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第5話:ダブルバインドの罠
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『あーあ、早く終わんないかなぁ。あ、見てよあのオバサン、ドレスの趣味わるっ!』
再び、天井からクリアな嘲笑が降り注ぎました。
第一焦点に集まっていた貴族たちが、一斉にバッと顔を背けます。
「あのオバサン」と名指しされた伯爵夫人が、扇子をへし折らんばかりに震えていました。
バルコニーのシルヴィア様は、まだ気づいていません。
彼女にとって、眼下で起きている騒ぎは、自分たちのために盛り上がっている観衆にしか見えていないのです。
「き、貴様……っ! 何をした! これは何かの魔術か!?」
レイモンド殿下が、顔を真っ赤にして私を指差しました。
殿下は必死です。
愛する婚約者の清純なイメージが、物理法則によってリアルタイムで崩壊していくのを止めようと、なりふり構わず喚き散らしています。
「魔術ではありません。幾何学ですわ、殿下」
私は冷静に返しました。
しかし、殿下は聞く耳を持ちません。
「黙れ! これは貴様の陰謀だ! シルヴィアがこんなことを言うはずがない! 貴様が何らかのトリックを使って、彼女を陥れようとしているのだろう!」
「――陥れる、ですか?」
私はその言葉尻を逃しませんでした。
眼鏡の奥で目を細め、ゆっくりと殿下に歩み寄ります。
ここからが、犯罪学と心理学を応用した詰み(チェックメイト)の時間です。
「殿下。今、あなたは『これは私が仕組んだ罠だ』と仰いましたね?」
「そうだ! 貴様の性格の悪さが招いた卑劣な罠だ!」
「なるほど。では、整理いたしましょう」
私は指を二本立てて見せました。
「仮にこれが私の仕組んだ罠だとします。しかし、罠とは、隠されているものを暴くためにあるものです。もしシルヴィア様の心が本当に清らかで、あのような悪態を一度も考えたことがないのなら、どんな罠を仕掛けようとも、あのような言葉は出てこないはずです」
「なっ……」
「つまり、殿下。あなたが『これは罠だ』と主張すればするほど、『シルヴィア様の本性は、罠にかけられれば暴言を吐くようなものである』と、あなた自身が認めることになるのです」
これが、心理学における二重拘束(ダブルバインド)の応用です。
肯定しても否定しても、相手は逃げ場を失います。
「そ、それは……っ!」
「逆に、もし『あれはシルヴィア様の本心ではない』と主張なさるなら、今まさにホール中に響き渡っているあの声は、幻聴だということになります。……この場にいる数百人の貴族全員が、同時に同じ幻聴を聞いていると?」
私は会場を見渡しました。
貴族たちは一様に冷ややかな目で殿下を見ています。
「幻聴なものか」
「はっきり聞こえたぞ」
「チョロいと言っていたな」
という囁きが、さざ波のように広がります。
殿下は脂汗を流して立ち尽くしました。
「罠だ」と言えばシルヴィア様の性格の悪さを認めることになる。
「罠じゃない」と言えば、シルヴィア様が自発的に悪口を言っている事実を認めることになる。
どちらに転んでも、シルヴィア様が清純な令嬢であるという前提は崩れ去るのです。
そこへ、追い打ちをかけるように天井の声が響きました。
『ねえねえ、まだあのバカ王子、喋ってるの? 愛の言葉とか寒気がするんですけど~。あーあ、早く結婚して王太子の財布握りたいなぁ。そしたらあの貧乏くさい実家ともおさらばできるしぃ』
決定的でした。
お金目当て。
実家への嫌悪。
そして王太子への侮蔑。
ロイヤルストレートフラッシュのような暴言の数々です。
「あ……、あ……」
殿下の顔から、みるみる血の気が引いていきます。
自分が愛し、守ろうとした純真な少女の偶像が、音響工学という無慈悲なフィルターを通して、粉々に砕け散った瞬間でした。
「お嬢様、これってつまり……」
背後でロッテが、こっそりと私に耳打ちしました。
「『夕飯はピーマンがいい? それともニンジンがいい?』って聞かれて、どっちを選んでも嫌いな野菜を食べさせられる、あのお母様の必殺技と同じですね?」
「……ええ、ロッテ。生活感あふれる素晴らしい例えです。逃げ場のない二択を迫る、教育的指導ですわ」
私は殿下に一歩踏み込み、とどめを刺しました。
「殿下。弁解はございますか? それとも、まだ『彼女はそんなことを言っていない』と、ご自身の聴覚を否定なさいますか?」
殿下は唇をわななかせ、何かを言い返そうとしました。
しかし、言葉になりません。
バルコニーを見上げ、私を睨み、そして周囲の視線に耐えきれず、ガクリと膝をつきました。
「う……、嘘だ……。私のシルヴィアが……」
その姿は哀れでしたが、自らが建築させた欠陥ホールで、自らが選んだ婚約者の本性に刺される。
これほど皮肉で、これほど構造的に美しい自滅があるでしょうか。
しかし、私の反撃はまだ終わりません。
次の一手は、外野から飛んでくるであろう根拠なき擁護を封殺することです。
私は視線を、シルヴィア様の取り巻きたちが固まっている一角へと向けました。
彼女たちは青ざめながらも、まだ何か言いたげな顔をしていましたから……。
再び、天井からクリアな嘲笑が降り注ぎました。
第一焦点に集まっていた貴族たちが、一斉にバッと顔を背けます。
「あのオバサン」と名指しされた伯爵夫人が、扇子をへし折らんばかりに震えていました。
バルコニーのシルヴィア様は、まだ気づいていません。
彼女にとって、眼下で起きている騒ぎは、自分たちのために盛り上がっている観衆にしか見えていないのです。
「き、貴様……っ! 何をした! これは何かの魔術か!?」
レイモンド殿下が、顔を真っ赤にして私を指差しました。
殿下は必死です。
愛する婚約者の清純なイメージが、物理法則によってリアルタイムで崩壊していくのを止めようと、なりふり構わず喚き散らしています。
「魔術ではありません。幾何学ですわ、殿下」
私は冷静に返しました。
しかし、殿下は聞く耳を持ちません。
「黙れ! これは貴様の陰謀だ! シルヴィアがこんなことを言うはずがない! 貴様が何らかのトリックを使って、彼女を陥れようとしているのだろう!」
「――陥れる、ですか?」
私はその言葉尻を逃しませんでした。
眼鏡の奥で目を細め、ゆっくりと殿下に歩み寄ります。
ここからが、犯罪学と心理学を応用した詰み(チェックメイト)の時間です。
「殿下。今、あなたは『これは私が仕組んだ罠だ』と仰いましたね?」
「そうだ! 貴様の性格の悪さが招いた卑劣な罠だ!」
「なるほど。では、整理いたしましょう」
私は指を二本立てて見せました。
「仮にこれが私の仕組んだ罠だとします。しかし、罠とは、隠されているものを暴くためにあるものです。もしシルヴィア様の心が本当に清らかで、あのような悪態を一度も考えたことがないのなら、どんな罠を仕掛けようとも、あのような言葉は出てこないはずです」
「なっ……」
「つまり、殿下。あなたが『これは罠だ』と主張すればするほど、『シルヴィア様の本性は、罠にかけられれば暴言を吐くようなものである』と、あなた自身が認めることになるのです」
これが、心理学における二重拘束(ダブルバインド)の応用です。
肯定しても否定しても、相手は逃げ場を失います。
「そ、それは……っ!」
「逆に、もし『あれはシルヴィア様の本心ではない』と主張なさるなら、今まさにホール中に響き渡っているあの声は、幻聴だということになります。……この場にいる数百人の貴族全員が、同時に同じ幻聴を聞いていると?」
私は会場を見渡しました。
貴族たちは一様に冷ややかな目で殿下を見ています。
「幻聴なものか」
「はっきり聞こえたぞ」
「チョロいと言っていたな」
という囁きが、さざ波のように広がります。
殿下は脂汗を流して立ち尽くしました。
「罠だ」と言えばシルヴィア様の性格の悪さを認めることになる。
「罠じゃない」と言えば、シルヴィア様が自発的に悪口を言っている事実を認めることになる。
どちらに転んでも、シルヴィア様が清純な令嬢であるという前提は崩れ去るのです。
そこへ、追い打ちをかけるように天井の声が響きました。
『ねえねえ、まだあのバカ王子、喋ってるの? 愛の言葉とか寒気がするんですけど~。あーあ、早く結婚して王太子の財布握りたいなぁ。そしたらあの貧乏くさい実家ともおさらばできるしぃ』
決定的でした。
お金目当て。
実家への嫌悪。
そして王太子への侮蔑。
ロイヤルストレートフラッシュのような暴言の数々です。
「あ……、あ……」
殿下の顔から、みるみる血の気が引いていきます。
自分が愛し、守ろうとした純真な少女の偶像が、音響工学という無慈悲なフィルターを通して、粉々に砕け散った瞬間でした。
「お嬢様、これってつまり……」
背後でロッテが、こっそりと私に耳打ちしました。
「『夕飯はピーマンがいい? それともニンジンがいい?』って聞かれて、どっちを選んでも嫌いな野菜を食べさせられる、あのお母様の必殺技と同じですね?」
「……ええ、ロッテ。生活感あふれる素晴らしい例えです。逃げ場のない二択を迫る、教育的指導ですわ」
私は殿下に一歩踏み込み、とどめを刺しました。
「殿下。弁解はございますか? それとも、まだ『彼女はそんなことを言っていない』と、ご自身の聴覚を否定なさいますか?」
殿下は唇をわななかせ、何かを言い返そうとしました。
しかし、言葉になりません。
バルコニーを見上げ、私を睨み、そして周囲の視線に耐えきれず、ガクリと膝をつきました。
「う……、嘘だ……。私のシルヴィアが……」
その姿は哀れでしたが、自らが建築させた欠陥ホールで、自らが選んだ婚約者の本性に刺される。
これほど皮肉で、これほど構造的に美しい自滅があるでしょうか。
しかし、私の反撃はまだ終わりません。
次の一手は、外野から飛んでくるであろう根拠なき擁護を封殺することです。
私は視線を、シルヴィア様の取り巻きたちが固まっている一角へと向けました。
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