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2 父も母も、わかっていた。
「そうでしょう、お姉様ならきっと――」
言いかけたエレオノールの声を、扉の向こうの物音が遮った。
廊下を踏む足音は二つ。ためらいなくこちらへ向かってくるところまで含めて、誰なのかすぐ分かる。
ほどなく小客間の扉が開き、先に母、その後ろから父が入ってきた。
母は薄藤色の昼のドレスをきちんと着こなし、胸元には真珠の短い連をかけていた。
外出前なのか、髪もいつも以上に隙なく整っている。
父は商会から戻ったばかりらしく、上着の袖口にわずかに外気の匂いをまとっていた。帳場と馬車と、乾きかけた土埃の匂いだ。
二人は室内をひと目見渡し、娘と婚約者候補が並んで立つ姿を認めても、驚きはほとんど顔に出さなかった。
やはり、とセリーヌは思う。
少なくとも母は、ここに来るまでに何かを聞かされていたのだろう。父もまた、厄介ごとの匂いだけはもう掴んでいる顔をしていた。
「話は始まっていたのね」
母がそう言って、肘掛け椅子のひとつに腰を下ろした。父は窓際へ歩き、手を後ろに組んだまま庭のほうへ目をやる。
風が変わったのか、葉の裏の白さがさっきより目立っていた。庭の中央をゆるく曲がる砂利道、その先の温室の硝子までが、雲のかげりに合わせて鈍く光っている。
マルコが一歩進み出る。
「ヴァレール会頭、奥様。私から申し上げるべきことでした」
その口調だけ聞けば、責任感のある若者のようだった。父は振り向き、短くうなずいた。
「言ってみなさい」
エレオノールが、そこで慎ましげに伏し目がちになった。
あくまで自分は言い出しにくいのだという顔を作るのが巧い。
けれど、マルコの袖をつかむ指先は少しも迷っていなかった。
「……セリーヌとの婚約について、見直しをお願いしたく存じます」
母の睫毛がわずかに動いた。
それだけだった。
部屋の中に沈黙が落ちる。庭木の梢を渡る風の音が、窓硝子を一枚隔てて、やけに細く聞こえた。
セリーヌは立ったまま、母の横顔を見た。次にどんな言葉が来るか、なぞるように想像できてしまう。
「理由は?」
父が問うと、マルコは背筋を伸ばした。
「私が惹かれているのは、エレオノール嬢なのです」
この期に及んで、部屋の空気を悪くしすぎない言い方を選んでいる。
情熱に流された愚か者ではなく、誠実に真実を述べる男でいたいらしい。
「私もですわ、お父様」
エレオノールが声を添えた。
「最初は、いけないことだと思っておりましたの。でも、どうしても心を偽れなくて……」
母が小さく息をついた。
困ったような、けれど本気で困っているというより、話の持っていき方を考えている時の息だった。
「……困りましたね」
その言葉に、セリーヌはかすかに視線を上げた。
――困ったのは誰なのだろう? 婚約者を妹に奪われた娘か。それとも、外聞を傷つけずに縁談を組み替えたい家のほうなのか。
父が窓辺から離れ、絨毯の縁で足を止めた。
「ベッリーニ家との話は、商会同士の約でもある」
「承知しております」
マルコは即座に答えた。
「ですのでこそ、余計な揉め事にはしたくありません。相手がエレオノール嬢であっても、両家の結びつきは保てます」
そこでやっと、父の目がセリーヌへ向いた。
「お前はどう思う」
問う形を取りながら、実のところ聞きたいのは承諾の一言だけなのだと、その目つきで分かる。
窓の外がふっと明るくなった。
雲が流れ、陽が戻ったらしい。けれど部屋の中はさっきより眩しくは見えなかった。白いレースの影が床に揺れ、その向こうの寄木の継ぎ目が、やけに細かく目につく。
この部屋は二階の南東の角にあって、家族だけの話をする時によく使われる。
扉は廊下に面した一つだけだが、その廊下を右へ行けば表階段、左へ行けば小さな談話室、その先にリネン室と裏階段へ抜ける折れ曲がりがある。幼い頃、かくれんぼで何度も走った場所だ。
表から見えにくい窓辺、家具の陰、手すりの向こうの死角。広い屋敷には、人が見ているつもりで実は見ていない場所がいくらでもある。
「……どう思う、と申されましても」
声は思いのほか乱れなかった。
「今、皆さまのご意向はほとんど定まっているように見えますけれど」
母の指先が、膝の上で組んだ扇の骨を撫でた。
「そんな言い方をするものではありませんよ、セリーヌ。あなたの気持ちを軽んじているわけではないのです」
――軽んじているわけではない。
その言葉の薄さに、逆に少しだけ可笑しさがこみあげた。
軽くないのなら、どうしてこんなにも手際よく話が進むのだろう?
母の声音には、驚きも怒りもない。ただ、どう収めるのが最も波立たないか、その計算だけが滑らかだった。
「お姉様」
エレオノールが一歩出た。裾が絨毯を擦る。
「私、もちろん申し訳ないと思っているの。でも、だからこそ、ちゃんとお願いしたくて」
――お願い。
その言葉が耳に残る。まるで少し譲れば済む品でも受け取るような口ぶりだ。
セリーヌは妹の顔を見た。
同じ造りの目元、同じ輪郭。――一卵性の双子。
同じ日に生まれて、同じ家で育ったはずなのに、そこに宿っているものはまるで違う。
エレオノールの瞳には、欲しいものへ手を伸ばして許されてきた人間の軽やかさがある。
そして軽やかさというのは、時に残酷だ。足元に何があるか、あまり見ないまま進めてしまうから。
「……私は、譲って当然だとお思いなのね」
問いかけると、エレオノールは傷ついたように眉を寄せた。
「そんな……当然だなんて」
「では、違うの?」
「だって、お姉様はいつも分かってくださったじゃない」
その一言で、部屋のどこかに長く閉じこめられていた古い空気が動いた気がした。
――いつも。
そう、いつもだった。
母は、姉だからと。父は、賢いのだからと。
使用人達でさえ、ときに、それを前提に動いてきた。
片方が声を上げれば、もう片方が引く。それで家の中はおさまるのだと、誰もが信じていた。
――おさまっていたのではなく、押しつけていただけなのに。
雨はまだ降っていない。だが遠くで、空の底が低く鳴ったような気がした。
気のせいかもしれない。街外れのこの屋敷では、天気の変わり目の音が少し早く届くことがある。
父が低く言った。
「感情で動くな。ベッリーニ家との縁が切れれば、周囲に何を言われるか分からん」
それを聞いた瞬間、指先の感覚が少し遠くなった。
冷えたのではない。ただ、力の入りどころがずれていくような、不思議な頼りなさだった。
足元の絨毯は沈まず、床はきちんとそこにあるのに、自分の体だけが半歩ぶん遅れて付いてくるような感じがする。
「……つまり」
セリーヌは父を真っ直ぐ見る。
「相手が私である必要は、最初からそれほど無かったのですね」
父は眉をひそめたが、否定しなかった。
代わりに母が口を挟む。
「そういうことではありません。ただ、家と家のお付き合いには、個人の気持ちだけでは済まないことがあるのです」
「……個人の気持ちだけでは済まない」
言葉をなぞると、窓の外の明るさがまた引いた。
雲が重なったのだろう。風に押されて枝が揺れ、二階の窓から見下ろす花壇の白い石縁が、途端に濡れた骨のような色になる。
この家は広く、立派で、よく整っている。
正面玄関の黒鉄の飾り格子、磨かれた階段の手すり、客間ごとに違う意匠の暖炉、三階まで吹き抜けではないかわりに廊下を長く取り、どの時間でもどこかに光が入るよう作られた窓。庭には季節ごとに咲く花木が配され、街側から見えない奥には菜園と果樹、そのさらに先に庭番小屋まである。
けれど大きな家は、行き届いて見えるぶん、見ていない場所も抱え込む。
ふと、三階の南端の小部屋のことが頭をよぎった。
古い鏡台と空の旅行鞄が押し込まれ、夏になると少しだけ熱のこもる部屋。滅多に誰も入らない。屋根裏へ上がる折り畳み梯子も、そのすぐ近くだったはずだ。
……どうして今そんなことを思うのか、自分でも分からない。
ただ、頭の、考えの端で、家の構造が静かに並び始めていた。
マルコが、沈黙に耐えかねたように口を開いた。
「セリーヌ、君には申し訳なく思っている。だが、時間が経てば分かってくれるはずだ。無理に続けるより、このほうが――」
「皆さまにとって都合が良いのでしょうね」
遮ると、彼は口をつぐんだ。母がたしなめるように名を呼ぶ。
「セリーヌ」
「失礼いたしました、お母様」
謝る形だけ整えると、母の表情がほんの少し緩んだ。それがまた、妙に胸に残る。
この人は、筋が通ったからではなく、私が声を荒げなかったから安堵している。
それなら、とセリーヌは思った。
――この人達は本当に、何も見ていないのだ。
――私がどこで黙り、どこで耐え、何を把握しているのか。毎日誰がどの扉を使い、どの時間に裏口の鍵が開けられ、どの使用人がどの廊下の掃除を後回しにしがちか。この家の空気の流れも、人の流れも、知らないまま暮らしている。
「……承知しました」
そう言うと、最初に息をついたのは母だった。肩の力が目に見えてほどける。
エレオノールの目はぱっと明るくなり、マルコは救われたような顔をした。
父だけは慎重に表情を崩さなかったが、それでも話が片づいたと思ったことは隠せていなかった。
あまりにも分かりやすくて、少しだけ眩暈がした。
部屋の空気が急に薄くなったようで、セリーヌは扉の方へ視線を向けた。廊下へ出たい。
ただ、泣くためではない。ここにこれ以上いると、自分の顔がどんなものになるのか分からなくなるからだ。
「少々、失礼いたします」
母がうなずく。
「ええ。今日はもう部屋で休みなさい」
休みなさい、と言いながら、その声には引き止める色がひとつも無かった。
セリーヌは一礼して扉へ向かった。
背中に視線が集まる。けれど誰も追っては来ない。
◇
寄木の床から廊下の絨毯へ足を移した時、張りつめていたものがわずかにほどけ、膝の奥がひどく頼りなくなった。
表階段の踊り場まで来て、ようやく手すりに指をかける。
磨いた木はなめらかで、手のひらにかすかな蝋の匂いを残した。
縦長窓の向こうでは、とうとう空の色が決まりきらないまま濃くなり始めている。庭のつる薔薇はまだ固い蕾のまま、若葉ばかりが風に翻っていた。
この階段を降りれば玄関広間、奥へ曲がれば家族の食堂、さらに先には温室へ抜ける硝子戸。
二階の廊下をまっすぐ行けば自室、反対へ行けば談話室とリネン室、その奥に裏階段。
三階へ上がれば客間と物置部屋、屋根裏へ通じる梯子。頭の中に、屋敷の線が白く引かれていく。
まるで家のほうが、今さら思い出させてくるようだった。お前はここを知っているのだと。
窓硝子に、ぽつりと一つだけ、遅れてきた雨粒が当たった。まだ本降りにはならない。けれど、もう降り出す。
セリーヌは踊り場から視線を外し、自室のある廊下へ歩き出した。
背後の小客間では、きっと今ごろ、話がうまく済んだ後の落ち着いた声が交わされているのだろう。
その響きを思うと、胸の奥のどこかで、何かが静かに据わる感触がある。
怒鳴りたいわけではない。泣き叫びたいわけでもない。
ただ、もう元の位置へは戻れない。
そのことだけが、雨の前の空気よりもはっきりしていた。
言いかけたエレオノールの声を、扉の向こうの物音が遮った。
廊下を踏む足音は二つ。ためらいなくこちらへ向かってくるところまで含めて、誰なのかすぐ分かる。
ほどなく小客間の扉が開き、先に母、その後ろから父が入ってきた。
母は薄藤色の昼のドレスをきちんと着こなし、胸元には真珠の短い連をかけていた。
外出前なのか、髪もいつも以上に隙なく整っている。
父は商会から戻ったばかりらしく、上着の袖口にわずかに外気の匂いをまとっていた。帳場と馬車と、乾きかけた土埃の匂いだ。
二人は室内をひと目見渡し、娘と婚約者候補が並んで立つ姿を認めても、驚きはほとんど顔に出さなかった。
やはり、とセリーヌは思う。
少なくとも母は、ここに来るまでに何かを聞かされていたのだろう。父もまた、厄介ごとの匂いだけはもう掴んでいる顔をしていた。
「話は始まっていたのね」
母がそう言って、肘掛け椅子のひとつに腰を下ろした。父は窓際へ歩き、手を後ろに組んだまま庭のほうへ目をやる。
風が変わったのか、葉の裏の白さがさっきより目立っていた。庭の中央をゆるく曲がる砂利道、その先の温室の硝子までが、雲のかげりに合わせて鈍く光っている。
マルコが一歩進み出る。
「ヴァレール会頭、奥様。私から申し上げるべきことでした」
その口調だけ聞けば、責任感のある若者のようだった。父は振り向き、短くうなずいた。
「言ってみなさい」
エレオノールが、そこで慎ましげに伏し目がちになった。
あくまで自分は言い出しにくいのだという顔を作るのが巧い。
けれど、マルコの袖をつかむ指先は少しも迷っていなかった。
「……セリーヌとの婚約について、見直しをお願いしたく存じます」
母の睫毛がわずかに動いた。
それだけだった。
部屋の中に沈黙が落ちる。庭木の梢を渡る風の音が、窓硝子を一枚隔てて、やけに細く聞こえた。
セリーヌは立ったまま、母の横顔を見た。次にどんな言葉が来るか、なぞるように想像できてしまう。
「理由は?」
父が問うと、マルコは背筋を伸ばした。
「私が惹かれているのは、エレオノール嬢なのです」
この期に及んで、部屋の空気を悪くしすぎない言い方を選んでいる。
情熱に流された愚か者ではなく、誠実に真実を述べる男でいたいらしい。
「私もですわ、お父様」
エレオノールが声を添えた。
「最初は、いけないことだと思っておりましたの。でも、どうしても心を偽れなくて……」
母が小さく息をついた。
困ったような、けれど本気で困っているというより、話の持っていき方を考えている時の息だった。
「……困りましたね」
その言葉に、セリーヌはかすかに視線を上げた。
――困ったのは誰なのだろう? 婚約者を妹に奪われた娘か。それとも、外聞を傷つけずに縁談を組み替えたい家のほうなのか。
父が窓辺から離れ、絨毯の縁で足を止めた。
「ベッリーニ家との話は、商会同士の約でもある」
「承知しております」
マルコは即座に答えた。
「ですのでこそ、余計な揉め事にはしたくありません。相手がエレオノール嬢であっても、両家の結びつきは保てます」
そこでやっと、父の目がセリーヌへ向いた。
「お前はどう思う」
問う形を取りながら、実のところ聞きたいのは承諾の一言だけなのだと、その目つきで分かる。
窓の外がふっと明るくなった。
雲が流れ、陽が戻ったらしい。けれど部屋の中はさっきより眩しくは見えなかった。白いレースの影が床に揺れ、その向こうの寄木の継ぎ目が、やけに細かく目につく。
この部屋は二階の南東の角にあって、家族だけの話をする時によく使われる。
扉は廊下に面した一つだけだが、その廊下を右へ行けば表階段、左へ行けば小さな談話室、その先にリネン室と裏階段へ抜ける折れ曲がりがある。幼い頃、かくれんぼで何度も走った場所だ。
表から見えにくい窓辺、家具の陰、手すりの向こうの死角。広い屋敷には、人が見ているつもりで実は見ていない場所がいくらでもある。
「……どう思う、と申されましても」
声は思いのほか乱れなかった。
「今、皆さまのご意向はほとんど定まっているように見えますけれど」
母の指先が、膝の上で組んだ扇の骨を撫でた。
「そんな言い方をするものではありませんよ、セリーヌ。あなたの気持ちを軽んじているわけではないのです」
――軽んじているわけではない。
その言葉の薄さに、逆に少しだけ可笑しさがこみあげた。
軽くないのなら、どうしてこんなにも手際よく話が進むのだろう?
母の声音には、驚きも怒りもない。ただ、どう収めるのが最も波立たないか、その計算だけが滑らかだった。
「お姉様」
エレオノールが一歩出た。裾が絨毯を擦る。
「私、もちろん申し訳ないと思っているの。でも、だからこそ、ちゃんとお願いしたくて」
――お願い。
その言葉が耳に残る。まるで少し譲れば済む品でも受け取るような口ぶりだ。
セリーヌは妹の顔を見た。
同じ造りの目元、同じ輪郭。――一卵性の双子。
同じ日に生まれて、同じ家で育ったはずなのに、そこに宿っているものはまるで違う。
エレオノールの瞳には、欲しいものへ手を伸ばして許されてきた人間の軽やかさがある。
そして軽やかさというのは、時に残酷だ。足元に何があるか、あまり見ないまま進めてしまうから。
「……私は、譲って当然だとお思いなのね」
問いかけると、エレオノールは傷ついたように眉を寄せた。
「そんな……当然だなんて」
「では、違うの?」
「だって、お姉様はいつも分かってくださったじゃない」
その一言で、部屋のどこかに長く閉じこめられていた古い空気が動いた気がした。
――いつも。
そう、いつもだった。
母は、姉だからと。父は、賢いのだからと。
使用人達でさえ、ときに、それを前提に動いてきた。
片方が声を上げれば、もう片方が引く。それで家の中はおさまるのだと、誰もが信じていた。
――おさまっていたのではなく、押しつけていただけなのに。
雨はまだ降っていない。だが遠くで、空の底が低く鳴ったような気がした。
気のせいかもしれない。街外れのこの屋敷では、天気の変わり目の音が少し早く届くことがある。
父が低く言った。
「感情で動くな。ベッリーニ家との縁が切れれば、周囲に何を言われるか分からん」
それを聞いた瞬間、指先の感覚が少し遠くなった。
冷えたのではない。ただ、力の入りどころがずれていくような、不思議な頼りなさだった。
足元の絨毯は沈まず、床はきちんとそこにあるのに、自分の体だけが半歩ぶん遅れて付いてくるような感じがする。
「……つまり」
セリーヌは父を真っ直ぐ見る。
「相手が私である必要は、最初からそれほど無かったのですね」
父は眉をひそめたが、否定しなかった。
代わりに母が口を挟む。
「そういうことではありません。ただ、家と家のお付き合いには、個人の気持ちだけでは済まないことがあるのです」
「……個人の気持ちだけでは済まない」
言葉をなぞると、窓の外の明るさがまた引いた。
雲が重なったのだろう。風に押されて枝が揺れ、二階の窓から見下ろす花壇の白い石縁が、途端に濡れた骨のような色になる。
この家は広く、立派で、よく整っている。
正面玄関の黒鉄の飾り格子、磨かれた階段の手すり、客間ごとに違う意匠の暖炉、三階まで吹き抜けではないかわりに廊下を長く取り、どの時間でもどこかに光が入るよう作られた窓。庭には季節ごとに咲く花木が配され、街側から見えない奥には菜園と果樹、そのさらに先に庭番小屋まである。
けれど大きな家は、行き届いて見えるぶん、見ていない場所も抱え込む。
ふと、三階の南端の小部屋のことが頭をよぎった。
古い鏡台と空の旅行鞄が押し込まれ、夏になると少しだけ熱のこもる部屋。滅多に誰も入らない。屋根裏へ上がる折り畳み梯子も、そのすぐ近くだったはずだ。
……どうして今そんなことを思うのか、自分でも分からない。
ただ、頭の、考えの端で、家の構造が静かに並び始めていた。
マルコが、沈黙に耐えかねたように口を開いた。
「セリーヌ、君には申し訳なく思っている。だが、時間が経てば分かってくれるはずだ。無理に続けるより、このほうが――」
「皆さまにとって都合が良いのでしょうね」
遮ると、彼は口をつぐんだ。母がたしなめるように名を呼ぶ。
「セリーヌ」
「失礼いたしました、お母様」
謝る形だけ整えると、母の表情がほんの少し緩んだ。それがまた、妙に胸に残る。
この人は、筋が通ったからではなく、私が声を荒げなかったから安堵している。
それなら、とセリーヌは思った。
――この人達は本当に、何も見ていないのだ。
――私がどこで黙り、どこで耐え、何を把握しているのか。毎日誰がどの扉を使い、どの時間に裏口の鍵が開けられ、どの使用人がどの廊下の掃除を後回しにしがちか。この家の空気の流れも、人の流れも、知らないまま暮らしている。
「……承知しました」
そう言うと、最初に息をついたのは母だった。肩の力が目に見えてほどける。
エレオノールの目はぱっと明るくなり、マルコは救われたような顔をした。
父だけは慎重に表情を崩さなかったが、それでも話が片づいたと思ったことは隠せていなかった。
あまりにも分かりやすくて、少しだけ眩暈がした。
部屋の空気が急に薄くなったようで、セリーヌは扉の方へ視線を向けた。廊下へ出たい。
ただ、泣くためではない。ここにこれ以上いると、自分の顔がどんなものになるのか分からなくなるからだ。
「少々、失礼いたします」
母がうなずく。
「ええ。今日はもう部屋で休みなさい」
休みなさい、と言いながら、その声には引き止める色がひとつも無かった。
セリーヌは一礼して扉へ向かった。
背中に視線が集まる。けれど誰も追っては来ない。
◇
寄木の床から廊下の絨毯へ足を移した時、張りつめていたものがわずかにほどけ、膝の奥がひどく頼りなくなった。
表階段の踊り場まで来て、ようやく手すりに指をかける。
磨いた木はなめらかで、手のひらにかすかな蝋の匂いを残した。
縦長窓の向こうでは、とうとう空の色が決まりきらないまま濃くなり始めている。庭のつる薔薇はまだ固い蕾のまま、若葉ばかりが風に翻っていた。
この階段を降りれば玄関広間、奥へ曲がれば家族の食堂、さらに先には温室へ抜ける硝子戸。
二階の廊下をまっすぐ行けば自室、反対へ行けば談話室とリネン室、その奥に裏階段。
三階へ上がれば客間と物置部屋、屋根裏へ通じる梯子。頭の中に、屋敷の線が白く引かれていく。
まるで家のほうが、今さら思い出させてくるようだった。お前はここを知っているのだと。
窓硝子に、ぽつりと一つだけ、遅れてきた雨粒が当たった。まだ本降りにはならない。けれど、もう降り出す。
セリーヌは踊り場から視線を外し、自室のある廊下へ歩き出した。
背後の小客間では、きっと今ごろ、話がうまく済んだ後の落ち着いた声が交わされているのだろう。
その響きを思うと、胸の奥のどこかで、何かが静かに据わる感触がある。
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