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29 ポーリーンの変化
その夜、屋敷は妙に静かだった。
静か、といっても本当に音がないわけではない。廊下では侍女達の足音がするし、厨房の奥では遅い片づけの音もする。暖炉の薪がはぜる音だって、夜の屋敷にはつきものだ。
けれど、そういういつもの音の外にあるざわめき――当主が帰ってきた日特有の浮ついた空気だとか、身重の女が運び込まれたことで広がる好奇の気配だとか――そういったものが、今夜は妙に低く抑えられていた。
皆、見ている。けれど皆、まだどう見るべきかを決めきれずにいる。
それは家の中枢がまだ何も公にしていないからでもあり、逆に言えば、今のところ家全体の姿が崩れてはいないということでもあった。
私は自室の机に向かっていた。小卓の上には、アシュレイの書き直しを命じた記録の一枚目、聖ルーク亭の領収書、そしてロナルドの手紙。
並べてみれば、それぞれはただの紙にすぎないのに、重ねると人の浅さや沈黙がくっきり形になる。
グラディス夫人は、少し前に自室へ戻った。「今日はここまで」と言いながらも、その顔にはまだ執務の色が残っていたから、寝台へ入る前にもう二、三通は手紙を書くのかもしれない。
ポーリーンも、自室へ下がった。下がったはずなのに、私はなぜか、今夜のうちにもう一度来るような気がしていた。
その予感は当たった。
扉が控えめに叩かれた時、私はもう半ばその顔を思い浮かべていた。
「どうぞ」
声をかけると、扉が少しだけ開き、ポーリーンが顔をのぞかせる。昼間の藤色ではなく、夜用の落ち着いた青灰色のドレスに着替えている。
髪もほどいて編み直してあり、頬の赤みはもうない。けれど、目だけはまだどこか落ち着かなかった。
「……起きていらしたのね」
「ええ」
「少しだけ、お邪魔しても?」
「どうぞ」
そう言うと、ポーリーンは扉を閉めて中へ入った。いつものように勢いよくではない。少し迷うような足取りだった。
私は机の前の椅子をひとつ示す。
「座る?」
「ええ……」
腰を下ろしたポーリーンは、すぐには口を開かなかった。部屋の中をちらりと見回し、それから机の上の紙を見て、少しだけ眉をひそめる。
「そういうもの、見ていると眠れなくならなくて?」
「なるわね」
私は率直に答えた。
「でも、頭の中へ散らかしたまま寝るよりはましなの」
「……そういうところが、お義姉様らしいわ」
その言い方には、いつもの刺がほとんどなかった。私は少しだけ待った。こういう時、急かすとポーリーンは拗ねる。
やがて彼女が、膝の上で指を組み直しながら言った。
「今日のことなのだけれど」
「ええ」
「いえ、その……今日だけじゃなくて」
ポーリーンは、そこで視線を落とした。それだけで、私は何の話かだいたい察した。
「前に、わたくし」
彼女は言いにくそうに続ける。
「“ちゃんとつかまえておかないから”って、お義姉様に言ったでしょう」
「ええ」
「……あれ」
彼女は口を閉じた。言いよどむ。ポーリーンにしては珍しいくらい、言葉を選んでいた。
「違ったわ」
ようやく出てきたのは、それだった。私は黙って聞く。
「違ったって、分かっていたつもりだったの」
ポーリーンは言う。
「前に、お義姉様に言い返されて……その時に、もう分かった気になっていたのよ。わたくしだって、もし自分の結婚相手にそんなことがあったら、全部自分の責任だなんて言われたくないもの」
彼女の指先が、膝の上で少し強く組まれる。
「でも、本当には分かっていなかったのね」
「…………」
「今日、お兄様の話を聞いて、書いたものを見て、ようやく分かったわ。あれは、誰かが“つかまえておく”とか、そういう話ではなかった」
ポーリーンは小さく息を吸う。
「お兄様が、自分で勝手に行って、自分で勝手に見たいように見て、自分で勝手にここまで持ってきた話だったのね」
私はそこで、ゆっくりと頷いた。
「そうね」
ポーリーンが顔を上げる。その目には、少しだけ悔しさがあった。たぶん、私はもっと何か言うと思っていたのだろう。責めるとか、勝ち誇るとか。
けれど私はそうしなかった。あの時の言葉を、今ここで蒸し返して傷を広げたいわけではない。必要だったのは、彼女が自分でそこへ辿り着くことだった。
「……怒っていらっしゃる?」
ポーリーンが小さく聞く。私は少し考えた。
「ええ」
正直に答える。
「怒っていたわ」
「今も?」
「今は、少し違う」
ポーリーンが不思議そうにする。
「怒り続けるより、あなたがちゃんと見たことのほうが大きくなったの」
私は言った。
「だから、それで十分よ」
ポーリーンはしばらく私を見ていた。それから、ほんの少しだけ目を逸らす。
「……何だか、負けたみたいだわ」
「誰に?」
「分からないけれど」
その言い方が少し可笑しくて、私はごくわずかに口元を緩めた。ポーリーンが気づいて、むっとする。
「笑わないで」
「笑っていないわ」
「少し笑った」
「少しだけね」
そこでようやく、部屋の空気が少しゆるんだ。けれどポーリーンが今夜ここへ来たのは、それだけではないのだろうと、私は感じていた。
案の定、彼女は少し姿勢を直して、また別の顔になった。
「お義姉様」
「何かしら」
「……わたくし、考えたの」
その声音は、先ほどの気まずい謝罪とは違っていた。もっと静かで、もっと奥のほうから出てくる声だ。
「何を」
「お兄様のことを」
彼女は言った。
「それから、この家のことも」
私は答えずに待つ。
「前はね」
ポーリーンが、ぽつりぽつりと続ける。
「お兄様がここにいて、お兄様がちゃんとしてくだされば、それで何とかなると思っていたの。もちろん、うまくいかないことがあっても、お義母様もお義姉様もいらっしゃるし、少しは揉めても、最後には家として立っていけるんだろうって」
「ええ」
「でも違うのね」
その“違う”は、今日だけの話ではないのだろう。三年かけて少しずつ見てきた違和感が、今日やっと名前を持ったのだ。
「お兄様は、肩書きがあるだけで、家を背負う人ではないのかもしれない」
ポーリーンはそう言った。兄を見捨てるような口調ではない。むしろ、認めたくなかったことを認める声音だった。
「少なくとも今は」
私は机の上に置いた手を、少しだけ重ねた。
「ええ」
「それで」
ポーリーンが私を見る。
「そうなると、わたくしも、いつまでもお兄様の妹のままではいられないのよね」
その言葉に、私はほんの少しだけ目を上げた。来た――とそう思った。
これは誰かに言わされた台詞ではない。ポーリーンが、自分で辿り着いて口にした言葉だ。
「どういう意味かしら」
私はあえて問い返す。ポーリーンは、少しだけ頬を引き締めた。
逃げないためだろう。
「今までは、縁談なんて、どれも鬱陶しかったわ」
彼女は言う。
「だって、お兄様がいる家から出ることなんて考えたくなかったし、来る方達だって、誰も彼も似たようなことばかりおっしゃるんですもの。馬だの狩りだの、劇場だの、天気だの……」
「ええ」
「でも、それって結局、わたくしがちゃんと見ていなかっただけなのかもしれない」
私は黙っていた。
「もちろん、本当に退屈な方もいたでしょう」
ポーリーンは続ける。
「でも、わたくし、最初から“ここを出たくない”って気持ちで見ていたから、誰が来ても同じに見えたのよ」
その自己認識は、たぶんこの子にとってかなり大きいはずだった。私はそれを軽く扱いたくなかった。
「それで?」
静かに促す。
「……ちゃんと見てみようと思うの」
ポーリーンは言った。
「今度は、お兄様のそばを離れたくないかどうか、ではなくて」
そこで一度言葉を切り、続ける。
「この家を馬鹿にしないか。わたくしを飾りじゃなく見るか。困った時に、自分だけ綺麗な顔をして逃げる人じゃないか。そういうふうに」
私はそこで、ようやくはっきりと息を吐いた。やはり、この子は変わったのだ。
しかもただ大人しくなったのではない。自分の感情を起点にしながらも、見る角度を覚え始めている。
「いいと思うわ」
私は言った。ポーリーンは少し驚いた顔をする。もっと何か試すようなことを言われると思ったのかもしれない。
「反対なさらないの?」
「なぜ反対するの」
「だって、お義姉様、何でも簡単には褒めないでしょう」
「ええ」
私は少しだけ笑った。
「でも今のは、褒めるべきことですもの」
ポーリーンは不本意そうに眉を寄せた。けれど、その口元にはごくわずかに力の抜けた気配がある。
「……それで」
彼女は言いにくそうに続ける。
「もし、その……以前の縁談の話、まだ覚えていらっしゃるなら」
私はもう答えが分かっていた。
「釣書きを見たい?」
そう言うと、ポーリーンが耳まで赤くした。
「別に、そんな大げさなことでは」
「見るのね」
「……見ますわ」
その返事に、私は立ち上がった。書棚の下の引き出しを開ける。
グラディス夫人と一緒に、これまでの縁談の釣書きや紹介状を整理しておいた箱がそこにある。持って戻り、机へ置く。
ポーリーンがそれを見て、少しだけ息を呑んだ。たぶん、自分で言い出しておいて、実際に目の前へ出されると気後れするのだろう。
「今すぐ全部を見る必要はないわ」
私は言った。
「でも、開けるなら今でもいい」
ポーリーンは箱を見つめていた。その姿は、昔の彼女なら見せなかった顔だ。兄へ突っかかる時とも、私へ嫌味を言う時とも違う。知らない未来の前で、少しだけ足をすくませている顔。
それが、私は悪くないと思った。
「……一番上だけ」
彼女が言う。
「一番上だけ、見ます」
「ええ」
私は箱を開けた。一番上には、少し前のものから順に整理してある。最初に出てきたのは、法官の甥の釣書きだった。
ポーリーンがそれを見て、すぐに顔をしかめる。
「几帳面すぎる方」
「そうね」
「机の引き出しまで息苦しそうな」
「ええ、そう評していたわね」
彼女はむっとしたが、すぐにもう一枚へ手を伸ばした。海運商の次男。次に、地方の男爵の甥。
その次に――。
「あ」
ポーリーンが小さく言う。そこにあったのは、ヘイル家の三男、エドワード・ヘイルの釣書きだった。
朝から来て乗馬の話ばかりしていたと、彼女が切って捨てた相手だ。
ポーリーンは紙を手にしたまま、少し黙った。私は何も言わない。
「……この方」
彼女が言う。
「当時は、普通すぎると思ったのよね」
「ええ」
「でも、今見ると」
彼女は釣書きの文面を追う。そこには、家格、収入、領地は小さいが堅実であること、母親は早世、父親は温和、本人は馬の改良と記録好き――そんなことが整然と書いてある。
「変なことは書いていませんわね」
ポーリーンがぽつりと言う。
「変なこと?」
「大きく見せようとしている感じがない」
彼女は言葉を探しながら続けた。
「普通、というより……ちゃんとしている、のかしら」
私は少しだけ目を細めた。
「たぶん、そういう見方が前よりできるようになったのね」
「……嫌味?」
「いいえ。成長よ」
ポーリーンはまた不服そうにしたが、今度はすぐには反発しなかった。その代わり、エドワード・ヘイルの釣書きを机へ置かず、手元に残した。
「お義姉様」
「何かしら」
「もし、もう一度だけ……本当にもう一度だけ、お茶くらいなら」
彼女は目を逸らした。
「お義母様に、言っても変ではないかしら」
私は答える前に、少しだけ考えた。変ではない。むしろ、かなり大きい一歩だ。
だがここで私が喜びすぎれば、ポーリーンはすぐ引っ込める気もした。
「変ではないわ」
だから私は静かに答えた。
「でも、一つだけ」
「何?」
「今度は、退屈かどうかだけで切らないこと」
ポーリーンがむっとする。
「そんなに浅くありませんわよ」
「いいえ、まだ少し浅いわ」
「ひどい!」
「だって本当でしょう」
私は言った。
「今度は、あなたも何か話すのよ。家のことでも、本のことでも、あなたが面白いと思っていることでも。相手がそれをどう受けるかを見るの」
ポーリーンは口を閉じた。たぶん、そこまでは考えていなかったのだろう。
今までは“相手がつまらないかどうか”ばかり見ていて、“自分が何を出すか”までは見ていなかった。
「……面倒」
彼女が小さく言う。
「結婚って、そういうものでしょう」
私は返した。
「少なくとも、家を背負う気が少しでもあるなら」
その言葉に、ポーリーンは今度こそちゃんと考えた顔をした。そして、手元の釣書きを見下ろしながら、静かに言う。
「……そうね」
その“そうね”は、今までの彼女のものより少し低く、少し重かった。兄の後ろへ隠れていた娘ではなく、自分で前へ出るしかないと知った娘の声だ。
私はその変化を見て、胸の奥が静かにあたたかくなるのを感じた。
血は繋がっていない。けれど、見て、働いて、衝突して、そのうえでこうして少しずつ信用が形になっていくのなら、それはそれで家族に近いものなのかもしれない。
「お義姉様」
ポーリーンがふいに言う。
「何?」
「前のこととは別に」
「ええ」
「……ありがとうございます」
それは、たぶん釣書きを出したことだけではない。今日一日、兄を庇いきれなくなった彼女の横に、私はちゃんと立っていた。そこへの礼も少しは混じっているのだろう。
私はほんの少しだけ笑った。
「どういたしまして」
ポーリーンはそれ以上何も言わなかった。ただ、エドワード・ヘイルの釣書きを丁寧に畳み、箱の上へ別に置いた。
その小さな仕草が、妙に鮮やかに見えた。
たぶん、この家の先はまだ決まっていない。爵位がどうなるかも、アシュレイがどこまで立ち直るかも、エラの子が誰の子かも、今はまだ曖昧だ。
けれど少なくとも一つだけ、今夜はっきりしたことがある。
ポーリーンは、もうただ兄の妹ではいられない。そして、いられないと知ったうえで、自分の足で立とうとしている。
それは、この家にとって、かなり大きなことだった。
静か、といっても本当に音がないわけではない。廊下では侍女達の足音がするし、厨房の奥では遅い片づけの音もする。暖炉の薪がはぜる音だって、夜の屋敷にはつきものだ。
けれど、そういういつもの音の外にあるざわめき――当主が帰ってきた日特有の浮ついた空気だとか、身重の女が運び込まれたことで広がる好奇の気配だとか――そういったものが、今夜は妙に低く抑えられていた。
皆、見ている。けれど皆、まだどう見るべきかを決めきれずにいる。
それは家の中枢がまだ何も公にしていないからでもあり、逆に言えば、今のところ家全体の姿が崩れてはいないということでもあった。
私は自室の机に向かっていた。小卓の上には、アシュレイの書き直しを命じた記録の一枚目、聖ルーク亭の領収書、そしてロナルドの手紙。
並べてみれば、それぞれはただの紙にすぎないのに、重ねると人の浅さや沈黙がくっきり形になる。
グラディス夫人は、少し前に自室へ戻った。「今日はここまで」と言いながらも、その顔にはまだ執務の色が残っていたから、寝台へ入る前にもう二、三通は手紙を書くのかもしれない。
ポーリーンも、自室へ下がった。下がったはずなのに、私はなぜか、今夜のうちにもう一度来るような気がしていた。
その予感は当たった。
扉が控えめに叩かれた時、私はもう半ばその顔を思い浮かべていた。
「どうぞ」
声をかけると、扉が少しだけ開き、ポーリーンが顔をのぞかせる。昼間の藤色ではなく、夜用の落ち着いた青灰色のドレスに着替えている。
髪もほどいて編み直してあり、頬の赤みはもうない。けれど、目だけはまだどこか落ち着かなかった。
「……起きていらしたのね」
「ええ」
「少しだけ、お邪魔しても?」
「どうぞ」
そう言うと、ポーリーンは扉を閉めて中へ入った。いつものように勢いよくではない。少し迷うような足取りだった。
私は机の前の椅子をひとつ示す。
「座る?」
「ええ……」
腰を下ろしたポーリーンは、すぐには口を開かなかった。部屋の中をちらりと見回し、それから机の上の紙を見て、少しだけ眉をひそめる。
「そういうもの、見ていると眠れなくならなくて?」
「なるわね」
私は率直に答えた。
「でも、頭の中へ散らかしたまま寝るよりはましなの」
「……そういうところが、お義姉様らしいわ」
その言い方には、いつもの刺がほとんどなかった。私は少しだけ待った。こういう時、急かすとポーリーンは拗ねる。
やがて彼女が、膝の上で指を組み直しながら言った。
「今日のことなのだけれど」
「ええ」
「いえ、その……今日だけじゃなくて」
ポーリーンは、そこで視線を落とした。それだけで、私は何の話かだいたい察した。
「前に、わたくし」
彼女は言いにくそうに続ける。
「“ちゃんとつかまえておかないから”って、お義姉様に言ったでしょう」
「ええ」
「……あれ」
彼女は口を閉じた。言いよどむ。ポーリーンにしては珍しいくらい、言葉を選んでいた。
「違ったわ」
ようやく出てきたのは、それだった。私は黙って聞く。
「違ったって、分かっていたつもりだったの」
ポーリーンは言う。
「前に、お義姉様に言い返されて……その時に、もう分かった気になっていたのよ。わたくしだって、もし自分の結婚相手にそんなことがあったら、全部自分の責任だなんて言われたくないもの」
彼女の指先が、膝の上で少し強く組まれる。
「でも、本当には分かっていなかったのね」
「…………」
「今日、お兄様の話を聞いて、書いたものを見て、ようやく分かったわ。あれは、誰かが“つかまえておく”とか、そういう話ではなかった」
ポーリーンは小さく息を吸う。
「お兄様が、自分で勝手に行って、自分で勝手に見たいように見て、自分で勝手にここまで持ってきた話だったのね」
私はそこで、ゆっくりと頷いた。
「そうね」
ポーリーンが顔を上げる。その目には、少しだけ悔しさがあった。たぶん、私はもっと何か言うと思っていたのだろう。責めるとか、勝ち誇るとか。
けれど私はそうしなかった。あの時の言葉を、今ここで蒸し返して傷を広げたいわけではない。必要だったのは、彼女が自分でそこへ辿り着くことだった。
「……怒っていらっしゃる?」
ポーリーンが小さく聞く。私は少し考えた。
「ええ」
正直に答える。
「怒っていたわ」
「今も?」
「今は、少し違う」
ポーリーンが不思議そうにする。
「怒り続けるより、あなたがちゃんと見たことのほうが大きくなったの」
私は言った。
「だから、それで十分よ」
ポーリーンはしばらく私を見ていた。それから、ほんの少しだけ目を逸らす。
「……何だか、負けたみたいだわ」
「誰に?」
「分からないけれど」
その言い方が少し可笑しくて、私はごくわずかに口元を緩めた。ポーリーンが気づいて、むっとする。
「笑わないで」
「笑っていないわ」
「少し笑った」
「少しだけね」
そこでようやく、部屋の空気が少しゆるんだ。けれどポーリーンが今夜ここへ来たのは、それだけではないのだろうと、私は感じていた。
案の定、彼女は少し姿勢を直して、また別の顔になった。
「お義姉様」
「何かしら」
「……わたくし、考えたの」
その声音は、先ほどの気まずい謝罪とは違っていた。もっと静かで、もっと奥のほうから出てくる声だ。
「何を」
「お兄様のことを」
彼女は言った。
「それから、この家のことも」
私は答えずに待つ。
「前はね」
ポーリーンが、ぽつりぽつりと続ける。
「お兄様がここにいて、お兄様がちゃんとしてくだされば、それで何とかなると思っていたの。もちろん、うまくいかないことがあっても、お義母様もお義姉様もいらっしゃるし、少しは揉めても、最後には家として立っていけるんだろうって」
「ええ」
「でも違うのね」
その“違う”は、今日だけの話ではないのだろう。三年かけて少しずつ見てきた違和感が、今日やっと名前を持ったのだ。
「お兄様は、肩書きがあるだけで、家を背負う人ではないのかもしれない」
ポーリーンはそう言った。兄を見捨てるような口調ではない。むしろ、認めたくなかったことを認める声音だった。
「少なくとも今は」
私は机の上に置いた手を、少しだけ重ねた。
「ええ」
「それで」
ポーリーンが私を見る。
「そうなると、わたくしも、いつまでもお兄様の妹のままではいられないのよね」
その言葉に、私はほんの少しだけ目を上げた。来た――とそう思った。
これは誰かに言わされた台詞ではない。ポーリーンが、自分で辿り着いて口にした言葉だ。
「どういう意味かしら」
私はあえて問い返す。ポーリーンは、少しだけ頬を引き締めた。
逃げないためだろう。
「今までは、縁談なんて、どれも鬱陶しかったわ」
彼女は言う。
「だって、お兄様がいる家から出ることなんて考えたくなかったし、来る方達だって、誰も彼も似たようなことばかりおっしゃるんですもの。馬だの狩りだの、劇場だの、天気だの……」
「ええ」
「でも、それって結局、わたくしがちゃんと見ていなかっただけなのかもしれない」
私は黙っていた。
「もちろん、本当に退屈な方もいたでしょう」
ポーリーンは続ける。
「でも、わたくし、最初から“ここを出たくない”って気持ちで見ていたから、誰が来ても同じに見えたのよ」
その自己認識は、たぶんこの子にとってかなり大きいはずだった。私はそれを軽く扱いたくなかった。
「それで?」
静かに促す。
「……ちゃんと見てみようと思うの」
ポーリーンは言った。
「今度は、お兄様のそばを離れたくないかどうか、ではなくて」
そこで一度言葉を切り、続ける。
「この家を馬鹿にしないか。わたくしを飾りじゃなく見るか。困った時に、自分だけ綺麗な顔をして逃げる人じゃないか。そういうふうに」
私はそこで、ようやくはっきりと息を吐いた。やはり、この子は変わったのだ。
しかもただ大人しくなったのではない。自分の感情を起点にしながらも、見る角度を覚え始めている。
「いいと思うわ」
私は言った。ポーリーンは少し驚いた顔をする。もっと何か試すようなことを言われると思ったのかもしれない。
「反対なさらないの?」
「なぜ反対するの」
「だって、お義姉様、何でも簡単には褒めないでしょう」
「ええ」
私は少しだけ笑った。
「でも今のは、褒めるべきことですもの」
ポーリーンは不本意そうに眉を寄せた。けれど、その口元にはごくわずかに力の抜けた気配がある。
「……それで」
彼女は言いにくそうに続ける。
「もし、その……以前の縁談の話、まだ覚えていらっしゃるなら」
私はもう答えが分かっていた。
「釣書きを見たい?」
そう言うと、ポーリーンが耳まで赤くした。
「別に、そんな大げさなことでは」
「見るのね」
「……見ますわ」
その返事に、私は立ち上がった。書棚の下の引き出しを開ける。
グラディス夫人と一緒に、これまでの縁談の釣書きや紹介状を整理しておいた箱がそこにある。持って戻り、机へ置く。
ポーリーンがそれを見て、少しだけ息を呑んだ。たぶん、自分で言い出しておいて、実際に目の前へ出されると気後れするのだろう。
「今すぐ全部を見る必要はないわ」
私は言った。
「でも、開けるなら今でもいい」
ポーリーンは箱を見つめていた。その姿は、昔の彼女なら見せなかった顔だ。兄へ突っかかる時とも、私へ嫌味を言う時とも違う。知らない未来の前で、少しだけ足をすくませている顔。
それが、私は悪くないと思った。
「……一番上だけ」
彼女が言う。
「一番上だけ、見ます」
「ええ」
私は箱を開けた。一番上には、少し前のものから順に整理してある。最初に出てきたのは、法官の甥の釣書きだった。
ポーリーンがそれを見て、すぐに顔をしかめる。
「几帳面すぎる方」
「そうね」
「机の引き出しまで息苦しそうな」
「ええ、そう評していたわね」
彼女はむっとしたが、すぐにもう一枚へ手を伸ばした。海運商の次男。次に、地方の男爵の甥。
その次に――。
「あ」
ポーリーンが小さく言う。そこにあったのは、ヘイル家の三男、エドワード・ヘイルの釣書きだった。
朝から来て乗馬の話ばかりしていたと、彼女が切って捨てた相手だ。
ポーリーンは紙を手にしたまま、少し黙った。私は何も言わない。
「……この方」
彼女が言う。
「当時は、普通すぎると思ったのよね」
「ええ」
「でも、今見ると」
彼女は釣書きの文面を追う。そこには、家格、収入、領地は小さいが堅実であること、母親は早世、父親は温和、本人は馬の改良と記録好き――そんなことが整然と書いてある。
「変なことは書いていませんわね」
ポーリーンがぽつりと言う。
「変なこと?」
「大きく見せようとしている感じがない」
彼女は言葉を探しながら続けた。
「普通、というより……ちゃんとしている、のかしら」
私は少しだけ目を細めた。
「たぶん、そういう見方が前よりできるようになったのね」
「……嫌味?」
「いいえ。成長よ」
ポーリーンはまた不服そうにしたが、今度はすぐには反発しなかった。その代わり、エドワード・ヘイルの釣書きを机へ置かず、手元に残した。
「お義姉様」
「何かしら」
「もし、もう一度だけ……本当にもう一度だけ、お茶くらいなら」
彼女は目を逸らした。
「お義母様に、言っても変ではないかしら」
私は答える前に、少しだけ考えた。変ではない。むしろ、かなり大きい一歩だ。
だがここで私が喜びすぎれば、ポーリーンはすぐ引っ込める気もした。
「変ではないわ」
だから私は静かに答えた。
「でも、一つだけ」
「何?」
「今度は、退屈かどうかだけで切らないこと」
ポーリーンがむっとする。
「そんなに浅くありませんわよ」
「いいえ、まだ少し浅いわ」
「ひどい!」
「だって本当でしょう」
私は言った。
「今度は、あなたも何か話すのよ。家のことでも、本のことでも、あなたが面白いと思っていることでも。相手がそれをどう受けるかを見るの」
ポーリーンは口を閉じた。たぶん、そこまでは考えていなかったのだろう。
今までは“相手がつまらないかどうか”ばかり見ていて、“自分が何を出すか”までは見ていなかった。
「……面倒」
彼女が小さく言う。
「結婚って、そういうものでしょう」
私は返した。
「少なくとも、家を背負う気が少しでもあるなら」
その言葉に、ポーリーンは今度こそちゃんと考えた顔をした。そして、手元の釣書きを見下ろしながら、静かに言う。
「……そうね」
その“そうね”は、今までの彼女のものより少し低く、少し重かった。兄の後ろへ隠れていた娘ではなく、自分で前へ出るしかないと知った娘の声だ。
私はその変化を見て、胸の奥が静かにあたたかくなるのを感じた。
血は繋がっていない。けれど、見て、働いて、衝突して、そのうえでこうして少しずつ信用が形になっていくのなら、それはそれで家族に近いものなのかもしれない。
「お義姉様」
ポーリーンがふいに言う。
「何?」
「前のこととは別に」
「ええ」
「……ありがとうございます」
それは、たぶん釣書きを出したことだけではない。今日一日、兄を庇いきれなくなった彼女の横に、私はちゃんと立っていた。そこへの礼も少しは混じっているのだろう。
私はほんの少しだけ笑った。
「どういたしまして」
ポーリーンはそれ以上何も言わなかった。ただ、エドワード・ヘイルの釣書きを丁寧に畳み、箱の上へ別に置いた。
その小さな仕草が、妙に鮮やかに見えた。
たぶん、この家の先はまだ決まっていない。爵位がどうなるかも、アシュレイがどこまで立ち直るかも、エラの子が誰の子かも、今はまだ曖昧だ。
けれど少なくとも一つだけ、今夜はっきりしたことがある。
ポーリーンは、もうただ兄の妹ではいられない。そして、いられないと知ったうえで、自分の足で立とうとしている。
それは、この家にとって、かなり大きなことだった。
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