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桃の節句
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### 桃の節句
「灯りをつけましょ、ボンボリに~、お花を上げましょ、桃の花~」
早朝のキッチンからカズの歌声が聴こえてくる。
本日3月3日は桃の節句の日。
いわゆる『ひな祭り』というやつだ。
カズは今回もノリノリで腕をふるっている。
「女性もいないのにおひな様するのか?」
対面テーブルから顔をのぞかせ、ハヤトが声をかける。
「もちろん! 行事はキチンとしないとな!」
カズは家庭環境の影響か、季節の行事にいつもこだわる。
「おはよう⋯⋯何、今日は何の日?」
寝ぼけ眼でマサシが尋ねる。
「今日は桃の節句。ひな祭りの日だよ」
リビングにいたハルが、マサシに返答する。
「ウチでは行事ごとはけっこうシッカリとしていたからな。カズはその影響を受けてんだろ」
「へ~。でもおひな様って女性のお祝いの日だよね?」
首をかしげるマサシに、カズがキッチンから応える。
「女性の日だと思われているけど、実際は厄流しの日なんだよ。元々はひな人形に厄を移して川に流す日だったんだ」
「えっ、そうなんだ」
ハヤトが驚きの声を出し、慌ててメモを取っている。
「何だ、ハヤト。次の小説にでも使うつもりか?」
ハルの言葉に、ハヤトは慌てて手元のメモを隠すようにテーブルに押しやった。
が、すでに「ひな人形」「川に流す」「厄払い」「桃の花の意味」などとびっしりと書き込まれている。
「いや、別に⋯⋯取材の一環だよ。作家なら、日常の風習もちゃんと知っておかなきゃなって」
「ふーん、取材ねえ」
マサシがまだ半分寝ぼけたまま、冷めた声で言う。
「でもカズ、そんなに凝ったことしなくても、ケーキと雛あられでよくない?」
カズはフライパンを手に、振り返って笑った。
「それじゃ味気ないだろ。今日は特別な日なんだ。ちゃんと意味を知って、ちゃんと祝う。それが“暮らし”ってもんさ」
キッチンでは、すでに甘い香りが漂っている。
カズは今朝早くから起きて、ちらし寿司の準備をしていた。
酢飯に錦糸卵、キュウリ、かんぴょう、エビの甘露煮、そして桜でんぶまで手作り。
食卓には、段飾りのおひな様が静かに座っていた。
顔は少し古びているが、丁寧に手入れされており、桃の花とミニチュアの調度品が彩りを添えている。
「それに、昔の人は賢かったんだよ」
カズは鍋をかき混ぜながら続ける。
「川に人形を流して、悪いものを水に流しちゃう。自然と共生しながら、心の整理もする。現代みたいにストレス溜めっぱなし、じゃないんだ」
「なるほど⋯⋯つまり、今日のおひな様は、ウチのストレスを全部吸収してくれるってこと?」
とマサシ。
「それもありだな。特にハヤトの締め切り焦り、ぜんぶ人形に移して川に流しちまおう」
「やめろよ!」
とハヤトが苦笑い。
ハルが立ち上がり、冷蔵庫から桃酒を取り出す。
「せっかくだから、桃酒も開けようか。桃の花には邪気を払う力があるって、古くから言われてるし」
「おお、いいね!」
とカズ。
「桃の節句=女性の日、っていうイメージが強すぎるけど、本来は“季節の変わり目”の禊の日なんだ。旧暦の三月は、春の訪れとともに、病気や災いが起きやすい時期。だから、人形に災いを移して流す“流し雛”が広まった」
「へえ⋯⋯でも今、川に流したら環境破壊じゃん」
とマサシ。
「だから今は、代わりに“供え”て、後に燃やすか、供養して終えるんだ。神社に返納する人もいるよ。形は変わっても、心の“リセット”って意味は同じ」
ハヤトはまたメモを広げ、熱心に書き込む。
「⋯⋯つまり、この日は“心の掃除の日”だな。厄を払うための儀式。登場人物が過去のトラウマを人形に託して川に流すシーン⋯⋯ありだな」
「ほら、言った通り取材だろ?」
とハル。
カズはちらし寿司を皿に盛りつけながら、ふと静かに言った。
「うちのばあちゃんもね、毎年この日に、小さな紙の人形に家族の名前を書いて、庭のバケツの水に浮かべてたんだ。『悪いこと全部、流れてっちゃえ』って言ってさ。川に行けないから、代わりに水に浮かべてたんだよ」
「⋯⋯それ、いいな」
ハヤトの声が少し低くなる。
「まるで、小さな祈りだ」
「うん。別に信じる信じないじゃなくて、『ちゃんとやる』ってことが大事なんだと思う。心の整理の仕方って、人それぞれだけど、こういう形があるって、安心するんだよ」
朝の光がキッチンに差し込み、おひな様の顔に柔らかな影を落とす。
桃の花が、ほんのりと香っている。
「じゃあ、乾杯しよう」
ハルが桃酒のコップを掲げる。
「桃の節句、無病息災を願って」
「無病息災!」
と三人が声を合わせる。
マサシだけが、
「女性の日じゃなかったっけ⋯⋯」
と小声で呟いたが、誰も突っ込まなかった。
食事が始まり、ちらし寿司の甘酢の香り、錦糸卵の彩り、エビの甘露煮の甘みが口の中を満たす。
カズ特製の甘酒も用意されていて、ほんのり温かいその味に、全員が「お、これいいな」と顔をほころばせた。
「そういえば、関西だとバカ貝を食べるんだよな?」
とハヤト。
「ああ、アサリだね。『バカ』は“歯が揃う”って意味の“歯固(はご)”の転だと言われてる。子供の健やかな成長を願って、ってこと。関東だと蛤だけど、どっちも二枚貝で、ぴったり合う相手を象徴してるんだって」
「蛤って、ぴったり合うから夫婦貝って言うよな。結婚の縁起物だ」
「そう。だからおひな様も、夫婦円満とか、良縁を願う意味もあるんだ。女性だけの行事じゃないんだよ、本当は」
マサシはちらし寿司を口に運びながら、ふと気づいたように言う。
「⋯⋯でも、ウチには女の人いないじゃん。おひな様、ちょっと寂しそうじゃない?」
その言葉に、一瞬の静けさが落ちた。
カズは笑った。
「別に、人形は寂しくなんかないよ。だって、ちゃんと見てくれてる人がいるから。今日、オレたちが話して、食べて、祝ってる。それだけで、人形も喜んでるよ」
ハヤトはふと、自分の小説のことを思い出した。
主人公が幼い頃、祖母と二人でひな祭りを祝っていた。
その祖母が亡くなってから、彼は長い間、その日をスルーしてきた。
でもある日、古びた人形を引っ張り出して、一人でちらし寿司を作った。
そして、小さな声で歌った。
『灯りをつけましょ、ボンボリに~』
そのシーンを、彼はまだ書いていなかった。
でも、今日の朝の光景を見て、胸の奥がじんと熱くなった。
「⋯⋯カズ、ありがとう」
「ん? 何が?」
「いや⋯⋯こういうの、久しぶりに感じた。ちゃんと“祝う”ってこと。忙しいと、つい流しちゃうけど⋯⋯こうやって、意味を思い出して、形にする。それが、心を軽くするんだなって」
カズは目を細めて、フライパンをシンクに置いた。
「うん。だから毎年、やるんだ。誰かが見てなくても、誰かが分からなくても。オレがこの日を、ちゃんと“今日”として過ごせれば、それでいい」
時計を見ると、まだ午前九時。
外では、近所の誰かが桃の花を飾っているのが見える。
風に揺れる薄桃色の花びらが、まるで小さな祈りのように空へと舞っていた。
「そういえば、昔はこの日に、女の子が“ひな遊び”って人形遊びをしてたんだよ」
カズが話題を変える。
「人形を使って、結婚式ごっこをしたり、家庭ごっこをしたり。それが、のちにおひな様飾りになったって説もある」
「へえ、つまり、おままごとが進化して、お祭りになったってこと?」
「そういうこと。遊びが、祈りに変わる。面白いよね」
ハヤトはまたペンを走らせる。
「⋯⋯主人公が、亡き母の形見のおひな様を仕舞っていた倉庫から見つける。埃を被った人形を丁寧に拭いて、一人でひな祭りを祝う。その夜、夢で母に会って、『ちゃんと生きてね』って言われる⋯⋯」
「いいじゃん、それ」
カズが笑う。
「泣かせるなよ」
「泣かせるつもりなんだよ」
マサシがぽつりと言う。
「⋯⋯俺、小さい頃、母ちゃんと二人で雛あられを食べた記憶あるな。色分けして、赤は甘い、白は普通、緑は抹茶味⋯⋯『緑が一番大人の味だよ』って言われたっけ」
誰もが、それぞれの「ひな祭り」の記憶を持っている。
それは、誰かとの時間だったり、家族のぬくもりだったり、あるいは、失ったものの名残だったり。
カズは最後のデザート、桃まんじゅうをテーブルに並べた。
「今日はね、もう一つ、やってみたいことがあるんだ」
「何だよ?」
「“ひなあられ”の色の意味、知ってる?」
三人が首を傾げる。
「赤は魔除け、白は清浄、緑は健康、黄色は成熟と知恵。四色は、人生のバランスを表してるんだって。だから、全部食べて、今年も無事に過ごせるようにって願いを込める」
「⋯⋯それ、知らなかった」
ハルが感心する。
「じゃあ、全員で一斉に食べて、願い事を心の中で言ってみようよ」
四人は、それぞれの色のひなあられを手に取り、カズの合図で同時に口に入れた。
甘さとほのかな塩気、香ばしさが口の中に広がる。
その瞬間、誰もが静かに目を閉じた。
——今年も、無事に過ごせますように。
——仕事、ちゃんと終わらせますように。
——新しい出会いがありますように。
——忘れないでいられますように。
願いは、言葉にならなくても、ちゃんと届く。
朝のキッチンは、ひな祭りの灯りのように、優しく温かかった。
そしてカズは、また歌い始めた。
『おだいり様とおひな様~、二人並んで、すまし顔~⋯⋯』
その歌声に、三人も自然と口ずさみ始める。
季節は、確実に春へと歩みを進めていた。
「灯りをつけましょ、ボンボリに~、お花を上げましょ、桃の花~」
早朝のキッチンからカズの歌声が聴こえてくる。
本日3月3日は桃の節句の日。
いわゆる『ひな祭り』というやつだ。
カズは今回もノリノリで腕をふるっている。
「女性もいないのにおひな様するのか?」
対面テーブルから顔をのぞかせ、ハヤトが声をかける。
「もちろん! 行事はキチンとしないとな!」
カズは家庭環境の影響か、季節の行事にいつもこだわる。
「おはよう⋯⋯何、今日は何の日?」
寝ぼけ眼でマサシが尋ねる。
「今日は桃の節句。ひな祭りの日だよ」
リビングにいたハルが、マサシに返答する。
「ウチでは行事ごとはけっこうシッカリとしていたからな。カズはその影響を受けてんだろ」
「へ~。でもおひな様って女性のお祝いの日だよね?」
首をかしげるマサシに、カズがキッチンから応える。
「女性の日だと思われているけど、実際は厄流しの日なんだよ。元々はひな人形に厄を移して川に流す日だったんだ」
「えっ、そうなんだ」
ハヤトが驚きの声を出し、慌ててメモを取っている。
「何だ、ハヤト。次の小説にでも使うつもりか?」
ハルの言葉に、ハヤトは慌てて手元のメモを隠すようにテーブルに押しやった。
が、すでに「ひな人形」「川に流す」「厄払い」「桃の花の意味」などとびっしりと書き込まれている。
「いや、別に⋯⋯取材の一環だよ。作家なら、日常の風習もちゃんと知っておかなきゃなって」
「ふーん、取材ねえ」
マサシがまだ半分寝ぼけたまま、冷めた声で言う。
「でもカズ、そんなに凝ったことしなくても、ケーキと雛あられでよくない?」
カズはフライパンを手に、振り返って笑った。
「それじゃ味気ないだろ。今日は特別な日なんだ。ちゃんと意味を知って、ちゃんと祝う。それが“暮らし”ってもんさ」
キッチンでは、すでに甘い香りが漂っている。
カズは今朝早くから起きて、ちらし寿司の準備をしていた。
酢飯に錦糸卵、キュウリ、かんぴょう、エビの甘露煮、そして桜でんぶまで手作り。
食卓には、段飾りのおひな様が静かに座っていた。
顔は少し古びているが、丁寧に手入れされており、桃の花とミニチュアの調度品が彩りを添えている。
「それに、昔の人は賢かったんだよ」
カズは鍋をかき混ぜながら続ける。
「川に人形を流して、悪いものを水に流しちゃう。自然と共生しながら、心の整理もする。現代みたいにストレス溜めっぱなし、じゃないんだ」
「なるほど⋯⋯つまり、今日のおひな様は、ウチのストレスを全部吸収してくれるってこと?」
とマサシ。
「それもありだな。特にハヤトの締め切り焦り、ぜんぶ人形に移して川に流しちまおう」
「やめろよ!」
とハヤトが苦笑い。
ハルが立ち上がり、冷蔵庫から桃酒を取り出す。
「せっかくだから、桃酒も開けようか。桃の花には邪気を払う力があるって、古くから言われてるし」
「おお、いいね!」
とカズ。
「桃の節句=女性の日、っていうイメージが強すぎるけど、本来は“季節の変わり目”の禊の日なんだ。旧暦の三月は、春の訪れとともに、病気や災いが起きやすい時期。だから、人形に災いを移して流す“流し雛”が広まった」
「へえ⋯⋯でも今、川に流したら環境破壊じゃん」
とマサシ。
「だから今は、代わりに“供え”て、後に燃やすか、供養して終えるんだ。神社に返納する人もいるよ。形は変わっても、心の“リセット”って意味は同じ」
ハヤトはまたメモを広げ、熱心に書き込む。
「⋯⋯つまり、この日は“心の掃除の日”だな。厄を払うための儀式。登場人物が過去のトラウマを人形に託して川に流すシーン⋯⋯ありだな」
「ほら、言った通り取材だろ?」
とハル。
カズはちらし寿司を皿に盛りつけながら、ふと静かに言った。
「うちのばあちゃんもね、毎年この日に、小さな紙の人形に家族の名前を書いて、庭のバケツの水に浮かべてたんだ。『悪いこと全部、流れてっちゃえ』って言ってさ。川に行けないから、代わりに水に浮かべてたんだよ」
「⋯⋯それ、いいな」
ハヤトの声が少し低くなる。
「まるで、小さな祈りだ」
「うん。別に信じる信じないじゃなくて、『ちゃんとやる』ってことが大事なんだと思う。心の整理の仕方って、人それぞれだけど、こういう形があるって、安心するんだよ」
朝の光がキッチンに差し込み、おひな様の顔に柔らかな影を落とす。
桃の花が、ほんのりと香っている。
「じゃあ、乾杯しよう」
ハルが桃酒のコップを掲げる。
「桃の節句、無病息災を願って」
「無病息災!」
と三人が声を合わせる。
マサシだけが、
「女性の日じゃなかったっけ⋯⋯」
と小声で呟いたが、誰も突っ込まなかった。
食事が始まり、ちらし寿司の甘酢の香り、錦糸卵の彩り、エビの甘露煮の甘みが口の中を満たす。
カズ特製の甘酒も用意されていて、ほんのり温かいその味に、全員が「お、これいいな」と顔をほころばせた。
「そういえば、関西だとバカ貝を食べるんだよな?」
とハヤト。
「ああ、アサリだね。『バカ』は“歯が揃う”って意味の“歯固(はご)”の転だと言われてる。子供の健やかな成長を願って、ってこと。関東だと蛤だけど、どっちも二枚貝で、ぴったり合う相手を象徴してるんだって」
「蛤って、ぴったり合うから夫婦貝って言うよな。結婚の縁起物だ」
「そう。だからおひな様も、夫婦円満とか、良縁を願う意味もあるんだ。女性だけの行事じゃないんだよ、本当は」
マサシはちらし寿司を口に運びながら、ふと気づいたように言う。
「⋯⋯でも、ウチには女の人いないじゃん。おひな様、ちょっと寂しそうじゃない?」
その言葉に、一瞬の静けさが落ちた。
カズは笑った。
「別に、人形は寂しくなんかないよ。だって、ちゃんと見てくれてる人がいるから。今日、オレたちが話して、食べて、祝ってる。それだけで、人形も喜んでるよ」
ハヤトはふと、自分の小説のことを思い出した。
主人公が幼い頃、祖母と二人でひな祭りを祝っていた。
その祖母が亡くなってから、彼は長い間、その日をスルーしてきた。
でもある日、古びた人形を引っ張り出して、一人でちらし寿司を作った。
そして、小さな声で歌った。
『灯りをつけましょ、ボンボリに~』
そのシーンを、彼はまだ書いていなかった。
でも、今日の朝の光景を見て、胸の奥がじんと熱くなった。
「⋯⋯カズ、ありがとう」
「ん? 何が?」
「いや⋯⋯こういうの、久しぶりに感じた。ちゃんと“祝う”ってこと。忙しいと、つい流しちゃうけど⋯⋯こうやって、意味を思い出して、形にする。それが、心を軽くするんだなって」
カズは目を細めて、フライパンをシンクに置いた。
「うん。だから毎年、やるんだ。誰かが見てなくても、誰かが分からなくても。オレがこの日を、ちゃんと“今日”として過ごせれば、それでいい」
時計を見ると、まだ午前九時。
外では、近所の誰かが桃の花を飾っているのが見える。
風に揺れる薄桃色の花びらが、まるで小さな祈りのように空へと舞っていた。
「そういえば、昔はこの日に、女の子が“ひな遊び”って人形遊びをしてたんだよ」
カズが話題を変える。
「人形を使って、結婚式ごっこをしたり、家庭ごっこをしたり。それが、のちにおひな様飾りになったって説もある」
「へえ、つまり、おままごとが進化して、お祭りになったってこと?」
「そういうこと。遊びが、祈りに変わる。面白いよね」
ハヤトはまたペンを走らせる。
「⋯⋯主人公が、亡き母の形見のおひな様を仕舞っていた倉庫から見つける。埃を被った人形を丁寧に拭いて、一人でひな祭りを祝う。その夜、夢で母に会って、『ちゃんと生きてね』って言われる⋯⋯」
「いいじゃん、それ」
カズが笑う。
「泣かせるなよ」
「泣かせるつもりなんだよ」
マサシがぽつりと言う。
「⋯⋯俺、小さい頃、母ちゃんと二人で雛あられを食べた記憶あるな。色分けして、赤は甘い、白は普通、緑は抹茶味⋯⋯『緑が一番大人の味だよ』って言われたっけ」
誰もが、それぞれの「ひな祭り」の記憶を持っている。
それは、誰かとの時間だったり、家族のぬくもりだったり、あるいは、失ったものの名残だったり。
カズは最後のデザート、桃まんじゅうをテーブルに並べた。
「今日はね、もう一つ、やってみたいことがあるんだ」
「何だよ?」
「“ひなあられ”の色の意味、知ってる?」
三人が首を傾げる。
「赤は魔除け、白は清浄、緑は健康、黄色は成熟と知恵。四色は、人生のバランスを表してるんだって。だから、全部食べて、今年も無事に過ごせるようにって願いを込める」
「⋯⋯それ、知らなかった」
ハルが感心する。
「じゃあ、全員で一斉に食べて、願い事を心の中で言ってみようよ」
四人は、それぞれの色のひなあられを手に取り、カズの合図で同時に口に入れた。
甘さとほのかな塩気、香ばしさが口の中に広がる。
その瞬間、誰もが静かに目を閉じた。
——今年も、無事に過ごせますように。
——仕事、ちゃんと終わらせますように。
——新しい出会いがありますように。
——忘れないでいられますように。
願いは、言葉にならなくても、ちゃんと届く。
朝のキッチンは、ひな祭りの灯りのように、優しく温かかった。
そしてカズは、また歌い始めた。
『おだいり様とおひな様~、二人並んで、すまし顔~⋯⋯』
その歌声に、三人も自然と口ずさみ始める。
季節は、確実に春へと歩みを進めていた。
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