殿下、その婚約破棄の宣言が、すべての崩壊の始まりだと気付いていますか?

水上

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第3話:音響の魔術師

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 公爵邸にある私の自室は、年頃の令嬢の部屋というよりは、設計事務所の資料室といった趣です。

 ドレスや宝石のカタログは部屋の隅に追いやられ、代わりに机の上を占拠しているのは、巨大な青焼きの図面と、コンパス、定規、そして計算用紙の山でした。

「……ふふ。やはり、そうですわね。この曲率、完全な半球ではなく、わずかに楕円を描いています」

 私は深夜の静寂の中、図面の上でコンパスを回しながら、思わず笑みをこぼしました。
 それは、獲物を追い詰める狩人の笑みではなく、難解な数式が美しく解けた時に数学者が浮かべる、純粋な歓喜の笑みです。

「お嬢様、もう夜中の二時ですよぉ……。明日もお肌に悪いですし、その紙とお見合いするのは終わりにして寝ませんか?」

 ソファで船を漕いでいたロッテが、目をこすりながら訴えてきます。

「眠れませんわ、ロッテ。見てごらんなさい、この美しいドーム天井の断面図を」

 私が指差したのは、明後日の夜に王宮で開催される夜会の会場――星の間の設計図です。
 そこは、レイモンド殿下が私との婚約破棄を大々的に発表するために選んだ、由緒正しき大ホールでもあります。

「ドーム……、ですか? 私には、ひっくり返した巨大なお椀にしか見えませんけど」

「ええ、お椀で構いません。問題は、そのお椀の形です」

 私は羽根ペンを取り、図面の上に二つの点を打ち込みました。

「このホールは楕円形のドーム構造をしています。建築家は意匠のことしか考えていなかったようですが、楕円には数学的に面白い性質があるのですよ」

「性質?」

「楕円には二つの焦点があります。一方の焦点から発せられた音波は、壁に反射して、必ずもう一方の焦点に集まるのです」

 私は図面上に、音の反射角を示す線を書き込みました。

 一方の焦点は、ホール二階にある突き出たテラス席。
 ここは人目を忍ぶ恋人たちがよく利用する場所です。
 そしてもう一方の焦点は――なんと皮肉なことに、ホールの一階中央、主賓が立つステージの真上にあたります。

「つまり、どういうことかと言いますと」

 私はロッテに向かって、二つの離れた地点を指で示しました。

「このテラス席でボソボソと内緒話をすると、本来なら聞こえるはずのないホールの中央で、まるで耳元で囁かれているかのようにハッキリと聞こえてしまう……、ということです」

 これを建築音響学では、ウィスパリング・ギャラリー(囁きの回廊)現象と呼びます。

 有名な大聖堂や駅舎などで稀に見られる現象ですが、このホールの設計者は、偶然にも(あるいは手抜き計算の結果)、完璧な音響レンズを作り上げてしまっていたのです。

 ロッテは目を丸くして、口をポカンと開けました。

「ええっ!? それって、魔法じゃないんですか? 遠くの声が聞こえるなんて、風の精霊さんの仕業とか……」

「いいえ、ロッテ。これは物理です。精霊の気まぐれよりも、よほど確実で残酷な法則ですわ」

 私は満足げに図面を巻き上げました。

 レイモンド殿下とシルヴィア様は、夜会の最中、きっとあのテラス席に二人きりで逃げ込むでしょう。
 人目を避けて愛を囁き合うためか、あるいは、これから断罪する私の悪口を言って盛り上がるためか。

 彼らは知らないのです。
 自分たちの愛の囁きが、ドーム天井という巨大な拡声器を通して、会場にいる全ての貴族たちの耳に届くことになるということを。

「お嬢様……。その顔、すごく楽しそうですね。新しいドレスを買った時より嬉しそうです」

「ええ、楽しみですわ。音響設計の不備が招く悲劇を、特等席で観測できるのですから」

 私は眼鏡を外し、丁寧にケースにしまいました。

「さあ、寝ましょうかロッテ。明後日は忙しくなりますよ。私の位置取りが数メートルずれただけで、実験は失敗してしまいますからね」

「は、はい! よくわかりませんけど、お嬢様がすごいイタズラを思いついたことだけはわかりました!」

 ロッテがベッドメイキングを始めます。
 私は窓の外、王宮のある方角を見つめました。

 張りボテの柱。
 そして、秘密が筒抜けになる音響構造。

 あの新居も、あの会場も、全てが彼らを拒絶しているかのようです。
 いえ、正確には、基礎と理論を軽視する者に対して、物理法則が牙を剥いているだけなのですが……。

「あぁ、物理って本当に……、嘘をつかないから大好きですわ」

 私の呟きは、夜の闇に静かに溶けていきました。
 それは誰にも反射せず、誰にも届かない、私だけの秘密の計算結果でした。
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