5 / 5
事実は小説より奇なり
しおりを挟む
私とキリム様の結婚が間近になりました。
我が家は結婚の準備に追われております。
お父様はやっと床を起きだしてぼーっとしておられます。
もう何をする気力も起きないようで。
お母様はなにかぐずぐず泣き言を繰り返しています。
お姉様は近々領地に帰されるそうです。
私とお姉様はあれ以来顔を合わせることもなく、遠くからお姉様が私を見ているのをときおり感じていました。
私がお兄様の付き添いでキリム様の屋敷に向かうところでした。
どなたか訪問された方がいるようです。
三番目のお兄様が玄関ホールのところで対応なさっておられるようです。
「ですから、キリム殿との婚約を辞退なされよ、とわしは言っている」
「重ねて言いますが、それは不可能です。もうこちらは了承してしまいましたから。それよりも、こんな裏工作をしていること自体然るべきところに訴えたらどうなると思われますか? 前回のことは謹慎ですみましたが、懲りずにこんなことをしたと知られればただではすみませんよ!」
修羅場でした。
何やら言い争う二人からは私たちは柱の影になって見えないようです。
「裏から出よう、ローナ」
一番目のお兄様が肩を引いて促しました。
私はそれに従います。
なぜか見つかってはいけないような気がしたのです。
「そうですわね。あの、あれはいったい……」
「候補から外れた公爵家の方だよ。確か、三代前の王弟が興した家だ。あそこは候補になると思われた家に候補を辞退しろと圧力をかけたんだ。脅された家が泣き寝入りせずに訴えたもので、候補に選ばれなかったそうだよ。裏工作というか、脅迫の罪で謹慎になったはず」
私の知らないところで熾烈な戦いがあったようです。
「よくうちが候補になりましたね」
お父様に政治的手腕はありません。
ええ欠片も。
そんなお父様がよく家を候補にさせたものです。
「ああ、それは僕らも不思議だったんだよ。なんといってもうちは落ち目の侯爵家だからね。位で言えば公爵家もあったし、うちより裕福な伯爵家もあった。その中で後ろ盾も金もないうちが候補に残れたなんて奇跡だよ」
お兄様もそうおっしゃいました。
壮絶な足の引っ張り合いやら賄賂が飛び交ったであろう修羅場を、どうやって生き残っていったものか。
それにしても、候補にも残らなかったところですら諦めきれずにあのような工作をなさいます。
まだ諦めていない人がいるかもしれません。
なぜ、私などが選ばれたものか。
「まさかとは思いますが、審査をなさった方がお姉様を見て、これならと通したのではないでしょうね?」
お姉様は美しいのです。
社交界を見渡せばお姉様より美しい人はごまんといますが私よりは美しいのです。
外面だけは大変よろしく、本性が暴露されるまでは優しく明るいと評判でした。
その審査をなさった方がどれだけ目がよいのかわかりませんが、姉の外面に騙されていた可能性がないわけでもないのです。
お兄様が胡乱げな顔をしました。
「……審査は家柄とか格とか……どのような基準で行われたのかはわかっていないんだ。ただ、先ほどの人のように他の家を脅迫したり、賄賂などの不正を行おうとした家は真っ先にはねられたらしい」
「お姉様を候補だと思って通したのなら、我が家は期待に背いているのですけど」
そこいらへんを突かれると困ります。
「……しかし、最終的に伴侶を決められるのは御本人だ。御本人がお前に会って、そう決められたのだから問題はない」
お兄様、私の目を見て言ってくださいまし。
私たちは訪問者に見咎められぬようこっそりと裏から屋敷を出ました。
思えばこの時すでに予兆はあったのでございます。
けれど私たちはそれに気づけませんでした。
キリム様のお母様は遠くの貴族のもとに嫁がれ、対面かなわぬそうです。
父親の違う兄弟はおられるそうですが、縁が薄いと。
伯父方の親戚筋の方が王都にも住んでおられますが、そうこちらばかりにも構えないということです。
「ようこそおいでくださりました」
出迎えてくれたキリム様に私は淑女の礼を返します。
「ごきげんよう、キリム様。本日もよろしくお願いいたしますわ」
結婚式の打ち合わせですが、どちらかというと結婚後に私がこの屋敷に馴染めるようにと何度も呼ばれております。
本日はそろそろ式の最終確認ですわ。
式はこのお屋敷で行われます。
キリム様の使用人だけでは人手が足りないので、伯父様のところの使用人や我が家からも人を出すことになっております。
畑のある方の庭を避けて反対側の庭に続くホールを開放するそうです。
さすがに畑を客の前に出すわけにもいかないのです。
皮肉なことに私の衣装はもう出来上がっております。
以前にしつらえさせておりましたゆえ。
一通り打ち合わせが終わり、式で披露する方の庭のテーブルでお茶を嗜んでいる時でございました。玄関ホールが騒がしいようです。
「あら?」
「おや? 今日の訪問客は一組だけの予定でござったはず?」
キリム様が首を傾げました。
前触れ無しの訪問者でしょうか?
普通はこのような真似は致しません。
どこかへ訪れるのなら、事前に便りで了承いただくものでございます。
突然の訪問者というのは、何やら嫌な予感がいたします。
「僕が見て来よう。キリムはここにいなさい。君の客だからね」
そういってキリム様の従兄様が腰を上げました。
けれどもその前にその喧騒はこちらの方に近づいてきます。
キリム様が私をかばわれるよう前に立ちました。
お兄様とキリム様の従兄様もその何かを迎え撃つような位置に動かれました。
「どけと言っているだろうが! 使用人風情が!」
「お約束のない訪問は困ります! まして旦那様はご来客中でして。また日を改めて──」
「わしはキリム様にとって重大な出来事をお教えするために来たのだ! 先客など追い払え!」
なんという横暴なことを言う方でしょう。
お約束を取り付けるのは大事なことです。
それを怠ったばかりか、家人に怒鳴り散らし、来客を追い払えなどと身勝手な。
キリム様も厳しい顔をなさっております。
果たしてやってきたのは壮年の男性と──お姉様、なぜあなたがここにいるのでしょう?
自慢だった金色の髪はくすみ、肌も艶がなく目の下には隈が見えています。
身なりは整えているものの、どうにも薄汚れた印象を受けます。
最近姉は体調がすぐれない日が多く、伏せていることが増えました。
精神的なものかと思っておりましたが、孕んだ女性が体調のすぐれないことも多いと聞きます。
悪阻とか、立ちくらみ、貧血など。
かつての華やかさは鳴りを潜めております。
閉じこもっていることが多かったのは体調のせいもあったのでしょう。
壮年の男性は見知らぬ人です。恰幅の良い方で、何やら威圧的な態度をとられています。
そのような方にお姉様が連れられてきたのはなぜなのでしょう。
お姉様は謹慎と称して屋敷に込められておりました。
屋敷から出ないようお兄様方が言い渡しており、事実上の軟禁生活でございます。
家人にも厳しく言い含め、常時見張りがついていたはずでございますのに、どうやって屋敷を抜け出したものか。
嫌な予感しかしません。
その男性はキリム様を見つけるなり声をかけました。
「これは、これはキリム様、お初にお目にかかります。自分はホーエルと申します。伯爵の位を頂いておりますが、先日あなた様の見合い相手の候補に名乗り出ましたが、残念ながら我が家は候補にすら残れませんでした」
悪い予感が当たりました。
候補に残れなかった家と、候補から外されたお姉様。
両者が手を結んだ理由など一つしか思い当たりません。
愛想笑いを浮かべるホーエル伯爵にキリム様は眉を顰められました。
「ホーエル殿と申されたか? 自分、本日ホーエル殿の訪問は予定にござらぬ。まして家人がとめるのを聞かず、来客中に押し入るとは、無体がすぎるのではござらぬか?」
キリム様がぴしりと言いきりました。
キリム様は現在侯爵の位を頂いております。
ホーエル伯爵より身分は上なのであります。
身分が低い者が、約束もしていない屋敷に上がり込んで好き勝手するなど、あってはならないことです。
「これは申し訳ございません。しかしながら、到底見過ごせぬ由々しき事態が発覚いたしまして、どうあってもお教えせねばと気がせいた結果でございます。お許しください」
ホーエル伯爵はすぐに頭を下げました。
けれど、キリム様の顔は厳しく引き締められております。
「約束を取り付ける間がなかったとはいえ、屋敷に押し入るはあまりに無礼でありましょう? こちらの都合を聞き、日を改めるか、来客のあとの時間を貰えぬか訊ねるのが礼儀ですぞ」
正論です、キリム様。
とても頼もしいお言葉ですわ。
「こちらには、こちらの都合がある。お引き取り願う。こちらは大事な話をしているところでありますぞ」
「お待ちください! その大事な用とはトウボロス侯爵家との婚姻のことでございましょう! その婚姻のことについての話なのでございます!」
ホーエル伯爵が叫びました。
ああ、やはりこの方は──我が家の秘密を暴露なさるおつもりなのだ。
お姉様が毒々しい笑みを浮かべるのを視界の端に捕え、私は絶望いたしました。
ホーエル伯爵は姉を示しました。
「キリム様、こちらはトウボロス侯爵令嬢リリス姫でございます」
紹介されたお姉様は淑女の礼をとりました。
「お初御目にかかります。キリム様。トウボロス侯爵令嬢リリスと申します」
キリム様は目を見開かれ、私を振り返りました。
そして兄へと視線を転じます。
お兄様は観念したように息を吐きました。
「確かにその娘は我が妹の一人であります。御目汚しでございますが」
ぽんっとキリム様が手を打ちました。
「おお、そうでありましたか。確かに似ておられますな」
キリム様は頷かれました。
「そう言えば、トウボロス侯爵家には男子三人と女子二人がいるはず」
キリム様の従兄様が呟かれました。
我が家の家族構成はあらかじめ伝えられております。
「これはしたり。お初御目にかかりますな。されど、顔を合わせたことのないご家族を紹介するにしても、これはいきすぎではないのですかな?」
キリム様は顔を引き締められました。
「さよう。わしもご家族を紹介するためだけに彼女をこの場に連れてきたわけではありません。わしはトウボロス侯爵家の罪をここに明らかにするためにまいったのです」
ああ、やはりこの方は私とお姉様が立場を入れ替えたことを言及なさるおつもりですわ。
「罪とは穏やかではありませんな」
不機嫌そうに従兄様がおっしゃいました。
ホーエル伯爵は大げさに両手を広げておっしゃいました。
「おお、わしを責められますな。これはまさに罪と呼ぶにふさわしいものなのです。あろうことかトウボロス侯爵家はキリム様に引き合わせるべき娘を入れ替えてしまったのです! ここにいるのはその立場を奪われてしまった哀れな娘でございます」
ホーエル伯爵は我が家がひた隠しにしていたものを暴露なさいました。
お姉様が潤んだ瞳でキリム様を見上げます。
「キリム様、伯爵がおっしゃっていることは事実です。本来候補でしたのは私なのですわ。なのにお父様がローナをと言いだして……あまりにもひどい仕打ちだと思われませんか?」
お姉様、どの面下げて他の男の子を宿したままおっしゃるのですか?
あなたには恥というものが分からないのですか?
キリム様に色目を使う姉に、私は怒りを覚えました。
姉は今自分がしたことの意味が分かっているのでしょうか?
「お聞きになったでしょう! 本来ならあなた様と出会うはずだったのは、こちらの娘! トウボロス侯爵家はあなた様を謀り、偽者の候補を連れてくるという大罪を犯したのですよ!」
ホーエル伯爵が自慢げに言いました。
その情報をいったいどこで仕入れたというのでしょう。
お姉様は勝ち誇ったような顔をなさいました。
「お待ちください。我が家の候補はこの子ではありません。確かに当初父はリリスに見合いの話を打診しましたが、リリスには想い人がいまして、候補から外したのですよ。この子にこの場にいる資格はありません」
一番目のお兄様が弁解なさいました。
候補は最初から私、ということになさりたいようです。
確かにお姉様はその理由で候補から外しましたが、それはうちとのお見合いが決まった後です。
それにどれだけの説得力があるのでしょう?
「酷いわ、お兄様! 私こそがキリム様と出会うべきだったというのに!」
ホーエル伯爵がお兄様を糾弾しました。
「何を言う! キリム様を騙しておいて! この婚約は無効にするべきです! トウボロス侯爵家にその資格はない! 陛下に申し上げてなかったことにしていただきましょう! キリム様はお相手を選び直すべきでございます!」
やはり狙いはそれですか。
この方は私とキリム様の結婚を阻止し、あわよくば新しいキリム様のお相手に自分の娘をと思っておられるのでしょう。
その片棒を担ぐとは、お姉様も正気とは思えません。
もしこの行為が罪だとされるのなら、一族郎党ただでは済まないのですよ。
罪に連なるのはお姉様も同じこと。
それなのになぜ?
よもや、ご自分が次のキリム様の婚約者になれるなどとは思っておられますまいな?
まさか、そのような甘言にのって我が家を破滅させるおつもりですか?
私はキリム様に目を走らせました。
キリム様は一度大きく目を見開かれて、腕を組み悩まれているようです。
もう駄目です。きっと軽蔑されました。
私たちの秘密は暴かれてしまったのです。
どうしましょう。キリム様にどう償えばいいのかわかりません。
キリム様が顔をあげておっしゃいました。
「いささかお訊ねしたいことがございます」
「何でしょう?」
何を聞かれるのかわかりませんが、私は誠実に対応したいと思います。
「あの見合いの日、お会いしたのはあなたではないのですか?」
「いえ、私です」
思えば恥ずかしいぐらい緊張して、何が何やらわからないうちに終わった顔合わせでございました。
「あなたはトウボロス侯爵家のご令嬢ではないのですか?」
私は首を横に振って否定しました。
「いえ、私はトウボロス侯爵の娘でございます。二番目の娘ローナですわ」
私は正直に答えました。
キリム様は再び悩まれます。
「どうしてもわからぬのでございますが……」
途方にくれたような顔でキリム様が訊ねられました。
「見合いの日顔を合わせたのがあなたで、紛れもなくトウボロス侯爵殿の娘であるというのなら、なぜ自分の結婚相手があなたではいけないのでありましょう?」
はい?
「自分、伯父上や従兄上より、あくまでも候補の一人だから、会ってみて気に入らなければ断ればいい。話し合って生涯を伴にしてもいいと思うのなら結婚を考えればいいとの言葉を頂きました。そして自分はあなたに出会い、この人とならば良い家庭を築けると思いましたゆえ、話を進めていただいた所存。自分が出会ったのはあなたであり、他の候補ではございませぬ。なのになぜ、あなたではいけないのでありましょう? 自分、あまり頭がよくないのであります。自分にわかるよう教えていただきたい」
……私は何と答えればよいのでしょう?
視界の端でお兄様とキリム様の従兄様が顔を見合わせております。
キリム様の結婚相手が私ではいけない理由? それは──
「キリム様! トウボロス侯爵家はあなた様を謀ったのですぞ!」
ホーエル伯爵が顔を真っ赤にして怒鳴りました。
「そこが解せぬのであります。例えば、この方がトウボロス侯爵令嬢でない、あるいは出会ったのが別人である、というのなら謀られたと言えましょう。しかしながら、最初からトウボロス侯爵令嬢ローナであると名乗り、本人と会っていたのであれば、それは偽りではございませぬ」
はい、そうですね。
別人があっていたわけでも、お姉様の名を騙ったわけでもありません。
私は最初から私だと名乗り、キリム様と接してまいりました。
「キリム様、審査の段階とは別人なのでございますよ! このようなまやかし、審査を行ったものが知れば、きっと許さないでありましょう!」
ホーエル伯爵は審査を行ったときの対象が違うのだから許されないはずだと主張しました。
「いや、それはない。審査はあくまでも絞り込むためであって、最後の決定はキリムに委ねられていたから。まあ、身分があって、キリムが気にいる相手であれば誰でもいいんだよ。領地経営の助けができて、将来キリムの子をたくさん産んでくれるならなおよし」
しかし、キリム様の従兄様がホーエル伯爵の意見を否定なさりました。
「候補が名指しで決まっているのならともかく、トウボロス侯爵令嬢としかきまっていなかったからなぁ。最初の候補と違っても、会った時点で本人であれば問題はない」
キリム様の従兄様がそうおっしゃいました。
さようでございますか。
そう言えばそもそも国内の貴族の中から伴侶を選ぶのは、キリム様に外国の伝手を作らないようにするためでもあります。
国内のある程度身分ある女性なら誰でも可。
将来的にキリム様の血筋を残し、家を守れる人が良いということですね。
「待って! おかしいわよ! 本当の候補は私なのよ! どうしてローナが!」
お姉様が髪を振り乱し訴えました。
キリム様が心底不思議そうな顔をした。
「想い人がいるとお聞きしましたが? 自分、他人を想われている方をどうこうするような不実な真似は致しませぬ」
はい。キリム様はとても誠実なお方です。
他人の恋人に手だしはしません。
お兄様がとても恐ろしい笑顔でおっしゃいました。
「リリス、どうして君がこんなところにいるんだね。お腹の子に障るよ。屋敷に帰りたまえ」
どうしたらこんな優しいことをあんな冷たい声で言えるのでしょう?
お兄様、怖いです。
ぱっと、キリム様が笑われました。
「おお、懐妊しておられるのですか? それはめでたい。どうぞお腹の子の父上と末永くお暮しください。どうぞお体をお大事に」
キリム様、心から言っておられますね。
素です。
その祝福が姉を打ちのめしておりますが。
他人の子を孕んでいる人は最初から眼中にないのですね、わかります。
それが常識です。
キリム様にとって懐妊は喜ばしいことなのでしょうが──すみません。我が家では全然うれしくないです。
子供の父親が誰だかわからない状態になっておりますので!
本当にどなたの子供なのでしょう?
叔母として生まれてくる子が不憫でなりません。
お姉様? 自業自得でございますわ。
ぽんっとキリム様の従兄様が手を打ちました。
「おお、そうか、恋人と添い遂げたから、候補を変えたのか」
惜しいです。ちょっとだけ違います。
「なるほどそれなら候補を変えて当然。むしろ変えない方がおかしいでしょう」
納得したと頷かれました。
……ご理解いただけて嬉しいですわ。
姉の妊娠を機に候補を変えたのは本当です。
「それで、なぜ自分の結婚相手がローナ姫ではいけないのでありましょう?」
私は考えました。
キリム様の結婚相手が私ではいけない理由──
「なぜでしょう? 私にもわかりませんわ」
私が答えるとキリム様は意を得たとばかりに笑われました。
「さようでございましょう? 自分、わからぬのです、なぜあなたではいけないのか。あなたでいいと思うのですが──いえ、あなたがよいのです」
キリム様は手を差し出しました。
「これからの人生を共に歩んでいただけますか?」
私はキリム様の手に私の手をのせました。
「私のようなものでよろしければおそばに置いてくださいませ」
私は改めてキリム様の求婚を受けました。
この選択を悔やむ日が来ないことを祈ります。
「キリム……立派になって……」
キリム様の従兄様が目頭を押さえられました。
「リリス、さっきも言ったがね、お腹の子に障るから屋敷に帰ろう? ホーエル伯爵と何時どうやって知りあったのかも聞きたいしね」
お兄様がおっしゃいました。
にこやかに微笑みつつ──目が笑っていませんが──キリム様に断りを入れます。
「申し訳ございません、キリム様。どうやらリリスは体調がすぐれぬ様子。こちらの妹だけ連れて一度屋敷に帰ります。ご覧くださいこの顔色を。懐妊しておりますので、万が一のことがあっては大変です。後で帰りの馬車をこちらに送りますのでそれまでローナをよろしくお願いいたします」
お姉様の顔色はお兄様のせいだと思います。
「おお、真っ青ではござらんか! これはいかん。ささ、どうぞお気になさらずお帰りください。胎の子に何かあっては一大事」
キリム様は一貫してお姉様のお腹の子を気づかっています。
「ありがとうございます。ではこれにて」
お兄様は有無を言わせずお姉様を引っ張っていきました。
このあとお姉様がどうなるかは私にもわかりません。
「ホーエル伯爵、ご用件は終わりましたかな? でしたら、今日のところはお引き取りください。立て込んでおりますので。今日のことに関しては後日話し合いましょう。きっとそちらのお話を伺いたいというものもいるでしょうから」
キリム様の従兄様がホーエル伯爵を促しました。
「お、お待ちください! わしはキリム様のことを思えばこそ──」
「お話は後日。おい、伯爵がお帰りだ。丁寧に馬車までお送りしろ」
従兄様がおっしゃるとがっしりとした使用人がホーエル伯爵を左右から掴み、連行しました。
「放せ! わしは、わしは──」
ホーエル伯爵の声が遠くなっていきました。
きっとこの家の使用人はホーエル伯爵の馬車までお送りするでしょう。
つまみだしたとも申します。
私はこのあとうちの馬車が迎えに来るまでキリム様とお話いたしました。
けれど、我が家の恥となるお姉様の所業は最後まで口にすることができませんでした。
純真なるキリム様にあのような耳の汚れとなるような話はとてもできません。
キリム様にはいついつまでも今のままでいて欲しいと思うのは私の我がままでしょうか?
◆
あの後お姉様は王都に置いておくと何をするかわからない、ということですぐさま領地の屋敷に送られました。
本来ならもう少し体調が整ってから送る予定でしたが、あのような真似をしたお姉様をかばうものはさすがにもういませんでした。
お母様付き添いのもと領地で子を産むようです。
子は親類の子として本家で育てることになりました。
子を産んだ後、お姉様がどうなるのかはまだ未定です。
ホーエル伯爵は玄関先で騒いでいた公爵の手先でした。
公爵はキリム様の見合い相手の選考をした方のうち一人から我が家の情報を知りえて、我が家を監視しておりました。ラフドーラ家との一件を聞きつけ、候補が変わったことを察した公爵は結婚阻止に動いたのでした。
もう動かねば婚姻が成立してしまうからです。
いったいどのような報酬を約束されたのかは知りませんが、公爵が玄関で騒いで目をそらしているうちに我が家に侵入した手の者がお姉様を連れだしたのです。
お姉様はホーエル伯爵の口車に乗り、我が家を糾弾するためあの場に来たのです。
件の公爵と伯爵には何やら罰が下されたようです。
各家から我が家に贈り物が届けられたのは謝罪のつもりなのでしょうか?
情報を漏らした審査員の一人もそれなりに罰を受けられたとか。
そうして私のあずかり知らぬところで裁きが下されたのでございます。
私たちは数々の困難を乗り越え華燭の宴をあげました。
堂々とした花婿が愛らしい花嫁と寄り添っている。
花嫁の兄であるクリスタンにも感無量の出来事だった。
色々とあったのだ。その集大成だと思うと目頭が熱くなる。
「クリスタン殿、少しよろしいか?」
花婿の従兄であるドムルが声を潜めて訊ねた。
「どうなされた?」
ドムルはなぜか顔色が悪かった。
「……いてはならぬ人がいたのだが……いかにするべきか?」
クリスタンは首を傾げた?
ドムルの示す方に目を向け──仰天した。
そこには物陰に大柄な体を隠す花婿の異母兄がいた。
二人はその人物に近づいた。
「何をなさっているのですか、殿下」
「くっ、このような場所にこそこそと。一国の王太子ともあろうものが」
立派に不審者だった。
父譲りの大柄な体を精一杯縮めて物陰からこっそり見つめる赤毛の王太子殿下。
二人は泣きそうだった。
「み、見つかってしまったか。見逃せ。我が弟の晴れの姿ではないか。この目でしかと見たかったのだ」
「殿下~」
多くの弟を持つこの人はなぜかこの異母弟を可愛がっていた。
それもこれもキリムの純真さから来るのだろう。
真直ぐに慕われて悪い気がしないわけがない。
「だいたい、臣下とはいえ弟なのだぞ。その式に参列してはならないなどと酷いではないか」
ぶちぶちと王太子が文句を言った。
「身分をお考えください、殿下」
「一人の家臣の式に参加すれば、その他の者がなぜ我が家の式には参列していただけぬのかと、不満を持ちましょう。カイナンすべての貴族の婚姻の席につくなど不可能です。ならば、家臣の式には参列してはなりません」
二人にたしなめられた王太子はいじけた。
「ずるいではないか。その方らは参列できるのに。だいたいその方は従兄のくせに、キリムを実の弟のように可愛がりおって……わしとて小さいころのキリムを愛でたかった。きっと可愛かったであろうに……ずるいぞ……その頃のわしはキリムの存在すら知らなかったのだ……ああ、手ずから剣術を教えるとか、遠乗りに連れていくとか、してやりたかった」
ぶつぶつと愚痴りだした。
「殿下、情けないのでおやめください」
ドムルは悲しくなった。
確かに幼いころのキリムも従兄上、従兄上と後ろをちょこちょこついてきて可愛かった。しかしそれはキリムのみならず弟全てに言えることであり、王太子殿下にも何人もの弟がいるのだ。
一人ぐらい我慢して欲しい。
「そもそも、あの花嫁はわしが推してやったのだ。その成果を喜んでよいであろうが」
「は?」
「なんですと?」
聞き捨てならないことを耳にし、二人は王太子を凝視した。
「だから、選考の時わしがあの娘を推したのだ。候補は沢山いたが、この目で見てキリムと合うと思ったのはあの娘だったのでな」
クリスタンは慌てた。
「お待ちください、それはいったいどのような」
「うむ。候補の中から無作為に数人選んでわしがこっそりどのような娘か見に行ったのだ。そなたの妹はすぐわかったぞ。もう一人はラフドーラの跡取りと婚約しておったのだろう? 婚約者とはいえ、屋敷の裏でいかがわしいことをしておった。あちらの娘は今少し淑女としての心得が足りん。はしたなすぎる」
クリスタンは高速で目をそらした。
確かに人目を忍んでいたとはいえ、そのようなことをするのは婚約者相手だと思うだろう。
いかがわしいことをしていた娘をニグルスの婚約者と判断した王太子を誰も攻められない。
あえて言えばリリスが悪い。
「その点、わしが選んだ娘は真面目そうであった。家人とともに執務に励んでおったぞ。なかなかの才女ではないか。勤勉なところもいい。きっとキリムを支えてくれるであろうと思い、強く推薦したのだ」
王太子は自慢そうに言った。
二人はなぜ候補にトウボロスが残れたのか知った。
「カイナンの高位貴族の娘であれば誰でもよいが、子をたくさん成してもらうのであれば、相性が問題であろう。キリムのあの行動を容認し許せる者でなければならん。その点がなかなか難儀であった」
屋敷の庭に畑を作り、自ら丹精してしまうキリムは高位貴族の常識の枠から少し外れる。
その独特の部分すら許し、愛でられる心根の持ち主──というのは、高位貴族では少ない。
普通の娘ならキリムを非難するか、口に出さなくともよくは思わないだろう。
「どうだ。キリムはわしが推した娘を選んだぞ。わしの目に狂いはなかったであろうが」
クリスタンは王太子に訊ねた。
「では、殿下が最初からローナをと思われたと……」
「うむ。そのような名であったか? そなたの妹、よき娘であるな。あれであるのなら、キリムもきっと気にいると思ったぞ。あの二人はわしがくっつけたようなものであるな」
事実は小説より奇なり。
クリスタンとドムルは目眩がした。
審査の対象となったのは最初からローナだった。
王太子の勘違いとはいえ、なんというか、なるべくしてなった相手だとしか。
これも運命なのであろうか。
我々の苦労はいったい……
「さ、さようでございますな。選ばれて我が妹も光栄でありましょう」
「まさに、最初から結ばれるべくして結ばれた二人としか……」
王太子は機嫌を直した。
「そうであろう、そうであろう。似合いの二人よ。きっとよき家庭築き、末永く連れそうであろう。よきかな、よきかな」
「まさにその通りでございます」
真実は墓の中まで持っていこう。
クリスタンはそう決意した。
世の中知らない方がいいこともあるのだ。
カイナンの『清廉なる盾』キリムが婚姻したことはあっという間に広まった。
めでたいことであると同時に、各国へのけん制の意味合いもある。
これも一つの戦いの形なのであった。
真面目な花婿は外国の友人たちへこのめでたいことを頼りにて報告した。
ハヤサの友人は寿ぎ、祝いの品を贈った。
それに早く子供を作れという便りを添えて。
オウミの友人にもそれは届いた。
王太子は我が事のように喜び、妻に友人が伴侶を得たことを伝えた。
喜んだ妻が産着を縫いだしたのは気が早すぎる。
ダィテス公爵家にも便りは届き、それを一読したダィテス公爵夫人ミリアーナは残念そうにつぶやいた。
「国内の高位貴族のお嬢さんとお見合いして結婚──かあ。予定通り過ぎて面白みに欠けるわね」
「何を言う、嫁」
めでたいはずの頼りに不穏なことを言う妻にマティサは苦言を呈した。
ミリアーナは口を尖らせた。
「だってさ、キリム君ならこう、もっとドラマチックな……波乱万丈に富んだ感動的な恋も似合うと思うの。なのに、ごく普通の結婚みたいだし」
キリムからの便りには国内の高位貴族のお嬢さんと見合いをして結婚した。この人となら良い家庭が築けそうです──としかない。
ごく普通の内容だ。
双方望んで見合いをしてとんとん拍子に話が進んだ様子しかない。
マティサが眉を顰めた。
「何を言う。貴族の結婚なんてそんなもんだ。波乱などいらん。平穏なのが一番だ」
「困難を乗り越えて幸せになるのが面白いのに」
マティサが溜息をついた。
「嫁は何を期待しているんだ?」
「感動的な物語か、笑い」
マティサは手を振って否定した。
「ないない。貴族の政略結婚にそんなものがあってたまるか。あるとすれば、政治がらみのどろどろとした様子ぐらいだ」
「胸がキュンキュンするような感動はないんですか?」
「ない。諦めろ」
マティサの言葉にミリアーナは憮然とした。
「婿様、酷い……夢も希望もありませんね。まあ、無理やりじゃないみたいですから、それだけは救いですね。両想いならいいんですが」
ネタがない、とミリアーナは呟いた。
事実は小説より奇なり。
知らぬが仏。
世の中知らない方がいいこともあるのだ。
我が家は結婚の準備に追われております。
お父様はやっと床を起きだしてぼーっとしておられます。
もう何をする気力も起きないようで。
お母様はなにかぐずぐず泣き言を繰り返しています。
お姉様は近々領地に帰されるそうです。
私とお姉様はあれ以来顔を合わせることもなく、遠くからお姉様が私を見ているのをときおり感じていました。
私がお兄様の付き添いでキリム様の屋敷に向かうところでした。
どなたか訪問された方がいるようです。
三番目のお兄様が玄関ホールのところで対応なさっておられるようです。
「ですから、キリム殿との婚約を辞退なされよ、とわしは言っている」
「重ねて言いますが、それは不可能です。もうこちらは了承してしまいましたから。それよりも、こんな裏工作をしていること自体然るべきところに訴えたらどうなると思われますか? 前回のことは謹慎ですみましたが、懲りずにこんなことをしたと知られればただではすみませんよ!」
修羅場でした。
何やら言い争う二人からは私たちは柱の影になって見えないようです。
「裏から出よう、ローナ」
一番目のお兄様が肩を引いて促しました。
私はそれに従います。
なぜか見つかってはいけないような気がしたのです。
「そうですわね。あの、あれはいったい……」
「候補から外れた公爵家の方だよ。確か、三代前の王弟が興した家だ。あそこは候補になると思われた家に候補を辞退しろと圧力をかけたんだ。脅された家が泣き寝入りせずに訴えたもので、候補に選ばれなかったそうだよ。裏工作というか、脅迫の罪で謹慎になったはず」
私の知らないところで熾烈な戦いがあったようです。
「よくうちが候補になりましたね」
お父様に政治的手腕はありません。
ええ欠片も。
そんなお父様がよく家を候補にさせたものです。
「ああ、それは僕らも不思議だったんだよ。なんといってもうちは落ち目の侯爵家だからね。位で言えば公爵家もあったし、うちより裕福な伯爵家もあった。その中で後ろ盾も金もないうちが候補に残れたなんて奇跡だよ」
お兄様もそうおっしゃいました。
壮絶な足の引っ張り合いやら賄賂が飛び交ったであろう修羅場を、どうやって生き残っていったものか。
それにしても、候補にも残らなかったところですら諦めきれずにあのような工作をなさいます。
まだ諦めていない人がいるかもしれません。
なぜ、私などが選ばれたものか。
「まさかとは思いますが、審査をなさった方がお姉様を見て、これならと通したのではないでしょうね?」
お姉様は美しいのです。
社交界を見渡せばお姉様より美しい人はごまんといますが私よりは美しいのです。
外面だけは大変よろしく、本性が暴露されるまでは優しく明るいと評判でした。
その審査をなさった方がどれだけ目がよいのかわかりませんが、姉の外面に騙されていた可能性がないわけでもないのです。
お兄様が胡乱げな顔をしました。
「……審査は家柄とか格とか……どのような基準で行われたのかはわかっていないんだ。ただ、先ほどの人のように他の家を脅迫したり、賄賂などの不正を行おうとした家は真っ先にはねられたらしい」
「お姉様を候補だと思って通したのなら、我が家は期待に背いているのですけど」
そこいらへんを突かれると困ります。
「……しかし、最終的に伴侶を決められるのは御本人だ。御本人がお前に会って、そう決められたのだから問題はない」
お兄様、私の目を見て言ってくださいまし。
私たちは訪問者に見咎められぬようこっそりと裏から屋敷を出ました。
思えばこの時すでに予兆はあったのでございます。
けれど私たちはそれに気づけませんでした。
キリム様のお母様は遠くの貴族のもとに嫁がれ、対面かなわぬそうです。
父親の違う兄弟はおられるそうですが、縁が薄いと。
伯父方の親戚筋の方が王都にも住んでおられますが、そうこちらばかりにも構えないということです。
「ようこそおいでくださりました」
出迎えてくれたキリム様に私は淑女の礼を返します。
「ごきげんよう、キリム様。本日もよろしくお願いいたしますわ」
結婚式の打ち合わせですが、どちらかというと結婚後に私がこの屋敷に馴染めるようにと何度も呼ばれております。
本日はそろそろ式の最終確認ですわ。
式はこのお屋敷で行われます。
キリム様の使用人だけでは人手が足りないので、伯父様のところの使用人や我が家からも人を出すことになっております。
畑のある方の庭を避けて反対側の庭に続くホールを開放するそうです。
さすがに畑を客の前に出すわけにもいかないのです。
皮肉なことに私の衣装はもう出来上がっております。
以前にしつらえさせておりましたゆえ。
一通り打ち合わせが終わり、式で披露する方の庭のテーブルでお茶を嗜んでいる時でございました。玄関ホールが騒がしいようです。
「あら?」
「おや? 今日の訪問客は一組だけの予定でござったはず?」
キリム様が首を傾げました。
前触れ無しの訪問者でしょうか?
普通はこのような真似は致しません。
どこかへ訪れるのなら、事前に便りで了承いただくものでございます。
突然の訪問者というのは、何やら嫌な予感がいたします。
「僕が見て来よう。キリムはここにいなさい。君の客だからね」
そういってキリム様の従兄様が腰を上げました。
けれどもその前にその喧騒はこちらの方に近づいてきます。
キリム様が私をかばわれるよう前に立ちました。
お兄様とキリム様の従兄様もその何かを迎え撃つような位置に動かれました。
「どけと言っているだろうが! 使用人風情が!」
「お約束のない訪問は困ります! まして旦那様はご来客中でして。また日を改めて──」
「わしはキリム様にとって重大な出来事をお教えするために来たのだ! 先客など追い払え!」
なんという横暴なことを言う方でしょう。
お約束を取り付けるのは大事なことです。
それを怠ったばかりか、家人に怒鳴り散らし、来客を追い払えなどと身勝手な。
キリム様も厳しい顔をなさっております。
果たしてやってきたのは壮年の男性と──お姉様、なぜあなたがここにいるのでしょう?
自慢だった金色の髪はくすみ、肌も艶がなく目の下には隈が見えています。
身なりは整えているものの、どうにも薄汚れた印象を受けます。
最近姉は体調がすぐれない日が多く、伏せていることが増えました。
精神的なものかと思っておりましたが、孕んだ女性が体調のすぐれないことも多いと聞きます。
悪阻とか、立ちくらみ、貧血など。
かつての華やかさは鳴りを潜めております。
閉じこもっていることが多かったのは体調のせいもあったのでしょう。
壮年の男性は見知らぬ人です。恰幅の良い方で、何やら威圧的な態度をとられています。
そのような方にお姉様が連れられてきたのはなぜなのでしょう。
お姉様は謹慎と称して屋敷に込められておりました。
屋敷から出ないようお兄様方が言い渡しており、事実上の軟禁生活でございます。
家人にも厳しく言い含め、常時見張りがついていたはずでございますのに、どうやって屋敷を抜け出したものか。
嫌な予感しかしません。
その男性はキリム様を見つけるなり声をかけました。
「これは、これはキリム様、お初にお目にかかります。自分はホーエルと申します。伯爵の位を頂いておりますが、先日あなた様の見合い相手の候補に名乗り出ましたが、残念ながら我が家は候補にすら残れませんでした」
悪い予感が当たりました。
候補に残れなかった家と、候補から外されたお姉様。
両者が手を結んだ理由など一つしか思い当たりません。
愛想笑いを浮かべるホーエル伯爵にキリム様は眉を顰められました。
「ホーエル殿と申されたか? 自分、本日ホーエル殿の訪問は予定にござらぬ。まして家人がとめるのを聞かず、来客中に押し入るとは、無体がすぎるのではござらぬか?」
キリム様がぴしりと言いきりました。
キリム様は現在侯爵の位を頂いております。
ホーエル伯爵より身分は上なのであります。
身分が低い者が、約束もしていない屋敷に上がり込んで好き勝手するなど、あってはならないことです。
「これは申し訳ございません。しかしながら、到底見過ごせぬ由々しき事態が発覚いたしまして、どうあってもお教えせねばと気がせいた結果でございます。お許しください」
ホーエル伯爵はすぐに頭を下げました。
けれど、キリム様の顔は厳しく引き締められております。
「約束を取り付ける間がなかったとはいえ、屋敷に押し入るはあまりに無礼でありましょう? こちらの都合を聞き、日を改めるか、来客のあとの時間を貰えぬか訊ねるのが礼儀ですぞ」
正論です、キリム様。
とても頼もしいお言葉ですわ。
「こちらには、こちらの都合がある。お引き取り願う。こちらは大事な話をしているところでありますぞ」
「お待ちください! その大事な用とはトウボロス侯爵家との婚姻のことでございましょう! その婚姻のことについての話なのでございます!」
ホーエル伯爵が叫びました。
ああ、やはりこの方は──我が家の秘密を暴露なさるおつもりなのだ。
お姉様が毒々しい笑みを浮かべるのを視界の端に捕え、私は絶望いたしました。
ホーエル伯爵は姉を示しました。
「キリム様、こちらはトウボロス侯爵令嬢リリス姫でございます」
紹介されたお姉様は淑女の礼をとりました。
「お初御目にかかります。キリム様。トウボロス侯爵令嬢リリスと申します」
キリム様は目を見開かれ、私を振り返りました。
そして兄へと視線を転じます。
お兄様は観念したように息を吐きました。
「確かにその娘は我が妹の一人であります。御目汚しでございますが」
ぽんっとキリム様が手を打ちました。
「おお、そうでありましたか。確かに似ておられますな」
キリム様は頷かれました。
「そう言えば、トウボロス侯爵家には男子三人と女子二人がいるはず」
キリム様の従兄様が呟かれました。
我が家の家族構成はあらかじめ伝えられております。
「これはしたり。お初御目にかかりますな。されど、顔を合わせたことのないご家族を紹介するにしても、これはいきすぎではないのですかな?」
キリム様は顔を引き締められました。
「さよう。わしもご家族を紹介するためだけに彼女をこの場に連れてきたわけではありません。わしはトウボロス侯爵家の罪をここに明らかにするためにまいったのです」
ああ、やはりこの方は私とお姉様が立場を入れ替えたことを言及なさるおつもりですわ。
「罪とは穏やかではありませんな」
不機嫌そうに従兄様がおっしゃいました。
ホーエル伯爵は大げさに両手を広げておっしゃいました。
「おお、わしを責められますな。これはまさに罪と呼ぶにふさわしいものなのです。あろうことかトウボロス侯爵家はキリム様に引き合わせるべき娘を入れ替えてしまったのです! ここにいるのはその立場を奪われてしまった哀れな娘でございます」
ホーエル伯爵は我が家がひた隠しにしていたものを暴露なさいました。
お姉様が潤んだ瞳でキリム様を見上げます。
「キリム様、伯爵がおっしゃっていることは事実です。本来候補でしたのは私なのですわ。なのにお父様がローナをと言いだして……あまりにもひどい仕打ちだと思われませんか?」
お姉様、どの面下げて他の男の子を宿したままおっしゃるのですか?
あなたには恥というものが分からないのですか?
キリム様に色目を使う姉に、私は怒りを覚えました。
姉は今自分がしたことの意味が分かっているのでしょうか?
「お聞きになったでしょう! 本来ならあなた様と出会うはずだったのは、こちらの娘! トウボロス侯爵家はあなた様を謀り、偽者の候補を連れてくるという大罪を犯したのですよ!」
ホーエル伯爵が自慢げに言いました。
その情報をいったいどこで仕入れたというのでしょう。
お姉様は勝ち誇ったような顔をなさいました。
「お待ちください。我が家の候補はこの子ではありません。確かに当初父はリリスに見合いの話を打診しましたが、リリスには想い人がいまして、候補から外したのですよ。この子にこの場にいる資格はありません」
一番目のお兄様が弁解なさいました。
候補は最初から私、ということになさりたいようです。
確かにお姉様はその理由で候補から外しましたが、それはうちとのお見合いが決まった後です。
それにどれだけの説得力があるのでしょう?
「酷いわ、お兄様! 私こそがキリム様と出会うべきだったというのに!」
ホーエル伯爵がお兄様を糾弾しました。
「何を言う! キリム様を騙しておいて! この婚約は無効にするべきです! トウボロス侯爵家にその資格はない! 陛下に申し上げてなかったことにしていただきましょう! キリム様はお相手を選び直すべきでございます!」
やはり狙いはそれですか。
この方は私とキリム様の結婚を阻止し、あわよくば新しいキリム様のお相手に自分の娘をと思っておられるのでしょう。
その片棒を担ぐとは、お姉様も正気とは思えません。
もしこの行為が罪だとされるのなら、一族郎党ただでは済まないのですよ。
罪に連なるのはお姉様も同じこと。
それなのになぜ?
よもや、ご自分が次のキリム様の婚約者になれるなどとは思っておられますまいな?
まさか、そのような甘言にのって我が家を破滅させるおつもりですか?
私はキリム様に目を走らせました。
キリム様は一度大きく目を見開かれて、腕を組み悩まれているようです。
もう駄目です。きっと軽蔑されました。
私たちの秘密は暴かれてしまったのです。
どうしましょう。キリム様にどう償えばいいのかわかりません。
キリム様が顔をあげておっしゃいました。
「いささかお訊ねしたいことがございます」
「何でしょう?」
何を聞かれるのかわかりませんが、私は誠実に対応したいと思います。
「あの見合いの日、お会いしたのはあなたではないのですか?」
「いえ、私です」
思えば恥ずかしいぐらい緊張して、何が何やらわからないうちに終わった顔合わせでございました。
「あなたはトウボロス侯爵家のご令嬢ではないのですか?」
私は首を横に振って否定しました。
「いえ、私はトウボロス侯爵の娘でございます。二番目の娘ローナですわ」
私は正直に答えました。
キリム様は再び悩まれます。
「どうしてもわからぬのでございますが……」
途方にくれたような顔でキリム様が訊ねられました。
「見合いの日顔を合わせたのがあなたで、紛れもなくトウボロス侯爵殿の娘であるというのなら、なぜ自分の結婚相手があなたではいけないのでありましょう?」
はい?
「自分、伯父上や従兄上より、あくまでも候補の一人だから、会ってみて気に入らなければ断ればいい。話し合って生涯を伴にしてもいいと思うのなら結婚を考えればいいとの言葉を頂きました。そして自分はあなたに出会い、この人とならば良い家庭を築けると思いましたゆえ、話を進めていただいた所存。自分が出会ったのはあなたであり、他の候補ではございませぬ。なのになぜ、あなたではいけないのでありましょう? 自分、あまり頭がよくないのであります。自分にわかるよう教えていただきたい」
……私は何と答えればよいのでしょう?
視界の端でお兄様とキリム様の従兄様が顔を見合わせております。
キリム様の結婚相手が私ではいけない理由? それは──
「キリム様! トウボロス侯爵家はあなた様を謀ったのですぞ!」
ホーエル伯爵が顔を真っ赤にして怒鳴りました。
「そこが解せぬのであります。例えば、この方がトウボロス侯爵令嬢でない、あるいは出会ったのが別人である、というのなら謀られたと言えましょう。しかしながら、最初からトウボロス侯爵令嬢ローナであると名乗り、本人と会っていたのであれば、それは偽りではございませぬ」
はい、そうですね。
別人があっていたわけでも、お姉様の名を騙ったわけでもありません。
私は最初から私だと名乗り、キリム様と接してまいりました。
「キリム様、審査の段階とは別人なのでございますよ! このようなまやかし、審査を行ったものが知れば、きっと許さないでありましょう!」
ホーエル伯爵は審査を行ったときの対象が違うのだから許されないはずだと主張しました。
「いや、それはない。審査はあくまでも絞り込むためであって、最後の決定はキリムに委ねられていたから。まあ、身分があって、キリムが気にいる相手であれば誰でもいいんだよ。領地経営の助けができて、将来キリムの子をたくさん産んでくれるならなおよし」
しかし、キリム様の従兄様がホーエル伯爵の意見を否定なさりました。
「候補が名指しで決まっているのならともかく、トウボロス侯爵令嬢としかきまっていなかったからなぁ。最初の候補と違っても、会った時点で本人であれば問題はない」
キリム様の従兄様がそうおっしゃいました。
さようでございますか。
そう言えばそもそも国内の貴族の中から伴侶を選ぶのは、キリム様に外国の伝手を作らないようにするためでもあります。
国内のある程度身分ある女性なら誰でも可。
将来的にキリム様の血筋を残し、家を守れる人が良いということですね。
「待って! おかしいわよ! 本当の候補は私なのよ! どうしてローナが!」
お姉様が髪を振り乱し訴えました。
キリム様が心底不思議そうな顔をした。
「想い人がいるとお聞きしましたが? 自分、他人を想われている方をどうこうするような不実な真似は致しませぬ」
はい。キリム様はとても誠実なお方です。
他人の恋人に手だしはしません。
お兄様がとても恐ろしい笑顔でおっしゃいました。
「リリス、どうして君がこんなところにいるんだね。お腹の子に障るよ。屋敷に帰りたまえ」
どうしたらこんな優しいことをあんな冷たい声で言えるのでしょう?
お兄様、怖いです。
ぱっと、キリム様が笑われました。
「おお、懐妊しておられるのですか? それはめでたい。どうぞお腹の子の父上と末永くお暮しください。どうぞお体をお大事に」
キリム様、心から言っておられますね。
素です。
その祝福が姉を打ちのめしておりますが。
他人の子を孕んでいる人は最初から眼中にないのですね、わかります。
それが常識です。
キリム様にとって懐妊は喜ばしいことなのでしょうが──すみません。我が家では全然うれしくないです。
子供の父親が誰だかわからない状態になっておりますので!
本当にどなたの子供なのでしょう?
叔母として生まれてくる子が不憫でなりません。
お姉様? 自業自得でございますわ。
ぽんっとキリム様の従兄様が手を打ちました。
「おお、そうか、恋人と添い遂げたから、候補を変えたのか」
惜しいです。ちょっとだけ違います。
「なるほどそれなら候補を変えて当然。むしろ変えない方がおかしいでしょう」
納得したと頷かれました。
……ご理解いただけて嬉しいですわ。
姉の妊娠を機に候補を変えたのは本当です。
「それで、なぜ自分の結婚相手がローナ姫ではいけないのでありましょう?」
私は考えました。
キリム様の結婚相手が私ではいけない理由──
「なぜでしょう? 私にもわかりませんわ」
私が答えるとキリム様は意を得たとばかりに笑われました。
「さようでございましょう? 自分、わからぬのです、なぜあなたではいけないのか。あなたでいいと思うのですが──いえ、あなたがよいのです」
キリム様は手を差し出しました。
「これからの人生を共に歩んでいただけますか?」
私はキリム様の手に私の手をのせました。
「私のようなものでよろしければおそばに置いてくださいませ」
私は改めてキリム様の求婚を受けました。
この選択を悔やむ日が来ないことを祈ります。
「キリム……立派になって……」
キリム様の従兄様が目頭を押さえられました。
「リリス、さっきも言ったがね、お腹の子に障るから屋敷に帰ろう? ホーエル伯爵と何時どうやって知りあったのかも聞きたいしね」
お兄様がおっしゃいました。
にこやかに微笑みつつ──目が笑っていませんが──キリム様に断りを入れます。
「申し訳ございません、キリム様。どうやらリリスは体調がすぐれぬ様子。こちらの妹だけ連れて一度屋敷に帰ります。ご覧くださいこの顔色を。懐妊しておりますので、万が一のことがあっては大変です。後で帰りの馬車をこちらに送りますのでそれまでローナをよろしくお願いいたします」
お姉様の顔色はお兄様のせいだと思います。
「おお、真っ青ではござらんか! これはいかん。ささ、どうぞお気になさらずお帰りください。胎の子に何かあっては一大事」
キリム様は一貫してお姉様のお腹の子を気づかっています。
「ありがとうございます。ではこれにて」
お兄様は有無を言わせずお姉様を引っ張っていきました。
このあとお姉様がどうなるかは私にもわかりません。
「ホーエル伯爵、ご用件は終わりましたかな? でしたら、今日のところはお引き取りください。立て込んでおりますので。今日のことに関しては後日話し合いましょう。きっとそちらのお話を伺いたいというものもいるでしょうから」
キリム様の従兄様がホーエル伯爵を促しました。
「お、お待ちください! わしはキリム様のことを思えばこそ──」
「お話は後日。おい、伯爵がお帰りだ。丁寧に馬車までお送りしろ」
従兄様がおっしゃるとがっしりとした使用人がホーエル伯爵を左右から掴み、連行しました。
「放せ! わしは、わしは──」
ホーエル伯爵の声が遠くなっていきました。
きっとこの家の使用人はホーエル伯爵の馬車までお送りするでしょう。
つまみだしたとも申します。
私はこのあとうちの馬車が迎えに来るまでキリム様とお話いたしました。
けれど、我が家の恥となるお姉様の所業は最後まで口にすることができませんでした。
純真なるキリム様にあのような耳の汚れとなるような話はとてもできません。
キリム様にはいついつまでも今のままでいて欲しいと思うのは私の我がままでしょうか?
◆
あの後お姉様は王都に置いておくと何をするかわからない、ということですぐさま領地の屋敷に送られました。
本来ならもう少し体調が整ってから送る予定でしたが、あのような真似をしたお姉様をかばうものはさすがにもういませんでした。
お母様付き添いのもと領地で子を産むようです。
子は親類の子として本家で育てることになりました。
子を産んだ後、お姉様がどうなるのかはまだ未定です。
ホーエル伯爵は玄関先で騒いでいた公爵の手先でした。
公爵はキリム様の見合い相手の選考をした方のうち一人から我が家の情報を知りえて、我が家を監視しておりました。ラフドーラ家との一件を聞きつけ、候補が変わったことを察した公爵は結婚阻止に動いたのでした。
もう動かねば婚姻が成立してしまうからです。
いったいどのような報酬を約束されたのかは知りませんが、公爵が玄関で騒いで目をそらしているうちに我が家に侵入した手の者がお姉様を連れだしたのです。
お姉様はホーエル伯爵の口車に乗り、我が家を糾弾するためあの場に来たのです。
件の公爵と伯爵には何やら罰が下されたようです。
各家から我が家に贈り物が届けられたのは謝罪のつもりなのでしょうか?
情報を漏らした審査員の一人もそれなりに罰を受けられたとか。
そうして私のあずかり知らぬところで裁きが下されたのでございます。
私たちは数々の困難を乗り越え華燭の宴をあげました。
堂々とした花婿が愛らしい花嫁と寄り添っている。
花嫁の兄であるクリスタンにも感無量の出来事だった。
色々とあったのだ。その集大成だと思うと目頭が熱くなる。
「クリスタン殿、少しよろしいか?」
花婿の従兄であるドムルが声を潜めて訊ねた。
「どうなされた?」
ドムルはなぜか顔色が悪かった。
「……いてはならぬ人がいたのだが……いかにするべきか?」
クリスタンは首を傾げた?
ドムルの示す方に目を向け──仰天した。
そこには物陰に大柄な体を隠す花婿の異母兄がいた。
二人はその人物に近づいた。
「何をなさっているのですか、殿下」
「くっ、このような場所にこそこそと。一国の王太子ともあろうものが」
立派に不審者だった。
父譲りの大柄な体を精一杯縮めて物陰からこっそり見つめる赤毛の王太子殿下。
二人は泣きそうだった。
「み、見つかってしまったか。見逃せ。我が弟の晴れの姿ではないか。この目でしかと見たかったのだ」
「殿下~」
多くの弟を持つこの人はなぜかこの異母弟を可愛がっていた。
それもこれもキリムの純真さから来るのだろう。
真直ぐに慕われて悪い気がしないわけがない。
「だいたい、臣下とはいえ弟なのだぞ。その式に参列してはならないなどと酷いではないか」
ぶちぶちと王太子が文句を言った。
「身分をお考えください、殿下」
「一人の家臣の式に参加すれば、その他の者がなぜ我が家の式には参列していただけぬのかと、不満を持ちましょう。カイナンすべての貴族の婚姻の席につくなど不可能です。ならば、家臣の式には参列してはなりません」
二人にたしなめられた王太子はいじけた。
「ずるいではないか。その方らは参列できるのに。だいたいその方は従兄のくせに、キリムを実の弟のように可愛がりおって……わしとて小さいころのキリムを愛でたかった。きっと可愛かったであろうに……ずるいぞ……その頃のわしはキリムの存在すら知らなかったのだ……ああ、手ずから剣術を教えるとか、遠乗りに連れていくとか、してやりたかった」
ぶつぶつと愚痴りだした。
「殿下、情けないのでおやめください」
ドムルは悲しくなった。
確かに幼いころのキリムも従兄上、従兄上と後ろをちょこちょこついてきて可愛かった。しかしそれはキリムのみならず弟全てに言えることであり、王太子殿下にも何人もの弟がいるのだ。
一人ぐらい我慢して欲しい。
「そもそも、あの花嫁はわしが推してやったのだ。その成果を喜んでよいであろうが」
「は?」
「なんですと?」
聞き捨てならないことを耳にし、二人は王太子を凝視した。
「だから、選考の時わしがあの娘を推したのだ。候補は沢山いたが、この目で見てキリムと合うと思ったのはあの娘だったのでな」
クリスタンは慌てた。
「お待ちください、それはいったいどのような」
「うむ。候補の中から無作為に数人選んでわしがこっそりどのような娘か見に行ったのだ。そなたの妹はすぐわかったぞ。もう一人はラフドーラの跡取りと婚約しておったのだろう? 婚約者とはいえ、屋敷の裏でいかがわしいことをしておった。あちらの娘は今少し淑女としての心得が足りん。はしたなすぎる」
クリスタンは高速で目をそらした。
確かに人目を忍んでいたとはいえ、そのようなことをするのは婚約者相手だと思うだろう。
いかがわしいことをしていた娘をニグルスの婚約者と判断した王太子を誰も攻められない。
あえて言えばリリスが悪い。
「その点、わしが選んだ娘は真面目そうであった。家人とともに執務に励んでおったぞ。なかなかの才女ではないか。勤勉なところもいい。きっとキリムを支えてくれるであろうと思い、強く推薦したのだ」
王太子は自慢そうに言った。
二人はなぜ候補にトウボロスが残れたのか知った。
「カイナンの高位貴族の娘であれば誰でもよいが、子をたくさん成してもらうのであれば、相性が問題であろう。キリムのあの行動を容認し許せる者でなければならん。その点がなかなか難儀であった」
屋敷の庭に畑を作り、自ら丹精してしまうキリムは高位貴族の常識の枠から少し外れる。
その独特の部分すら許し、愛でられる心根の持ち主──というのは、高位貴族では少ない。
普通の娘ならキリムを非難するか、口に出さなくともよくは思わないだろう。
「どうだ。キリムはわしが推した娘を選んだぞ。わしの目に狂いはなかったであろうが」
クリスタンは王太子に訊ねた。
「では、殿下が最初からローナをと思われたと……」
「うむ。そのような名であったか? そなたの妹、よき娘であるな。あれであるのなら、キリムもきっと気にいると思ったぞ。あの二人はわしがくっつけたようなものであるな」
事実は小説より奇なり。
クリスタンとドムルは目眩がした。
審査の対象となったのは最初からローナだった。
王太子の勘違いとはいえ、なんというか、なるべくしてなった相手だとしか。
これも運命なのであろうか。
我々の苦労はいったい……
「さ、さようでございますな。選ばれて我が妹も光栄でありましょう」
「まさに、最初から結ばれるべくして結ばれた二人としか……」
王太子は機嫌を直した。
「そうであろう、そうであろう。似合いの二人よ。きっとよき家庭築き、末永く連れそうであろう。よきかな、よきかな」
「まさにその通りでございます」
真実は墓の中まで持っていこう。
クリスタンはそう決意した。
世の中知らない方がいいこともあるのだ。
カイナンの『清廉なる盾』キリムが婚姻したことはあっという間に広まった。
めでたいことであると同時に、各国へのけん制の意味合いもある。
これも一つの戦いの形なのであった。
真面目な花婿は外国の友人たちへこのめでたいことを頼りにて報告した。
ハヤサの友人は寿ぎ、祝いの品を贈った。
それに早く子供を作れという便りを添えて。
オウミの友人にもそれは届いた。
王太子は我が事のように喜び、妻に友人が伴侶を得たことを伝えた。
喜んだ妻が産着を縫いだしたのは気が早すぎる。
ダィテス公爵家にも便りは届き、それを一読したダィテス公爵夫人ミリアーナは残念そうにつぶやいた。
「国内の高位貴族のお嬢さんとお見合いして結婚──かあ。予定通り過ぎて面白みに欠けるわね」
「何を言う、嫁」
めでたいはずの頼りに不穏なことを言う妻にマティサは苦言を呈した。
ミリアーナは口を尖らせた。
「だってさ、キリム君ならこう、もっとドラマチックな……波乱万丈に富んだ感動的な恋も似合うと思うの。なのに、ごく普通の結婚みたいだし」
キリムからの便りには国内の高位貴族のお嬢さんと見合いをして結婚した。この人となら良い家庭が築けそうです──としかない。
ごく普通の内容だ。
双方望んで見合いをしてとんとん拍子に話が進んだ様子しかない。
マティサが眉を顰めた。
「何を言う。貴族の結婚なんてそんなもんだ。波乱などいらん。平穏なのが一番だ」
「困難を乗り越えて幸せになるのが面白いのに」
マティサが溜息をついた。
「嫁は何を期待しているんだ?」
「感動的な物語か、笑い」
マティサは手を振って否定した。
「ないない。貴族の政略結婚にそんなものがあってたまるか。あるとすれば、政治がらみのどろどろとした様子ぐらいだ」
「胸がキュンキュンするような感動はないんですか?」
「ない。諦めろ」
マティサの言葉にミリアーナは憮然とした。
「婿様、酷い……夢も希望もありませんね。まあ、無理やりじゃないみたいですから、それだけは救いですね。両想いならいいんですが」
ネタがない、とミリアーナは呟いた。
事実は小説より奇なり。
知らぬが仏。
世の中知らない方がいいこともあるのだ。
79
この作品の感想を投稿する
みんなの感想(34件)
あなたにおすすめの小説
【完結】あいしていると伝えたくて
ここ
恋愛
シファラは、生まれてからずっと、真っ暗な壁の中にいた。ジメジメした空間には明かり取りの窓すらない。こんなことは起きなかった。公爵の娘であるシファラが、身分の低い娼婦から生まれたのではなければ。
シファラの人生はその部屋で終わるはずだった。だが、想定外のことが起きて。
*恋愛要素は薄めです。これからって感じで終わります。
本物の夫は愛人に夢中なので、影武者とだけ愛し合います
こじまき
恋愛
幼い頃から許嫁だった王太子ヴァレリアンと結婚した公爵令嬢ディアーヌ。しかしヴァレリアンは身分の低い男爵令嬢に夢中で、初夜をすっぽかしてしまう。代わりに寝室にいたのは、彼そっくりの影武者…生まれたときに存在を消された双子の弟ルイだった。
※「小説家になろう」にも投稿しています
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
のどか先生の訃報から、もうダィテス領攻防記が、続きが読めないとかなりショックを受けました。やがてマンガでダィテス領攻防記を読み、ようやく、心の整理が出来ました。このキリム君のお話も読んでました。何年前でしょうか。
改めて読みました。やっぱりダィテス領攻防記は私にとっての愛読書です。
今更ですが、のどか先生ダィテス領攻防記をありがとうございました。
もう牧原先生の作品が読めない😱と哀しむ私に娘がこのお話を見つけて、教えてくれました❣️娘よ、ありがとう🎉
とっても楽しく、面白かったです。本になって欲しい‼️と強く願います‼️‼️‼️
先生のご冥福を心よりお祈りいたします。
のどか先生、今あちらではダィテスの続きを執筆されているのでしょうか?それとも新作にとりかかっていらっしゃるのでしょうか? 衝撃だった一年前の事からいろいろなことがありました。いづれどのみち、絶対にそちらへとむかうことになりますので、一ファンとして本を楽しみにしています。