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毘藍婆
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砂塵舞う上州の荒野を疾駆した。
騎馬の一団の先頭は紅子である。どの馬も、蒼嵐の前に出ようとしない。人間には人間の身分があるように、馬にも馬の身分があるのだろう。馬場で休ませている時、他の馬は蒼嵐に寄り付こうとはしない。
紅子は、軽く後方に目をやった。
黒地に赤で染め抜かれた、〔逸〕の文字。逸撰隊の隊旗が、風に靡いている。
吹路村は、三番組が宿舎を置く猿ヶ京村からそう遠くはない。その吹路村の外れにある不動尊を真中谷玄従が率いる浪人一党が占拠していて、領主然として村を牛耳っている。庄屋を殺害し、若い娘を手籠めにして、役人が来れば追い返すか逃亡する。そして、ほとぼりが冷めるとまた現れるのだ。
吹路村は旗本領。追討を差し向けるのも限界があり、逸撰隊に命じられたという具合だった。
最近、こうした手合いが増えている。特に浪人はかなり多くなっている気がする。
浪人は方々で問題を起こしている。それは飢えているからだ。飢えれば、何事にも必死になる。そしていよいよとなれば、人を襲う事も厭わなくなる。浪人は、歩く災厄。そう呼ぶ者もいるぐらいだ。
村が見えてきた。多くの村民は逃散したか殺され、遠目にも動く人の気配はない。一度だけ偵察したが、その時にも村民は殆ど姿を現さなかった。
その村へと続く農道で、男の百姓が道を塞いでいた。
逸撰隊の密偵、犬神の伊平次だ。紅子は軽く片手を挙げて馬脚を緩めた。
「伊平次か」
名を呼ばれた伊平次が、顔を向けた。相変わらず、感情の機微が読めない表情をしている。
「姐さん、出しゃばった真似を一つしてしまいました」
伊平次は短く言うと、片膝を突いた。出しゃばった真似とは、縛めを受けて転がっている男の事だろうか。
「この男は?」
「真中谷の手下です。こいつが一人でふらっと村に出て来ましたので、やり過ごそうと思ったのですが」
「勘が良かったのかい?」
「ええ。なので先手を打ちました」
「そう」
と、紅子は男に目をくれた。
まだ若い。二十歳を越えているかどうかだが、見た目は立派な浪人だった。口を塞がれているが、先程から必死に喚いている。
「姐さん、こいつに話を訊きますか?」
「いや、ほっときな。このまま賊を叩く」
「相手は十人です。こいつを抜かせば九」
「あたしがその数に怯むとでも?」
「まさか」
伊平次がそう言うと、黙れと言わんばかりに呻く男を足先で蹴飛ばした。
犬神の伊平次。紅子の二歳年上の三十の男だ。眼光は暗くて深く、誰も近寄るなと言わんばかりの深い翳りがある。わかる者にはわかる圧がある故に、密偵であっても隊内では一目置かれた存在である。
「それで、真中谷は?」
「不動尊の中にいます。一人を見張りに立たせて、寝ているようですね。昨日は夜通し賭場にいましたから」
「わかった。じゃ、予定通り一気に叩く」
紅子は下知すると、馬腹を蹴った。
駆け出した蒼嵐に隊士たちも続いた。村の中を一気に疾駆する。家の中から、恐る恐る伺う村民たちが見えた。やはり、いるにはいる。息を殺して生活しているのだ。そう思うと、僅かばかりの正義感が燃え上がらないわけもない。
目抜き通りを抜けた先が不動尊。地理は頭に叩き込んでいる。
不動尊の前では、見張りが暢気に丸太に腰かけていた。しかし、その表情が一気に戦慄した。こちらに気付いたのだ。
紅子は手綱を放すと、両足で鞍を挟んだまま、腰から六角鉄短棒を二本抜いた。鞍上で一本の杖を変える。
飛砕という名前の六角鉄杖。気勢を挙げて、小脇に抱えた。
「やっべ」
という、浪人の声が聞こえたような気がした。少なくとも、口はそう動いていた。
「死ね」
すれ違い様に見張りの頭部を打つと、頭が千切れて転がった。最初の一人は殺す。それは決めていた。あとは捕縛。ただ真中谷は腕次第だ。
そのまま不動尊の境内に駆けこむ。蒼嵐から跳び下りると、三番組の隊士も乗り込んで来た。紅子は、片手で待てと指示を出した。
本堂から浪人たちがぞろぞろと出てきた。七人。この中に、真中谷がいるかどうかはわからない。
どいつもこいつも悪人面揃いだ。人殺しの顔というものだ。かく言う自分も似たようなものなのだろう。
紅子は脳漿が付着したままの飛砕を肩に担いだまま、浪人たちと向かい合った。
眠たそうな浪人たちの表情が、紅子たちを見て一変した。瞬時に状況を理解したようだ。それでも動揺した気配は無く、玄人の雰囲気を醸し出している。
「誰だいあんた?」
「逸撰隊さ。あんたらを始末に来た」
「ほほう……」
そう言うと、浪人たちは淡々とした様子で刀を抜いた。
逸撰隊の驍名も、この七人の耳に及んでいるのだろう。その名を聞いて抜刀する事が、何よりの証拠だった。
「あんたらの中に、真中谷って奴はいる?」
すると、浪人たちは呆気に取られた風に顔を見合わせた。
「なんだ、うちの頭に用件か」
「かと言って、あんたらを見過ごしはしないけどね」
すると、一笑が起こる。
逃げ出す素振りも無く、この余裕。どうやら、今回は楽しめそうだ。そして、浪人は奥に向かって「お頭」と二度叫んだ。
億劫というような感じで、不動尊の本堂から懐手の浪人がふらりと出てきた。
月代は伸び、鼻の下に髭を蓄えた大柄の浪人だった。歳は四十に行くかどうか。こいつが真中谷か。
「お頭にお客のようですよ」
浪人が言うと、真中谷が紅子を見据えた。
「こりゃ中々の上玉。別嬪さんの訪問を受けるったぁ、俺も捨てたもんじゃないね」
「お頭、でもこいつら逸撰隊ですよ。山田も殺られてますし」
「へぇ」
と、鼻下から上が砕け散った山田という浪人に目をやると、不敵に微笑んだ。
「別嬪さん、これあんたかい?」
紅子は、当然だとばかりに頷いた。
「やるねぇ」
「あんたが真中谷か」
「へへ。この中では一番強そうに見えるだろう?」
紅子は、多少驚いた。元とはいえ、質実剛健でその名を轟かす会津藩士。落草しても武士だと思っていたが、見た目も話し方も賊そのものだ。
「しっかし、いい女だなぁ」
そう言うと、真中谷は紅子を上から下へと舐めるように目を向け、舌なめずりをした。そして股間を揉みしだく。紅子とて虫唾が走るが、一々悲鳴を挙げるほど初心ではない。
「そいつはどうも。あんたも強そうね」
「あっちも強いぜ」
「生憎だが、そっちは間に合っているのよ」
紅子は鼻を鳴らして応えた。
軽口は言っても、真中谷はそんじょそこらの武士とは違う。それは、伝わる圧だけでわかる。もし、悪に染め上がっていなければ、一番組の隊士に誘っていたところだ。
「それで、俺様に何の用だい?」
「人斬り隊の用件は、一つしかないと思うけど」
「違いないねぇ……」
真中谷が低く笑うと、
「殺れ」
と、短く命じた。
抜刀した浪人が殺到してくる。紅子は、飛砕を肩に担いだまま動かなかった。
最初の斬撃を鼻先で躱すと、担いだ飛砕を一振りして首筋を打った。浪人の眼球が反転し、崩れ落ちる。殺してはいない。気絶させただけだ。
「おのれ」
紅子は迫りくる斬撃・刺突に対し、相手の力をいなし、そして弾きながら、腕や肩を容赦なく打った。その度に伝わる骨を砕く感触が、紅子の闘争本能を呼び覚ましていく。
「情けないねぇ。その程度かい?」
一度大きく気勢を挙げた。思わず笑っていた。笑いながらも飛砕を片手で回し、なおも歯向かう浪人の膝を砕いて倒すと、水月に一撃を加えた。
まさに飛ぶように砕く。それが、この六角鉄杖が飛砕と呼ばれる所以である。
十の呼吸もしないうちに、七人を打ち倒した。それを隊士たちが縄を掛けていく。この辺りの動きは、かなりわかってきたようだ。
「さぁ、どうする?」
紅子は、真中谷に飛砕を突き付けた。
「どうすると言われてもなぁ。俺に選択の余地があるのかい?」
「あるよ。抗うか、投降か。どちらにせよ、あんたに待っているのは地獄だけどね」
「逃げるというのは?」
「あたしと向かい合って逃げ切れた奴はいないね。試してもいいけどさ」
「どちらにせよ厳しくなりそうだ」
そう言って笑った真中谷の表情には、焦りも怯えも無かった。この余裕は自信なのだろう。窮地に陥っても、切り抜けられる自信。或いは、諦めか。
「降伏も逃亡も性に合わん。戦らせてもらおうか」
「そう来ないとね」
真中谷が軽く頷いて刀を抜くと、八相に構えた。長く、そして反りが浅いものだ。一方の紅子は、腰をやや下ろして飛砕を縦に構える。
「流派は?」
「真伝夢想流」
紅子は、あっさりと答えた。別に隠しているわけではない。
「聞いた事ないな」
「だろうね」
真伝夢想流は、紅子の生家である倉地家のみに伝わる、門外不出の流派である。道場を持ち、広く弟子を取る事も無い。それ故に、知らなくて当然なのだ。
元々は流祖である夢想権之助が宮本武蔵を倒す為に、鉄杖飛砕と共に編み出した杖術。通常の神道夢想流と違い、飛砕を使った対二刀流に特化した術のみを伝え、武蔵との戦いを終えると飛砕と技術を封印し、以後一切使う事は無かった。しかし唯一伝えたのが、権之助の従僕をしていた倉地虎之助だったのだ。
「行くぜ」
対峙になった。向かい合って、真中谷の力量がより明確になる。
(こいつは強い)
思っていた以上だ。気を抜けば、負ける。紅子にそこまで思わせる敵は、そうはいない。
真中谷が踏み込んだ。裂帛の気勢と共に、八相からの斬り落とし。紅子も踏み込み、飛砕で弾く。真中谷はすぐに体勢を立て直し、横薙ぎの一閃を放つ。後方に跳び退いて躱したが、暴風のような殺気に肌が粟立った。
「まだまだ」
真中谷が追ってくる。下段から斬り上げ。そして斬り落とし。二つ躱した瞬間に、紅子は小手を打った。真中谷が刀を落とすと、胴に捩じりを加えた突きを叩き込んだ。
これで決まった。そう思ったが、真中谷は違った。飛砕を掴んだのだ。
「へへ、やるではないか」
赤い顔をした真中谷が、燃えるような眼を向けた。
「だが、杖ってのがいけねぇ。これが槍なら……」
「黙れ」
紅子は咄嗟に飛砕を二本の短棒に戻すと、真中谷の頭部に打ち下ろした。
真中谷が信じられないという表情で、もう片方の短棒を握ったまま斃れた。
飛砕は特殊な機巧を備え、瞬時に二本の短棒に戻す事が出来る。こんな優れた得物は、そうあるものではない。だから、飛砕を馬鹿にする奴には頭に来るのだ。
騎馬の一団の先頭は紅子である。どの馬も、蒼嵐の前に出ようとしない。人間には人間の身分があるように、馬にも馬の身分があるのだろう。馬場で休ませている時、他の馬は蒼嵐に寄り付こうとはしない。
紅子は、軽く後方に目をやった。
黒地に赤で染め抜かれた、〔逸〕の文字。逸撰隊の隊旗が、風に靡いている。
吹路村は、三番組が宿舎を置く猿ヶ京村からそう遠くはない。その吹路村の外れにある不動尊を真中谷玄従が率いる浪人一党が占拠していて、領主然として村を牛耳っている。庄屋を殺害し、若い娘を手籠めにして、役人が来れば追い返すか逃亡する。そして、ほとぼりが冷めるとまた現れるのだ。
吹路村は旗本領。追討を差し向けるのも限界があり、逸撰隊に命じられたという具合だった。
最近、こうした手合いが増えている。特に浪人はかなり多くなっている気がする。
浪人は方々で問題を起こしている。それは飢えているからだ。飢えれば、何事にも必死になる。そしていよいよとなれば、人を襲う事も厭わなくなる。浪人は、歩く災厄。そう呼ぶ者もいるぐらいだ。
村が見えてきた。多くの村民は逃散したか殺され、遠目にも動く人の気配はない。一度だけ偵察したが、その時にも村民は殆ど姿を現さなかった。
その村へと続く農道で、男の百姓が道を塞いでいた。
逸撰隊の密偵、犬神の伊平次だ。紅子は軽く片手を挙げて馬脚を緩めた。
「伊平次か」
名を呼ばれた伊平次が、顔を向けた。相変わらず、感情の機微が読めない表情をしている。
「姐さん、出しゃばった真似を一つしてしまいました」
伊平次は短く言うと、片膝を突いた。出しゃばった真似とは、縛めを受けて転がっている男の事だろうか。
「この男は?」
「真中谷の手下です。こいつが一人でふらっと村に出て来ましたので、やり過ごそうと思ったのですが」
「勘が良かったのかい?」
「ええ。なので先手を打ちました」
「そう」
と、紅子は男に目をくれた。
まだ若い。二十歳を越えているかどうかだが、見た目は立派な浪人だった。口を塞がれているが、先程から必死に喚いている。
「姐さん、こいつに話を訊きますか?」
「いや、ほっときな。このまま賊を叩く」
「相手は十人です。こいつを抜かせば九」
「あたしがその数に怯むとでも?」
「まさか」
伊平次がそう言うと、黙れと言わんばかりに呻く男を足先で蹴飛ばした。
犬神の伊平次。紅子の二歳年上の三十の男だ。眼光は暗くて深く、誰も近寄るなと言わんばかりの深い翳りがある。わかる者にはわかる圧がある故に、密偵であっても隊内では一目置かれた存在である。
「それで、真中谷は?」
「不動尊の中にいます。一人を見張りに立たせて、寝ているようですね。昨日は夜通し賭場にいましたから」
「わかった。じゃ、予定通り一気に叩く」
紅子は下知すると、馬腹を蹴った。
駆け出した蒼嵐に隊士たちも続いた。村の中を一気に疾駆する。家の中から、恐る恐る伺う村民たちが見えた。やはり、いるにはいる。息を殺して生活しているのだ。そう思うと、僅かばかりの正義感が燃え上がらないわけもない。
目抜き通りを抜けた先が不動尊。地理は頭に叩き込んでいる。
不動尊の前では、見張りが暢気に丸太に腰かけていた。しかし、その表情が一気に戦慄した。こちらに気付いたのだ。
紅子は手綱を放すと、両足で鞍を挟んだまま、腰から六角鉄短棒を二本抜いた。鞍上で一本の杖を変える。
飛砕という名前の六角鉄杖。気勢を挙げて、小脇に抱えた。
「やっべ」
という、浪人の声が聞こえたような気がした。少なくとも、口はそう動いていた。
「死ね」
すれ違い様に見張りの頭部を打つと、頭が千切れて転がった。最初の一人は殺す。それは決めていた。あとは捕縛。ただ真中谷は腕次第だ。
そのまま不動尊の境内に駆けこむ。蒼嵐から跳び下りると、三番組の隊士も乗り込んで来た。紅子は、片手で待てと指示を出した。
本堂から浪人たちがぞろぞろと出てきた。七人。この中に、真中谷がいるかどうかはわからない。
どいつもこいつも悪人面揃いだ。人殺しの顔というものだ。かく言う自分も似たようなものなのだろう。
紅子は脳漿が付着したままの飛砕を肩に担いだまま、浪人たちと向かい合った。
眠たそうな浪人たちの表情が、紅子たちを見て一変した。瞬時に状況を理解したようだ。それでも動揺した気配は無く、玄人の雰囲気を醸し出している。
「誰だいあんた?」
「逸撰隊さ。あんたらを始末に来た」
「ほほう……」
そう言うと、浪人たちは淡々とした様子で刀を抜いた。
逸撰隊の驍名も、この七人の耳に及んでいるのだろう。その名を聞いて抜刀する事が、何よりの証拠だった。
「あんたらの中に、真中谷って奴はいる?」
すると、浪人たちは呆気に取られた風に顔を見合わせた。
「なんだ、うちの頭に用件か」
「かと言って、あんたらを見過ごしはしないけどね」
すると、一笑が起こる。
逃げ出す素振りも無く、この余裕。どうやら、今回は楽しめそうだ。そして、浪人は奥に向かって「お頭」と二度叫んだ。
億劫というような感じで、不動尊の本堂から懐手の浪人がふらりと出てきた。
月代は伸び、鼻の下に髭を蓄えた大柄の浪人だった。歳は四十に行くかどうか。こいつが真中谷か。
「お頭にお客のようですよ」
浪人が言うと、真中谷が紅子を見据えた。
「こりゃ中々の上玉。別嬪さんの訪問を受けるったぁ、俺も捨てたもんじゃないね」
「お頭、でもこいつら逸撰隊ですよ。山田も殺られてますし」
「へぇ」
と、鼻下から上が砕け散った山田という浪人に目をやると、不敵に微笑んだ。
「別嬪さん、これあんたかい?」
紅子は、当然だとばかりに頷いた。
「やるねぇ」
「あんたが真中谷か」
「へへ。この中では一番強そうに見えるだろう?」
紅子は、多少驚いた。元とはいえ、質実剛健でその名を轟かす会津藩士。落草しても武士だと思っていたが、見た目も話し方も賊そのものだ。
「しっかし、いい女だなぁ」
そう言うと、真中谷は紅子を上から下へと舐めるように目を向け、舌なめずりをした。そして股間を揉みしだく。紅子とて虫唾が走るが、一々悲鳴を挙げるほど初心ではない。
「そいつはどうも。あんたも強そうね」
「あっちも強いぜ」
「生憎だが、そっちは間に合っているのよ」
紅子は鼻を鳴らして応えた。
軽口は言っても、真中谷はそんじょそこらの武士とは違う。それは、伝わる圧だけでわかる。もし、悪に染め上がっていなければ、一番組の隊士に誘っていたところだ。
「それで、俺様に何の用だい?」
「人斬り隊の用件は、一つしかないと思うけど」
「違いないねぇ……」
真中谷が低く笑うと、
「殺れ」
と、短く命じた。
抜刀した浪人が殺到してくる。紅子は、飛砕を肩に担いだまま動かなかった。
最初の斬撃を鼻先で躱すと、担いだ飛砕を一振りして首筋を打った。浪人の眼球が反転し、崩れ落ちる。殺してはいない。気絶させただけだ。
「おのれ」
紅子は迫りくる斬撃・刺突に対し、相手の力をいなし、そして弾きながら、腕や肩を容赦なく打った。その度に伝わる骨を砕く感触が、紅子の闘争本能を呼び覚ましていく。
「情けないねぇ。その程度かい?」
一度大きく気勢を挙げた。思わず笑っていた。笑いながらも飛砕を片手で回し、なおも歯向かう浪人の膝を砕いて倒すと、水月に一撃を加えた。
まさに飛ぶように砕く。それが、この六角鉄杖が飛砕と呼ばれる所以である。
十の呼吸もしないうちに、七人を打ち倒した。それを隊士たちが縄を掛けていく。この辺りの動きは、かなりわかってきたようだ。
「さぁ、どうする?」
紅子は、真中谷に飛砕を突き付けた。
「どうすると言われてもなぁ。俺に選択の余地があるのかい?」
「あるよ。抗うか、投降か。どちらにせよ、あんたに待っているのは地獄だけどね」
「逃げるというのは?」
「あたしと向かい合って逃げ切れた奴はいないね。試してもいいけどさ」
「どちらにせよ厳しくなりそうだ」
そう言って笑った真中谷の表情には、焦りも怯えも無かった。この余裕は自信なのだろう。窮地に陥っても、切り抜けられる自信。或いは、諦めか。
「降伏も逃亡も性に合わん。戦らせてもらおうか」
「そう来ないとね」
真中谷が軽く頷いて刀を抜くと、八相に構えた。長く、そして反りが浅いものだ。一方の紅子は、腰をやや下ろして飛砕を縦に構える。
「流派は?」
「真伝夢想流」
紅子は、あっさりと答えた。別に隠しているわけではない。
「聞いた事ないな」
「だろうね」
真伝夢想流は、紅子の生家である倉地家のみに伝わる、門外不出の流派である。道場を持ち、広く弟子を取る事も無い。それ故に、知らなくて当然なのだ。
元々は流祖である夢想権之助が宮本武蔵を倒す為に、鉄杖飛砕と共に編み出した杖術。通常の神道夢想流と違い、飛砕を使った対二刀流に特化した術のみを伝え、武蔵との戦いを終えると飛砕と技術を封印し、以後一切使う事は無かった。しかし唯一伝えたのが、権之助の従僕をしていた倉地虎之助だったのだ。
「行くぜ」
対峙になった。向かい合って、真中谷の力量がより明確になる。
(こいつは強い)
思っていた以上だ。気を抜けば、負ける。紅子にそこまで思わせる敵は、そうはいない。
真中谷が踏み込んだ。裂帛の気勢と共に、八相からの斬り落とし。紅子も踏み込み、飛砕で弾く。真中谷はすぐに体勢を立て直し、横薙ぎの一閃を放つ。後方に跳び退いて躱したが、暴風のような殺気に肌が粟立った。
「まだまだ」
真中谷が追ってくる。下段から斬り上げ。そして斬り落とし。二つ躱した瞬間に、紅子は小手を打った。真中谷が刀を落とすと、胴に捩じりを加えた突きを叩き込んだ。
これで決まった。そう思ったが、真中谷は違った。飛砕を掴んだのだ。
「へへ、やるではないか」
赤い顔をした真中谷が、燃えるような眼を向けた。
「だが、杖ってのがいけねぇ。これが槍なら……」
「黙れ」
紅子は咄嗟に飛砕を二本の短棒に戻すと、真中谷の頭部に打ち下ろした。
真中谷が信じられないという表情で、もう片方の短棒を握ったまま斃れた。
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