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五話
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理科準備室の空気は、埃と薬品の匂いが混じり合い、どこか世俗を離れた墓所のような静謐さを湛えていた。
羽鳥圭は、窓際の丸椅子に腰掛け、目の前の小瓶を凝視している。琥珀色の液体の中で、輪切りのレモンが標本のように美しく静止していた。
「……食わないのか? 毒なんて入れてないぞ」
白衣の袖を捲り上げた織田准が、皮肉めいた笑みを浮かべて隣に座る。
彼の身体からは、まだ運動会の熱が抜けきっていない。石鹸の香りと、それから微かな蜂蜜の甘い匂いが、狭い室内で濃密に膨らんでいく。
「毒ではないことはわかっている。ただ、この黄金比のような配列を壊すのが、いささか惜しいだけだ」
「相変わらず面倒くさいな。ほら、口を開けろ」
織田が割り箸でレモンを一枚掬い上げ、強引に羽鳥の唇へと運んだ。
羽鳥は拒む間もなく、その一切れを受け止める。
舌の上に広がるのは、暴力的なまでの酸味と、それを包み込むような蜂蜜の重厚な甘さだ。唾液が溢れ、喉の奥がキュンと引き攣るような感覚に襲われる。
「……酸っぱい」
「だろうな。一番でゴールした奴へのご褒美だ。お前にも分けてやる」
織田は自分も一枚、乱暴に口へ放り込む。
咀嚼する彼の顎のラインを、羽鳥は逃げるように視線でなぞった。窓から差し込む西日が、織田の首筋にある小さな傷跡を、金色の糸のように浮き上がらせている。
「蜜柑よりも甘いもの……。君はそう言ったね」
「ああ、言った。期待外れだったか?」
「いや。ただ、想像していたよりも、ずっと複雑な味がする」
羽鳥はレモンの皮を噛み締めた。微かな苦味が、甘さの輪郭を鮮明にする。
ふと視線を上げると、織田が黙って自分を見つめていた。その瞳は、図書室の影で見るよりもずっと深く、射抜くような熱を帯びている。
準備室の時計が時を刻む音だけが、やけに大きく響いた。
二人の間に流れる沈黙は、蜂蜜のように粘り気を帯び、剥がそうとすれば皮膚ごと持っていかれそうなほどに密接だった。
「羽鳥。お前の唇、レモンで光ってる」
織田の指先が、羽鳥の口元に伸びる。
触れそうで触れない距離。指先から放射される体温が、羽鳥の肌を焦がす。
羽鳥は反射的に目を閉じた。視界が遮断された瞬間、味覚と嗅覚が異常なほどに研ぎ澄まされ、目の前の少年の存在が、ひとつの巨大な「甘い熱」となって迫ってきた。
「……ずるい人だ、君は」
絞り出した声は、自覚していたよりもずっと湿っていた。
羽鳥は目を開け、逃げるように立ち上がる。
蜂蜜の瓶を抱えたまま、彼は自分の中に芽生えた「名付けようのない渇き」を、必死に飲み下そうとしていた。
羽鳥圭は、窓際の丸椅子に腰掛け、目の前の小瓶を凝視している。琥珀色の液体の中で、輪切りのレモンが標本のように美しく静止していた。
「……食わないのか? 毒なんて入れてないぞ」
白衣の袖を捲り上げた織田准が、皮肉めいた笑みを浮かべて隣に座る。
彼の身体からは、まだ運動会の熱が抜けきっていない。石鹸の香りと、それから微かな蜂蜜の甘い匂いが、狭い室内で濃密に膨らんでいく。
「毒ではないことはわかっている。ただ、この黄金比のような配列を壊すのが、いささか惜しいだけだ」
「相変わらず面倒くさいな。ほら、口を開けろ」
織田が割り箸でレモンを一枚掬い上げ、強引に羽鳥の唇へと運んだ。
羽鳥は拒む間もなく、その一切れを受け止める。
舌の上に広がるのは、暴力的なまでの酸味と、それを包み込むような蜂蜜の重厚な甘さだ。唾液が溢れ、喉の奥がキュンと引き攣るような感覚に襲われる。
「……酸っぱい」
「だろうな。一番でゴールした奴へのご褒美だ。お前にも分けてやる」
織田は自分も一枚、乱暴に口へ放り込む。
咀嚼する彼の顎のラインを、羽鳥は逃げるように視線でなぞった。窓から差し込む西日が、織田の首筋にある小さな傷跡を、金色の糸のように浮き上がらせている。
「蜜柑よりも甘いもの……。君はそう言ったね」
「ああ、言った。期待外れだったか?」
「いや。ただ、想像していたよりも、ずっと複雑な味がする」
羽鳥はレモンの皮を噛み締めた。微かな苦味が、甘さの輪郭を鮮明にする。
ふと視線を上げると、織田が黙って自分を見つめていた。その瞳は、図書室の影で見るよりもずっと深く、射抜くような熱を帯びている。
準備室の時計が時を刻む音だけが、やけに大きく響いた。
二人の間に流れる沈黙は、蜂蜜のように粘り気を帯び、剥がそうとすれば皮膚ごと持っていかれそうなほどに密接だった。
「羽鳥。お前の唇、レモンで光ってる」
織田の指先が、羽鳥の口元に伸びる。
触れそうで触れない距離。指先から放射される体温が、羽鳥の肌を焦がす。
羽鳥は反射的に目を閉じた。視界が遮断された瞬間、味覚と嗅覚が異常なほどに研ぎ澄まされ、目の前の少年の存在が、ひとつの巨大な「甘い熱」となって迫ってきた。
「……ずるい人だ、君は」
絞り出した声は、自覚していたよりもずっと湿っていた。
羽鳥は目を開け、逃げるように立ち上がる。
蜂蜜の瓶を抱えたまま、彼は自分の中に芽生えた「名付けようのない渇き」を、必死に飲み下そうとしていた。
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