂上がりで、ちょっとだけ⋯⋯という気分になっていた。  

 でも、彼は深呼吸して、笑顔を作った。  

「⋯⋯おっけー。行くよ。ちょっと着替えてくる」  

「よし。待ってる」  

 マサシが去った後、ハルは自分の机の上に置かれたティッシュの箱を見た。  

 そこには、まだ一度も使われていない新しいパックが三つ並んでいた。  

 彼はそれをそっと引き出しにしまった。  

 そして、シャツを着替えながら、鏡に映る自分を見つめた。  

「⋯⋯大丈夫。できるよな」  

 独り言のようにつぶやいて、彼は部屋を出た。  

 リビングでは、カズとハヤトがすでにテーブルを囲んでいた。  

「おお、ハル! やっと来たな。さあ、座れよ」  

「悪いな、ちょっと遅くなった」  

「気にすんな。麻雀は、時間が長ければ長いほど楽しいもんだ」  

 笑い声が部屋に響く。  

 ハルはその輪の中に自然と溶け込んだ。  

 その夜、彼は一度も部屋に戻らず、朝までみんなと一緒に語り、笑い、ふざけ合った。  

 そして次の日、風呂に入ったときも――。  

 彼は、手を伸ばさなかった。  

 代わりに、湯船に浸かりながら、窓の外の空を見上げた。  

「⋯⋯俺、ちょっとずつ、変わっていけるかな」  

 そう思うと、なぜか、胸の奥が温かくなった。  

 それから一週間後。  

 ある朝、カズが洗面所で歯を磨いていたとき、ハルが元気よく挨拶してきた。  

「おはよう、カズ!」  

「おう、兄貴。今日はテンション高いな」  

「うん! 昨日、初めて一週間、共有スペースで一度も抜かずに過ごせたんだよ!」  

 カズは歯ブラシを止めて、ハルを見た。  

「⋯⋯マジか」  

「マジだよ。もちろん部屋ではやってるけど、ルールは守ってる。ティッシュもちゃんと捨ててるし、匂いも気にしてる」  

「⋯⋯すごいな」  

 カズは思わずそう言った。  

「お前、本当に変わったじゃん」  

「いや、まだ完璧じゃないよ。でも、意識するようになった。自分の欲求と、他人への配慮のバランスを、ちゃんと取れるようになってきた気がする」  

 カズはうなずき、ハルの肩をぽんと叩いた。  

「⋯⋯よかったな。俺たち、お前がこの家に来てくれて、ホントに良かったと思ってるよ」  

 ハルは少し照れくさそうに笑った。  

「⋯⋯こっちこそ。お前らが、ちゃんと注意してくれたから、俺、気づけたんだよ」  

 二人はしばらく、朝の光の中で笑い合った。  

 そしてその日から、ハルはただのルール違反者ではなく、このシェアハウスの一員として、ちゃんと認められる存在になった。  

 ――人間は、間違いを犯す。  

 でも、それを認め、変われると信じるなら――。  

 誰にでも、新しい日常が待っている。





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