殿下、その婚約破棄の宣言が、すべての崩壊の始まりだと気付いていますか?

水上

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第7話:投影同一視の心理学

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『あーあ。ほんっと、ジュリアンナって惨めよねぇ』

 頭上の第二焦点から、またしてもシルヴィア様の声が降ってきました。
 いじめの告発が不発に終わり、会場の空気が冷め切っていることなど知る由もない彼女は、ここぞとばかりに私の人格攻撃を始めました。

『あんなに澄ました顔してるけど、心の中じゃ悔しくてたまらないんでしょ? だって、あの子ってば異常なほど執着心が強いんだもん。レイモンド様の愛が欲しくて欲しくてたまらないのに、手に入らないからって意地張っちゃってさぁ。かわいそーな女』

 レイモンド殿下が、藁にすがるような目で私を見ました。

「き、聞いたかジュリアンナ! シルヴィアはこう言っているぞ。『執着心が強い』『愛に飢えている』と! これは普段から君が彼女に対して、嫉妬深い態度をとっていた証拠ではないのか!?」

 殿下は必死でした。
 いじめの事実が証明できないなら、せめて私の性格の欠陥を攻撃することで、この場の正当性を保とうとしているのです。

 私はやれやれと首を横に振り、眼鏡を外してレンズをハンカチで拭いました。

「……殿下。あなたは鏡をご覧になったことは?」

「は? 何を言い出すんだ」

「心理学には投影(プロジェクション)という概念がございます。これは、自分の中にある認めたくない欠点や欲望を、無意識のうちに相手に押し付け、『あいつこそがそうだ』と思い込む防衛機制の一つです」

 私は綺麗になった眼鏡をかけ直し、冷徹な視線をバルコニーに向けました。

「シルヴィア様の言葉を分析してみましょう。『異常なほど執着心が強い』……、さて、執着しているのはどちらでしょうか?」

 私は指を折りながら事実を列挙します。

「私は公爵家の娘として、既に十分な財産と地位を持っています。王太子妃の座に固執する理由は、国益と義務感以外にありません。一方で、シルヴィア様のご実家は……、失礼ながら、事業に失敗して多額の負債を抱えていると聞き及んでおります」

 会場から「ああ、あの商会か」「自転車操業らしいな」という納得の声が漏れます。

「地位とお金に執着しなければならないのは、私ではなく、彼女の方ではありませんか?」

 殿下が言葉に詰まります。
 さらに、天井からは追い打ちをかけるようにシルヴィア様の声が続きます。

『だいたいさぁ、あの子、自分に自信がないのよ。だから勉強とか難しい話ばっかりして、頭いいアピールしないと不安なんでしょ? 中身が空っぽなのを隠すために必死なのよね~』

 私はフッと笑いました。

「お聞きになりましたか? 『自分に自信がない』『中身が空っぽ』。……私はこれまでの人生で、自分の知識や能力に不安を覚えたことは一度もございません。常に論理と事実に立脚して生きてきましたから」

 私は杖で床を一つ叩きました。

「しかし、彼女はどうでしょう? 勉強が苦手で、殿下の後ろに隠れて『凄ぉい』と繰り返すだけの日々。……自身の無知と空虚さに怯えているのは、一体どちらだと思われますか?」

 レイモンド殿下の顔色が、土気色に変わっていきます。
 私が言いたいことを、殿下もようやく理解し始めたようです。

「つまり……、シルヴィアが言っている悪口は、全部……」

「ええ。全てです」

 私は断言しました。

「彼女は私を罵倒しているつもりで、実は鏡に映った自分自身に向かって叫んでいるのです。これを心理学では投影同一視とも関連付けて説明されます。自分のコンプレックスを相手に投影し、相手をそのように操作・認識しようとする心理です」

 私はバルコニーを見上げ、哀れみを含んだ声で告げました。

「あそこで叫ばれている言葉は、彼女自身の魂の悲鳴ですわ。『私は執着心が強くて、自信がなくて、中身が空っぽで惨めな女だ!』と、大勢の前で告白していらっしゃるのです」

 会場の貴族たちが、バルコニーに向けていた視線を怒りから憐憫、そして失笑へと変えていきます。
 無自覚な自己紹介ほど、聞いていて恥ずかしいものはありません。

「お嬢様、お嬢様」

 ロッテが私の袖をクイッと引っ張りました。

「それってつまり、犬が鏡に向かって『ワンワン! あっちに行け!』って吠えてるのと同じですか? 鏡の中の犬が自分だって気づかずに、必死で威嚇してるあの感じですか?」

「……ええ、ロッテ。生物学的アプローチによる完璧な要約です。実に滑稽で、そして少しだけ悲しい光景ですね」

『あー、なんか喉乾いちゃった。ねえ、シャンパン取ってきてよ』

 天井からは、相変わらず何も知らないの声が降り注いでいます。

 レイモンド殿下は、もう何も言い返せませんでした。
 愛する女性が、物理学によって秘密を暴かれ、心理学によってコンプレックスを丸裸にされ、もはや可愛いさの欠片も残っていなかったからです。

 彼が守りたかった純真なシルヴィアは、最初から存在しない幻想でした。
 その事実は、私が手を下すまでもなく、彼女自身の口から証明されてしまったのです。

「さあ、殿下。物理的証拠(音声)と、心理的分析(投影)が出揃いました」

 私は殿下の前に立ち、静かに、しかし冷酷な最後通告を突きつけました。

「これでもまだ、私が加害者で、彼女が被害者だと主張なさいますか?」

 殿下はガクリと項垂れ、床に手をつきました。
 その姿は、基礎のない柱が自重に耐えきれず崩壊する様に、どこか似ていました。
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