続・性春時代

あかいとまと

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日常

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### 日常

 ガチャガチャ⋯⋯ガッチャーン!

 早朝、静けさを切り裂くようにキッチンから食器の割れる音が鳴り響いた。
 まだ薄暗い部屋から差し込む朝の光が、廊下の床を淡く照らしている。
 その光を背に、カズは慌てて寝室から飛び出した。

「兄貴、何をしてる!」

 キッチンに駆け込むと、そこには割れたグラスの破片が散乱し、足元には牛乳が白く広がっていた。
 ハルは片手に掃除用の雑巾を持ち、もう片方の手で頭を掻きながら、どこか申し訳なさそうに笑っていた。

「いや、朝食の準備をしようかと思ってさ⋯⋯トースト焼いて、卵でも⋯⋯って、途中でグラス落としちゃって。うっかり、うっかり」

「うっかりじゃねーよ! これで三日連続だろ! お前、本当に『イラストレーター』の資格あるのか? 手先が不器用すぎるだろ!」

 カズが眉をひそめながら、ハルの頭を軽く小突く。
 ハルは「痛い痛い」と笑いながらも、素直に謝った。

「ごめん、ごめん。でもさ、俺だってちゃんとやろうとしてるんだよ? 弟の朝ご飯くらい、兄貴として責任持って――」

「責任って、お前の責任感が逆に危険なんだよ! 洗い物は任せるけど、それ以外は禁止! オレがやるから、お前はキッチンから出ろ!」

「えー、それじゃあ兄貴失格じゃん」

「失格は既に確定してるから、黙って掃除しろ」

 そんなやり取りを横目に、物音を聞きつけてマサシとハヤトも寝室から顔を出した。

「⋯⋯なんか、またすごい音がしたけど」
  
 マサシはまだ半分寝ぼけたままキッチンを覗き込む。
 彼の髪はいつもよりさらに寝ぐせがひどく、まるで漫画の登場人物のように逆立っている。

「またハルが余計なことをしてるんだろ」 
 
 ハヤトは冷ややかな目でハルを見下ろし、冷蔵庫から牛乳を取り出す。
 彼の声はいつも通り皮肉めいたトーンで、しかし目元にはわずかに笑みが浮かんでいた。

「いやぁ、ははははは⋯⋯まあ、ちょっと手が滑っただけで⋯⋯」

「笑ってごまかすな!」 
 
 カズが再び突っ込むと、ハルは肩をすくめて雑巾を絞った。

「それにしても、お前ら、朝からうるさすぎ。俺たちの平和な朝をぶち壊すなよ」
  
 ハヤトは牛乳をコップに注ぎながら、テーブルに座った。
 彼の手元は正確で、一滴もこぼさない。
 対照的に、ハルの周囲にはまだ水たまりが残っている。

「平和って、お前らの朝っていつもこうなんだよ。俺がいなきゃ、この家は三日で崩壊するレベル」

「マジで? ハルがいるとこの家は三日で火事になるレベルだろ」 
 
 マサシがぼそっと呟くと、カズは思わず吹き出した。

「それ、ちょっと言いすぎ⋯⋯でも、まあ、間違ってないな」

「ひどいなー! 俺だって、ちゃんと生活リズム整えてるし、締め切りも守ってるし⋯⋯」

「イラストの納品、先週も二日遅れたろ」 
 
 ハヤトが冷静に指摘する。

「あれは⋯⋯アートの完成度を追求した結果だ!」

「言い訳がうまいな」

 カズはため息をつき、割れたグラスの破片を慎重に片付けながら、ふと気づいた。

「⋯⋯でも、なんで兄貴が朝食作ろうとしてんの? お前、普段なら昼過ぎまで寝てるじゃん」

 ハルは少し目を逸らし、口元をもごもごさせた。

「いや、その⋯⋯最近、カズが小説の締め切りで忙しそうだからさ。ちょっと気を遣って⋯⋯」

 その言葉に、キッチンの空気が少し柔らかくなった。

 カズは手を止めて、兄を見つめた。

「⋯⋯お前、それ、本気で言ってんの?」

「当たり前だろ。俺だって、弟のことを考えてないわけないじゃん。マサシもハヤトも、毎日カズの小説の進捗気にしてるし⋯⋯俺も、何かできることないかと思ってさ」

 マサシは照れくさそうに頬を掻いた。

「別に⋯⋯俺が心配してるってわけじゃないけど、夜中に『この文章、どう思う?』って部屋に来て叩き起こされるのはちょっと勘弁してほしいなって⋯⋯」

「あれは緊急事態なんだよ! その一文が物語の鍵なんだよ!」

「でも、結局『やっぱりいらない』って言ってたじゃん」

「⋯⋯それは、朝起きて冷静に読み返したら、確かにいらないって気づいただけだ」

 ハヤトはコップをテーブルに置き、ふっと笑った。

「カズの『緊急事態』の9割は、朝起きてから『いらない』になるよな。典型的な夜型作家の妄想回路だ」

「お前ら、全然わかんねぇよ。創作ってのは、夜の静けさの中でしか生まれないんだ。月明かりと、コーヒーと、孤独が最高のインスピレーションをくれるんだ⋯⋯」

「孤独って、隣の部屋でマサシが寝てるじゃん」

「⋯⋯それは、補助輪みたいなもんだ」

「補助輪が邪魔なんだよ」

 マサシが苦笑いする中、ハルはふと真面目な顔になった。

「でもさ、カズ。お前、最近ちょっと無理しすぎじゃないか? 新連載のプレッシャーもあるだろうけど⋯⋯俺ら、いつでも支えてるからさ。無理に一人で抱え込まなくていいんだよ」

 その言葉に、カズは胸の奥がじんと温かくなるのを感じた。

 彼は小説家として、確かに認められている。
 昨年、彼の書いた小説が文学賞の候補に選ばれ、メディアにも取り上げられた。
 出版社からの信頼も厚くなり、新連載の話も舞い込んだ。
 しかし、その裏では、締め切りとの戦い、自己否定との葛藤、そして「次もこれくらい書けるのか」という不安が、日々彼を蝕んでいた。

「⋯⋯別に、大丈夫だよ。俺、こう見えて強いし」

「そう見えないんだよな」 
 
 ハヤトが冷たく言う。

「お前の顔、最近クマができて、目が死んでる。マサシの漫画の『主人公が最終回で敗北した後の顔』レベルだ」

「マジで? マサシの漫画、最終回まだ描いてないんだけど⋯⋯」

「それくらい深刻ってことだ」

 マサシは苦笑いしながらも、カズの肩にそっと手を置いた。

「⋯⋯無理しなくていいよ。俺たち、カズが無理してまで書いた小説よりも、カズが笑ってる方が好きだから」

 その言葉に、カズは思わず目を伏せた。

 ――自分は、一体何のために書いているんだろう。

 賞を取ること?
 読者に評価されること?
 出版社の期待に応えること?

 違う。
 最初は、ただ「伝えたいことがある」という、シンプルな想いだった。
 誰かの心に届く一文を、世界に残したい。
 それだけだった。

「⋯⋯はあ」 
 
 カズは深く息を吐いた。

「⋯⋯ありがとう。なんか、ちょっと、ぐっときた」

「おお、珍しい。カズが素直になる日が来るとはな」
  
 ハヤトが皮肉っぽく言うが、目は優しい。

「まあ、でも、朝食は俺が作るよ。兄貴はもう、掃除も終わったし、リビングで待ってて」

「えー、でも⋯⋯」

「ダメ。命令だ。イラストレーターの兄貴には、トーストの焦がし具合の調整なんて任せるわけにいかない」

「それ、俺の専門分野じゃん! キャラの感情表現で、トーストの焦げ具合で心情を表す技法があるんだから!」

「⋯⋯それ、誰が読んでも意味わかんねぇよ」

 笑い声がキッチンに満ちる。 
 牛乳の代わりにオレンジジュースを注ぎ、トーストを焼いて、卵をふわふわに炒める。
 カズの手さばきは確かで、マサシが隣でサラダを和える。
 ハヤトは新聞を広げ、ハルはソファでスマホをいじりながらも、時々キッチンをチラ見している。

 朝日が差し込み、テーブルの上に温かい光を落とす。

「⋯⋯でもさ、」
  
 カズがふと口を開いた。

「こんな毎日が、ずっと続けばいいなって思うんだよ。喧嘩もするし、うるさいし、食器も割れるけど⋯⋯でも、この騒がしさが、俺にとっては一番のインスピレーションなんだよ」

 マサシが微笑んだ。

「じゃあ、これからも、めちゃくちゃな朝を続けていこうか」

 ハヤトは新聞の上で小さく笑った。

「お前らの小説と漫画のネタには困らんな」

 ハルは立ち上がり、キッチンの対面テーブルから覗き込む。

「じゃあ、次は俺が作るよ! 今度は絶対に割らないから!」

「禁止令、撤回不能!」

「えー!」

 笑い声と、トーストの香ばしい匂いが、朝のマンションに満ちていく。

 そしてカズは、心の奥でそっと誓った。

 ――どんなに難しい文章でも、どんなに辛い締め切りでも、この笑い声がある限り、きっと乗り越えられる。

 だって、これは、オレの「日常」なんだから。





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