(5/6完結予定)婚約者が妹に心変わり?では一刺しして家を捨てましょう。皆様、あとはご自由に。

さんけい

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64 それだけで十分

 ジュリアンが石の門の旅籠へ本格的に入ったのは、セリーヌが帳場の見習いとして三日目を終えた朝だった。

 夏の終わりが近づいているとはいえ、朝のうちはまだもう少し涼しい。井戸の水も昼ほどにはぬるんでおらず、石畳の熱もまだ深くは上がっていない。そういう、働くにはちょうどいい時刻だった。
 旅籠の裏手には、朝のうちから細かな音が絶えない。
 井戸の桶を引く音。昨夜遅く着いた巡礼者が戸を開ける音。小さな荷車が裏の門で止まり、預ける木箱をひとつ下ろす音。
 それらは一つ一つは小さいのに、重なると「ああ、ここは人と荷の通る場所なのだ」と分かる。
 その流れの中へ、ジュリアンはごく自然に入っていった。

 最初にやったのは、大きなことではなかった。
 裏口の敷石のうち、井戸へ続く二枚が少し沈んでいて、雨のたびに水が溜まる。そのせいで朝いちばんの桶を運ぶ足が滑りやすくなっていた。
 誰もが不便だとは思っていたが、旅籠というのは客の目に入るところから先に手をつけるから、裏手のそういう不便はあと回しになりがちだ。
 ジュリアンはそこへしゃがみこみ、石を外し、下の土と砂利を掘り返して、水の逃げる筋を作った。ついでに、井戸の脇へ置きっぱなしになっていた桶を掛ける木の枠も、斜めになっていた釘を抜いて打ち直す。
 ほんの半刻で済む程度の仕事だ。だが、その半刻で、裏手を使う者の足取りが変わった。
 桶を運ぶ女中が「あれ」と足を止める。水を汲みに来た下働きの少年が、何も言わずに一度だけ敷石を見下ろす。
 そういう小さな反応が、ジュリアンにはよく分かった。

 テレーザも、それをちゃんと見ていた。

「まずそこからやるのね」

 裏口に立ったまま言う。

「皆が毎日使うところですから」
「表の蔓や花じゃなくて?」
「そっちは後でも逃げません」
「そう」

 テレーザは腕を組み、少しだけ頷いた。

「そういう順のつけ方は嫌いじゃないわ」

 それは褒め言葉としては短すぎる。けれど、テレーザの口から出るなら十分だった。

 セリーヌは、そのやり取りを帳場の奥から見ていた。
 今の彼女の仕事はまだ見習いの域を出ない。宿泊の控えを清書し、荷の預かり札を時刻順に掛け直し、前日に泊まった客の支払いがきちんと帳へ移っているかを確かめる。
 だが、見習いの仕事というのは、何を見ておくかでその先が変わる。
 だからセリーヌは、朝の帳場にいながら、裏手の音も聞いていた。
 敷石のずれを直す音。桶の掛け金を打ち直す音。短い会話。
 それらがいちいち、旅籠の動き方を少しずつ変えていく。

 昼前には、もう別の変化が出た。
 裏門から入る荷車が、いつもなら一度脇へ寄せてから荷を降ろすのに、今日はそのままするりと奥へ入っていく。
 敷石の並びを少し見直し、邪魔になっていた古い樽を別の位置へ移しただけで、車輪の通り方が変わったのだ。
 荷車を曳いてきた男が「今日は妙に入りやすいな」とぼやいたのを、セリーヌは帳場机の向こうで聞いた。
 その「妙に」が大事なのだと、彼女には分かる。
 誰も大工事とは思わない。けれど、毎日そこを使う者ほど「妙にやりやすい」と感じる。
 そういう手入れは、屋敷の庭でもたしかによく見た。ただ、あちらではそれが当たり前すぎて、誰も言葉にはしなかっただけだ。

 昼のあと、テレーザはジュリアンへ別の用事を渡した。

「庭の手だけじゃ足りないかもしれないわ」

 言う。

「何か」
「裏の物置の鍵、閉まりが悪いの。昨夜も荷札の箱を出す時、二度も引っかかった」
「見ます」
「それと、雨どいの流れ。前の夕立でまた壁が濡れたのよ」
「ええ」

 そうして頼まれたものを、ジュリアンは一つずつ見ていく。

 物置の鍵は、錠そのものより扉の木がわずかに膨れていた。削りすぎず、けれど引っかかりだけ取る。
 雨どいは、詰まりではなく受けの角度が悪かった。釘を打ち直し、流れを少しだけ変える。
 どれも目立つ仕事ではない。だが、目立たないからこそ、終わったあとで旅籠の者たちの動きがすっと軽くなる。

 午後、テレーザの弟の嫁が裏手へ出てきた。
 まだ産後の身体が戻りきっていないのか、腰の動きに少し慎重さがある。赤子を抱いたまま、物置の扉を試しに引き、あっさり開くのを見ると、思わず「まあ」と声をもらした。

「こんなにすぐ」
「木が少し膨らんでいただけです」
「それで、ずっと皆で蹴ったり押したりしていたのに」
「蹴れば余計にずれます」
「そうでしょうねえ」

 その言い方に、裏手で聞いていた下働きの娘たちが小さく笑う。笑い方が、前より少しだけやわらかい。
 こういう場所は、裏手が少し整うだけで人の機嫌まで変わるのだと、セリーヌは帳場から眺めながら思った。

 夕方近く、旅籠の前庭で小さな厄介ごとが起きた。巡礼帰りらしい老夫婦が、預けた荷の包みが一つ足りないと騒ぎ始めたのだ。

「確かに二つ預けたのよ」
「札も二枚もらった」
「だが今、返ってきたのは一つだけだ」

 帳場机の前で、老夫婦の声が少しずつ高くなる。
 こういう時、テレーザは強い。けれど今は奥で別の客の部屋割りを見ていて、すぐには出てこられなかった。
 セリーヌはとっさに札掛けを見た。預かり札は二つあった。
 だが片方には、昨夜遅くに着いた別の客の荷札と同じ印が重なっている。札の置き方がまずかったのだ。
 そしてたぶん、今朝の返却の時に一つ別の棚へ滑った。

「少々お待ちください」

 セリーヌが言うと、老夫婦は揃ってこちらを見た。
 まだ彼女は、この旅籠では正式な顔ではない。だから最初の一瞬だけ、「この若い娘が」という目になる。
 けれどそこで怯まず、札を二枚取り、奥の荷棚へ行く。
 上段ではない。下段でもない。朝の忙しさなら、仮置きで中段の端へ寄せただろう。
 そう思って手を伸ばすと、予想通り、薄い布包みがひとつ押し込まれていた。

「こちらですね」

 戻して見せる。
 老夫婦の顔が一気に変わる。安堵と、少しの気まずさと。
 それはそうだろう。盗られたのかと思ったのだ。

「ああ、これだわ」
「ほら見ろ」
「でも札が」
「札の並びが少し紛れたようです」

 セリーヌはそう言って、二枚の札を見せた。

「こちらが昨日の夜分、こちらが今朝の控えです。同じ印が重なっていたので」
「そうかい」
「ご心配をおかけしました」

 テレーザがそこへちょうど戻ってきた。戻ってきて、状況をひと目見て、それから老夫婦へきっちり頭を下げる。

「こちらの不手際です」
「いえ、見つかったなら」
「見つかってよかったわ、ほんとに」

 騒ぎはそれで収まった。
 小さなことだ。だが、旅籠ではこういう小さなことが積もって評判になる。
 しかも今の件は、帳場と荷棚と客の機嫌、その全部を一つの動きで収めなければならない類の厄介だった。
 テレーザは老夫婦を見送ったあと、帳場の端へ戻ってきて、セリーヌの横へ立った。

「今の」
「はい」
「どうして中段だと思ったの」
「今朝の戻りが多かったので、上段はいっぱいでした」
「ええ」
「下段なら目につきやすいですし、紛れたままなら誰かがもう気づいているかと」
「そう」
「だから中段の端に」
「……」

 テレーザは一瞬だけ黙った。

「やっぱりあなた、ここ向きだわ」

 そう言ってから、今度は裏口のほうへ顎をしゃくる。

「そして、あっちも」

 視線を向けると、ジュリアンが葡萄の蔓の先を少しだけ払っているところだった。
 切りすぎない。客の目へかかるところだけを整え、実の付きそうな枝は残している。
 その見極めが、いかにも彼らしかった。
 夕方の光の中で、その横顔は少し日に焼けて見えた。
 学校町から帰ってきたばかりの頃より、もうこの旅籠の裏手に自分の動き方を馴染ませはじめている顔だ。
 テレーザが言う。

「二人とも、まったく違うところを見てるようでいて、ちゃんと同じ場所を楽にしていくのね」
「……」
「ありがたいこと」

 その言い方に、セリーヌは返事をしなかった。しなかったが、胸の内に何か静かなものが広がるのを止めることも出来なかった。

 夜、旅籠の仕事をひととおり終えたあとで、テレーザはジュリアンを呼んだ。
 帳場机の向こうに立たせ、今日一日の動きをあらためて確認する。
 敷石、物置、雨どい、葡萄、裏門の導線。それらを一つずつ挙げ、それからあっさりと言った。

「秋から、裏手と庭はあなたに任せるわ」
「……」
「嫌?」
「いいえ」
「では決まり」
「まだ早いのでは」
「早くないわ」
「ですが」
「こういうのは、使える人間を見つけた時に決めるの」

 テレーザはそう言い切った。

「賃金はこれ。部屋は今のところ空いてないから、しばらくは通いでもいい」
「ええ」
「冬前には裏の小部屋がひとつ空くはずだから、その時また考える」
「分かりました」

 そして最後に、女主人は少しだけ目を細めた。

「帳場の娘とも、ちゃんと話はしておきなさい」
「……」
「仕事の話よ」
「そうでしょうね」
「そうでしょうね、って顔してるけど」
「いえ」
「まあ、いいわ」

 それで話は終わった。

 外へ出ると、夜の空気は少しだけ乾いていた。昼の熱がまだ石へ残っていても、風は夏の盛りの頃よりずっと息をしやすい。
 旅籠の裏手では、井戸の脇の薬草がわずかに揺れていた。
 セリーヌはちょうど、ルチアの家へ戻る前に裏口の戸を確かめに来たところだった。
 手を止め、ジュリアンを見る。その視線だけで、何か決まったのだと互いに分かる。

「決まったのね」

 先に言ったのは、セリーヌのほうだった。ジュリアンは頷く。

「ええ。秋から」
「そう」
「そちらも」
「来月の頭から」
「では」
「ええ」

 そこまで話して、二人とも少しだけ黙った。
 前なら、こういう時に何を言えばいいのか分からなかったかもしれない。けれど今は違う。
 言葉にしすぎないほうが、むしろきちんと伝わるものがある。

「全部終わったら、って言ったでしょう」

 セリーヌが静かに言う。

「ええ」
「まだ全部ではないけど」
「そうですね」
「でも、少しずつ終わってきたわ」

 その一言に、ジュリアンは少しだけ目を和らげた。

「そうですね」

 今度は、同じ言葉が前より少し深く返る。夜風が、二人のあいだを通った。
 約束と呼ぶにはまだ早い。けれど、秋から同じ旅籠で、それぞれの持ち場を受け持つ。
 その現実がもう出来ている。
 それだけで十分だと、今は思えた。
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