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2 ディオ・マダラール――婚約者――婚約解消のつもりだった
アガサ・ディラクール嬢が失踪した。
その知らせを聞いた時、俺は正直、最初は意味が分からなかった。
失踪。
その言葉は、夜会で噂好きの連中がわざと大げさに使うものか、よほど劇的な小説の中に出てくるものだと思っていた。少なくとも、アガサ嬢のような人に結びつく言葉ではなかった。
あの人は、静かな人だった。
大きく笑うことも、声を荒げることもない。こちらの話を途中で遮らない。話題を振れば、きちんと答える。たとえ興味が薄そうな内容でも、最低限の相槌は返す。俺が事業所の新しい仕組みについて話した時も、流行の馬車の意匠について話した時も、最近出入りし始めた若い連中の話をした時も、彼女は穏やかに聞いていた。
穏やかすぎた。
俺はそこが、どうにも苦手だった。
別に嫌いだったわけではない。むしろ、嫌う理由は何もなかった。容姿は整っている。立ち居振る舞いも申し分ない。ディラクール伯爵家の娘として、家同士の釣り合いも取れている。父上も母上も、この話は良い、と言っていた。
俺も、最初はそう思った。
けれど実際に何度か会ううちに、胸の中に引っかかるものが残った。
彼女といると、会話が失敗しない。
そこが怖かった。
失敗しない会話は、楽しい会話と同じではない。俺が何か言えば、彼女はそれに合わせる。俺が笑えば、彼女も少し笑う。俺が話題を変えれば、彼女もその流れに乗る。俺が少し踏み込んだ冗談を言えば、困ったように微笑む。
その微笑みが、だんだん分からなくなった。
本当に困っているのか。軽く流しているだけなのか。俺に失礼のないようにしているのか。それとも、何も感じていないのか。
「ディオ様は、いろいろな方とお話しになるのがお上手ですのね」
ある午後、彼女はそう言った。
庭に面した小さな応接室だった。ディラクール家ではなく、うちの屋敷だったと思う。母上が張り切って茶会を整え、俺とアガサ嬢だけを少し離れた席に座らせた。
カップからはベルガモットの香りがしていた。
「上手というか、黙っているのが苦手なんです。間が空くと、何か話したくなる」
「それは良いことだと思いますわ」
「そうですか?」
「ええ。黙っている相手に、何を考えているのか分からない、と不安になる方もいらっしゃいますもの」
彼女はそう言って、カップを置いた。
その時俺は、少しだけ期待したのかもしれない。今の言葉には、彼女自身の何かが含まれているように聞こえたからだ。
「アガサ嬢も、そういうことが?」
尋ねると、彼女は一度まばたきをした。
「わたくしは、どちらかといえば黙ってしまう方ですから」
「それで誤解される?」
「どうでしょう。誤解されるほど、何かを強く思っているように見えないのかもしれません」
その返事は、妙に引っかかった。
だから俺は、もう一歩踏み込めばよかった。今ならそう思う。どういう意味ですか、と聞くとか、俺にはそうは見えません、と言うとか、やりようはいくらでもあった。
だがその時の俺は、そこで笑ってしまった。
「そんなことはないでしょう。アガサ嬢は、いつも落ち着いて見えますよ」
「そう見えますか」
「ええ」
「では、そうなのでしょう」
彼女は微笑んだ。
俺はその微笑みを、また受け流してしまった。
婚約をなしにしないか、と言ったのは、それから少し後だった。
場所は、ディラクール家の庭園だった。季節の花がきちんと整えられ、道には白い砂利が敷かれていた。アガサ嬢は淡い青のドレスを着ていた。少し風があって、彼女の帽子のリボンが何度か揺れた。
俺はそのリボンを見ながら、妙なことを考えていた。
この人は、このリボンの色を自分で選んだのだろうか。
そんなことを考える時点で、もう駄目だったのだと思う。
「アガサ嬢」
「はい」
「少し、真面目な話をしても?」
「もちろんです」
彼女は俺の方を見た。
その目は穏やかだった。穏やかで、俺の言葉を待っていた。俺は、その穏やかさに少し苛立った。
「俺達の婚約の話ですが」
「はい」
「一度、考え直した方がいいと思っています」
彼女はすぐには返事をしなかった。
驚いたのだろう、とは思った。だが取り乱す様子はなかった。口元がほんの少し動いただけで、表情はほとんど変わらない。
「考え直す、というのは」
「このまま進めていいのか、という意味です」
「何か、わたくしに至らない点がございましたか」
それが一番嫌だった。
彼女は、真っ先に自分に問題があったのかと考えた。俺はそう聞こえた。だから、慌てて首を振った。
「違います。アガサ嬢に何か悪いところがあるという話ではありません」
「では、マダラール家の方で」
「そういうことでもありません」
彼女は少し困った顔をした。
それで俺も困った。自分で切り出したくせに、言葉がうまく出てこなかった。
「俺は、貴女といると、きっと失敗しないと思うんです」
「失敗しない」
「ええ。貴女は俺に合わせてくださる。父や母にも気に入られている。家同士の条件も悪くない。結婚すれば、たぶん周囲は良い縁だったと言うでしょう」
「はい」
「けれど、それでいいのか分からない」
アガサ嬢は俺を見ていた。
俺は続けた。
「俺はたぶん、結婚してからも外で人と会い、騒がしく過ごすでしょう。貴女はそれを咎めないかもしれない。けれど、それを咎めないことと、平気でいることは違う気がする」
その知らせを聞いた時、俺は正直、最初は意味が分からなかった。
失踪。
その言葉は、夜会で噂好きの連中がわざと大げさに使うものか、よほど劇的な小説の中に出てくるものだと思っていた。少なくとも、アガサ嬢のような人に結びつく言葉ではなかった。
あの人は、静かな人だった。
大きく笑うことも、声を荒げることもない。こちらの話を途中で遮らない。話題を振れば、きちんと答える。たとえ興味が薄そうな内容でも、最低限の相槌は返す。俺が事業所の新しい仕組みについて話した時も、流行の馬車の意匠について話した時も、最近出入りし始めた若い連中の話をした時も、彼女は穏やかに聞いていた。
穏やかすぎた。
俺はそこが、どうにも苦手だった。
別に嫌いだったわけではない。むしろ、嫌う理由は何もなかった。容姿は整っている。立ち居振る舞いも申し分ない。ディラクール伯爵家の娘として、家同士の釣り合いも取れている。父上も母上も、この話は良い、と言っていた。
俺も、最初はそう思った。
けれど実際に何度か会ううちに、胸の中に引っかかるものが残った。
彼女といると、会話が失敗しない。
そこが怖かった。
失敗しない会話は、楽しい会話と同じではない。俺が何か言えば、彼女はそれに合わせる。俺が笑えば、彼女も少し笑う。俺が話題を変えれば、彼女もその流れに乗る。俺が少し踏み込んだ冗談を言えば、困ったように微笑む。
その微笑みが、だんだん分からなくなった。
本当に困っているのか。軽く流しているだけなのか。俺に失礼のないようにしているのか。それとも、何も感じていないのか。
「ディオ様は、いろいろな方とお話しになるのがお上手ですのね」
ある午後、彼女はそう言った。
庭に面した小さな応接室だった。ディラクール家ではなく、うちの屋敷だったと思う。母上が張り切って茶会を整え、俺とアガサ嬢だけを少し離れた席に座らせた。
カップからはベルガモットの香りがしていた。
「上手というか、黙っているのが苦手なんです。間が空くと、何か話したくなる」
「それは良いことだと思いますわ」
「そうですか?」
「ええ。黙っている相手に、何を考えているのか分からない、と不安になる方もいらっしゃいますもの」
彼女はそう言って、カップを置いた。
その時俺は、少しだけ期待したのかもしれない。今の言葉には、彼女自身の何かが含まれているように聞こえたからだ。
「アガサ嬢も、そういうことが?」
尋ねると、彼女は一度まばたきをした。
「わたくしは、どちらかといえば黙ってしまう方ですから」
「それで誤解される?」
「どうでしょう。誤解されるほど、何かを強く思っているように見えないのかもしれません」
その返事は、妙に引っかかった。
だから俺は、もう一歩踏み込めばよかった。今ならそう思う。どういう意味ですか、と聞くとか、俺にはそうは見えません、と言うとか、やりようはいくらでもあった。
だがその時の俺は、そこで笑ってしまった。
「そんなことはないでしょう。アガサ嬢は、いつも落ち着いて見えますよ」
「そう見えますか」
「ええ」
「では、そうなのでしょう」
彼女は微笑んだ。
俺はその微笑みを、また受け流してしまった。
婚約をなしにしないか、と言ったのは、それから少し後だった。
場所は、ディラクール家の庭園だった。季節の花がきちんと整えられ、道には白い砂利が敷かれていた。アガサ嬢は淡い青のドレスを着ていた。少し風があって、彼女の帽子のリボンが何度か揺れた。
俺はそのリボンを見ながら、妙なことを考えていた。
この人は、このリボンの色を自分で選んだのだろうか。
そんなことを考える時点で、もう駄目だったのだと思う。
「アガサ嬢」
「はい」
「少し、真面目な話をしても?」
「もちろんです」
彼女は俺の方を見た。
その目は穏やかだった。穏やかで、俺の言葉を待っていた。俺は、その穏やかさに少し苛立った。
「俺達の婚約の話ですが」
「はい」
「一度、考え直した方がいいと思っています」
彼女はすぐには返事をしなかった。
驚いたのだろう、とは思った。だが取り乱す様子はなかった。口元がほんの少し動いただけで、表情はほとんど変わらない。
「考え直す、というのは」
「このまま進めていいのか、という意味です」
「何か、わたくしに至らない点がございましたか」
それが一番嫌だった。
彼女は、真っ先に自分に問題があったのかと考えた。俺はそう聞こえた。だから、慌てて首を振った。
「違います。アガサ嬢に何か悪いところがあるという話ではありません」
「では、マダラール家の方で」
「そういうことでもありません」
彼女は少し困った顔をした。
それで俺も困った。自分で切り出したくせに、言葉がうまく出てこなかった。
「俺は、貴女といると、きっと失敗しないと思うんです」
「失敗しない」
「ええ。貴女は俺に合わせてくださる。父や母にも気に入られている。家同士の条件も悪くない。結婚すれば、たぶん周囲は良い縁だったと言うでしょう」
「はい」
「けれど、それでいいのか分からない」
アガサ嬢は俺を見ていた。
俺は続けた。
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