婚約者を奪った…?妹が刺されたので、毒親を成敗いたします。

さんけい

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20 美術館の人

 翌日の午後、叔母様の友人は約束通りやってきた。リネア夫人という方だった。
 メイズ叔母様より少し年上で、銀髪を低くまとめ、黒に近い紫のドレスを着ていた。
 飾りは少ない。けれど襟元に留めた小さな石の色が、見る角度で青にも緑にも見えた。
 一緒に、甥御さんという方が、夫人の半歩後ろにいた。
 名はエリアス・ノートン。王立美術館の資料室に勤めているという。
 年は、たぶん私より少し上だろう。背は高すぎず、声は低すぎず、大げさな挨拶もしない。
 薄茶の髪を後ろへ流し、眼鏡をかけている。人を見る時、まっすぐ顔を見るというより、まず手元や持っているものを見る癖があるようだった。

「こちらが姪のローズです」

 叔母様が紹介すると、リネア夫人は私の手元を見た。

「まあ、本当に細い指ね」

 褒められたのか、観察されたのか分からなかった。

「初めまして。ローズ・パロットです」
「リネア・カルムです。こちらは甥のエリアス」
「エリアス・ノートンと申します」

 エリアス様は丁寧に頭を下げる。その時、視線が私の指に巻かれた薄い布に一瞬止まった。

「怪我を?」
「少し針で」
「針で」

 彼はそこで少しだけ頷いた。

「針仕事をなさる方の指ですね」

 妙なことを言う。でも、嫌ではなかった。

 ◇

 客間には茶が用意されていた。叔母様はわざと花の香りを控えめにした茶を選んでくれたらしい。
 焼き菓子は昨日のものより少しやわらかかった。
 最初は、叔母様とリネア夫人が近況を話す。私は横で聞いていた。
 エリアス様はあまり口を挟まない。時々、夫人から話を振られると短く答える。
 美術館の収蔵品の整理。地方から届いた古い祭礼布。修復に向く糸の入手。
 聞いているうちに、思わず顔を上げていた。

「祭礼布、ですか」

 口にしてから、出過ぎたかと思った。けれどリネア夫人は、待ってましたという顔をした。

「ええ。西部の古い教会から出てきたものよ。傷みがひどいけれど、刺繍の図案がとても面白いの」
「どのような」

 今度はエリアス様が答えた。

「葡萄蔓と鳥です。ただ、鳥の羽に使われている糸が少し変わっているの。光沢があるのに、絹だけではないようで」
「金糸ではなく?」
「金糸ほど強くはありませんね。角度によって、青く見えます」
「青く」

 見てみたい、と思った。
 そう思ったことが、顔に出たらしい。叔母様が小さくこちらを見る。

「ローズ、あなたの刺繍を」

 ――来た。
 分かっていたのに、胸ではなく、指先に力が入る。巻いた布が少しだけきしむ。

「はい」

 マリエが別室から刺繍枠を持ってきた。昨夜、彼女が勝手に布を整え、糸箱も一緒に用意していた。
 私は何度か、そこまでしなくても、と言いかけた。マリエはそのたび、要ります、とだけ答えた。
 枠を受け取り、リネア夫人へ差し出す。

「まだ途中です」
「途中のものは好きよ」

 リネア夫人はそう言って受け取る。
 しばらく何も言わなかった。その沈黙が長い。でも、嫌な長さではない。
 彼女は布に顔を近づけ、表を見て、それから裏を見た。裏を見られるのは、少し緊張する。
 けれど止めなかった。

「あら」

 リネア夫人が言った。

「裏も綺麗」

 それだけだった。それだけなのに、肩から少し力が抜けた。

「エリアス」

 夫人が枠を甥に渡す。エリアス様は両手で受け取る。扱いは慎重だ。ただの布としてではなく、何か壊れやすいものとして持つ。
 彼はまず全体を見た。それから、花の中心を見る。次に葉。最後に裏。

「糸を混ぜていますね」
「はい」
「花の中心ですか」
「茶だけでは少し沈むので、橙を一本だけ」
「葉にも二色?」
「はい。光が当たる側だけ、少し青みを足しています」
「同じ緑では、平らになるから?」
「そうです」

 答えてから、また少し驚いた。今まで、こんなふうに聞かれたことがなかった。
 なぜその色か。なぜその向きか。なぜその間隔か。
 母は綺麗ね、と言った。父は器用だな、と言った。セルリアン様は、刺繍とか客間の花とか、と言った。
 でもこの人は、糸を見ている。

「これは、写生をしてから?」
「いいえ。見て、覚えているうちに」
「では、実物とは少し変えている」
「そのまま刺すと、布の上では強すぎるところがあるので」

 エリアス様の指が、布から少し浮く。触れない。でも、どこを見ているか分かる。

「この余白は、何かに仕立てるためですか」
「まだ決めていません」
「決めずに刺している?」
「はい」
「珍しいですね」

 責める言い方ではなかった。本当に珍しいと言っているだけだ。

「いつもは使うものを決めてから刺します。手巾、襟飾り、クッション、帳の縁など」
「今回は?」

 私は少し迷った。

「決めたくありませんでした」

 言うと、エリアス様はすぐには返事をせず、ただ、刺繍枠をもう一度見た。

「それで、この余白なのですね」
「え?」
「どこへでも行けるように残してある」

 そんなつもりだったろうか。分からない。
 でも、言われてみれば、布の右側を空けている。
 いつもなら、ここには縁飾りの幅を考える。仕立てた時に縫い込まれる分を考える。なのに、今回は考えていなかった。だから余っている。
 いや、余っているのではなく、残っている。そう見えるのか。

「……そうかもしれません」

 ようやく答えると、リネア夫人が笑った。

「メイズ、これは見せたくなるはずだわ」
「でしょう?」

 少し得意げに答える。なぜ叔母様が得意になるのか。けれど、嫌ではなかった。

「ローズ嬢」

 エリアス様は、刺繍枠を返しながら言った。

「完成したら、また見せていただけますか」
「これを、ですか」
「はい」
「でも、これは」

 ただの、と言いかけて止まった。
 叔母様が見ている。マリエも見ている。ただの、とは言わない方がいい気がした。

「……まだ、途中のものです」
「完成したところを私は見たいのです」

 エリアス様はそう言う。とても簡単で、それでいて真っ直ぐな言い方だった。

「分かりました」

 私が答えると、マリエが後ろで小さく息を吐いた。ほっとしたのだと思う。
 リネア夫人は茶を一口飲んでから、叔母様に言った。

「今度、美術館で小さな展示をするの。刺繍と生活道具の展示よ。貴族の大作ではなく、家の中で使われてきた布や手仕事を中心にしたもの」
「聞いているわ」
「まだ一点、若い作り手のものを入れたいと思っていたの」

 私はカップを持つ手を止める。リネア夫人はこちらを見た。

「無理にとは言わないわ。けれど、完成したら考えてみて」
「私のものを、展示に?」
「ええ」
「でも、私は職人ではありません」
「職人でない人の手仕事も、生活の中にはあります」
「家で使うものです」
「だから見たいのよ」

 家で使うもの。そう言われてきた。
 家の中に置いておくもの。家の中で褒められ、家の中で消えていくもの。それを、外の人が見たいと言っている。
 私は刺繍枠を胸の前に抱えた。力を入れすぎないように、少しだけ指を緩める。

「考えて…… おきます」

 今の私には、それしか言えなかった。リネア夫人はうなずく。

「ええ。考えて。急がせるつもりはないから」

 その声は、本当に急かしていなかった。
 だから、なおさら不思議だった。
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